Rocking, Reading, Screaming Bunny
Rocking, Reading, Screaming Bunny
Far more shocking than anything I ever knew. How about you?


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*名前のイニシャル2文字=♂、1文字=♀。
*(vo)=ボーカル、(g)=ギター、(b)=ベース、(drs)=ドラム、(key)=キーボード。
*この日記は嘘は書きませんが、書けないことは山ほどあります。
*文中の英文和訳=全てScreaming Bunny訳。(日記タイトルは日記内容に合わせて訳しています)

*皆さま、ワタクシはScreaming Bunnyを廃業します。
 9年続いたサイトの母体は消しました。この日記はサーバーと永久契約しているので残しますが、読むに足らない内容はいくらか削除しました。


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2008年12月27日(土)  You should see my scars

朝、初めて傷を見てみる。術後は複帯(ふくたい)を巻かれているが、一日に何度も看護婦に傷を見る為に開かれてはいる。その時一緒に見ないのは怖いからではなく、頭をもたげてハラを見るには腹筋を使うからだ。痛くて出来ない。もうひとつには、とにかくハラの中が痛くて辛くて、表面の傷どころではなかった。内部の痛みがひどくて、傷の痛みなど全く感じないし。
鏡の前に立ち、腹帯を外してみる。腰周りが久しぶりの外気にひやっとして、心もとない。
おへその2cm上から、下に切れるぎりぎりいっぱいまで、20cmあまりの傷。糸でなくホッチキスで留め、10ヶ所ほどテープを貼っている。おへそのところで左に迂回し、そこのところの皮膚が少し膨れ上がっている。
特にショックもない。まだ、見ているものがよくわからない。これからまた状態も変わるだろうし。
ガービッジの歌詞が頭をよぎる。今日のことを日記に書く時は、これをタイトルにしてやろうと考える。
これまで冬でもハラの出る服ばかり着ていたのに。これじゃ服が全部着られなくなるじゃないか。
パンクスの女で傷跡を勲章のようにさらしてる奴っていそうだな。いや、実際にいなかったっけ。何かでいきがりたいとしたら、でかい傷跡なんていうのはなかなか勝てるものがない。でかい刺青だって本来は似たような心理なんだし。
シャーリーに、ずっと自傷癖が取れないらしい彼女に、彼女の書いた歌詞を添えてこの傷の写真を送ったら、どう感じるだろう。

ようやく今日から、水を飲んでいいと言われる。「ブラックコーヒーもいいですよね?」と半ば無理やり確認。
点滴を引きずって、地下の自販機コーナーまで飲み物を買いに行く。実は既に手術の翌日、看護婦に少し歩かされ(看護婦曰く、卵巣腫瘍の手術をした同僚看護婦が「翌日歩かせるのは鬼だ」と言っていたとか)、その後もなるべく歩くようにと言われているのだ。中腰でしか歩けないので、痛いだけでなく非常にしんどいが。歩いた方がいいと言われてるんだということを頼りに歩く。
自販機コーナーに、手術前日に私に点滴を2度失敗した例のハンサムな医者がいて、飲物を買ってパンを食べていた。食事時間もないと見える。「先日は失礼いたしました」と頭を下げる。「色々と気が立ってましたので」と。医者は立ち上がり、恐縮して「いえいえこちらこそ」とさんざん謝り、私の体調を訊いたり、私の買った飲物を取ってくれようとしたりする。元々やさしそうなタイプではあるのだ。「最近注射が上手くいってたんで調子に乗ってたんです」と言う。・・・正直だなあ。

病室に戻り、半ば考え事をしたままでミネラルウォーターを口にした途端に、冷たい水がすとーんと胃に落ちてびっくり。何しろ4日半ぶりに胃にものを入れたのだ。思わず「・・・おお、悪い悪い」と自分の体に謝る。
その後コーヒーも飲むが、あまり入らない。

今日から食事と言われたので、昼に期待して待っていたら、結局夕方からだった。入院以来今朝まで全く食べたいという気も起きなかったのに、この昼から夕飯の時間までに相当おなかが減る。
ところがようやく来た流動食メニューが、糊のような十分粥、具のない味噌汁、ピーチジュースまではいいとして、チョコレートアイスクリームって・・・。粥と味噌汁の熱さの後に、アイスの冷たさを胃に入れたものだから、あっという間に腸がぎりぎりと痛み出す。母親の見ている前でいつまでもいつまでも激痛でうなり続け、とうとう母にしばらくコーヒーでも飲んでくるよう言う。

この日母に、私の傷を見てみるかと訊いたら、案の定「怖いからいい」と言われた。
そういうの、愛情があるっていうの?
(1/31up)

You should see my scars (私の傷を見てごらん)  *Bleed Like Me / Garbage (2005) の歌詞。



2008年12月26日(金)  no Christmas, no womb, no ovaries

元ダンナ(b)から昨日も今日も心配したメールが来ている。その日付を見て驚く。「いつの間に26日になったの」と返信。

入院してからまだ水一滴飲んでいない。なのに、ずっと点滴しているせいで一日に十数回もトイレに行く。少し溜まっても膀胱が痛むせいもある。
体を起こすだけで重労働だ。リモコンでベッドを起こし、横を向いてから先に足を下ろし、腕の力で何とか上体を引き上げる。・・・どうやったって結局は激痛に見舞われるんだけど。中腰で、個室内のトイレまでの長い旅をする。座ることが既に痛い。排泄自体が痛い。

昨日、最初にトイレに行った時に出血があったので、てっきり生理が来たものだと思い込んだ。私は術後、何がどうなったのか、全く聞かされていなかったのだ。
それで母に生理用品を買ってきてくれるよう頼んだ。そしたら母が、病室に来ていた医者に、「全部取ったのに、生理があるんですか?」と訊いたのだ。
・・・ああ、そうなんだ。私、子宮も卵巣も取られたのか。
そしてそれをこんな風に知らされるのか。

子供の頃から子供を産む気がなかった。でも、いくら片づけ魔の捨て魔だからって、要らない臓器まで捨てることはないだろう、などと考える。
子宮はまだいい。だが、卵巣がないと女性ホルモンがつくれないんだということに気づいたのは少したってからだ。卵巣腫瘍がわかってから入院まで5日もなかったので、何も前もって考える時間がなかった。
(1/28up)

no Christmas, no womb, no ovaries (クリスマスもなければ、子宮も卵巣もない)



2008年12月24日(水)  went into surgery

10時過ぎに、いきなり今日手術することになったと言われる。慌てて生徒全員に年内の授業が出来なくなった旨のメールを送るが、一人だけ携帯に連絡先が入っていない。しかし幸い彼女だけはこの日記を読んでいるので、携帯から日記に「本日緊急手術することになりました。生徒のXさん、携帯に連絡下さい」と書き込む。
着圧ストッキングをはかされ、爪を切らされ、待っていたら、12時前に「時間が空いたので12時から手術します」と言われる。

搬送用ベッドに寝かされ、両親に付き添われて、隣の病棟まで随分と長い移動。エレベーターの振動が体に響いて痛い。もうすぐ手術室という時に、ふと思い出して母に「あのね、ネットで買物した荷物が二つ届いてた筈なの。不在票が入ってる筈だから、うちに行った時に再配達依頼しといてもらえる?」と頼む。
万一私が手術中に死んだりしたらこれが遺言になるのか、などと考える。
ああ、不思議なほど怖くないな。

手術室に入る。さすがに緊張する。左右からわらわらとスタッフが寄ってきて、いちいち自己紹介する。ああ、どうも。お名前覚えてられませんけど。
手術台に寝かされ、髪の毛をまとめられ、麻酔。



夢は、目覚める直前につくられることがあるという。例えば登山の夢を見ていて崖から落ち、実際にベッドから落ちて目覚めるのは、ベッドから落ちかけた瞬間に登山の夢を全部つくるんだと。
私はPCの前でメールチェックをしていた。次々にメールを開いていたら、そのうちのひとつのメールが、私に声を出して呼びかけてきた。私の本名を呼んだ。何だこれ、と驚いていたら、もっとはっきりと大きな緊迫した声で名前を呼ばれた。そこで思い出した。やばい、私手術してたんだ。実際に名前を呼ばれてるんだ。終わったんだ。まだ目覚めなきゃよかった。まだ心の準備が出来てないのに。まだ。


痛い。

なんだこれ。痛い。おなかの中が痛い。痛い痛い痛い。嘘でしょ。こんな。
激震、と言いたいような痛み。目を真ん丸にあいて、顔をしかめることすら出来ない。何かをこらえる時に力を入れる筈のハラが、まさにそこが爆発するように痛いので、痛みにまったく抵抗出来ず、体の中心をつらぬく痛みに蹂躙されるままになる。
両方から数人のスタッフに抱えられて、隣の搬送用ベッドに戻される。痛い痛い痛い痛い。ガラガラと搬送されながら、あまりの痛みに驚く。驚きのあまり、何かを確かめたくなってハラに思い切り力を込めてみる。当然激痛がくるかと思ったら、全く何も感じない。痛みが既にマックスに達してるんだ。

病室へ。今度は個室だ。痛くて周りがよく見えない。
下腹部に間違いなくブロックが一個乗っている。はっきりと長辺の角が食い込んでいる。
天使のように可愛い声の看護婦さんが来て、大丈夫ですか?と訊く。「痛いですか? 痛いですね」と切なそうに言う。痛くて声が出ない。

痛くて時間の経過が判らない。いつの間にか夜になっているらしく眠れといわれる。何かの薬のせいなのかどろどろとした眠気もあり、それがずっと痛みと競い合っている。しょっちゅう看護婦さんがやって来て、天使のような声で「横を向きましょうね」と体の向きを変えさせる。そのたびにひどい激痛が走る。が、どっちにしろ痛いので同じだ。

痛い。呆れるほど痛い。悲しいほど痛い。痛い。
(1/27up)

went into surgery (手術)



2008年12月23日(火)  went into hospital

救急車っていうのは、苦しんでいる人間を楽に運んでくれるものかと思ったら。薄くて硬くてガタガタのベッドに座らされる。急いでいて運転が荒いので、振動が体にがんがん響く。見れば横に作り付けの快適そうな座席が。「そこに座ってもいいですか?」と訊いたら、そこは救急隊員の座るところだから駄目だという。ああそう。
杏林大学病院へ。医者が来るまでしばらく一人きりで待たされる。ぎりぎりと痛い。妙に喉が渇く。痛みが何故か左から右へ移ってきている。
ようやく、若い当直医がやってくる。PCの方を向いたままで私に挨拶をし、何をしていて痛み出したのかと訊く。「バンドのリハで歌ってたんです」と言うと、全く興味なさそうに「なるほど」と言い、PCに書き込んでいる。
その医者が内診をする。痛い。そのまま待たされて更に別の医者が内診。痛い。痛みが胸まで上がってきている。内診が終わったら、高く上げてある診察台を下げる筈が、そのまま「はい、降りてください」と言われる。抗議しようにも喋るのも辛く、そのまま飛び降りる。下から激痛が走る。
またしばらく一人きりで待たされる。看護婦がぞんざいにそこらにかけた私のコートが床に落ちるが、かがんで拾うなんて出来ない。痛くて痛くて涙が出てくる。
ようやくわらわらと人が集まってきて、ベッドに寝かされて心電図など取られる。足を伸ばして横になるよう言われるが、痛くて出来ません。血を採られ、点滴を打たれ、どうこうされているうちに痛みがすうっとおさまってきた。助かったという思いで、ほのぼのと幸せにすらなる。ハラの中にまだ痛みはあるが、先ほどまでの人前で泣くほどの激痛に比べたら。

親に連絡を取るよう言われる。今日にでももし手術となった時に、万一私が死んだら困るので、ということだ。7時前に母に電話。
病室に移される。二人部屋。病室内は携帯電話の使用は禁止だが、こそこそと今日授業の生徒にメールし、授業が出来なくなった旨を伝える。明日の生徒にはどうなるかわからないとメール。
実は痛みが治まったのを見た医者が、「・・・だったら一旦帰ってもらっても」と言い出したのだ。腫瘍は捩れやすいので、捩れて痛んでいたのが、元に戻ったのかもしれないと。
何もせず様子を見ている理由は、今日が祝日で担当医がいないということもあるらしい。ああそう。

疲れた。休みたいが、横になっていると看護婦がひっきりなしにやってきては色々したりさせられたりする。この書類に署名しろだの、体温を測れだの。
血圧を測りに来た看護婦が、測定器を私の腹の上にぽんと置いたのには呆れた。

今日は水一滴口に出来ないと言われる。食べられないのはなんとも思わないが、飲み物も駄目なのか。さっき異常に喉が乾いていた時に、水をもらっておけばよかった。

15時頃に両親が到着。
右腕の点滴の針がずっと痛いので、看護婦に言う。若くてハンサムな医者がやってきて、左腕に刺し換えようとするが。ぐいぐいと刺した挙句、失敗したらしくパッチを貼り、無言で右腕をぐいぐいぐいと痛めつけてまた失敗、更に無言でパッチを貼る。更に黙ってもう一度やろうとしているのを見て、「もういいです」と言う。
ここに至ってとうとうちょっとキレたのだ。今回のことがあって以来、二つの病院でずっと、人間らしい扱いを受けられないことが続いてきた。手遅れかどうかはわからないけど予約がいっぱいだから待てと言われることが二度、腫瘍が見つかったら無神経に「こりゃハラキリだよ」と言われ、痛くて泣いているのに見向きもせずに問診され、診察台から飛び降りさせられ、患部に機器を投げ置かれ、その他にも色々あって・・・もうやだ。
「点滴いりません。っていうか帰ります」と言う。本気で言っているのが私のアホなところだが。しかし本当に帰りたい。ハンサムな医者はうろたえ、細い針に変えるからもう一回だけやらせてくれと言う。私の血管は普通より細いのだ。そんなこと知ってるわよ。だけどぐいぐいと痛めつけた挙句無言で何度もやり直すのがアタマきたんだよ。こっちゃ今普通の精神状態じゃないんだから。
半泣きで「わかりました」ともう一度やらせる。今度はすいっと成功した。

夕方になって初めて、今日はとにかく一泊させられるんだとわかる。慌てて明日の生徒にも授業が出来ない旨メール。
21時消灯。何しろまる二日寝ていないので、23時頃には寝てしまう。
(1/25up)

went into hospital (入院)



2008年12月22日(月)  At five o'clock, siren's getting louder

AM(g)の授業後、荻窪リンキーディンクで19〜22時、SBバンドのリハ。
本日の服装はマウジーのモスグリーンの極薄長袖トップスの上にBA-TSUの極薄半袖を重ね、24インチのマウジーのマイクロショートパンツ、迷彩柄のタイツ、ゴスロリブーツ。痛む腹を押さえつけたうえに、腹が出て冷えるという格好だ。
5分遅れでスタジオ入りしてみたら、MY(b)が誰かと話している。スタジオのスタッフ?と思ったら、なんとKP(drs)がもう到着して!!! ・・・心の底から驚きました。
歌う。後半、ホールの'Violet'のハイトーンが、次いでキルズの'Superstition'の16小節に及ぶシャウトが、ハラに鈍く響きだす。何となく血の気が引く。

リハ後、MYとKPと駅前の居酒屋へ移動。MYにお見舞いでワインを1本頂く。
あっという間に痛みがひどくなる。今寒い中を歩いて帰るのも辛いので、しばらく我慢して半ば無意識に喋ったりしていたが、おさまるどころか気絶しそうになってきたので、徒歩8分の距離をタクシーで23時過ぎ帰宅。すぐにロキソニンを飲む。効くまでの一時間、服も着たまま全く動けずに固まる。救急車を呼ぼうかとも思うが、とにかく動けない。

ようやく薬が効いたので、今日MYからもらった20日のゲリラ演奏のDVDを見る。痛いので集中出来ない。が、何故か「今のうちに見ておこう」という気分。
3時前に早くも薬の効き目が切れ、痛みが戻ってくる。胸が苦しくなり、動悸と吐気まで。MYから来たメールの返信に、「駄目だ。救急車呼びます」と打ったのが3時半。
しかし思いなおして我慢し、4時にアスピリンを飲む。が、全く効かない。

4時55分に119に電話。激痛をこらえつつ、元々ものすごくかたづいている部屋を完璧にかたづけ、今使っていたコーヒーカップを洗う。この日記に「救急車呼びました。万一戻れなかった時の為に書いておきます」とだけ書き、普段なら外出時でも24時間ネットにつなぎっぱなしのPCの電源を切る。
(1/19up)

At five o'clock, siren's getting louder (5時に、救急車のサイレンが近づいてくる)  *Sour Grapes / Honeydogs (2001) の歌詞。



2008年12月21日(日)  I am growing something, but I don't really know what it is

ネット検索で初めて知ったが、正常な卵巣は大きくてもウズラの卵大らしい。それが13cmにまで膨れ上がってるんだ。
そう、13センチ。12日から20日までの間に1センチ大きくなっていた。1月末まで放っておいたら、どれだけ大きくなるんだか。
何より。毎日痛いのに、あと一ヶ月以上も我慢しろってのか。
最初にかかった近所の総合病院からは、鎮痛薬のロキソニンが山ほど出ているが。痛むたびにとにかく痛み止めを飲んでろってのはおかしくないか?

ああ、早く手術してしまいたい。
(1/18up)

I am growing something, but I don't really know what it is (ハラの中で何かが大きくなっている。何なのかはっきりとは知らないけど)  *I Think I'm Pregnant / Soko (2007) の歌詞。



2008年12月20日(土)  Forgotten and absorbed into the earth below

9時半に杏林大学病院で診察の予約。
荻窪駅に向って歩きながら、ささくれだった気分を鎮めるべく、iPodでスマッシング・パンプキンズの'1979'を聴こうとしたら。'Mellon Collie'のアルバムが入っていない。そんな馬鹿な。探しまくるが、ない。聴きたい。今聴きたい。強烈にストレスがつのる。くそ。'1979'の入っていないiPodなんか何の価値があるんだ。
アンプラグト―――あれにも入っていた筈だ。ところが見つからない。かなり焦っていて、3回見直してようやく見つける。
聴く。スタジオ盤と違い、いきなり入るアコギのスチール弦の音にほっとした瞬間、ジミー・チェンバレンのドラムの音が垂直に落ちてきた。うわ、スネアの裏の鳴りがすごい。がっしりと振り下ろしてざらりと鳴る。
自分の鼓動を聞くように、ドラムしか聞こえなくなる。なんて、ひたむきで清潔な音だろう。他の全ての音楽の厭らしさ―――ロックンロールの下心、ブルースの自己陶酔、ソウルの押し付けがましさ、ジャズの気取り、ロックの中の性も愛も全部汚らしいと糾弾するかのように真っ直ぐに叩き下ろす。冷えた体が、一打ちごとに血管を揺さぶられる。
繰り返し聴きながら電車に乗り、ドア際に立って外を見ていたら、不思議な気分になってきた。
実は私は、おととい卵巣腫瘍で開腹手術だと言われた時からずっと、もし死ぬことになっても怖くないなと思っていた。別に死んでもいいや、と。物心つかない子供の頃から死ぬのを怖がって泣いていた私が、いつどうしてそんな心境に変わっていたのか。だが私は、人間が死の恐怖に打克つことは、生きている間の一番の課題だと思っていたから、この気分になれるのなら何よりだ。
だが。電車に乗って外の明るい景色を眺めながら、もしこのまま死ぬんだとしたらと想像した時、かなりの幸福感が湧き上がってきたのだ。はっきりとした嬉しさがあって、涙ぐみそうになった。
―――なんでだ? 別に私は現在の自分に絶望なんかしていないし、それどころか今も私は、自分がおそろしく幸運で幸福だと思っている。「死にたい」とは思わない。思う理由がない。なのに今、死を想像してみて、これほどの嬉しさを感じるのは何故なんだ?
たぶん。ジミーのドラムのせいなんだろう。人は、あんまりにも真っ直ぐなものを目の当たりにしてしまうと、死にたくなったりするんだろう。たぶん。うん。

検査を待つ間も下腹部が痛い。最近はもう毎日痛い。子宮癌検診を受ける。またもあの不快な診察。体が縮こまり息がつまり、医者に質問されてもすぐに声が出ない。機械を入れられたまま、横のスクリーンに映った私の体内を見せられるが、見たくありませんから勝手に判断して下さい。
診察した医者は、「こりゃ手術だね。ハラキリだよ。悪性かどうかはあけてみないとわからないね」と言う。病室予約がいっぱいなので、手術できるのは一番高い個室を選んでも早くて1/25頃。一番安い4人部屋を希望したひにゃ2月末から3月頃になるという。それで手遅れでないのかどうかは、「あけてみないとわからない」のだ。*実は「充実性腫瘍」の8割が悪性であることを、退院後に知った。
採血して、12時前に終了。帰りに吉祥寺駅に向うバスの中で、すでに先ほどの死に対する幸福感がなくなっているのに気づく。

17時にAM(g)と新宿駅で会って押上へ。まずは居酒屋で飲み、18時半にロックバーRock Bottomへ行って、MY(b)のバンドとKP(drs)のバンドのライヴを観る。
最後にうちのバンドがいきなりゲリラ演奏。私はビーフィーターのジン・ロックをがんがん飲んでいてへろへろで、バンドが弾き出すまで何の曲をやるかもわかっていない始末。だが楽しかった。
ひとつ非常に納得がいかないのは、遅刻魔KPが本日一番乗りで来ていたらしいことだ。「どういうことなんですか(怒)」と詰め寄ったが。
実はそんな私は今日、私が遅刻するかどうかに今日のライヴ・チャージを賭けようとAMに言われ、待合せ10分前に到着したのであった。(自分でも驚いた)

今日も早めに、23時帰宅。
(1/16up)

Forgotten and absorbed into the earth below (忘れられ、土に返り)  *1979 / Smashing Pumpkins (1995) の歌詞。



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