私の雑記帳
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2010年01月02日(土) 年のはじめに・・

長女の六年の時の同級生がインフルエンザ脳炎で亡くなったと先ほど連絡が来た。その男の子T君は中学1年の途中から特殊学級のある別の中学に転校していた。その中1の頃だったが、T君から2回くらい電話があった。娘に遊ぼうという誘いの電話だった。だいたい用事がある時で娘は「ごめんね遊べなくて。でもまた誘ってね、電話ちょうだいね」と答えていた記憶がある。
T君は6年の修学旅行の直前に交通事故にあって入院(頭を強打)し、旅行には行けず、娘達クラスメートはみんなで土産を買ってきた。そのお返しにその子のお母さんは折り紙で動物(うちにはキリン)を折ってクラス全員分のお返しに配った。園児ならともかく六年生で折り紙というのはびっくりしたが、うんと細かい細工がされたその折り紙を私は処分する事が出来ずにずっとしまってある。30数個も折り紙を折ったそのお母さんのような素朴さ、私はまぶしく思った。
T君には弟がいたそうだが、小さい時に亡くなったと聞いている。2人兄弟だったが、二人とも失った両親の苦しみは想像できない。

話はずっとさかのぼるが、長女が保育園で一緒だったY君は保育園を卒園の頃にはやっと歩ける程度で、人づてに聞いた話だとY君もそのお兄さんも二人ともに、筋ジストロフィーだと聞いた。数年後、もうY君は歩けないんじゃないかなと同じ保育園だった子のお母さんから聞いた。Y君は母子家庭で、美容師さんのお母さんは髪が長く美しく、人当たりがよく明るく朗らかで感じが良い人だった。私は無知でその頃筋ジスの病気について全く知らなかったから、Y君が歩けなくなったと聞いても、そうなんだ・・としか思わなかった。子供が二人ともそんな進行性の難病で、それでも明るかった、そのお母さんとY君はどうしているだろう。


死を考える事は生を考えることだと言われる。
お正月早々、暗い話題で日記を書き始めるのをためらったのだが、生きるということを考えるには私にとって意義のあることと思い、今日のことを書いておく。


2009年12月31日(木) 鶴亀と、唱え災い追い払う

最近では珍しく、子供たちがふざけてゲラゲラ笑っている。
楽しい笑い声を聞けるのは幸せだと思う。

不平不満は山のようにあるけれど、年をとったせいか
小さい幸せを大事にしていきたいとしみじみ思う。

私の今年のドラマ、ベスト1は前にも書いたけど「行列48時間」で、
昨日までその再放送をやっていた。
もちろん保存版で録画。深夜だったけれど昨夜も最後まで見てしまった。
自己満足だけれど、いいなと思うドラマを見られるのも幸せ。

愚痴を聞いてくれる人が一人か二人いればそれもすごく幸せ。

風邪が抜けなくて食欲があまりないのは少し不幸。
大掃除があまりはかどらないのは少し不幸で、
片付けたところがきれいになっているのは少し幸せ。
あんまり型にこだわらないで、私なりに来年も頑張っていこうと思う。


2009年12月13日(日) 折り返し地点

昨日の話し。

「もう、夕方は日の入りが1分伸びたよ」と父が言った。
新聞でいつも見ているらしく、4時35分が続いたが
ついに36分になったという。

夏も「もう(日の入りが)1分詰まったよ」と教えてくれる。

大したことではないけれど、いつもその時期にその話題が出る。

父が病気をしてすっかり弱くなってしまって、
高齢ゆえに、余命を意識させられていると、
そういった些細な会話の中に、父らしさを見つけてしんみりしてしまう。

気がつくと、もうすぐ師走も折り返し


2009年12月08日(火) 「渇愛」について抜粋

■反応を期待すると自分も他人も苦しくなる

 仏教には、人間の一生は苦しみの連続であり、心の苦しみを引き起こすものに「渇愛(かつあい)」がある、という教えがあります。

 渇愛とは、あくなき欲望のこと。人間関係においては、「私をもっと好きになって!」「私をもっと認めて!」と求めてやまないのが「渇愛」です。

 こうした気持ちに縛られるのは、私たちの心は生まれながらに「無明」(無知であること)だからなのだそうです。たとえば、あなたが誰かに好意をかけるとき、心の底ではこう思っていないでしょうか?

 「これだけしてあげたんだから、感謝しているに違いない。すごいと思ってるに違いない」

 少しでも、上のような気持ちがあれば、その心に「渇愛」がある証拠です。「渇愛」は本人には自覚しにくく、他人の方が敏感に感じとります。だから「渇愛」が潜む行為を、他人は負担に感じるのです。

■人に何かをするだけで単純に「幸せ」と思えるか?

 「渇愛」には際限がありません。

 「こんなに素敵なおもてなしをした私、すごいでしょ?」
 「誰よりも気の利くプレゼントをした俺を、もっと尊敬してよ」

 このように、愛されたい、認められたいという気持ちは、どんどんエスカレートしていきます。

 そして、好意をかけた分だけ、感謝されなかったときの無念さは強くなります。渇愛の強い人は、見た目にも優しさや余裕が感じられなくなりますが、それを「知らぬは自分ばかり」なのです。

 「渇愛」によってかけられた好意は、いわばニセモノの好意。受け手にとっては、これは「押し付け」に他なりません。

 では、ホンモノの好意とは、どんなものでしょう?それは「慈悲」の心によるものです。慈悲とは、見返りを期待しないで与える心のこと。感謝されなくても、尊敬されなくてもいい。ただ、相手のためを思い、愛情をかけることです。

■ホンモノの好意を実践しよう!

 渇愛から卒業するには、どんなことに心がけたらいいのでしょうか?それには、以下の3つのポイントを覚えておくといいでしょう。

・好意は「美意識」としてかける
 人に何かをしてあげるときは、相手の反応や感謝を期待せず、自分の心の「美意識」として行うことが大事です。

・損得で考えない
 「これだけの好意をかけたら、困ったときに助けてくれるだろう」と思うこと自体、もう渇愛です。損得を考えずに相手のことを思って何かをすれば、自然に他人は感謝します。そして、自分が苦しいときには、手を差し伸べてくれます。

・人が喜べばそれでOK
 「喜んでくれれば、それだけでうれしい」 純粋にそういう気持ちになれれば、慈悲に近づいている証拠です。

 このように、自分の心の奥にある渇愛に気づき、少しでも慈悲の心で接する気持ちを持つことです。すると、以前より確実に人間関係もよくなっていくでしょう。

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俗人にはそう簡単に出来ることではないけれど、意識くらいは持っていたい。


2009年12月04日(金) 日記について(mさんへ)

ブログを公開することについて、かつて私もずいぶん悩みました。
いったい誰に向かって日記をかいているのか、何の意味があってかいているのかわからなくなった。妹には公開ブログにいったい何の意味があるのか?と真っ向から否定もされた。

数年前、まだ始まったばかりのmixiで私は痛恨の失敗をしました。私がいかに馬鹿で未熟だったか、そして孤独で寂しかったか、理由はいくつかあるけれど、忘れられない(でも本当に忘れてしまいたい)強烈な失敗でした。

その後、時間を置いてまたmixiには入りなおしたけれど、友達も、友達のような単なる知り合いも含めた、そういった人達が読むであろう日記を書くことに疲れてしまいました。日記じゃなくて、出来事やら伝えたい事やらを読んでもらう為に書いていることに。
そして人目を気にすると、色々と差し障りのある文章は書けなくなってしまう。べつに他人の悪口を書くわけではない。でも超個人的な心情を吐露するようなものはそこには書けない。というか触られたくないことは知り合いには読まれたくないことが多い。

mixiでは友人の中の更に厳選したメンバーだけに公開という日記も書けるようになったし、知人はそういう日記を書いている。今日は私も読める日記というのは、裏を返せば、私が外されている日記も存在するのかもしれない。そう思うと、私は友人の中から更に人を選んで公開する日記というものを書けないと思った。
そしてたまに書く日記も、コメントがつくと嬉しい反面煩わしい。
ほぼ共感してくれたり慰めてくれたりするコメントで、それにケチをつけたいわけではないが、やはりなにか煩わしいのである。
そして、人の日記にコメントを書き込んでしまった時も、妙に相手の反応が気になる。明らかに私の自意識過剰なのだが、そういうことで時間をかなり無駄に消費する。いったい自分は何をしているのかと思う。


私がここ(エンピツ)の日記を手放さないのは、ここはコメントがないからだと思う。下手でも何でも自分が吐き出したいことを自由に吐ける唯一の日記になっている。
誰も知らなくても好きなドラマの感想も書けるし、好きだった人のことも書いてしまえる。吐きたくなるような気持ちを書ける。それは誰にも評価されない気楽さがあるからだと思う。

といいつつ、私のこの日記がごくごく少数(一人か二人)のお気に入りに登録されていたりすると、やはりわずかに意識する事はある。
実は今日のこの日記は、久しぶりに更新されていたその一人のかたの日記を読んで書いている。
その方が、どこか他所に行ってしまわれるので、もう私が日記を読めなくなるのは寂しいけれど、私のようにこういった日記を書くような者が出てくるから、息苦しくなってしまうのだと思う。
他人の近況を知りたいと思うのも、考えてみれば随分と僭越でおこがましいことかもしれない。

私も日記のよさは、自分自身と対峙したり、書くことで気持ちの整理をつけることだと思うので、もっともっと個人的であるべきだと思う。

うまく書けないけれど、mさんの仰っていることは少しは理解できているつもりです。mさんが今日の私の日記を見てくださるかわからないけれど。
細かい事情を知っていてコメントをくれる友人より、私の心の底を一番感じ取ってくれたのはお互い詳しくは知らないmさんだったと思っています。

どこかよそに行かれるようなので寂しくなってしまうなぁとは思うけど、日記の本来あるべき形に戻るわけだから、他者がとやかく思うことは全く関係ない。いきなり黙っていなくなってしまわないで、心情を書き残していただいたことに心から感謝しています。ありがとう。もし、先々エンピツの日記が更新されていたら嬉しいです。(これでは近況を知らせろと言っているようなものかな?)

私はもうしばらくここで、書きたくなったときに書きたいように書いていくつもりです。なにせ、ここはほとんど誰も来ないので。自由が何よりです。日記としては中途半端なコミュニケーションは出来るだけ排除すべきとも思います。

・・・なんて今日のような日記をmixiのようなところには書けないな。


pearl〈パール〉 |MAIL

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