うさぎのつぶやき
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戦後の復興に向かっているイラクで、とんでもない事が発生したという。
イラク博物館が壊滅状態だそうだ。 メソポタミア文明を知る上でも欠かせない貴重な文化遺産が、数知れず展示してあったそうだが、これらの殆どが持ち去られたというのだ。
そもそも世界四大文明の一つであるメソポタミア文明はティグリス、ユーフラテスの二つの川にはさまれたこの地方(現在のイラク)で、紀元前3500年くらいに都市国家が成立していたという、世界で最初の文明である。
黄金の月桂冠をはじめとする金銀財宝、象牙といったおよそ3000億円の価値があるといわれているほとんどの展示品が持ち去られたのだそうだ。
一般の国民が、ホテルや公共の建物などに入り堂々と調度品等を持ち去る所の映像を何度かTVで見たことがあるけれども このイラク博物館の場合は、そういった強奪が始まる前に持ち去られた可能性が強いらしく強奪されたかのように見せるために故意に荒らしてあったという。 その上展示リストまで持ち去られ、何がなくなったのかもわからないということで現在各国の有識者が資料を持ち寄り持ち去られた品物のリストを制作しているとの事であった。
爆撃があった時職員は全員非難していたとかで、戻ってきて荒らされた後を見て泣いていた。 悲しいことに欲しがる者がいるから、供給する者が出てくるわけで、恐らくほとぼりが冷めた頃にヨーロッパの方へ流出するだろうけれども そのうちの何パーセントかは、日本で売買される可能性があると専門家は語っていた。
トップの写真にラグラスを飾った。 これは私の大好きな花(草)。通称バニーテールと言われている。
一体に尻尾の名をつけた花が好きである。「バニーテール」「キャットテール」「ポニーテール」皆ふわふわしていたりサラサラしている。
それから小花が好きだ。自分が大きくて頑丈そうだから、反対にちっちゃくて、こじんまりとした儚げな花が大好きである。
アリッサム、パコバ、かすみそう、こでまり、岩から草、などなど。憧れにも似た気持ちなのか・・・?
今日は母の日。 昨日娘が「ママ、これ!」そう言ってバラの花束を持って帰ってきた。 彼女は、毎年プレゼントと一緒に必ずお花を用意してくれる。
今年は、エッセンシャルオイルの入った、リフレッシュの為のマッサージジェルをプレゼントしてくれた。 こめかみや、耳の後ろのツボにちょっと塗り込むととてもリラックスできるらしい。 「パソコンして疲れたときに良いよ」そう言って渡してくれた。 「ばんばん(田舎の母の事をこう呼んでいる)には送った?」そう聞くことも忘れない娘に心から感謝をした。
ちなみに実家の母には、紫陽花の鉢植えを送ったのだが、夕方とてもうれしそうに電話が入った。
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<徒然日記より 2003.05.11>
「母の日」によせて
今年も“母の日”がやってきました。 今回は、私の母について少し書いてみようと思います。
母は昭和4年、6人兄弟の末っ子として、この世に生を受けました。 生まれてすぐに母親が病気で亡くなり、父親は、そんな末娘を不憫に思ったのでしょう。 それはそれは可愛がり何かにつけても特別待遇だったと、姉である伯母から聞いたことがあります。 そんな父親は、おっぱいの代わりにヤギのお乳を飲ませ、農作業に出る時は、背中に背負った籠に母をいれ畑に連れて行き、日がな一日畑で過ごし、夕方になると又籠に入れ背負って家路を急ぐそんな毎日だったようです。
2、3年前の宮中歌会始めに「草」という“お題”が出された時がありました。 普段、短歌などあまり詠むことはないのですが、そのときふっとこの母の事を思い出し、スラスラっと出てきた歌がありましたので、思い切って応募したのですが、残念ながら採用しては頂けませんでした。 私は、秀作だと今でも思っているのですが(笑)ここで、ご披露したいと思います。
背負われし 幼き頃の籠の中 刈り干した草のかすかににほふ
母が子供の頃はとても活発で、足も速く、遊ぶ友達は男の子ばかりだったといいます。運動会の朝は父親が、「ミキ(母はこう呼ばれていました)これを食べていけ!」と必ず山芋を擦ってくれて食べさせてくれたそうです。お陰で足が速かったといいます。
いろいろなことを聞いてみると、母親がいなかったけれどもその代わり父親に、とっても大事に育てられたことがよく分かります。母の「慈愛の深さ」の原点ではないでしょうか。 そしてその「慈愛の深さ」は父と出会い結婚して私が生まれてからますます発揮されていくのです。
私の父はサラリーマンでした。 決して裕福とは言えませんでしたが、私達子供は少しもそんな思いをしたことはなく何時もこざっぱりとした格好をさせてもらっていました。 それは、全て母の手作りのお陰でした。余裕がないから既製服は買えないので、生地を買ってきて近所の親しいお宅でミシンを借りて、作ってくれたり、リフォームしてくれたり、肌着もパンツ以外は、全て手作りでした。 ヘアーバンドまで、作ってくれました。子供の頃の写真を見ると、何時も手作りの洋服を着た私が、笑っています。 でもそれを惨めだと思ったことは一度もありませんでした。 というのは、必ずレースをつけてくれたり、フリルが付いていたり又とってもおしゃれに作ってあったりと、他の誰より素敵なものだったからです。
私は小学校の4年生の時に転校したのですが、その時にミシンを買った母は、私達が学校から帰るといつもミシンの前に座っていました。 「今度は何を作ってるん?」と聞くと「○○さんからの頼まれよ」 「あんたのと違うよ」そう言って2〜3日で仕上げた後「ちょっと着て見る?」と言って私に着せてくれました。「やっぱりみどりちゃんのほうが似合うね。」・・・。 驚かせようと嘘をついて、よく私のものを作ってくれたものです。
又、学校から帰ると必ずおやつが作ってありました。 蒸しパンだったり焼きおにぎりだったり夏は寒天のフルーツ寄せだったり、 そうそう冬はお餅の硬くなったものをあられに作ってくれたり・・・。 サツマイモがふかしてある日やとうもろこしがゆがいてある日もありました。
こう書くと優雅な家のお嬢さんみたいですが、只単にお小遣いをあげる余裕すらなかったと言うわけです。お金を持って駄菓子屋さんに走った経験は全くありません。 ですから、紙芝居は、おじさんにおっぱわれる方でした。 何か買わないと見せてもらえませんでしたから・・・。 でも母の用意してくれていたおやつは、何時だって美味しかったし、私達兄弟は、かなり満足していたような気がします。 料理もそうでした。 外食などした事がなく、いつもどんな時でも母が作ってくれました。
母親の暖かさを知らずに育った母でしたが、だからこそ「こうして欲しい」とか「こうだったらいいのに」といった子供心をよく分かっていたんだと思います。 今年で75歳になりますがいつまでも元気で明るい母であって欲しいと願わずにはいられません。 ’03.5.11
2003年05月09日(金) |
◆赤ちゃん (その2) |
生後7カ月の赤ちゃんの頭部を足で踏みつけるなんてことがなんでできるのだろうか?しかも2回も・・・。
先ほど見たasahi.comのニュースである。 「泣いてぐずったので頭にきた」と言う。
こんな親は同じような目にあってもらうしかない。寝ている赤ちゃんから見れば、22歳の大人が立ちはだかるとまるで怪獣のようだろう。 自分の顔より大きい足の裏が迫ってくる訳である。
ガリバーに出てきてもらうか、はたまたゴジラか、それとも両方に踏みつけてもらうのが良いかも知れない。
長いことチャットを利用していなかったからなのか、久しぶりに入ってみたら「NOT FFOUND」の文字が・・・。 強制削除されてるのかしら?と思って試しにやってみたら、普通に書きこみもできるし何の問題もなかった。警告かもしれない。
時々は利用しなきゃあと反省することしきり。以前チャット大会を企画したものの企画倒れに終わったので、あれ以来チャットルームから足が遠のいている。
も一度やってみるか・・。
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