はぐれ雲日記
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| 2005年04月20日(水) |
下町と大型バイクは相性悪い |
うちぁ二駅のJRに至近なんす。 1000CCのマシンをときどき首都内を転がしますが 困るのは旅行でなく近所の大型スーパーやデパート。 自転車はいいんっすよ。置き場があるから。
ところがでかいバイクはわたしの力では15cmほどの道路の段差を女の力で 持ち上げて自転車置き場に行けないのですよ。大体でかくて置き場ないし。 でもってこのあいだ、駐車場係のおじさんにお金払うから車の地下スペース貸して くださいと頼んだんだけど「ここは車の置き場しかないから」の一点張りなのよね。
「じゃーっこちらはこいう乗り物では買い物に来るなということでしょうかね〜」 つーたら
「そうだね!」
・・・・・あんたの意見なんですかね。それとも会社の方針なんですかね。 交通手段が無いのでこれで来るわけですし道交法では車と同じ扱いなんだけどお。 でもだめでした。八ヶ岳で豆腐買いにいくわけにもいかずいまヤフオクで売ろうかと。
まあいいか。町は南風。日本橋から・・・二本足がいっとういいかも。
| 2005年03月13日(日) |
上野〜浅草沿道に林家正蔵というかこぶ平パレード14万人 |
高校生の娘が浅草で見た!と言っていた。 すごかきあったよお。それも上野から 浅草まで延々続くパレードで、詰めかけた人は約14万らしい。 どうやって数えたかは知らないケド。石原プロからも舘ひろしとか 応援にかけつけてにぎにぎしく華やかだったらしい。
人柄はたいへんよさげな感じがするが芸人としてはまだまだでしょう。 まあ、地位とか名前が人間を作るという例もあるのでいいかぁとも。 とにかくお父さんの三平さんを超える噺家にはなってほすいと思う。
まあなにやら大げさだが面白そうなのでできれば行きたかったなあ。
あてくしが生まれ育った清澄白河は浅草から3キロちょっとの土地である。 寄席もあり芸者置屋があり小劇場などもあった。 写真屋さんが街の子どもたちのスナップを撮ってくれて数週間後に 現像して各家に持って回ってくれた。 どうやら数十円単位で相当安かったらしい。
大川端でわんこを抱っこしている5歳のかわゆいわてくしの写真は セピア色になっているけどみそっぱでくったくなく笑っている。 アヒャ。
浅草寺ではハトポッポによくパンをむしってはあげた。 小さな妹をねんねこに背負って母が境内の周りで見守ってくれてた。 このあてくしの守備範囲にある浅草はそのころはお笑いとは無縁だったけど お笑いを育てる酸素が含まれていたのだ。
いまは寄席もどんどんさびれて少なくなってきて・・・・。 こぶ平はいろんな意味でがんばってほしいな。 はい。50パーセント全力で。
寅さんが亡くなったとき、(渥美清さんともいう)家族中で呆然とした。 芸能人、とりわけ映画俳優の死に家族全員が涙することは今まで無かった。これからも無いだろう。たぶん。 亡くなってみてはじめて、自分たちのなにげない暮らしの中にぽっかりと欠けた部分ができたことを思い知った。
粋なねえちゃん立ちしょんべん。ちょろちょろ流れる御茶ノ水・・・。見上げたもんだよ。屋根やのふんどし・・・。 何度聞いても笑い転げてしまうあのカツゼツ。
子ども達が「寅さんに会いたい」と言い出した。看板でもポスターでもいいよと言う。 柴又へとにかく行ってみたいというのだ。 では、記帳に行こうということになり、私と当時小学生の子ども達3人と電車を乗り継いで「とらや」へ行った。 途中、電車を間違えたり、地下鉄の乗り換えでとんでもない遠回りをしてしまったおかげで 柴又帝釈天についたころには日もとっぷりと暮れて草団子屋にはあかりが灯っていた。
皆で団子屋の店内の寅さんの等身大の立て看板に歓声を上げて駆け寄った。 ああ、この店、この店。さくらやおばさん、おいちゃん、タコ社長が「エエッ、寅が帰って来たってー?!」 て出てきそうだった。 葬儀の直後だったため、たくさんの人達が記帳されていた。私達親子も四角い字で大きく名前を連ねた。 店内には真っ白い百合の花が手向けられ、笑った寅さんの写真に合掌した。皆でぺこりと頭を下げた。 それから、草団子を注文して黙って食べた。
京成電鉄柴又駅でもみな、しゃがんだりうつむいたりして帰りの電車を待った。 チンチンチンと、踏み切りの遮断機の音が遠く聞こえた。
子ども心にも、おとなの心にも深く感じたものがある。 それは、人生お金では決して得られないなにかがある。 学校も、職場も、世の中がどうしようもない閉塞状況にある中で、寅さんは義理と人情、美しい心根を持ちつづける ことを教えてくれた。家族の大切さも教えてくれたのだ。
「私 生まれも育ちも 葛飾柴又です 帝釈天で産湯をつかい 姓は車 名は寅次郎 人呼んで フーテンの寅と発します」
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