私の雑記帳
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4月に父が、5月に伯父が、6月には従兄弟が亡くなった。 血縁者ではないが7月には妹の舅が亡くなった。
7月末の従兄弟の四十九日法要まで、 気の張った日々が続いていて、ようやくひと段落かと思ったが、 そうもいかない。
今週末には上京し、1年生になった下の姪をつれて来る。 実は来週、義弟の手術がある。それも重篤な病気で。 病気のことも相当だが、義弟のうつ病も深刻な状態らしい。
妹は入院する夫に付き添わなければならないので、 小さい姪だけこちらで預かることに。 6年生の姪は受験勉強の山場だが、父親の病気のことは 知らされているそうで、心理的な負担も相当だろうと思う。 祖父二人を見送り、今度は父親の病気である。 そして嫌と言うほど勉強しなければならない受験生の夏。
妹は4月に異動して新しい仕事に忙殺される日々の中、 父のこと舅のこと、夫のこと、極限状態のようで かける言葉も無い。
妹自身もうつ病の治療中で、今年は仕事を辞める寸前まで 来ていたのに今の状態では、妹が一家を背負う日が 来るかもしれず、辞めることはできないだろう。
今年は私たち姉妹にとって数々の不幸な出来事が濃縮された一年となった。 今を乗り切って、そして早く今が底だったと思いたい。
色々あるということは、それだけ忙しく、 父の死のことだけを思いつめているより いくらかマシなのかもしれない。
生前、父は自分の最愛の母親を私が生まれる2週間前に失ったが 私が生まれて忙しくしていて気が紛れたと言っていた。 私も父が亡くなったことに正面から向き合うのが心底怖い。 時々、向き合ってしまって泣いてしまうし 生きている意味もないように思うが、 それなりに忙しいと、良くも悪くも気が紛れているのかもしれない。 そうやって時間は過ぎてゆく。
生きてることにあまり意味は無い。 泣いたり笑ったりして時は過ぎ、そして土に還るだけなのだと思う。
ただもう少し、残された子供達のサポートと、 妹の手伝いくらいはしてやらないと、人の道に外れるなぁと思うので もう少し頑張ってみようと思う。
4月に父が亡くなり、父が家を建て独立するまで長く本家で一緒に暮らした、父の甥(私の従兄弟)が突然亡くなった。 父の葬儀では、弔事の代わりにお別れの言葉を、私たち姉妹が生まれる前の昔の父の思い出を、心温まる言葉で語ってくれた、本家の家長である。 仕事や町内連合会の役員などの激務で40代から透析生活になってしまっていたが、60で務めていた農協を退職して、今は悠々自適の生活だった。 父の生前、父がいなくなったあと困ったことがあったら、その従兄弟を頼るように言っていた、その人である。父が亡くなって二ヶ月も経たないうちに、もう向こうに行ってしまった。脳溢血であった。
一昨日が通夜で昨日が告別式。出棺の時の従兄弟のお嫁さんや子供たちの胸が張り裂けそうな悲しみが伝わってきて、どうしようもなく辛かった。私も大事な父を失ったばかり。大切な人との永遠の別れがどれほど辛く苦しいか知っている。
向こうで父とあったら父に「なんだ、もう来たのかね〜。ちょっと早すぎるよ」と言われていると思う。
父の葬儀の時のお礼の電話で話したのが最後になってしまった。 父方の本家の家長であったため、あらゆる取りまとめ的なことを引き受けてきてくれた従兄弟。うちだけでなく、どの家もこれからだれに相談したらいいのか途方にくれていることだろう。
20年、透析をやっていたからおそらく長生きは出来ないと思ってはいた。 でも、亡くなる時は、あっという間だった。本人は自分が死ぬという意識もなく、数日間の昏睡状態を経て息を引き取った。苦しまなかったことがせめてもの救い、と思いたいがそんな簡単な割り切り方はできない。
「五郎さん(うちの父)とは年の離れた兄弟のようで、喧嘩もしましたが、子供の頃は紙芝居やら手品やら、近所の子供達も一緒に遊んでくれたので、地元の同世代の人間で五郎さんを知らない者はいません。それは60を過ぎた今でも語り草です。東京オリンピックの頃に当時はまだ珍しかったカラーテレビをおばあちゃん(父には母親)のために買ってくれたりもしました。我々の自慢の叔父さんでした。」
というようなことを語ってくれた従兄弟。私自身の記憶はないが私が2歳に家を建てたのでそれまでは私も本家で暮らしていたのである。 小学生の頃は父が少しノイローゼになったこともあり、週末ごとに泊まりに行っていた。 だから、大勢いる従兄弟の中でも、本家の従兄弟は私たちには特別な存在だった。
あの世なんてないというが、できれば向こうの世界で父や他にも先に向こうに行ったみんなと再会して、いろいろ積もる話をしていて欲しい。
大事な人たちが次々と向こうに行ってしまうけれど、どうかどうか冥福を祈る。
人間は生きているうちに、やりたいことをやっておかなければと妹が言った。 その通りだと思う。 でも私の今の生活を、どのようにしたら良いのかすら、まだ私にはわからない。
ただただ寂しく悲しく辛く、途方にくれているだけの状態なのである。
2012年06月10日(日) |
私はどうすればいいのか |
昨日の新聞で知ったが、元・フリートウッドマックの メンバーでもあった、ボブ・ウェルチが拳銃自殺した。ショックだった。
中学の頃だったと思うけど、ボブ・ウェルチ結構好きで、 LPも1枚持っていた。 「エボニーアイズ」の人だけど「悲しい女」も好きだった。
Ebony Eyes
今野雄二も田中実もボブ・ウェルチもみな自死してしまった。
明日が父の四十九日で、週末に妹が来て父を偲んだ。 そのこととは別に、どうにも辛いことも言われて 涙に暮れた。 私は、自業自得とはいえ結局一人ぼっちなのである。 誰かにどうかしてもらおうなんて、おこがましいのは わかっている。 私は子供の頃〜成人する頃まで鬼畜のように妹を虐めて 罵って虐待した。 因果応報、だから今の言いようの無い悲しみ苦しみと孤独が あるのかもしれない。
仕方ない、と言っても、もう辛い。 このまま生きていく意味があるのだろうか。 生きて、妹に罪の償いすら出来ず、 「だれも私をわかってくれない」などと くだらない愚痴をこぼし、孤独に浸る、そんな ダメな私に生きる意味はあるのだろうか。
今の自分が惨めでならない。
母方の伯父が亡くなり、今夜は通夜だった。 私の妹以外の従兄弟6人が全員集まった。 みなほぼ同世代、30年ぶりの従姉妹もいて 懐かしかった。 従姉妹会をやりたいなと話がでるが、まだ子育て世代も いて、たぶん無理だろう。 集まるのは、こういった悲しみのセレモニーの 時だけ。
母は実の兄が亡くなったというのに葬儀に出るから 通夜はいいという。(隣町なのに) キチガイだからどうしようもないのだが、 明日の葬儀には母もつれて行く。 昔から母が大嫌いだ。私たち家族の諸悪の原因の女だ。 早く母から離れたい。 父が私を迎えに来てくれたら良いのにと思う。
伯父の葬儀、伯母も一人娘である従姉妹も泣いてない。 むしろサバサバしている。長く患ったこともあるのだろうが 私と妹の涙とは対照的だった。
伯父さんは見る影も無く痩せていて別人の顔だった。
人は生まれて死ぬ。 なんのために・・? 辛い思いをするために?
父の異変に私の娘が気がつき、救急車を呼んだのが13日の夕方。 長いこと寝たきりの状態だったらしく手足が全く動かず 意識も朦朧としていた。
少なくとも肺炎の状態は確実にあったのだが 強い薬で炎症反応も下がってきていた。 急変は覚悟しろと最初に言われていたが、 おかゆと刻み食ではあっても口に入れてやれば なんとかたべていた。 意識はもちろん頭もしっかりしていて、意思の疎通も会話も 普通に出来ていたのだ。 このまま命だけは取り留めたと思った。
私は13日からずっと病院に泊り込んでいた。 「急性期が過ぎたらリハビリ病院に移ってもらう ことになるから今から下見に行け」 「介護保険の申請をしろ」と言われていて 合間を見てそれらもこなした。
しかし22日に様子が急変、意識が朦朧としているようになり 再びレントゲンを撮ったところ、肺の機能が著しく低下していて 酸素は入っても、もはや二酸化炭素を吐き出せない、というのだ。 つまりは、それは死を意味していた。
24日の午前1時26分に、父は静かに息を引き取った。
葬儀は整然の父と私と妹の意向で、身内と近親者だけの 家族葬の形をとった。 葬儀なんて全然わからない私と妹だったが、 祭壇の花は父が好きだったカサブランカ、てっせん(クレマチス) 芍薬、バラ、チューリップを取り揃えて、美しく飾ってもらった。 また、父が1970年から毎年作っていた木版画の年賀状を 写真立てにいれて展示した。 得意の編み物も、私や妹や孫のために編んだ力作の中の一部を 展示した。 ちょっとした父のミニ展示会のようだった。
26、27日と通夜、告別式を妹と何とかどうにかやり終えた。 長女の私が喪主だったが、妹がそばに居てくれなかったら なんにも出来なかった。 告別式とそのあとの食事会を終えて帰途に着いたとき うまくは出来なかったかもしれないけれど、どうにか 二人でやり終えたね・・と妹がつぶやいた。
うちの母は極度の発達障害さながらに頭が変なのだが そんな母が一人残ってしまった。 今後の諸々の手続きは母のせいでどうなるかわからない。 納税の概念さえない、どうしようもない母なのだ。
お骨は私のアパートに安置した。 一番可愛がられた孫の部屋に今は居る。 あのブタ小屋以下の実家にはもう返せない。
母が異常者だったせいで我が家は父が母でもあった。 私たちは父と私と妹の3人で肩を寄せ合って生きてきた。 私も妹も父を失うことが実は一番怖かったことなのである。 それが起こってしまった。 ついに、父を永遠に失ってしまった。
ほぼ近親者と極親しい友人のみの小さな集まりだったが 生前、父がみんなに愛されていたことが、 ひしひしと伝わってきて それが嬉しくも切なくて、何度も涙が出た。
大切な人を失う、ということがどれだけ苦しいことか 想像していたけれど、やっぱり想像を絶する苦しみの中にいる。
亡くなる少し前、私が「人生は一生修行だよねぇ・・」と つぶやいたら、父は「大半の人がそれに気が付かずに 一生を終えるんじゃないかな」と言った。
父は弱い身体で、精一杯生きて私たちを育ててくれて 孫も可愛がってくれた。 晩年、近所に居るのに私がイライラしてそばに寄らなくなった せいで、父は死んだようなものだ。 母がダメな人間だから、私が我慢してでももう少し 気を配ってやるべきだった。 わかっていたのに・・・わかっていたのに・・・ 私が父の死期を早めたのだ。もう少し早く気が付いていたら、 肺炎にならなければ、もう少し生きられたはずだった。
急変後の病床で医師から絶望的なことを聞かされて 取り乱して妹やその連れ合い(医師)と個室のその部屋で 携帯電話で話している最中、 父は目に涙を浮かべて 「どうして、こんな悲しいことになってしまったんだろうね・・」 とつぶやいていたと、そばに付いていた私の娘が聞いていた。 たぶんそれが最後の会話だったと思う。
なんて悲しい言葉じゃないか・・・ こんな悲しい思いをするならもう二度と生まれてこなくていい。
妹と「(家族さえいなかったら)おとうちゃんのそばに行きたい」と 涙ながらに話す日が続いている。
大事な人を失ったのだから辛くて当たり前の出来事だと思う。 また、各人に各人の後悔があるだろう。
私は耐え難い思いをかかえながら、まだ生きなくちゃいけない。 残酷だなあ・・。
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