私の雑記帳
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2009年09月17日(木) 頭の中はいつも迷路

地獄のような時期がかろうじて過ぎて、いまは状況的落ち着きを取り戻しつつある。

常々思うことであるけれども・・・
自分はそれほどバカでも鈍感でもないと思っている。
でも自分が思うほど利口でも頭が良いわけでもない。
(学問も含むし、学問ではない事も)
繊細というと聞こえがいいが、ようは神経質ということ。
なんでこんなに考えがまとまらなかったり、自分では
しっかりしているつもりでも安易な考えで、底の浅い意見、もしくは
なにも生み出せなかったり。
他人のアラは目に付きやすいが、自分がしっかりしているかというと、
案外私が心の中でバカにしていた人達(←語弊がある表現だが)より
劣っていたりするから落ち込む。

ああ、回りくどい。
私にもっと考えをまとめられる能力、語彙、そして
もう少し揺らがない意志とか、一貫した考え方とか
そういった能力があれば、もう少し自分がラクなのに・・と思う。
実際バカなんだから仕方がないけれど、バカなら馬鹿で
自分を疑ったりしない人間なら、もうすこしましな生き方が
出来るのかもしれない。

毎日新聞に連載している林真理子の「下流の宴」という新聞小説を
読んでいる。
私はどんな人種にも属せない中途半端な人間だ。
野心を持つには、年をとりすぎた。
そして、チャンスは誰にでも平等ではない。

それでも私は生きていかなければならないし、このまま何の心の平安も
もてないまま、年をとっていくのかと思うととても辛い。

私は何がしたいのだろう・・。
やはり、一人前に生きるというのは社会参加しかない。
もう一度、私が社会参加できたら、もう少し自信をもてるのだろう。
経済的自立と、社会参加(まともな仕事を得る)、
私一人ではどうにもならない。
かつての上司兼同僚(かつての同志)にずっと頼んできたが、
遠隔にいるので仕事にはならないといわれている。
私が先日、度重なる借金を断ったので(私のクレジットカードで
一時的にお金を用立て、今までも散々、力を貸してきたが)
それが気に入らなかったようで今、音信不通になってしまっている。
仕事の能力はある人なのだが、人を見る目がないので、
何度も事業に失敗しているのだ。
片方で無能な人間を馬鹿にして、片方で信じていたものに裏切られるという
その繰り返しで、結局成功できない人なのである。
私が結婚して子供を持ったときに、金が無いのによく子供なんか
持つね・・と言われたが、時期なんか待っていたら子供なんてもてない。
その元同志は、数年前に奥さんに子供が出来たが流産で失っている。
結婚したのは私より早かったのだから早く子供を持てば違った人生だったろう。
子供もなく、金もなく、彼らは昨年離婚した。
私は彼らより惨めな生活だが、たった一つ、子供がいることで
生きていられると思える。

なんてそんなことを言ったところで何の役にも立たない。
子供が小さい時に、子供にひどい思いをさせた罪は私の心の中で
一生消える事も許される事もない。

私が私のプライドを取り戻せるような生活(仕事)、
立派なかっこいい仕事ということではない、
人並みな地道な仕事ということ。
今はどうにもならないしあてもないけれど、
諦めずにとにかく生き続けるしかない。
自分の体調のこと、衰えていく父を支えながら、子供を育てながら。
とにかく悲観しないこと・・。


2009年08月27日(木) 父のせい、母のせい・・

地震の日、階段から落ちて背中を強打したらしいが記憶がなく、寝てれば治ると言い病院を拒否し寝たきりになった。2週間も経ち一向によくならず心配した妹の頼みなのでものすごく苦労してやっと受診させた。すると背骨が圧迫骨折していた。最初から救急車で運ばれていれば周りはこれほど苦労しなくて済んだのに。ずっと寝たきりで寝返りするのがやっと、自力では何もでいなくなっている。とにかく治るまでの最善を考え、介護ベッドレンタルの申し込みや役所に介護保険の申請やさまざまな問題が山積みだった。

今日は長女の誕生日なのに2人で昼も食べずに実家の片付け。実家は父の退職金で建てたのだが、もはや想像を絶するごみ屋敷状態。築18年で台所が土間と化し汚さ不潔さの極致。拾ってきた物でごみも沢山、頭のおかしい母がごみ捨て場から拾ってきた物であふれかえる(泣)1階の床の間を、涙ながらに掃除。父用の介護ベッドをいれるため。掃除していると母が「捨てるな」と暴れる。その繰り返し。母の邪魔が入るからザルで水を救うような作業になる。冷蔵庫の中は生ごみが泥沼になっている。しかし今はそれどころではなく、1階の客間だったところに介護ベッドを入れるスペースをつくるだけでも大変。
夕方までとにかく片付け、4時過ぎに急いで役所に行き父の介護保険申請、そしてその後に介護ベッドのレンタルを申し込みにいった。
娘に誕生日らしいことは何も出来ず、夜もごはんだけ炊いて、娘のささやかな希望で、から揚げを買ってきて食べるというお粗末な食生活。
父はどんどん衰えて、痴呆ではないが、もう子供と同じレベルの会話しかできない。
これからのことを考えると、どうしようもない絶望感。


2009年08月21日(金) 夢は夢だけど

遊びに来ていた姪を東京に送っていったついで?に
子供と久しぶりに東京散策。
足がパンパンにむくみ、正座が出来ないほどになっており
極限に疲れている。
自分の日ごろの運動不足を嫌!!!というほど感じる。
田舎はすぐに車なので都会の方が運動不足にならないといつも思う。
東京に住みたいなぁといつも夢みたいなことを思う。
たとえバカな夢でも持っていないと残りの人生、やっていけないよ。



2009年08月11日(火) 未来への不安が増しただけ

早朝の地震、遂にきたかと思うような猛烈な揺れだった。地震は小さいころから慣れていたがさすがに今朝のが一番ひどかった、
少しずつ集めていたお気に入りの食器類が食器棚から落ちて割れ、破片はバケツ一杯分にもなった。高価な物ではないけれど、自己満足で集めた物だけに1度も使わずにごみになってしまった器の山ですごく気分が沈んだ。
書棚も倒れ、ガラスが全壊、飛び散って片付けるのに難儀した。ガラスは本当に厄介、飛び出した本ももう元に戻せない。たんすも倒れかけ、娘は下敷きになる一歩手前だった。倒れたたんすが別の低い棚につかえてギリギリ難を逃れたのだ。台所を含め、家の中はひどい惨状。地震対策用の家具を固定する道具も、あまり役には立たなかった。もっと強化しなければならないけれど、そういうのも買うと結構な出費である。

うちはマンションの3階なのでより強くゆれを感じたのだと思う。
部屋の壁掛け時計が落下していて、半日後に見つけたときに時間がちょうど5時7分で止まっていて、なんだかそれがリアルに怖かった。

食欲があまりなく、夜中にお腹が空いたりするので困る。また副作用で更年期障害のような感じで異様に汗をかく。
寝たのが3時なのに5時の地震で目が覚めて、とても調子が悪い。今日は9時から受診日で、腹に3回目の注射をした。次回、手術の説明になるらしい・・。

命があってよかったとプラス思考になりたいとは思うが、なにもかもスッキリしない事ばかりでグレーな気分が続く。


2009年08月07日(金) 大原麗子と「獅子の時代」の思い出

私が見たことのある数少ない俳優の一人である大原麗子が亡くなった。

大原麗子を見たのは、高校1年の夏休みだった。
父や知人らと何か用事があって上京したついでにみんなでNHK放送センターの見学コースに立ち寄ったが、その日は好きで見ていた大河「獅子の時代」の撮影はなかった。夏休みの間に、私は同級生の友人と東京に日帰りで遊びに行く計画があったので、私はNHKに「獅子の時代」の撮影がある日はいつか?と往復はがきで問い合わせてみた。するとそれについての返事をいただいた。文末には「この葉書をもって、事務所の方にいらっしゃい」と書かれてあった。
私は、馬鹿正直にもその葉書をもってNHKを訪ねた。すると、事務所の方々が何か話しているようだったが、「撮影は○時からなのであと1時間くらいしてからもう1度来てください」と言われた。何がなんだかその時はよくわからなかったが、とにかく時間をつぶして再び事務所に行くと、今度は若い女性が出てきて「ご案内します」といって私たちを見学コースではない、いわゆるスタジオの方へ案内してくれたのだ。
田舎の高校生の私たちに、その女性が「部長のお知り合いですか?」と歩きながら尋ねてきた。私は撮影スケジュールを問い合わせたら返信ハガキに事務所を訪ねるよう書いてあったと伝えた。
とにかく、それで見学コースではなくスタジオの隅から見せてもらったのが「獅子の時代」の大原麗子の出演シーンだった。
もちろん、スタジオ内に入るという経験自体が初めてだったので、すごく緊張した。本物の俳優を見るなんていう機会はそうはない。

いまでも、その時に私のハガキの返事をくれたのが誰かはわからない。
(葉書に差出人の名前はあったのだが、スタッフの重要度など知るよしもない高校生であったことと、そのハガキをその後に紛失してしまっている)
もしかしたらプロデューサーご本人であったかもしれないと後年、仕事の同僚に言われた。
だいたい「今度見学にきたら事務所を訪ねていらっしゃい」なんて書いてくれて、おかげで特別待遇のスタジオ見学なのである。(大河だけでなくいろいろ案内してもらった)
とにかく、そんなわけで大原麗子と聞くと「獅子の時代」を思い出す。
たとえ気まぐれでもあの頃は、そんな視聴者に優しいスタッフもいたのどかな時代だった。


pearl〈パール〉 |MAIL

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