2010年02月15日(月) |
Let me kiss your mouth. |
深夜2時にけいとさんからメール。以前に英語劇でサロメを演じたことがあるが、セリフはこの一行しか覚えていないという。
Let me kiss your mouth, Jokanaan.*
すぐさま、「『お前の口に口づけさせておくれ、ヨカナーン』ですね」と返信。オスカー・ワイルドの「サロメ」を読んだのは実に23年前だが、今も頭に残っている。このセリフはその後すぐきっぱりとこう変わる。「あたしはお前に口づけするよ、ヨカナーン」(福田恒存訳)
翻訳もの独特の味わいがある訳だ。
*原文=Let me kiss thy mouth, Jokanaan.
「あたしはお前に口づけするよ」
思えばこの台詞は、結構私の頭の中にしっかりと刻まれていた気がする。青臭い男の子の襟首をひっつかんで唇にキスしてやりたいという気分は、ここらから生まれたのかも。ヨカナーンはサロメよりずっと年上だろうが、私が若い男の子を思い浮かべるのは、単に逆らえない相手という連想か。
以前に天使(b)が、シド・ヴィシャスがしていたような南京錠付のチェーンをよく首から下げていたけど、あれはそういう意味ではそそられる。ぐいっと引っ張り寄せる為にあるように見えるから。
最近ずーっと自分の中に、「エロ」が欠落していたけど。妙なことで軽くスイッチが入ったな。
とはいえ寒いんだ。今が夏なら、肌もあらわに出歩きたい気分だけど。寒くてすっかりうちにこもってしまっている。
やっぱりまずはこの長い髪を切って、少し行動しやすくしようかな。サロメはロングヘアのイメージと思いきや、ビアズレーの挿絵を見てみたら、私の半分の長さもない。もっとも私の髪は、半分切っても充分ロングなんだけど。
Let me kiss your mouth. (あんたにキスさせて) *Salome / Oscar Wilde (1891) の台詞。
2010年02月14日(日) |
the most expensive city in the world |
あれは2/1のこと。さあ今日も張り切ってお仕事!とやる気に満ち溢れていた私に、マンションの管理会社から電話。「3月に契約更新です」
げっ。
ああそういや2年前にドロボーが入って、その時契約更新の為に珍しく多額の現金を家に置いてたにも関わらず何ひとつ盗られなかったんだっけ。ってことはあれから2年。そうか。更新だな。うんうん。
・・・うん。(泣)
忘れてた更新なんて、災害も同然だ。家賃ひと月ぶんと保険料、合わせて9万円払えって。
実は年金の未払いぶんが10万円ちょいあって、4月が納付期限なので、それに向けてちまちまやり繰りしていたのだ。ちょうど寒い時期だし飲みにも全く行かず、おかげで何とか払えそうだわ、と思っていた矢先の「更新」。
通り魔にあった気分だ。
更新通知の来る少し前に、CNNのニュースで「世界で一番生活費のかかる都市はどこでしょう」というクイズをやっていて、答えが東京だったので驚いた。まさか世界一とは。私騙されてたんだわ、という気分になってくる。
インターネットのおかげで地方でもモノと情報が中央と変わらず入手可能な今、都会の唯一の利点は、コンサートや観劇などが出来るということだろうが。最近どんどん出不精になり、今は寒さもあって全く家から出ない私が、世界一高い生活費を払う理由は何なんだ一体。(ライヴを観た回数は、2003年は37回→2009年は9回)
引越したくなってきたな。私の仕事なんて、日本中どこにいたって出来るんだし。私の生徒は遠くから通って下さる方も多く、特に埼玉から通う生徒が多いので、だったら私が埼玉に行けばいいんじゃないかと思ったり。何かのライヴの時だけ電車に乗ってくりゃいいし。(今はさいたまスーパーアリーナもあるし)
まあとりあえず眼の前の危機を乗り越えねば。とは言いつつ、実は私は、お金ないからちまちま節約するっていうのが結構楽しかったりする。
というわけで。今年のバレンタインは、人生初かもしれない「誰にも何一つあげないバレンタイン」となった。昨年末からは、あえて何もないクリスマスとお正月を過ごしたので、バレンタインもそうしようかとは思ってはいたが。理由を「ビンボー」にすると、何か楽しい。
the most expensive city in the world (世界一金のかかる都市)
2010年02月11日(木) |
Mixing memory and desire. |
私は以前この日記に、私の中にくっきり刻まれている二つの名前は、キルゴア・トラウトとシャロン・リプシャツだと書いた。前者はカート・ヴォネガット、後者はサリンジャーの作中人物だ。しかし前者は当然としても、後者のシャロン・リプシャツは実際にストーリーに登場すらしない。だが、忘れがたい名前という意味では、"How that name comes up. Mixing memory and desire."というセリフと共に記憶されるべきではある。
この世には、"Catcher In The Rye"の読者と、J・D・サリンジャーの読者がいると思う。そして、サリンジャーの読者の多くが心にとどめている名前は、「シーモア・グラース」だろう。
See more glass.
サリンジャーが亡くなった時、誰かがブログに「自殺しなくてよかった」と書いていた。サリンジャーとシーモアを重ね合わせていたのだろう。
私もずっとシーモアとサリンジャーをだぶらせていた。設定上では、作家であるバディ・グラースがサリンジャーの分身に見えるにも関わらず。
思えば読者は、サリンジャーとシーモアに裏切られてきた。まずシーモアは、最初に登場する作品で、何の手がかりも与えずに死ぬ。その後の作品でも、「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」はシーモアの結婚式の話なのに、当のシーモアはそれをすっぽかすので、登場しない。「シーモア ―序章―」では、バディがひたすらシーモアを思い出して描写するのみ。「ハプワース16、1924」は10歳のシーモアが書いた手紙である。
要するに私たち読者は、最初に突き放されたまま、殆どまともにシーモアという人間を、三人称の「神の視点」から眺める機会を与えられていないのだ。
次の裏切りは、サリンジャーの事実上の断筆だ。グラース・サーガはもっと書かれるべきであった。明らかに、そう見えた。同時に、あまりにも多くのことがらを隠し含んでいるように見えるので、語られずじまいになるという暗示だらけにも見えた。サリンジャーがどういうつもりであったかわからないが、結局は語られずに終わった。
今は亡きシーモアは、何を考えていたんだろう。この疑問が、サリンジャーが亡くなった時にふと、「サリンジャーは何を考えていたんだろう」という疑問に取って代わったが。
「テディ」という短編の神童テディも、シーモアに重なる。しかしこの少年もまた死ぬ。何故サリンジャーは、明らかに自分の理想像であったものを殺し続けたんだろう。
―――が、実際そんなことはどうでもいい。私は、これほどサリンジャーの作品を愛しながら、彼の生い立ちすらろくに知らないのだ。
サリンジャーは、"A Perfect Day For Bananafish"で、いきなりシーモアという人間を私たちに投げつけ、取り上げた。だからあの作品は、単独で判断するのが正しいと信じる。あれは、ゆるやかに始まった緊張が次第に膨れあがり、最後の一行でぶち切れるという意味で、一級のサスペンス小説であり(私はこの言い方が文学作品を貶めるとは微塵も考えない)、同時に詩のように美しい。
私にとっては、あの、唯一の三人称で描かれるシーモアだけが本物のシーモアであり、後は全てバディの記憶の中の印象からつくられたシーモアだ。実際そのふたつの像はあまりに異なる。
作品は私たちの――私のものであり、だから私は、サリンジャーが何を考えていたかを探る必要はない。私は、やはりシーモアが何を考えていたかだけに的を絞ればいい。
しかし実際は、それすらしないままで、あの作品は充分に美しいのだ。
シビル・カーペンターがふと持ち出す「シャロン・リプシャツ」という名前。それにたいしてシーモアが言う"Mixing memory and desire."はエリオットの「荒地」からの引用らしい。四月を形容しているその表現がこの名前にどう関連づけられるのか全くわからないが、私はこれをシーモアだけがわかっていればいいことだと受け取った。
シャロンに嫉妬するシビルは、幼女だが既に女である。名前だけのシャロンは、ただ美しくピアノの横に座る。思い出と欲望をない交ぜにして。
Mixing memory and desire. (普及訳=記憶と欲望を混ぜ合わせ) *The Waste Land / T. S. Eliot (1922) の1節。
2010年02月08日(月) |
it warms me well |
朝起きたらエアコンが壊れていた。いや、正確に言うと、朝7時半に寝て、昼12時に起きたら壊れていた。他に暖房器具はない。2005年にはエアコンのリモコンが壊れた時に買った電気ストーブがあったが、室内の美観を損ねるのでその後捨てちまったのだ。
寒い。
エアコンはマンションの備品なので、管理人に連絡する。折り返し電話を待つ間が寒い。意味もなくお湯で手を洗って温める。いつもいつも思うが、蛇口をひねればお湯が出るというのは、「望外の幸せ」だ。
熱いコーヒーを入れて飲み、ふとガスコンロをふたつとも点けて手をかざしてみる。・・・暖かい。
蛇口からはお湯が出て、スイッチを入れればコーヒーが出来上がり、コンロには瞬時に火がつく。寒いが、なんだかんだと暖かい。逆に有難い気分になる。
2時間後にようやく管理人から電話が来て言うことにゃ、サンヨーのサービスセンターが予約でいっぱいで、修理に来るのが一週間後だとか。げっ。
サービスセンターから連絡電話が来たので、哀れを誘う声で「うち他に暖房器具ないんですよぉ。何とかならないですかねぇ(泣)」と言ってみたところ、では明後日うかがいましょうとのこと。世の中はこのように、ちょっと抵抗してみると割とすんなり要求が通ったりする。
しかし。今日の寒さ(最低気温1度)では、暖房器具なしでは一晩たりとも無理だ。なので駅前へストーブを買いにいったところ。なんと電気ストーヴが1,470円。色もベージュで、茶で統一した我家に合う。「・・・助かります」と店員に言う。
帰りに、「シェフに挨拶」する。
私はいつも、うちから1分の「意味がわからないくらい安いスーパー」でお弁当(299〜360円)を買うのだが。今日初めて、お弁当を並べていた年配の女性に話しかけたのだ。前からよく見かけていたが、聞けばやはりその人が全部つくっているとのこと。「あたしはお料理が好きで。毎日頭ひねって何つくろうか考えてるんですよ」と言う。確かにここのお弁当は、日本蕎麦にゴーヤチャンプルをからめた焼き蕎麦(?)だの、この激辛に強い私(200倍辛でも平気)が「辛!」と思うくらいの殺人的に辛い(しかし美味い)キーマカレーだの、ちょっと変わったメニューが並ぶこともある。
「私、殆ど毎日ここのお弁当食べてます。安くて美味しいんで。もう何年にもなります。いつもご馳走様です」と言ったら、喜んでくれた。
私は一日1〜2食だが、その殆どが彼女のつくったものなのだ。こりゃもう、「お母さん」みたいなもんだよなあ。
深夜(私にとっては夕方)に、スーパーの「お母さん」手づくりのホウレン草のパンキッシュを食。美味。1,470円のストーヴは思いのほか強力で暖かい。
実は。今日は嫌なことがあったんだ。
でも私はいつも嫌なことがあると、それを話せる相手、慰めてくれる相手がいることを確認して、かえって嬉しくなることすらある。今日の「嫌なこと」自体は母にしか話していないが、エアコンが壊れたことは2、3人に慰めてもらった。とりあえずそれで充分だ。
暖かいし腹いっぱいだし。「エアコン壊れて大丈夫?」ってメール来てるし。
かなり幸せだと思う。
it warms me well (あたたかい)
2010年02月05日(金) |
the raccoon replaced the fox |
母が仕事(弟子の名取式)で東京に来たので、赤坂のホテルで会う。母が、「お母さんもうすぐ誕生日だから、一緒に会ってお食事して、お小遣いあげるわ」と言ったのだ。・・・相変わらず何かが間違っている。誕生日祝いに私が食事をおごると言ったが、絶対に承知しないし。
今回母に、ダイヤの指輪とネックレスを持ってくるよう頼んでおいた。2年前にうちに泥棒が入り、結局何一つ盗られなかったのだが、そのことがあって家に高価なものを置いておくのが嫌になった私が、ダイヤを2点、母に送ったのだ。(総額50万弱を、簡易書留で送ったw)
その時は譲ったつもりでいた。しかしあれから2年、聞けば母は全然使っていないという。なので、要らないなら持ってきてくれと言ったのだ。
ところが。
持ってきたものを見ると、指輪はいいが、ネックレスがチェーンしかない。ダイヤのペンダントトップがないのだ。母曰く、「いつの間にかなくしちゃったみたい」って。
・・・あれ、22万円ですけど。落としちゃいましたか。そうですか。
まあ、母に譲ったつもりでいたし、そもそも母が買ってくれたものだ。
・・・けど22万円。・・・盗まれるのがいやで譲ったのに、失くすって。
・・・ま、いっか。(うううう)
母が、「これいらない?」とラクーンの毛皮付のコートを見せる。副業で経営しているブティックから持ってきたのだ。「高いからいらない」と断る。今日着ているブルーフォックスの毛皮付コートになんとなく似ているし。これも母のブティックからもらった品だ。
母はいつも私に高価なものをくれたがり、いつも私が「高いからいらない」とにべもなく断るというおかしなことになっている。(一方私はヤフオクで200円で落札した服を着ていたりする)
しかし聞けばもう店には戻せないという。「・・・じゃあもらおうかな」と言うと、とたんに顔を輝かせる母。羽織ってみたら、「可愛い」と大絶賛。私が帰る時も、そのコートを着てホテルの廊下を歩いていく私を、部屋のドアを開けて「すごく似合っている」と満足そうに見送っていた。
・・・おかーさんって、おかーさんって、ほんっっとに私のことが好きなんだなあ。
昔は母の親馬鹿っぷり(他人に「うちの娘、美人でしょう?」と真顔で言うなど)に激怒して、しょっちゅう大喧嘩していた私だが。
最近は、誰かにこれだけ愛されているというのは単純に有難いなあと思う。
私という人間は、要するに生まれてからずっと、誰か(元ダンナとか)に愛され甘やかされてきたのだ。しかし、母が群を抜いたトップであるのは間違いない。
ずっと反抗的な不肖の娘だったので。いつかTOEIC満点でも取って、たまには自慢出来るようにしてあげたいと思うが。多分今でも充分自慢なんだろうな。(親馬鹿なんで)
the raccoon replaced the fox (狐をアライグマに着替えて)
2010年02月03日(水) |
But spare a thought as you pass him by. Take a closer look and you'll say |
昨日の日記を読み返して、気分が暗くなった。あれを書くと、どうやっても私自身が同じ次元に落ちるからだ。
だから大部分消す。何を書いているかわからなくなるだろうが、もういい。
昨日からずっと、ジューダス・プリーストの"Epitaph"を繰り返し繰り返し聴いて、めそめそしている。あの記事を読んでうんざりした気分――もう少し他人に対して礼節をわきまえてくれとでも言いたいような気分を、これが浄化してくれる気がしている。
このピアノは、グレン・ティプトンが弾いているのか? 硬いがつがつした演奏で、まるで自分が弾いているみたいだ。私はピアノのこういう弾き方が好きなのだ。実際10代の頃はよくこれを実家のピアノで弾いていたが、今はきれいさっぱり忘れた。
まる一日あまり"Epitaph"を聴いた後で、何故ほかでもないこれを聴いているのかがようやくわかってきた。私は、何か、愚かなほどに誠実な音を聴きたかったらしい。
ツェッペリンの曲が小賢しく聞こえてしまうほどの精神状態なんだ、今は。ロバート・プラントの声に、計算した色気を嗅ぎ取ってしまうくらいの。
この曲は、後半のコーラスが少々やり過ぎの感があるし、歌詞は字だけで読むと、よくある「老いの悲しみ」という感じだ。だが。
But spare a thought as you pass him by
Take a closer look and you'll say
He's our tomorrow, just as much as we are his yesterday
この部分のロブ・ハルフォードの歌がいい。一行目の"B"や"P"の音の、すぱんと手放すような率直さ。余計な力を入れて「堂々と」歌い上げたりせず、ただ心をこめて丁寧に歌っている。
このひとがファンに愛されている理由が、これだけでもよくわかる気がする。
このひとは、音楽に対して真面目なんだ。
で、私も真面目なんだよ。間違う時も、罵る時も、驕る時も、恥じる時も。それでまだずっとめそめそしているから。
今は、こういう混じりけのないものがこの世にあることを、繰り返し確認していたい。
But spare a thought as you pass him by. Take a closer look and you'll say (他人のことをもう少し考え、よく見てみればわかるはずだ) *Epitaph / Judas Priest (1976) の歌詞。
サリンジャーにかこつけて唐沢俊一を非難した記事を発見。サリンジャーが亡くなった悲しみより唐沢への憎悪が先だつらしい。「お前」呼ばわりし、「頭が悪すぎる」と罵るなど、品性と知性に欠ける。
唐沢を糾弾する為のブログもリンクしてある。よっぽど暇なのか。もっと社会的な不正に目を向けてはどうなんだ。唐沢俊一なんてそこまで大きな存在じゃないだろう。無視できないのか?
叩きやすい「悪人」を叩くことで自分が正義である錯覚に陥り、勝手に「被害者」に代わって憤慨することで恍惚となる。他人を引きずりおろすことでしか自分の位置を上げられない。
私憤をはらすのにサリンジャーを利用しないで欲しい。誰かを公衆の面前で貶め、「土下座しろ」と要求するような真似をサリンジャーが喜ぶと思うなら、それこそが彼の作品を読んでいないということだ。
静かに悲しませてくれ。こんな展開は、あまりに醜い。
*この文章は、最初に書いたうちの8割以上を翌日削除しました。
ugly (醜い)
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