2013年12月07日(土) |
卑弥呼 セカイ ユダ / 朝倉のいる世界 |
本日、シンプルプラン阻止のために家族3人そろって予防接種してきました。
が、インフルに予防接種はあっても風邪とノロを防ぐ注射はないのよね。
無事に年末年始を乗りきりたいものです。
昨日、2回目の「爻ノ篇」鑑賞。
そしてやっぱり、瀬文が当麻を見るまなざしの優しさに、いちいち涙ぐんだりして。
見逃していた場面もいくつか確認できましたが、思うに、これ以上の謎解きには、
冷泉の書いた予言をじっくり読ませていただく必要がありますな。
当麻がかろうじて読みあげた部分のあとも、いろいろ書いてあったようですし。
ということは、DVD発売またはTVでのオンエアを待つしかないと。
当麻の味方スペックホルダー大集合のシーンは本当に楽しいわ。
なんだかんだ言って、昨日の敵は今日の友なのね。結局みんな当麻のこと大好きだし。
あの方たちはもう亡くなっちゃってるから、人類滅亡の危機とか言われても、もひとつ危機感がないのか、
非常にゆるーい感じの助っ人集団。
相手をとんでもなく怖いとも思っていないようで、めっちゃマイペースに自己紹介に時間かけるし、
セカイの目をあざむくカモフラージュ作業も、なんかお気楽で楽しげだし。
これで戦いの緊迫感が削がれると感じる人もいるかもしれませんが、わたしはこのシーン大好きです。
対する卑弥呼、セカイ、ユダ。
この3人は揃いも揃ってとにかく声がステキ。
なかでも卑弥呼(北大路欣也)の声と語り口のステキさといったら、マダムじゃなくともうっとりですよ。
佇まいにも威厳がおのずと滲み出てしまうようで、とにかくカッコいい。
セカイ(向井理)も深みのある上品な声だし、
ユダ(遠藤憲一)は卑弥呼やセカイよりはちょっと立場が下のようで、少し荒っぽく喧嘩を売るような口調だったりもするけど
すごくシブくてやっぱりカッコいい。
美声の先人類三人衆、絶妙の人選です。
そうそう、その卑弥呼の言葉で、ノベライズから先日引用した部分ですが、
「生と死を差別することに意味はない。他者が認じれば死者として生命を持ち、
他者が認じることがなければ、生者とて、死者の如し」
下線の部分が映画本編では「死者とて」と言ってました。
ノベライズ読んだ時も「死者とて生命を持ち」なのでは? と思っていたので映画本編で確認できてスッキリ。
こんな重要なセリフ、間違えてほしくないわー。
今回は、ラストシーンの渋谷の雑踏らしき中に、
瀬文(の後頭部)と当麻(の赤いキャリーバッグのみ。本人の姿は今回も見逃した)を
一瞬だけ見つけることができました。1回目ではまったく気づきませんでしたの。
瀬文が投獄されている状況の世界では、瀬文はすでに当麻を撃ち殺してしまっているので、
こんな場面が訪れるとは到底思えないのだけど、それを可能にできる解釈はないのか?
と、いろいろ考えてみましたよ。以下はそのひとつ。
当麻が世界を別バブルに繋げ変えた時、時間をちょっと巻き戻してから繋げたのよね。
そうでなければ、核爆弾があまた打ち上げられ、セカイによってかなり破壊されてマグマとか噴出した状態の世界が、
あんな何事もなかったような状態になってるわけないし。
でも、無間地獄に落ちてしまい自分を自分と認識もできなくなってしまった当麻には、もうそのようなことはできない。
しかし瀬文が当麻に気づいたことによって「死者とて生命を持つ」ことができた当麻は無間地獄から抜け出すことができた。
瀬文が当麻の記憶をもったままあのような状態で生きながらえていなくてはならなかったのは、つまりはそのためだった。
で、当麻はあらためて、時間をさらにちょっとだけ巻き戻す。未詳で当麻と瀬文が出会ったあたりの時期に。
もちろん、その時点で当麻のSPECは消滅。瀬文も当麻もSPECやSPECホルダーに関する記憶は一切なくなり、
二人の歴史がまっさらの状態で始まったばかり。
これこそが冷泉がかつて予言した「あなたたちには輝く未来が見える」。冷泉すげー!
が、どのバブルへ移ろうとも、地球上で誰が生き残っていくか、ガイアは常に選択の余地を与えてその可能性を試し続ける。
つまり「そして再び、歴史は繰り返す」。
このバブルではセカイや潤はいないけれど、代わりに朝倉ともうひとり女がいる。
ということは、真山&柴田VS朝倉、に代わり、瀬文&当麻VS朝倉になるのかぁ? みたいな。
えんえんと都合のいい妄想を書き連ねてしまいました。わたしだけめっちゃ楽しくてごめんなさいまし。
もう少ししたら感謝祭ましゃモードに移りますからねー。
水曜日は「リーガルハイ」がひたすら楽しみなのに、
昨日はなっがーい歌番組のせいで飛ばされてましたよ! ガッカリですよ!
コラボが売りなのはいいけれど、コラボがオリジナル以上に魅力的じゃないと、
ただ痛々しいだけというか、大がかりな自己満足というか。
持ち歌で最高のパフォーマンスできない人が、よそさまの歌とか無理よね。
それはともかく。
まだまだ「SPEC〜結〜爻ノ篇」のお話は続きますよー。
公開前の予告映像で、当麻が「瀬文――!」と絶叫している声がありました。
瀬文が高い場所から落ちていくように見える、落ちながら何かにすがろうと
絶望的に手を伸ばしているように見えるシーンのあとにこの声が聞こえるので、
わたしはこれを、「落ちていく瀬文を助けられなかった当麻の叫び」だと思っていたのです。
本編を見ればわかりますが、これはその逆で、「瀬文に助けを求める当麻」の、最初で最後の心の底からの絶叫でした。
当麻がこんなふうに瀬文の名を呼んで助けを求めたことは、今までなかったのですよね。
当麻に危険が及んだときには当麻が反応するより早く、いつだって瀬文は当麻の盾になっていたわけですから。
今回の セカイvs当麻 の戦いに瀬文はまったく参加できておりません。
戦場となる電波塔の上に当麻が現れる前に、瀬文はすでにセカイによって吹っ飛ばされてしまったので。
だけど最後の最後、もうダメだとなったときに、当麻があたりまえのように呼びかけたのは「瀬文さーん」。
ここから次に「瀬文―――!!」と絶叫するまでの一呼吸に、どれほどの万感の想いが込められていたか、
どれほどの絶望感と限りない希望が込められていたかを想像すると、胸が張り裂けそうになるではありませぬか。
1回目に呼ばれたときはすでに瀬文は一生懸命電波塔によじ登ってる途中だったのだろうけど、
瀬文からの返答はなかった。
2回目の絶叫に「当麻!!」と応えながらフェンスを越えてくるあのハゲダコの頼もしさたるや。
キーーーターーーーーーー!
そりゃ来るよね。来ないハズがないよね。
地球の裏側からでも宇宙からでも地底からでも、根性と気合で飛んでくるよね。
タコ公園の砂場から地上18階のそのまた上の電波塔までなんて、どーってことないよね。
当麻に残された唯一の希望。すなわち人類の希望。
そしてそこからの展開は思い出すだけで号泣なわけで。
で、予告で血まみれの瀬文が手を必死に伸ばしていたシーンは、映画本編を見てもその理由がわからなかったのですが、
ノベライズによれば撃ち殺された当麻が空高く浮遊していこうとするのを見つけ、それを掴もうとしていたから、だそう。
ただでさえせつなくて残酷なあのシーンが、それを知るともっとせつなくなってしまいます。
手、届かないものね。当麻は無間地獄を浮遊し続けるのみ。
明日、2回目を観に行く予定です。気づかず見過ごしたあんな場面やこんな場面、
ちゃんと発見できるかしらん。
「SPEC〜結〜爻ノ篇」のノベライズ読んで、パンフの写真を見て、せつなくなる、の、繰り返しですわ。
本日以降、SPEC〜結〜爻ノ篇について書くことはすべてネタバレです。
ネタバレに次ぐネタバレですので、まだ映画をご覧になってない(けどこれから観るかも、な)方は
回避してくださいませ。
牢獄のような場所にいる瀬文が、当麻の気配に気づいてその手を掴むラストシーン。
重過ぎる宿命を背負わされた当麻と瀬文に対する、唯一の救いが感じられる場面です。
瀬文があの牢獄に放り込まれてどのくらいたったのかもわからないけれど、
瀬文「当麻、来世で待ってろ」
当麻「うす」
という最後の会話から、ようやく巡り会えた瞬間であることは確か。
あの瞬間だけ当麻が実体化したのは、まさしく
「生と死を差別することに意味はない。他者が認じれば死者として生命を持ち、
他者が認じることがなければ、生者とて、死者の如し」(先人類の末裔・卑弥呼の言葉)
だからですね。
ふたりが手を握るシーンと言えば、
「翔」で、自分のSPECを封じるために左手の感覚をすべて失わせ、
瀬文に手を握られても「瀬文さんの手、熱くも冷たくもない」と涙した当麻に対し、
瀬文は「おまえの手は温かいよ」と言ったシーンが、一番最初の一番印象的な「手を握る」シーンでした。
でもこのときは、瀬文が当麻の手を一方的に押さえていただけ。
当麻の左手は何も感じることはできず、もちろん握ることもできなかった。
「漸ノ篇」では、暴走する自分の左手に怯えた当麻が、「自分がもし道を誤るようなことがあったら
撃ち殺してくれ」と瀬文に頼み、瀬文が「当たり前だ」と応じるシーンがあります。
そのときは手を握り合うのでなく、ひとつの銃の銃身を瀬文が、ホルダー部分を当麻が握っていて
手は触れ合っていないのです。にもかかわらず、ふたりがしっかり手を握り合っている、
全幅の信頼を置いて命を預けあっているということがひしひしと伝わってくる、
本当に美しいシーンになっていました。
漸と爻のパンフでは、当麻が左手を、瀬文が右手を、互いに繋ごうとしているかのように伸ばしています。(漸と爻の二冊を並べると)
ふたりとも目を閉じているのが、いろいろなことを暗示しているようにも思えてせつない。
で、爻の最後にあのシーンですよ!
当麻が大きく未来を変えた世界は、少しだけ時間が巻き戻り、その過去もちょっとだけ変わっています。
お馴染みの人たちが、見覚えのある場面に登場するけれど、ただ、当麻だけがいない。
当麻は最初から存在してない世界に変わってしまっています。
当然、自分を知る人も思い出す人もおらず、当麻は「魂」とも言えないほど、かすかな痕跡のような状態になって、
自分がいたはずの過去のあちらこちらを漂っている。
それを唯一見つけることができたのが瀬文。
そこで初めて、しっかりと腕を握り合うのですよね。一方通行じゃなく、銃ごしじゃなく、
手のひらだけじゃなく、お互いの腕をしっかりと。
初めて手と手がつながったのが、すでにこの世界にはいない当麻と、
その当麻を最後まで助け、世界が変わったすべてのいきさつを知っている唯一の生存者でありながら、
ただの連続警官殺しの犯人いう宿命を負わされた瀬文、というせつなさ。
牢獄の中でのこの再会もおそらく、一瞬のことなのだろうと思います。
当麻のその手の感触も、瀬文に向けられたやさしく晴れやかな笑顔も、瀬文は確かに実感できたのだろうけど、
だからといって牢獄の中で当麻が生き返ってきてくれたわけではなく、
瀬文もあのまま幽閉されつづけるのだろうと。
が、瀬文のもとにたどりつけた当麻の想い、当麻に気づいた瀬文の想い、
瀬文が気づいてくれたことによって目覚めることができた当麻の想いが、
どこか別次元の別バブルの中で、また二人の歴史を始めさせたかもしれない。
その歴史は今よりはきっと、ちょっとだけいいものかもしれない。
という想像も許されるようなラストシーンでした。
パンフで戸田ちゃんや加瀬氏がおっしゃっているように、このふたりの間には
「恋愛」はまったく感じませんが、とてつもない「愛」を感じますね。
とりあえず「手を握る」だけに着目した感想でした。
ほかにもいーーーっぱい書きたいことはあるのですが、それはまた後日。
とにかくいろいろな解釈ができそうな内容なので、現時点ではそう思っているけど、
2回目以降(もっと観るつもりだな)、解釈が180度変わったりもするかもですが。
|