私の雑記帳
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2009年07月31日(金) |
「クロスオーバーイレブン」 |
「もうすぐ、時計の針は12時を回ろうとしています。今日と明日が出会う時―クロスオーバーイレブン…」
来週から1週間だけ復活するらしい。(パーソナリティは津嘉山正種) 夜遅くラジオを聴くような生活から遠ざかっていたので、いつごろ終了したのか全然知らなかったが(〜2001)、NHK-FMの40周年記念で復活するそうだ。
私は初代の石橋蓮司の頃から二代目の清水紘治までをよく聞いていた。当時は学生(始まった頃は中学生)だったし日常的に深夜のラジオは身近だった。静岡ではまだ民放FMはなかったし(当時どれほどFM東京を聞きたかったことか・・)エアチェックのためによく聞くのはNHK-FMだった。
ドラマ好きだったせいで石橋蓮司も清水紘治もどちらの顔も知っていた。石橋蓮司は悪役が多かったので、こんな仕事もやるんだなあと感心した記憶がある。それがある日気がついたら清水紘治に変わっていてびっくりした記憶がある。清水も悪役が多かったけれど、大谷直子の旦那(当時)の印象も強かった。
富山敬や横内正はほとんど聞いた思い出はないが、 津嘉山正種は1982年から終了年まで長くやっていたので、わりと聞いた印象がある。
オープニングの有名な曲はアジムスの「フライ・オーヴァー・ザ・ホライズン」という曲で、半年ほど前に急に思い出して懐かしくなりCDを入手したばかり。
テレビやラジオからパソコンと過ごす時代になってしまったが、意外と?ラジオはいいと最近見直している。
2009年07月30日(木) |
「貧乏だったけど惨めに育てた覚えは無い」 |
昨日の久米の番組のゲストがビートたけしで、注目して見た。 たけしの母(さきさん)の言葉で印象的に覚えているという言葉の一つが「貧乏だったけど惨めに育てた覚えは無い」というもの。 教育熱心だった母親らしいが、いわゆる「学」というものがなくても迷いの無い子育てをしたことがなにより羨ましい。 状況により、貧乏と言うのは仕方が無いことだと思うけれど、惨めではなかったというのは、いまの私には胸に突き刺さる。
うちはある意味、今日の米に困るほどの貧乏ではないが、嫌と言うほど惨めな状況、みじめな生活、なのである。 ずっと前からずっと自問自答を繰り返す。「そんなに私はダメな人間なのか?」「利口ではないけど底抜けの馬鹿というわけでもないのに、なんでこんなに愚かな人間になってしまったのか?」 「愚痴ってたってしょうがないじゃん」と、もう一人の私が言う。「テメエで何とかしろよ。言い訳すんな」
私は人が怖い。軽口をたたくのは得意だが、他人の言葉態度に敏感に一喜一憂してしまう。 自分がないのだ。北野さきさんのように、信念のようなものがない。自分自身にも子育てにも。
私の自尊心の回復はどうにか仕事にありついて自立生計を立てられる事に尽きる。それがわかっていて、外に出るのが怖い。 そんなに私は馬鹿じゃないとプライドばかり高くても、実は人より随分劣っているのだ。手先がうんと不器用だし、数の扱いも苦手だし、何にも出来ないろくでなし。でも、とにかくいつか必ず人並みの自尊心くらいは取り戻したい。人より優れていなくていい、自分の力で生きていたいのだ。 子供にも惨めな思いをさせている。高校の部活の活動費で学校からお金を渡された。部費の無い部活なので、ちょっと動くと交通費がすこしかかったりする、その費用を気遣ってだしてくれるというのだ。学校の趣旨はわかるけど、それは大変に惨めである。 娘は高校から奨学金だし、母親(私)は働いていないし。こんな進学校にうちのような家庭の子供は滅多にいない。そういう意味では娘はよく頑張った。でも母親の私がこんなだもの。世間が怖くて外に出られないんだもの。 それでなくても40代の何のとりえも資格も無いオバサンを雇ってくれる会社は無い。しかもこの不況。
散々いじめた妹は高校入学前に私を追い抜き、大学を出て公務員になり、優秀な医学部をでた医者と結婚した。私が東京に残りたかったのに、現実は私が田舎に戻り、妹が東京暮らし。 なにもかも裏目裏目の人生。公務員にもなりたくはないし、なにも医者と結婚したいわけじゃない。 でもあまりにも惨めなんだよ、私が。
自己憐憫はみっともない。 いつか必ず自立できるチャンスがあると思って今の惨めを乗り切るしかない。 それにしても、長ったらしいへたくそな文章だ。
2009年07月27日(月) |
同級生だった友人のこと |
今日は友人の手術日だった。 27日だと覚えていたはずなのに今日が27日だと気がついたのは夜9時をまわっていた。迷ったが、思い切って家に電話しご主人に様子をたずねたところ、手術は無事に終わったというので、まずはほっとした。 しこりが出来て(たぶん胸)手術することは決まっていたようだったが、念のため局所麻酔で細胞を取り出して検査したら悪性で医師もびっくりだったというようなことを携帯メールで知らされたのが2週間くらい前で、入院前に1度電話しようと思っていて、気がついたら手術日の夜だったというお粗末な私。
彼女は高校の同級生で、なんだかんだと細々と付き合いが続いている。手紙や葉書を律儀にくれる数少ない筆まめな友人でもある。
私の第2子の出産予定と、彼女の第一子の予定日がわりと近かったので、お互いよく手紙で妊婦の愚痴をこぼしあったし、私は出産数時間前のその日の早朝も、彼女宛の手紙を書いていて、陣痛が始まって病院に向かう途中でその手紙を投函したのを覚えている。
高3の秋に放課後の生物や科学の補習授業(任意)を私は彼女と一緒に受けた。せっかく学校で補習をやってくれるのに、出席する生徒は本当に少なかった。補習の帰り、二人で廊下の窓から見た夕焼けがきれいだったことはたぶん一生の思い出だと思う。
病気のこと自体、携帯メールで知ったので詳細はわからない。 どのくらい深刻なのかもよくわからないし、たずねにくい。 秋に私も手術だけれど、数ヶ月の差で先を越されてしまった。
手助けができるなら、いつでも頼ってくれと友人知人に言うとき、それは純粋にその相手の手助けが少しでも私にできるなら、と他意は全く無く思っているのである。その気持ちに、その場では偽りは無い。 でも、もしかして、本当は、全く無意識のことながら、その相手に結果的に恩を売り、貸しを作ることで、自分が相手より対等以上になることを、全く無意識ながら計算しているのではないだろうか。 具体的な打算など全くないと心底言えるとしても、相手に頼られた時点でやはり貸しを作ったと思えなくもないだろう。 大事な友人に対して打算など考えた事も無いはずだ。 逆もそうである。たぶん、打算ではなく、困ったらいつでも頼って欲しいといわれ、それは本当に嬉しいし有難いと心から感謝している。でもなかなか遠慮して頼れないのは、私の心の中に、借りを作れないと思ったりしているのではないだろうか?
・・うまくいえないけれど、でもそんなふうに自分の気持ちさえ邪推していると、もう息苦しくて叶わない。 一人は寂しいと思う。でも、他者との関わり方も自分自身もよくわからない。 こんなぐちゃぐちゃな頭の中、ぐちゃぐちゃな生活、バカな頭で考えていても何も答えは出ない。
ほんとうに回りくどい文しか書けないことが割れながら歯がゆい。
安倍川増水で花火も無期延期、天気も不安定、私も不安定。
テンションなんて上がらなくていい、下がるのが怖い。 なるべく一定でいたい。不安だらけの毎日、たまらなく怖い。
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