こちらでは、ユースケ氏の出演作品の中から、後世に残したいとまで気に入った作品&ここまでこのドラマを食い入るように観てるのって私だけだろうと思ったドラマを、筆者が勝手に必要以上に評価させて頂いています。ネタバレ有です。
「救命病棟24時 第4シリーズ」 BJのシニカルな片顔みたいな - 2009年09月23日(水) ※第1話と第2話、オンデマンドで観られました。良かったー。 「救命病棟24時 第4シリーズ」フジテレビ 2009年8〜9月放送 澤井悦司(医局長)役 ポーカーフェイスの合間の、 ・・・面倒なんだよなあ、とも ・・・残念だ、とも言いたげな、 眼付きが印象的だった。 眩しそうに、鬱陶しそうに、でも哀しげに 細い眼をより一層、細めて顰めていた。 心身を擦り減らし張り詰める医師の自己犠牲精神で、辛うじて成り立つ現場、それゆえ更に加速する人手不足、 でもどの患者もかけがえのない命、一人でも多くの人間を救いたい、 医師にもそれぞれの人生と生活があるが、良質な医療を満足させるためには問題山積みで、 その現状打開には、どれをどこまで捨ててどれを選ぶか それをあらゆる角度から誰よりも真剣に考え続けて、 その為には、 新藤医師の、救命への情熱、超人的な激務を 認めながらも、いや認めるからこそ、その優秀さを 時には抑えつけ、否定しなければならない。 そういった幾つものジレンマにぶつかり、苦しい思いで呑み込みながら、 歳を重ねてきたので 口に出したいが出さない言葉が澤井の中にどれほど溢れていることだろう。 でも、多くを語ることの虚しさと悲哀。 それを一々説明することを諦めて久しく、 ただ良かれと信じる道を、理解されないままで進むしかなかった。 排他的なんじゃなくてむしろ、 医師達の立場と心に思い到らせ、痛いほど解ったうえで、 本当は断腸の思いにて、何かを切っていくのだが それを一々説明するのももう面倒だし 嫌われることも厭わないから そんなことを意に介してもいない仕様になる。 新藤や誰からも、どんな反応反発を受けるかも、 想定内だと言わんばかりの遠慮のない物言い。 抑揚少なく、人の神経を逆撫でしそうにきっぱりとして冷静な、 簡潔な言葉で話す。 が、われ関せずと、無関心を装っていても、見ていないようでいて、鋭く、周囲の状況を・人の奥を見ている。 心からの笑顔を浮かべることもなく どれだけ呑み込んで溜めて来たことだろう、その、本音の底に、 非常に分かり辛くある、 険しく冷たい岩山の中にきっと隠された温泉のように熱い何か。それが たまに窺い知れるシーンが、観る私をホッとさせるー。 小島楓を訴えた原告に向かって、 本当に戦うべき相手は国だと強く説得するその表情は真剣そのもので 目の開きは普段の三倍くらいはあったのだ。 山城親子に注ぐ目線も、意外なほど温かく、幼い少年に語る口調は、 まるで、ピノコに対するブラックジャックのそれを思い出させた。 そうか、BJと言えば、 新藤先生は、目の前の生命を一人でも多く救うことに どこまでも命がけの、損得度外視で熱い天才天使BJ。 顔で言えば左半分?オペの時に見せる左目、 とすると。 澤井先生は、あの妙に醒めて現実的で、皮肉っぽく、一見冷淡なほうの、 怖げな傷跡の右顔、 もう一人の悪魔BJかもしれない、 医療は「ボランティアじゃない」と言い切ることのできる。 けれど、この二人は、アプローチが違えど目指すものは共通だった。 最終回では、新藤と澤井の、ゴールに向けての途中経路の違いを 一層浮き彫りにするけれど それを裏打ちしていた、二人それぞれの重い過去が、観る私たちにも明るみになり。 その途中経路の違いを、超えて、互いに認め、尊敬し合うに至る二人の姿が 感動的だった。 (その二人の立場両方を最も理解できたのは小島楓だったっけ。彼女の役割はすっごく重要) 並居る政治家のお偉方たちの前で救命医療の現状を訴える、澤井の真っ直ぐな表情。 そのとき彼は新藤の言葉 「救える命を見捨てることは、犯罪」を、 どんな思いを込めて伝えたのかと思うと 観てる私も思わず鼻涙管がじんわりしてしまった。 (だって新藤がそう発言した時には、あんな反応を見せてたのにね) ドン・キホーテと揶揄されたり、現実の壁の厚さに無力感に襲われようとも、 澤井の心に忘れられず残っていたのは 新藤が死守するそのスピリットだったんだ。 ※9月24日夜のTBSスペシャルドラマ「天国で君に逢えたら」でも、ユースケ氏、お医者の役で出演だけど 白衣がすっかり板に付いた・・・かなあ。 - サダキヨの清算(13分) - 2009年09月17日(木) 「20世紀少年 第2章 最後の希望」 2009年1月31日公開映画 最近、新作DVDレンタルとして出ていたのを、やっと借りて観ることができました。 現在公開中の「最終章 ぼくらの旗」の前におさらいしようとする人が多かったのでしょう。 先日は、日本テレビにて「もうひとつの第2章」が放送されてましたが、 これとこのDVDとを合わせて観なきゃねー、ということだったんですね。 ※「もうひとつ」→サダキヨのシーンが全てカットされ。代わりにカジノシーンと、爆弾仕込んだ丸子橋のシーンが入っている。 (以下、サダキヨのシーンに絞って感想。少しネタばれ有り) どういうわけだか小学生時代を引きずりまくる大人たちが沢山出てくる作品のようだ。 コドモの頃に強く心に刻んでしまったこと(恨みや自己顕示欲や、その妄想)が その後の人生と周囲の世界に、ずーっと長い支配と影響を及ぼす。オトナのサイズに肥大していくばかり、 「少年の心を忘れない」っていうのはかくも、おっかない事だった。 50歳を過ぎても口調が小学生。「ともだち」も、サダキヨも。 でも、「ともだち」が、 自己顕示の欲望を膨らませながらも自分の正体を巧妙に隠し、他人の記憶まで操作して過去をミスリードし、誰かを身代わりにし、濡れ衣を着せる、 そんなせこい奴なのと比べると。 まだ、サダキヨは、「恩義」に忠実でいたいという指向を感じさせるので、もっと真っ当な人間かと。 ただ、忠誠を捧げる相手を間違えて、恩義と情愛の間で心を引き裂かれてしまってから 間違いに気づいた。 カンナと響子のクラスに来た、 新任教師としてのサダキヨは、 静かに死んだように登場し、死んだように喋る。死んだような目が重たい。 (ユースケ氏の感情表現の窓のひとつである、眉毛、が今回無いことは、効果的) が、時折、見せる、 サダキヨは、怒っている。 昔から、誰にも理解されたことがなかった。という事に。 自分の趣味も、自分の存在も、誰も理解してくれてなかった。そんな他人と、そんなそんな自分に対し。怒ってる。 やっと自分で決めた正しい道に、もう迷うものかと。 が、その傍からすぐ、迷いが来る。 まるでそれを振り切って逃げ切るため、のように 時折、早口で捲し立てる。 小泉響子に聞かせる身の上、 「ともだち」だけが友達だった、と語った後で あれ、もう包囲されてしまった、と緊急事態を告げる その他人事のような口調に、全く変化がない。 彼の中ではどちらも既にもう一大事ではない、並列の事項なのだろう。 彼が声を荒げるのはもっと別の事項に対してだった。 彼にとって大切なのは、これから選ぼうとしている道が「善い」か「悪い」か。 かつての主人を今は裏切り、カンナにモンちゃんの遺志を託すことが、善いことか? 信じた判断が、もう二度と覆らないうちに 急いで逃げ切ってしまいたい。 虐められっ子だった彼にとって、あのカリスマ「ともだち」は唯一人の友達であり続けていたんだ、 ・・・と思い込もうと、これまでサダキヨは努力してきたが やはりそれは無理だと気づいた、その時には 事態は取り返しがつかなかった。 (いや、もっと物事をポジティブに考えられる人間ならば、取り返しがつくのだけれど。サダキヨだから、もう相当ダメ) 「ともだち」と、自分自身の、来し方に対し 「善いモンか?悪モンか?」と何度もジャッジしてみずにはいられない、かなしさ。 善いモンと信じて自分を差し出していた対象が、実は悪モンだったと認めてしまえば、どんどん気づく。 ずっと昔の子どもの頃から裏切られ、捨てられていたことに。 上手に付け込まれ利用されたことに気づくのが、あまりに遅いと こうなるのよ。では済まされないような、 かなしい顔。と、涙。 それはサダキヨ自身が自分自身を罰して許して癒すほかはない、 閉じこもった自殺の部屋で最後にそれを自分自身にしてあげられたのだろうか。 足元で燃え広がる炎の中で 涙眼は、恨みと後悔と自己憐憫と諦めを、 でも微かにわらった口元は、贖罪と清算を決行できるせめてもの安堵と希望を、 互いに矛盾を相容れながら表現しているように感じた。 彼が生きていたことは決して小さくはなかったんだ、ってことを 登場からわずか13分間のシーンでカンナ(と、私)の中にこんなに遺したなんて。 -
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