はぐれ雲日記
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1999年08月01日(日) 熱中症

毎日暑い日が続いています..この暑い中で起こる脱水や体温調節の不充分な状態を熱中症といい、
下記の3種類があります。予防、応急、手当ての参考にしてください。


1 熱けいれん、  

    たくさん汗をかいても、水だけを飲んだため身体の塩分が不足し、吐き気やめまいが起こります。
    口が乾き、手足やお腹の筋肉のけいれんや痛みも起こります。

   <応急手当>
    薄い塩水かスポーツドリンクを飲ませます。 けいれんしている発作には温タオルをあてます。
               そういえば・・・昔炎天下で働いていた土方さんは塩をなめなめ水を飲んでいた!

2  熱疲労

    高音多湿のところで長時間汗をかき続け、水も塩分もとらないとおこります。
    風呂も長く入り過ぎた時にも起こることがよくあります。
    脱力感.めまい.吐き気。動悸などの症状が起こります。

    <応急手当>
    涼しい場所に移し足を高くして静かに寝かせ、水やスポーツドリンクを飲ませます。
                 そういえば・・・貧血で倒れた時にも足に枕など当てて血流を良くするね!

3  日射病・熱射病

    日射病は気温の高い時期、直射日光に長時間さらされた時に起こります。子どもの外遊び、屋外労働
    スポーツなどでは注意が必要です。
    熱射病は密閉した車内に幼児などを寝かせたままにした時に起こりやすく、高齢者や乳幼児は高温の室内
    でも起こることがあります。
    汗が出ない、身体が熱い(体温が40℃以上になることもあります。)
    吐き気、ぐったりしている。けいれんや意識がおかしくなることもあります。

    <応救手当て>
     まず、体温を下げることが重要です。
     涼しい場所に寝かせ服を脱がせ、水で湿らせた布で全身を冷やし風を送ります.
     首、わきの下、足の付け根を冷やすのも有効です。
     意識がおかしい時は応急手当をしながら早急に病院を受診してください。
                そういえば・・・首,腋の間、そけい部には太い血管が通ってますもんね。
                   氷は直接身体に当てずにポリ袋に入れてから布で包みましょう!
    <熱中症を予防するには>

      ・外出はなるべく、午前中あるいは夕方の涼しい時間帯を選びましょう。
      ・日中の外出やスポーツには帽子をかぶりましょう。
      ・急激な日焼けは避けましょう。
      ・室内ではクーラーを上手に利用しましょう。
      ・設定温度は28℃くらいにすると外気との差が大きくなりません。
      ・クーラーのないところでは風とうしをよくしましょう。
      ・汗をかいた時にはスポーツドリンクなどでこまめに水分をとりましょう。」
      ・高齢者や乳幼児は周囲の人が気をつけてあげましょう。

     <病院へ行く目安>

      ◎ 水がのめないほど元気が無くグッタリとしている。             
      ◎ 熱がなかなか下がらない.(38・5℃以上)
      ◎ けいれんが起きている。
      ◎ 意識がおかしい。
      
      などの症状があるときは応急手当をしながら早急に病院を受診 してください。緊急時は即、救急車の手配も。た、タノムヨ〜ッ!!


1999年07月21日(水) 世界で初めて全土に大規模無差別爆撃受けて、原爆落されて。

靖国の戦死者とその家族もまた不幸ですが、それでも補償はあった。。。
同じ戦争によって一家全滅、あるいは疎開していた子どもだけが生き残り、
ストリートチルドレンのようになっても何の保証も無かった!
この戦災孤児は世界中のストリートチルドレンと同様労働や売春を強要させられ、
さらに生き残った子ども達は餓死、病死、自殺という悲惨な道をたどった事実については
ほとんど伝えられることがなかった。
空襲、一家全滅、疎開児童が戦災孤児に。と戦後日本のストリート・チルドレンは、
世界じゅうの現在に続いている。
かっての日本の軍国主義は完全な失敗で間違いに決まってる。
「英霊」などとないものをあたかもあるかのように喧伝するのはやめて欲しい。
日本の首相がそれを肯定するような暴挙に出るのは面妖を通り越して狂気の沙汰。
敗戦は日露戦争からリンクされていたと思ふ。


♪日露の戦争大勝利 まだうら若き父と母
チンチン電車でランデブー 空は青空日曜日

そもそもその日の父さんは マンテルズボンに山高帽
自慢の懐中銀時計 ふかすタバコは天狗堂

左に宮城拝みつつ 東京府庁を右に見て
川崎門から和田倉門 大手町には内務省

京橋過ぎれば更にまた 光まばゆい銀座外
道には煉瓦を敷き並べ 柳の並木風すずし


これね。守屋浩が歌ってたの。ラジオで。小学生のとき。
夕方気分悪い時は詩でも書きこうかしらねえ。


1999年03月31日(水) 暖かな光。与那国島へ

皆さんは与那国島(よなぐにじま)という島を知っていますか?。
名前を聞いたことはあっても行ったことのある人はほとんどいないのではないのでしょうか。 私も離島が好きなので、四半世紀前からずいぶんと遠くの島へも 旅しました。(魔法使いではありません。普通の人間です。) 
石垣島が好きなので何度か足を運んでいるうちに、八重山には 自分が探していた物、すっかり忘れていた物がそっくりそのままあるというこに気付かせてもらいました。                                        
花が花に生まれて喜んでいる                   
樹木が樹木に生まれて喜んでいる。
ついでに
わたしもわたしに生まれて喜んでしまった。 旅の人でなく東京人とかでもでなく、南の海が、あったかくってとてつもなく でっかい自然が、私を琉球人としてつつみこんでくれた。 おそらく訪れた人の多くは、同じような思いを抱かれたと思います。おおいなる怒涛のような自然・・・。その前に思わずひざまづいてしまう、そんな力が沖縄にはあるように思います。

春まだ浅き都会より、仕事の関係で与那国島に行く機会がありました。
 石垣島から飛行機で30分。台湾まで約125キロ。 石垣島からは
約 127キロの位置にある 日本最西端の島です。  
島は昔から“ドナン“と呼ばれてまして”渡難”の字を あててそう読ませるほど厳しい自然環境にあったようです。



地図を広げてながめていた時点では、大型回遊魚が獲れる海、ハンマーヘッドの大群が泳ぐ海 。世界最大の蛾・ヨナクニサンの産地 などビッグでワイルドななイメージが先行していた

 パチンコやもなければゲーセンも無い。大型スーパーもマクドナルドも無いです。何もない。    木の葉の形をしたちっちゃな島です。
それでも来ていただけますか?。 そのかわり金は貯まりますよ。
案内してくれた人は冗談めかしてこう言った。(最後のフレーズでガクッ!そのかわりっていったい・・・)  
久部良(くぶら)のとある民家の前で車を降りた。「ここで泊まってください。夕食は迎えに來ますのでそれまでしばらくお休みください。」こう言い残して車は走り去った。
オイオイ聞いてないヨー。築百年ってとこの〔冗談でなく)家の土間に荷物を持ったまま私は途方に暮れてしまった。

 家はあけっぱなし。島にドロボウがいないそうだ。誰もいないのでとりあえずあたりをあちこちと見て歩くことにする。とりあえず公衆電話を探そう。20分ほど行けばあるという。教えられたとうりに歩くが・・・・。行けども果てなく続く ウージー バタチ以外、本当にあたりは車一台、人っ子一人通らなかった。

 あるのは夕焼けとトウキビ畑と吹き渡る風だけである。 まったくこの世の果てかと思うほど寂しいところだ。  腹が減るわ。、人恋しいわ。足がくたびれるわ。日が暮れかかるわ。
思わず、いい年をしていながら叱られた子供のように寄る辺無い気持ちになって涙ぐんでしまった。
でも、それは少しも嫌な気分ではなかった。それどころかなぜか懐かしいような安心できるようなシチエーションであったのだ。西岸良平の漫画の世界のような・・・。昭和40年代にタイムスリップ。なぜかおかっぱ頭にツギハギズボンの私がいて。デジャービューだかバック・トゥーザフイ―チャ―だかしらないがとても素直な気分になってしまった。

 そのあたりには、ホカ弁もコンビ二もタバコ屋も、いわんや電話ボックスすらも見えなかった。
それに、先ほどからすれ違う人の数よりヤギの数の方が多いのは不思議だ。なだらかな丘、草原、道路に至るまでつながれたり,つながれなかったりしたヤギが夕日をいっぱいに浴びて草を噛んでいた。
道路を少し入ったところの草むらで赤ちゃんを生んでる最中のヤギがいた。[アーララ!」
生み終えるとお母さんヤギは子袋をひきずったまま歩き回りながら赤ちゃんヤギがモコモコとしながら立ちあがっていくのを見守っていた。
ここですっかり、私の与那国島に抱いていた”ビッグでワイルドなイメージ”は払拭されてしまった。

  しばらく行くと”闘牛場はコチラ”の案内板がみえてきた。「オオ。やぎさんだけでなく牛サンもいるんか?。ウーン。与那国は動物サイトも奥が深い・・・。」
 久々の信号を渡ったところに民宿を兼ねたよろずやのようなスーパーがあったので、沖縄限定のパイナップルハイチュウとオリオンビールとカップ麺をこれまた久々の定価どうりで買った。品物の値段プラス飛行機代or船賃かな。
あと”ウメ―シ”という黄色い竹に紅いボッチがついた箸を買った。20膳100円で安くてうれしかった。
旅先で箸をわすれたらお祭り騒ぎだ。大変だ。

 民家へ戻っても、まわりはあたりまえの静けさにつつまれていた。 テレビやCDが普及してない時代に、何かがそっと立ち帰らせてくれた  そして、その静けさの中で、わやわやと音をたてて身体と心の関節がほぐれて行く。
 夜になって仕事先の人が 迎えにくるまで、私はこの島独特のもったいないような 南国の暖かい闇をゆっくりと楽しむことにした。


続くかもしれなひ。


鈍角 |MAIL

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