2008年05月17日(土) |
ついに日本でも……(浦和レッズ対ガンバ大阪) |
今日、Jリーグ 浦和レッズ×ガンバ大阪戦で、サポーター同士の衝突がありました。
どうしてそうなってしまったのかは、まだ不明確ですが、
ガンバサポ レッズサポ席に水風船等を投げ入れる(試合中も断続的に続く) ↓
レッズサポ 何とか耐える
↓
レッズ敗北
↓
円陣を組み喜ぶガンバ選手たち
↓
レッズ選手の一部がガンバ選手たちにキレて突っかかる
↓
レッズサポ キレたレッズ選手に同調するかのようにキレて反撃
↓
レッズサポ 防護柵を乗り越えてガンバサポ席側になだれ込む
↓
レッズサポ スタジアムの出口を封鎖、ガンバサポをスタジアムに閉じ込める ↓
ガンバサポ 代表者がレッズサポに謝罪
↓
封鎖解け、ガンバサポ帰路へ(封鎖開始から3時間程経過)
こんな感じのようです。
ネット上の各所で、レッズ・ガンバ双方への非難合戦が続いています。
非難の内容の多くは「どちらが悪いか」という視点で語られています。
「ガンバ側が先にやった」
「円陣を組むのはよくなかった」
「レッズサポの怒りは当然」
しかし、「どちらが悪いか」という問題については、
間違いない答えがあるので、語る必要はない
と思います。
答えは「両方悪い」です。
これ以外の答えはないと言い切ってよいでしょう。
今回の騒動を一連の流れとして捉えると、問題の所在が分かりにくいのですが、
一つ一つの行為に注目すれば、どちらが何について悪かったのか明確になります。
まず、「水風船などを人に向かって投げる」という行為
これが悪いのは明白なこと。
ガンバ・レッズサポ双方行っているので、両方に責任があります。
「相手を侮辱する言葉を使って応援をする」という行為
このような非紳士的行為が許されるはずがありません。
ガンバサポが行った行為ですので、これについてはガンバ側に責任があります。
「スタジアムの出口を封鎖しスタジアムに観客を閉じ込める」という行為
人の身体の自由を奪う行為ですから、当然悪い。
レッズサポが行った行為ですので、こについてはレッズ側に責任があります。
先か後か、という問題を取り除けば、両方悪いことは自明の理、です。
さて、以上の問題行為の中で、何が一番深刻かというと、それはやっぱり
「スタジアムの出口を封鎖しスタジアムに観客を閉じ込める」
という行為です。
これは本当に大問題なのですが、実際その場にいた当事者の方たちはおそらく問題の大きさに気付いていなかったと思います。
彼らレッズサポが行ったことというのは、つまりこういうことです。
「人の身体の自由を制限するための権限を、何ら持たない者たちが、 相手よりも圧倒的に多い人数の力(威力)をもって、相手の身体の自由を奪った」
さらに言うと
「さらに、自分たちが行った行為について反省せず、正当化しようとしている」
「あいつらから仕掛けてきたんだ。自分たちが怒るのは当然だ」
騒動に加担したサポはそう考えていたことになります。
とても恐ろしいことです。
犯罪を犯しているのに、それを
「当然そうする権利(理由)がある」
と考えているのです
違和感のある人は、問題を少し小さくすれば分かりやすいと思います。
20人の人間が、2人の人間を部屋を閉じ込めてこう言うのです。
「お前たちのどちらかがおれたちに石を投げた。どちらかが『おれがやった』と言わない限り、おれたちはお前たちを部屋に閉じ込める。その間、水も食料も与えない。トイレにも行かせない」
今回の事件は、それを1000倍にしたものです。
つまり、被害の範囲も1000倍にもなっているということです。
このようなことが続けば、熱狂的でないファンや、休日の楽しみとして来ている家族連れは来なくなります。
また、サッカーのイメージの低下も招き、サッカー界全体に対して影響を与えかねません。
僕はイタリアサッカー(セリエA)が好きなのですが、イタリアではサポーター同士の衝突が原因で起こる死亡事故が絶えません。
その結果、イタリアでは、サッカーは
「男のスポーツ」
となり、子どもや女性が見に行くものにはなっていません。
そして観客減少が続き、クラブを悩ますタネになっているのが現状です。
日本のサッカーはそうなって欲しくないと思っています。
ですから、残念ですが、双方のクラブ・サポーターに対して厳正な処分を下し、反省の材料になってほしいと願います。
僕は昔から「芸術作品」と呼ばれるものが大好きだった。
絵画、映画、写真、彫像、小説……こだわりなく何でも好きだった。
芸術というものが何か、分かったような気になっていた。
それどころか、
「おれは芸術を知っている。お前らは知るまい」
と他人を見下していた。
そんな時、「たけしの誰でもピカソ」という番組を見るようになった。
番組では、シロウト(中にはプロと言える人もいた)が作った「芸術作品・パフォーマンス」を、批評家を始めとする審査員が10点満点で採点するコーナーがあった。
そこで出てくる作品はいつもヘンテコリンなものばかりだった。
「何これ?」
と思うものが高得点だったりした。
僕にはさっぱり分からなかった。
「あいつらの感覚がおかしいんだ。おれの方が芸術を知っているんだ」
と思おうとしたけど、無理だった。
自分が、
実は芸術のことをこれっぽっちも理解していないんだ、
と悟るには十分な刺激だった。
その後、僕は大学を卒業し働き始め、芸術どころか本の一つも読まなくなった。
芸術のことなど、思い返すこともなくなった。
そんなある日、一つの芸術作品に出会った。
出会ったといっても、テレビで見ただけだったと思う。
その作品は、かなりキツイ原色の色とりどりの花びらのような形のものを何層にも重ねてバランスの悪いひと塊にしたモニュメント(?)のようなものだった。
その解説はこんな感じだった。
「この作品は『美しい』ということそのものを表現したものです」
なるほどと僕は思った。
その作品がブサイクなひと塊の形をしているのは、
形を「ある何か」にすることを拒絶しているからなんだ。
そしてこれは何かの形を通して「美しさ」を表現しようとしていない……。
そう思った瞬間、それまで見てきた「芸術作品」が次々と脳裏をよぎり、
急に僕は
「ああ、そうだったのか。それが芸術なんだ」
と妙に納得した。
僕が出した「芸術とは何か」という問題についての解答はこうだ。
「人間の感情・感覚を、本来それらが生じる原因となる具体的経験とは別の方法で再構成してみせるもの」
神の偉大さを知るには、神に出会うしかないし、戦争の悲惨さを知るには、自分で戦場に立つしか、本来方法はない。
でも、芸術はそれを可能にする。
ミケランジェロやラファエロの作品を通じて、僕らは神を信じる人が感じている神の偉大さというものを感じ取ることができる。
では、優れた芸術とは何なのか?
「優れた芸術は、他の表現に取って代わることができない」
だから、優れた芸術は言葉にすることができない。
ヘンテコリンな芸術作品を見て理解できなかったのは当然だった。
だって、それそのものが新しい一つの言葉なのだから。
僕の理解は、間違っているかもしれない。
でも、僕は気にしない。
僕はその解釈を、結構気に入っている。
|