2009年05月22日(金) |
怒っています (裁判員制度) |
今日は、個人的にちょっと怒っている事柄を書きます。
裁判員制度についてです。
まあ、制度について、というか、これに対してのよく見たり聞いたりする「国民の意見」についてです。
まずね。
「嫌がっている人を無理矢理参加させるのは間違いだ」という意見。
僕としては「は?何いってんの?」という感じです。
そもそも裁判員制度って
「裁判官はエリートすぎて一般常識をわきまえてない。 だから国民の参加により裁判官に一般常識を教えてやるんだ」
という世論からきてるでしょ。(実際に出来上がった制度はそうなってないけど)
要するに裁判官ひいては司法に対する不信感がもとになってる。
「お前(裁判官)は信用できない、だからおれ(国民)がやる」
この考えが源流にある。
だから、国民に大きな責任がかかるのは当たり前のこと。
そして、国民がやるということになった以上、国民の中の一部だけがやる、なんて出来ないはず。
国民の中の一部しかやらないなら、 「裁判官だけ(もちろん裁判官も国民ですよ)」 が判決を下す制度と大差ない。
もし、自己都合で裁判の参加が拒否できるなら、裁判員は裁判員をやりたいという人だけで構成されることになる。
当然、それは偏っていると言えるし、国民がやっているとは言えない。
そうなれば、国民がやる、という建前が崩れる。
それは言うなれば 「投票権が国民一人一人にない選挙」 みたいなものだ。
裁判官が信用できないというから国民が参加することになったんだ。
そう言い出した以上責任は取らなきゃいけない。
それとこういうときのよくある意見
「政治家と官僚が勝手に決めた」
お前は選挙権を持ってないのかと。
民主政治においては、勝手に決めるなんてことはない。
裁判員制度だって、きちっと手続きを踏んで決められたものだ。
そして法律に賛同した政治家を選んだのは国民だ。
自分たちで選んだ(または選ばなかった)んだ。
支持できる人がいないという理由で投票に参加しなかったとしても責任はある。
今いる政治家がダメだというなら、自分たちで何とかすることが民主政治だ。
不都合な法律が成立することを止めたいならデモを行う。圧力をかける。
そうして国民自身が意見を表明して政治に参加する。それが民主政治だ。
自分たちが何もしていないことを棚に上げて、誰かのせいにして溜飲を下げるなんて愚の骨頂。
政治が腐っているとしたら、それは国民自身が腐っているからだ。
官僚が何も知らない国民をいいように操っている?
何をバカな。
新聞を読まず、
自治体の広報も読まず、
政党のマニュフェストに目を通さず、
選挙のビラを見ることもせず、
シンポジウムに参加もしない。
自分からは何もしない国民には何をどうしたって無駄だ。
本当は操られているかどうかさえも判断できないくせに。
政治が分かりやすいわけないだろう?
そんな分かりやすいなら誰も苦労はしない。
努力せずに分かるわけないじゃないか。
ゆっくり寝そべっているだけで何から何まで誰かが説明してくれて、自分の思い通りになる。
そんな政治があった時代がこれまで存在したのか?
今後そんな政治が存在する可能性があるのか?
考えたら分かるじゃないか。
ちょっと話がずれたので元に戻す。
実は、今回創設された裁判員制度の目的は
有罪かどうかを国民に判断してもらう、ということよりも
国民に司法の世界を分かってもらう、
ということに重点が置かれている。
そういう意味では、意義のある制度だ。
国民がいかに無責任に裁判官などの司法に携わる人たちを批判していたかよく分かるようになればいい。
人を裁くということの重圧について、少しは想像力が働くようになるかもしれない。
そして、完全な公正さを裁判に求めることの滑稽さを知ればいい。
僕ももう30を過ぎた。 根拠のない夢を見ることは許されず、今にも自分を飲み込んでしまいそうな現実としっかと向き合わなければならない年齢だ。
今、僕は仕事を本気で頑張っている。 自分自身に言い訳をしないように、必死でやっている。
でも、やっぱり足りないところがある。 仕事に穴がある、と言った方が正しいかもしれない。 それは自分だけでは気が付くことができず、上司に指摘されて初めて気付く。
逆に、同僚の仕事のやり方に穴があることを見つけることがある。 同僚なので指摘はしないけど。
そんなことを重ねていく中で、僕は 「人間の器というものは、本当にあるんじゃないだろうか」 と思うようになった。
少し話が飛躍しすぎているかもしれないので、補足をする。
その思いの根拠には、僕の仕事のことだけではなくて、僕が見てきた僕の友人たちの生き方がある。
僕の友人たち、とりわけ中学時代の同級生は、僕がそうであるように、皆不器用な奴ばかりだ。
働かない奴がいる。働かないといけないことは分かっているが拒否している。 軽作業に従事している奴がいる。人間関係が煩わしいからだ。 痛風になった奴がいる。不摂生を直そうとしなかった。 連絡を絶った奴がいる。自分以外の人間を許容できなかったためだ。
どいつもこいつも、自分の欠点は分かっていた。 だけど、それを修正することはできなかった。
僕はこれまでずっと 「限界なんかない。自分が限界だと思わなければ自分を変えることができる」 と思って生きてきた。
だけど、現実に自分に限界はあった。 変わりたいと思っても変われなかった。 そして、変われない自分を卑下し、否定し続けた。
一時期、僕は一般的に極めて優秀とされるある類の人たちと一緒に仕事をしていたのだが、その僕の歪んだ劣等感は、その人たちと接することでより膨張していき、破裂した。
しかし、今思い返して見れば、そんな優秀な人たちにも限界はあった。 判断を誤っていたり、寛容さや公正さに欠けるところが確かにあったのだ。 僕よりも少なくとも倍は優れた能力を持っている人たちにさえ。
話の焦点が見えにくくなってきたように思うので、話を本筋に戻す。
結局のところ、どの人にも修正することのできない限界があり、アンバランスなところがあり、正しいあるいはできると勝手に思い込んでいるところがあり、想像力に欠け、他人を軽んじ、差別し、偏見を持っていたりすることがあるということだ。
そして、何に欠けているかによって、どのくらい人生を(社会的に)うまく過ごせるかどうかが決まるのだろう。
人生において重要とされる要素に恵まれた人は、いわゆる「世渡りがうまい」といわれる人になり、逆に、不幸にも(自分にとってではなく!)人生において重要とされる要素に欠けてしまった人は、(社会的に)苦労することになる。
別に、僕は悲観的になりたくてこんな主張をするわけではない。 むしろ全く正反対だ。
要するに、僕が言いたいのは、
人間足りないところがあって当たり前だし、 他人と比べても仕方がないのだから、 他人を嫉み妬まず、 一生懸命毎日生きてるなら、 それでいいじゃない。
ということだ。
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