俳優ユースケ・サンタマリア氏を個人的趣味で鑑賞...いえもと(改名しました)

こちらでは、ユースケ氏の出演作品の中から、後世に残したいとまで気に入った作品&ここまでこのドラマを食い入るように観てるのって私だけだろうと思ったドラマを、筆者が勝手に必要以上に評価させて頂いています。ネタバレ有です。
ドラマのあらすじを知りたくない方にはお勧めできません。
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「愛と死をみつめて」テレビ朝日 背中越し、っていいなあ - 2006年03月30日(木)

ちょっと忙しくて、昨日、やっと録画をチェックできたのが。

「愛と死をみつめて」テレビ朝日 2006年3月18・19日放送

とても静かに、ずっしり胸を打つ、実話に基いた物語。題名どおり、愛と死。つまり、人生を見つめざるをえない。

一度目は、みち子(広末涼子)と実(草なぎ剛)にすっかり感情を移入して、ティッシュボックス小脇に、一気に観た。
みち子は思いがけない病にかかって、でも家族や他の患者を思いやることを忘れない、気丈で気配りのある子。
いつも笑顔、ときに強がり、本心もわかりにくいこともある。同情されたくない。
過酷な現実にぶつかって、一時は自ら命を絶つことも考えるが、実の真っ直ぐな思いに支えられる。二人は成長を遂げてゆき、みち子の短い命を最後まで精一杯輝かせる。
純粋そのものの昭和30年代の若者に、ホントに心が洗われる。

二度目は、主人公の家族や友人など様々な人間たちのドラマを観た。
手探り状態の中で、娘の幸せを必死に考え抜く両親(大杉蓮・伊藤蘭)の姿がまた涙を誘った。

三度目にして、みち子の担当医・重光先生(ユースケ・サンタマリア)のシーンに注目して観た。

患者に対して誤魔化したり逃げたり出来ない性分、一個の人間として、みち子の心に添って支えながら、命の尊さを改めて噛み締めている、重光医師の誠実さが、
控えめながらしっかりした存在感をともなっていて良かった。

ユースケ氏の主な出演場面を順番にメモすると

A 初めてみち子の両親に、「軟骨肉腫」という病気の説明。慎重ながらも、かなりきっぱりした口調
B 放射線照射の治療。みち子に背中をむけたまま彼女の言葉を聞きながら、声には表さないが苦渋の表情
C 両親に手術についての説明
D みち子に病名の告知。真剣、冷静な態度
E 医局に戻って座り込み「大島みち子を見張って欲しい、自殺の恐れがある」さっきまでのみち子に対する態度とは対照的で、心理的に相当まいっている
F 診察 患者の苦しみや死に対して「俺は、慣れたくない」と話す
G 外のベンチで力なく座っているところにみち子が来て話す「限られた命だからこそ愛する」
H みち子にソーシャルワーカーの仕事を紹介する、尊敬もしているようなまなざしでみち子を見守る
I 妊娠初期の妻(木村多江)を気遣って洗い物を拭き、優しくなったといわれる
J 手術前 整形のための写真を撮ったあと、みちこと握手
K 手術後の診察 社会復帰に希望を繋いでいるみち子の後姿を穏やかに見送る
L クリスマスでサンタの格好 整形をいつするか、の返事が奥歯に物が挟まったような感じ。このあたりから、「整形ができないかもしれない」という現実をみち子に伝えることに躊躇するようになってくる。
みち子とともに、重光医師もまた変化してゆく。
M 外来での買い物にトライするみち子を見つめる複雑な心境
N 寝室で妻に「彼女は特別なの」と訊かれ「特別だ」と答え、この会話で妻との揺るぎない信頼関係を垣間見せつつ、みち子に日々重いテーマを突きつけられている試練を示す
O 両親に再手術の説明 再発なのかと問われて、検査の結果を見ないと何とも言えないと答える
P エレベーター内 再発を知ったみち子の、死を覚悟した言葉に、立ちつくしている重光医師
Q みち子を慕い可愛がる患者たちから、彼女を助けて欲しいと懇願されるが、どうにもできない 無力感、悔しさ哀しさなどにじませつつ目に涙を溜めて言葉も無い
R みち子の死後 妻のベッドのそばで、無事に産まれた赤ん坊を抱いている

心に沁み入るシーンが多いが、私が特に印象深いと思ったのは、上記のB。
こういう背中越しの演出には、個人的に私はヨワい。
視聴者には医師の顔の何とも言えない辛い表情が見えている。でもみち子に聞こえる彼の声は感情を抑えて、割と淡々としている。
こういうのがユースケ氏に相当似合っていた。
この作品のほかにも、
感情の起伏を顔で表しておいて声はフラットな感じに抑えておく、という、かなり良い匙加減の演技をどこかで見せてくれたような・そして普段もそんな上手なバランスで接してくれそうな、なんかそんな気がする人だと思えるユースケ氏は。



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映画「ピノッキオ」日本語吹替 声の魅力  - 2006年02月27日(月)

「ピノッキオ」 イタリア・アメリカ ロベルト・ベニーニ監督・主演 2003年日本公開

映画公開当時、確か春休みだったと思う。子供が実家に遊びに行っている間にチャンスとばかり、字幕版と吹替え版を交互に何度も観てしまった。
まあ、春うららかな昼下がりに、暗い映画館にこもってそんなことをやってる主婦も、東京23区内で私一人いるかいないか、かもしれなかったが。

最近、私事(それ以外になにもない)が忙しくなり、TVの前に座る時間が少なくなってしまったけれど、トリノ五輪も終わったことだし、イタリアつながりでその懐かしいDVDを観かえしてみた。そして聴きかえしてみた。

大体、こんな妙なピノッキオは、私は今までに見たことがなかったので。原作に相当忠実なストーリーの、哀しかったりむごかったりすることもそうだけれど、何よりも、
「木で作られた、少年の人形」を、見かけはおよそ清らかとは言いがたい50代の男が演じるなんてねえ。
たとえば世界で最初に納豆を食べてみて美味しいと思った人ってすごいよね。っていうくらい、大胆なことするよなあって思ったし、実際観た人の批判的な意見も多いようだ。が、
私は、魔法にかかったほうのクチだ。(多分に、許容範囲が広いんだ。)
誰が何と言おうと、観ていくうちにホントに、人形に見えたし、少年に見えたんだもの。可愛い瞳に「子供」のエキスが満タンだった。
たとえば歌舞伎で女形が演じる娘の役に、本当の女よりももっと女っぽさを見るような感じ。
なるほど、子役を出さなくても絵本の世界をつくることって出来るんだなあと、感心する。


可愛い「人形」が本当の「人間」になってゆく時に、・・・言い換えれば、
自己中心で好奇心のかたまりで、ボールみたいにどこに飛んでいくかわからない、愚かで騙されやすくて、もらう愛ばかり望んでいる「子供」。・・・が、現実を見きわめて賢く折り合いをつけつつ、与える愛を知り、社会で一つの役割を果たせる「大人」になってゆく時に、
やっぱりどうしてもぶちあたってしまう様々な壁。そして乗り越えるべき何か。
そんな普遍的なテーマをベースに、何を捨てつつ何を残して人は生きていくのかと考えさせられる仕掛けの、奇妙なファンタジー。
で、人生のずっと後半までも「子供」が残ってる役者の、濃くって、ぶっとんだ演技を味わうことで、不思議な気分にさせられる。
・・・こんな自分もあんなみんなも、もしかしたら、いくつになっても「子供」じゃないか?と思っちゃうような。実年齢なんて、そんなの、世を忍ぶ仮の姿じゃないか、と。大人だって、ある瞬間は、時によって、「子供」じゃないか。心の奥にいて、たまにふと顔をのぞかせるのが「子供」の自分じゃないだろうか。

そして、このベニーニにユースケ氏が吹替を当てている。
なんてモノのわかったキャスティングなんでしょう。だってそうですよ。実年齢からはるかに離れた「子供」の部分を彼は持っている上に、その「子供」を、可愛らしく・しかもオジサンっぽさと矛盾しないで融通無碍に出せる人、
それこそユースケ氏の、人柄に裏打ちされたチャーミングな演技のような地のような魅力なので。しかもそれを声だけの演技でも出せる人なので。
このベニーニの声に彼がぴったりだ。
ちょっと舌足らずでザラっとした感じが妙に可愛いと思った。全編通してずっと一定の高音を保ちながら。
楽しさ、無邪気さ、浅はかさ、素直さ、無防備さ、自分勝手さなど、「子供」の持つ様々な表情(それも、まだ人間=大人になりきれない、人形という哀しき「子供」ならではの演技)を聴かせてくれていた。
どんなに馬鹿でずるいことを言っていても、この声のなかから決して憎めない純粋さが消えないから、妖精も観客もピノッキオに愛想つかすことなく見守っていられる。
ラストで利他的な情愛が深まってきて、人間に進化するころのピノッキオの声も、ときどきハッとするくらいきれいで胸をゆさぶるものがあり、言っちゃなんだけどホントにユースケ氏が発声してるんだよね?と信じられないくらいである。

※エンディングのテーマソングも吹替でユースケ氏が歌ってるが、ハッピーな雰囲気がとってもいい。ちょっとヘタウマな歌い方が功を奏して、ピノッキオのイメージ通りだった。




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