2010年04月11日(日) |
Happy birthday to me!! |
親切な方が目黒の美味高級ケーキを家まで届けてくださったので。ゴハンの後にソレ食ってたら、その間に日付が変わっていた。・・・ひろりん(sax)からのバースデーメールを見て初めて気づいた。
・・・食ってて、誕生日になったのに気づかないって。「いつからそんな女になっちゃったんだろう」とひろりんに返信したら、「幸せな年の取り方だと思うよ」と慰めてくれたので、立ち直りかけてふと思う。待って、この女はたしか、食い過ぎで自己破産したことがある女。信じちゃいけないわっ。(注:「この女」呼ばわりはワタクシの愛情表現です)
ということで皆様。Screaming Bunny、本日お誕生日です。
メールくださった皆さま、なんかくださった皆さま、有難うございました。今後もすくばにをよろしく。ラヴ。
2010年04月09日(金) |
translation dilemma |
仕事として引き受けた手紙の翻訳をする。日英翻訳の難しい点のひとつは、漠然としたニュアンスの日本語を、明確な意味を持つ英文に置き換えなければならないことだと思う。例えば、「やはり色々と大変であれかとは思いますが、何かありました時にはまたひとつよろしくお願いします」をどう英訳するんだということだ。この日本語は、長い割には実は意味がほとんどないのであり、ないものは訳せない。そしてここで実際に言いたいのは「また仕事を下さい」だったりするので、それをオブラートにくるんで言うしかない。
先月、翻訳の講習会に三つ参加してみた。日本人二人にアメリカ人一人。たった三例だけだが、どうもこの翻訳というものは、英語を学ぶこととは大分違った作業なんだなと感じる。
三人のうち金融翻訳専門の翻訳家は、原文が読み辛い場合は、読みやすい文章に変えるのが翻訳家の使命だと言った。書いた人間よりも読者のことを考えるべきだと。なので質疑応答の際に私は、「では例えば文芸翻訳の際に、悪文が優秀な翻訳家の手によって優れた文章に生まれ変わってしまっても良いとお考えですか?」と質問した。そしたら翻訳家は一瞬絶句し、「それはかなり深い問題だね。それを今ここで言えっていうの?」と困り果て、いくつか「悪文→すぐれた翻訳文」の例などを話してくれたが、結局明快な回答はなかった。
で、私自身は、悪文は悪文のまま訳したほうがいいと思うのだ。悪文が売りの作家もいる筈であり、だったらそれを味わえるほうがいい。「うわあこれ読みづらい文章だな。よしここはひとつ俺が読みやすい文章にかえてやろう」などというのは「改ざん」に思える。
だが文芸ならともかく、実務翻訳の場合、読みづらい訳文を出せば翻訳家が力量を疑われるのであり、であればお客様が満足するであろう読みやすい文章に仕上げるのは当然ともいえる。
科学論文をよく訳すという翻訳家はこう言っていた。「ネイティヴの文章なんてどれもこれもまあひどいもんですよ。こっちが校正してるんです」
翻訳された論文はどれも画一化されていそうな気がしてくる。論文なんぞに個性はいらないということなのかもしれないが。(本当にそうか?)
翻訳って何なんだろう。原文のイミテーションなのか? 全ての文芸作品は、原文で読むことでしか真価を味わえないのか?
ジェイムズ・ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」の訳で有名な柳瀬尚紀氏は、英語の語呂合わせなどを日本語の駄洒落に換えたりしているようで、そういったことこそが「翻訳」なのか? 何をもって正しい訳というのか。
無論私自身に結論は出ていない。結論を出すにはまだあまりに経験が足りない。今しばらく勉強してみてから考えたい。
ひとつだけ。去年私の知人が、ある日本の作家を激賞して、「こんな美しい日本語は、翻訳は不可能だ」的なことを言っていたが。―――その知人は英語が全くといっていいほどわからず、英語以外の外国語も出来ない。英語の美しさ、英語の可能性、日本語との差異も知らないのに、何故翻訳の可・不可がわかるんだ。英語と日本語の壁を乗り越えて、川端康成を、谷崎潤一郎を、その他日本人作家の作品を海外に伝えるために、どれだけ翻訳家が懸命の努力をしていると思ってるんだ。
英語が出来ないことはどうでもいいが。知りもしないで適当なことを言わないでいただきたい。
translation dilemma (翻訳の苦しみ)
2010年04月05日(月) |
Don't do as I do; do as I tell you! |
3月のTOEICの結果が出る。930点(L465、R465)で、リスニングが下がったが、リーディングは過去最高だった。
・・・これでようやく、1月のリーディングが415点とガタ落ちだったことの言い訳が出来る。つまり、疲れ目がひどくて集中できなかったのだ。
それに気づいたのは3月TOEICの前日だ。1月以来初めてTOEIC模試を解いてみたところ、リーディングの読み間違いが20ヶ所もあったのだ。・・・20ヶ所!!
翌日のTOEICは読み間違いに気をつけたので、高得点につながったようだ。
一方リスニングの敗因(1月490点→3月465点)もよくわかっている。いつも生徒にやるなと言っていることを自らやってしまったせいだ。しかもふたつも。
ひとつは、「Part2を解く時、例え正解と思うものがあっても、すぐにマークシートを塗らない」だ。万一塗った後で別のものが正解だとわかった場合、消しゴムで消して塗りなおすことがかなりの心理的動揺を招くからだ。
・・・今回これを思いっきり自分でやってしまった。ちょっとした勘違いから「はいはいBが正解」と塗ってしまい、その直後にCが正解とわかって、消しなおすことで力いっぱい動揺し(机がものすごく揺れやすかったので、隣の人に響かないよう消すのに苦労した)、おかげで次の一問をきれいに聞き逃した。
それと何よりも。Part3とPart4で、設問を読みながらリスニングをしてしまった。いつも生徒に、「音声が始まったら目を閉じて音に集中!」と厳命しているというのに。
ところで先日、20代の男性の生徒から悩み相談を受けた。(女性の生徒にはよくあることだが、男性というのは珍しい) 彼はあることで年長の男性に「そんなんじゃ駄目だ」と説教されたというのだ。
そこで私はこう答えた。「偉そうに説教する年長者の意見なんか聞かなくていい。何故年長者の意見に聞く価値があるかというと、年長者は、自分が失敗を繰り返しているので、己を過信していないからだ。要するに人間が成長するというのは失敗から謙虚さを学ぶことであって、年上だからと偉そうにする奴なんて、何も学んでいないということだ」と。
我ながら大変いい意見だと思う。が、しかし。
先生は、ただ謙虚にしていてはいけない。己の失敗も踏まえて、生徒に説教しなくては。
ということで。これまで以上に生徒に厳しく指導することにする。
「音声が始まったら問題を見るんじゃなぁああい! こないだ先生がそれで点数落ちちゃったって言ってるでしょうがぁあああ!!!」って。
(ま、最終的には本人の好きずきだけど)
Don't do as I do; do as I tell you! (私がやる通りにやるな。私が言う通りにやれ!) *「自分を棚に上げ」説教の定番文句。
2010年04月03日(土) |
And who knows which is which |
一昨日のひどいパニックの後、病院に行くことを決心した。今までそれを論外と考えていたのは、私が医者という人種を全く信用出来ないからだ。
体の医者には長年さんざんひどいめにあってきた。舌根扁桃腺肥大で喉がふさがって苦しいので、耳鼻咽喉科にずっと通って薬をもらっていたら、実はその薬がただの精神安定剤で、喉を腫らす副作用があるとわかったことがある。
ただの単純骨折だったのに、医者が最低限の処置をせずにギプスで固めてしまった為、足の親指がかたわになったし。
13歳で初めて婦人科にかかった時は、自分の体をインターン数名の講習に使われ、耐え切れずに途中で診察を拒否して帰った。一昨年末の卵巣癌も、医者の言うとおりにしていたら、手遅れで死んでいただろう。同じ時に複数の医者にかかれば、必ず違う診断をすることも経験で知っている。
医者なんてどいつもこいつも最低のクズだとまで偏見を持っている私が、精神的な問題で医者を信頼できるわけがない。そしてこの問題ばかりは、信頼関係がないとどうにもならないだろうに。
しかし今回、自分の症状が何なのか訊いてみようと思ったのだ。どうも私の症状は、通常のパニック障害とは違う気がする。特にそう感じるのは、普通パニック持ちは、次にいつまたパニックを起こすかという「予期不安」があるらしい点だ。私は、普段なんでもない時には、もう治ったんじゃないかと思うくらいに楽観的になる。
先生これ何なんですか?―――そう訊いてみようかと思った。
そして何故かそう決めて以来、かなり精神状態がいい。
心療内科をネット検索。荻窪だけでも10件近くもあることに驚く。
某個人医院に電話する。かなり鳴らして、時間外かな?と思った頃に女性が出た。一瞬しんと間があってから、「はい」とだけ言うので、民家にでも間違い電話しちゃったかと思ったが。確認してみたらその医院。*医院名はお教えしません。
子供のような声だ。妙に間が空くし、喋り方がかなりおかしい。発声障害がある20歳くらいの子を受付に雇っているのかと思ったら。なんと医者本人。
「初診の予約をお願いしたいんですが」と言ったら、「あのね、初診の方にはね・・・こんなこと言ったらあれなんですけど・・・30分みてもらってるのね・・・飛び込みもね、ありますから・・・どうしても大変っていう方のためにね・・・」と意味不明のことを言い、いきなりくすくすと笑う。
こちらはてきぱきと喋っている。これじゃこちらが医師であちらが患者だ。
とりあえず来週の予約をして電話を切り、夜になってから「申し訳ありませんが都合が悪くなりましたのであらためます」とメールした。
精神科の医者が精神を病む例はよく聞く。心療内科も同じなのかな。
なんだか馬鹿らしくなり、おかげでさらに元気が出る。
もし今のこの調子の良さが、病院に行こうと考えたおかげならば。実際に行って失望した場合(その可能性は高いと思う)、また不調になるか、もしくは反動でさらに悪くなることもあり得る。
だったら一旦、棚上げにしようか。いつでも行けるんだと思って。
そしてもし行くとしたら、なるべく個人医院は避けよう。医者が一人静かにおかしくなっているかもしれないから。
やっぱり人間って、あまり一人でいないほうがいいんだろうな。
And who knows which is which (どっちが患者だかわからないな) *Us and Them / Pink Floyd (1973) の歌詞。
2010年04月01日(木) |
It'll work itself out fine. All we need is just a little patience |
先週木曜、シャワー中にひどいパニックを起こし、何とかギリギリに身支度をすませて、何事もなかったかのように明るく授業をした。それからの一週間がひどかった。毎日毎日、動揺を抱えて眠り、不快とともに目覚める。喉が腫れている。
簡単にまとめて言うが、地獄の一週間だった。今朝が最悪で、母親に電話して泣いた。
喉元過ぎてしまうと、自分でも気のせいだったようにすら思えるのに。パニックの最中には、これよりひどい不幸があるなんて信じられなくなる。
仕事や人間関係の不幸がなんだっていうんだ。その気になれば捨てられることのどこが不幸? 私の不幸は自分の中にあって、どうやっても逃げられないのに。アル中?ヤク中?ホームレス? 全部好きでやってるんでしょう? 自分のせいでしょう? そう言いたい気分になる。
もっとも、確かにこれよりひどい状態はいくらもある。例えば私は、失明には到底耐えられない。だがどうして私が、目が見えないことをそこまで耐え難く思うかというと、失明という閉所に閉じ込められたらパニックを起こすからだ。多分もう終わらないパニックを。
でも。
逃げられない不幸以上の不幸がひとつある。「終わらない不幸」だ。
私は、パニックの進行を恐れる一方、いつか治るかもしれない望みもある。少なくとも喉元過ぎた時は、毎回そう思う。
でも世の中には、変えられない、終えられない不幸がある。
雅樹は、半身不随という一生治らない障害を背負って、そのせいでパニックも起こすんだという。
だから私は、パニックの最中にしょっちゅう彼を思い出す。私の苦しみは、彼のに比べたら遊びだ。
私の苦しみは、終わる可能性がある。彼に比べれば、ふんだんにある。
だから。
まして、いつかは終わることがわかっている苦しみなら、どうってことないでしょう?
It'll work itself out fine. All we need is just a little patience (時が解決してくれるから、もう少し我慢して) *Patience / Guns N' Roses (1989) の歌詞。
2010年03月28日(日) |
I never never ever ever tell no one |
私は片付け魔である。だが同時にPC中毒でもある。で、ふと気づいたら、PCのブックマークにリンクが587個たまっていた。個人サイトは10ヶ所のみ。音楽関係と英語関係が多い。
・・・見えないからって油断していた。片付けなくちゃ。
ということで。3時間がかりで247個に減らす。要するに殆どをクリックしてみて要るかどうか判断したのだ。さすがにこれだけあると、リンク切れもいくつかある。
しかし3時間。PC中毒と片付け魔が合わさって、たいした時間の無駄である。
PCは本当に時間を食う。例えば私は買い物は殆どネットでするが、何を買うにしてもPCの前でえんえんと検索して悩んでいられるのだ。数百点〜1,000点くらい画像を見るのはよくあることだし、そのひとつひとつに関しても詳細やらレビューやらを見始めたらもう数日がかりになる。
PCに費やす時間は減らしたほうがいいとはずっと前から思っている。だから一度日記も止めた。が、結局再開したし、いずれにしろずっとPCの前にいて、電源は寝ている間も切らない。・・・何とかしたほうがいいよなあ。
が、一方の片付け魔は直すつもりはない。これは私の趣味である。私は結婚していた頃、ダンナに激怒した時などに、突然引き出しの中を片付け始めることがあった。そうすると非常に気分が落ち着くのだ。何故引き出しかというと、見えているところは既にきれいで手のつけようがないので、収納の中をさらに整理するのだ。
ごくまれにだが、片付けられない人間が、私の部屋を見て非難することがある。片付いている部屋から勝手に自分への非難を感じ取り、「こんな部屋じゃ落ち着けない」とか、「もっとゆるくてもいいんじゃないの」と反撃するのだ。
大きなお世話である。個人の部屋の整頓に、一般の基準を考慮しろと言うのはファッショだろうが。私は他人の部屋がどんなに散らかっていても平気だし、まして片付けろなんて言わない。(片付けさせて欲しいなあとうずうずすることはあるw)
私は自分が度を超えた「片付け魔」であると認識し公言している。これはただ私がそういう習性の生き物だということで、アライグマが洗うのと一緒だ。
ファッショな奴らは、アライグマが幸せそうに洗っているのを見ても文句をつけるんだろうか。
すっきり片付けたくて色んな物を捨てちゃって、後で後悔することもしょっちゅうだが。
アライグマという生き物は、洗っちゃいけない食べ物を与えてもとにかく洗ってしまうらしい。洗ってなくなっちゃった食べ物を見て悲しくなっても、次回もまたやっぱり洗ってしまうんだろう。
私は、そういうアライグマが好きなんだ。
I never never ever ever tell no one (私は片付けろなんて誰にも言わない) *Washing Machine(ひたすら洗う生き物) / Sonic Youth (1995) の歌詞。
2010年03月26日(金) |
Swimsuit Issue |
我が家は収納の中まできれいに整頓されているので、どこに何があるかも隅々まで把握できている筈だったが。
先週、クローゼットの、手の届かない棚の上に、水着を発見。セパレーツのフィットネス水着で、2002年にジム通いをしていた時のものだ。今後着る機会なんてあるかな・・・と思いかけてすぐ気づく。今の私はハラに20cmの傷をかかえる身なんだから、セパレーツなんて着られるわけないじゃないか。
いったん捨てかけたが。ふと、そうだオークションに出してみようと思った。前から1円出品というのをやってみたかったのだ。これなら本当に1円で落札されてもかまわないし。
しかし中古水着なんて中古下着と変わらない。私自身は買うのはごめんだ。こんなのが売れるんだろうか。
・・・売れた。本日オークションが終了したが。入札が13件あって、4,200円で落札された。・・・男性に。
実は最初に入札したのも男性で、入札者の半数以上が男性。
・・・んーと。えーと。
・・・・・ま、いっか。
今回初めて知ったこと。ヤフオクに水着を出品する歳には特別条項があって、そのひとつは「人物が着用している画像の掲載は禁止」だ。
水着問題は色々とアレらしい。
今日は髪をまた3cmカットした。実は先週の土曜も3cm切ったので、トータルで20cm以上は切ったことになる。(依然としてロングだが)
いきなり切りまくってるのは、先週金曜にカラーをしたら、びっくりするほど傷んでしまったからなのだが。しかし、切って段を入れながら、この先のトータルイメージがしっかり定まってきたので、逆に私の未来は明るい。
・・・とりあえずビジュアル的には。
Swimsuit Issue (水着問題) *Sonic Youth の曲。(1992)
前の日記へ |次の日記へ