ふつうのおんな

2018年03月11日(日) 突然思い立って

自分のブログの存在すら忘れてたけどいきなり書いてみる。

誰にも読まれなくていい。

自分の過去を読み返してみて

私はオットが好きで好きでたまらなかったんだなということがわかる。


ぽんずを失った5年前の3月2日。

私のせいで 私が不注意だったせいで 事故にあった。

その時からオットにとって私は憎くてたまらない存在になった。

でもまだ一緒にいる。

贖罪は終わってないから。

chick me

2014年05月06日(火) 渡辺淳一さんの死去

初めて小説を手に取った17歳のときから、22年が経ち。

あれから時は流れて・・・。

お弔い代わりに「失楽園」をみて、ああ、この小説が日経に載ってるときに就職活動をしていたなあとかTV版の川島なおみも病気だっけ。

などぼーっと思いをはせていました。

元気を出したくて
ため息つかせてを観る。

しまったチョイスミス。
女友達が少ないわが身がさみしくなる。

子を産んだ女と子を産まない女は決定的にちがう。
同じ目線・テンションで話せるのは同じ立場の女友達か男友達だ。

私自身の選択とはいえ、ほんとにこれでよかったのかと心が乱れると、5年後10年後20年後を想像してみることにしている。

・・・・・・健康でさえあれば、なんとかなってる・・・かな。

渡辺先生は癌を患っていたものの特に治療せず、80で自宅でふと逝かれた。
80歳まで生きるかどうかはおいとして、その最期はたいへんうらやましい。

私が唯一サイン本を持っている先生の、御冥福を心より祈る。

chick me

2013年12月07日(土) さみしい

亡くして改めて実感する。
私は親に恵まれたんだなと。

たくさん嫌なこともあったし、逆らって悲しい思いをさせたり
本当にいろいろあったけれど父と母が大好きだった。

母の怒るととてつもなく怖い顔
笑って「えっちゃーん」と呼ぶときの顔

父と話している時の穏やかな空気
いつも客観的な目線で私を依怙贔屓せず公平な意見を言う生真面目さ

ほんとうに、親がいなくなるというのはこんなにも不安で寂しいのか

子供のように愛したぽんず


3月のあの日から、今日まで、なんと苦しい1年だったことか

脳梗塞の影響で少しの段差も超えるのが困難になった父と歩くときは
いつも手をつないだ
あのひんやりして綺麗だった手

外科医だった時の習慣で爪はいつも切られ、ヤスリで整えられていたあの手


もう繋げないのか

母は歩くときよく腕を絡ませてきた
髪のブローが下手くそで出かける前に良く「後ろやってー」と頼んできて
くるくるドライヤーで巻いてあげていた

マニキュアを塗るのが適当なくせにいつも赤を塗るのではみ出したところを
よく綿棒でふいてあげたっけ

母が亡くなってから2年くらいはよく泣いたよ
と妹が言っていたが、私も同じだ


私たちはまたこれから2年はなくのか
40超えちゃうよ
そんな年にもなって親が恋しくてめそめそするわけだ

情けないけどどうにもならない

chick me

2013年11月24日(日) お誕生日おめでとう

お母さんより半年遅れのお誕生日

お父さん66歳おめでとう
おめでとうって言いたかったな

昨日お父さんの一部は島原のお墓に入りました

やっとおじいちゃんおばあちゃんのもとへ帰ったんだね
期待のあととり長男はまったく期待と違った人生を歩んだわけだけど
みんなからいつも気に掛けられて 愛された存在だったね

お父さん
久しぶりにお母さんと誕生日を過ごしていますね

chick me

2013年11月15日(金) 父が亡くなりました

あさ、着替えて鏡で自分を見たとき 何故かわからないけど自分の姿が喪に服してるように見えました。
黒いニットの半そでワンピースに茶色のタイツ
メガネ
いつもの格好なのに、そう思いました。

12時46分、客先で会議の席に着きプリントが配られたとき携帯が鳴り。
妹から。

廊下に飛び出したら「お父さんが呼吸が止まった!dkjgぱwぴえがkd」
「わからない!ちゃんと話しなさい!!」
「お父さんが透析中に呼吸が止まったの。もう、心臓マッサージはいいよね?」
泣きながら妹が叫んでた。

「いい もういいよ。お姉ちゃんもすぐ行くよ。」

11月3日 「おかあさん(私の母)に会いたかねえ」「おばあちゃん(母の母)の味噌汁ば食べたかなあ」といったことを急に言い出す。
     母が亡くなって一度もそんなふうに母のことを言ったことはなかった父。
     ああ、もう近いのかもしれない。父も母も互いを許しあったのかもしれないと思った。

11月6日 言葉が言葉にならない

11月9日 寝てばかり。瞳孔が開いているとのこと。妹が病院に泊りこむ。

11月10日 家を出た後で「これから別の病院に救急搬送されるからそっちに来て」といわれむかう。
     病室に入る前の父に「おとうさん!」と大きい声で話しかけると「あああ」と声を出ししっかりを私を見る。ナースが「娘さんだと反応が違うのね」と驚く。
     これが父との最後のコミュニケーションになる。

脳内出血がわかり、人間らしさをつかさどるところがダメージを受けている。
外科的処置をしなければ認知症が進むがそれが致命傷になるわけではないといわれる。
妹が初めて私の前で、父のことで大声をあげて泣く。
「やっぱりね 肺炎なんかじゃないって思ったよ!」

今更父の頭蓋に穴を開けて血を抜くなんてできない。
処置を断る。


11月11日 透析

11月13日 透析

15日 処置をしないならやれることはない、と元の病院に朝一番で戻される。
   父が外の風に当たる最後の日。
   透析の終わりのほうで急に呼吸が弱くなり、急いで器具を外したらしい。
   病室で待機していた妹は、廊下からばたばたと音がして「呼吸が止まってる!はやく!」というナースたちの声を聞いたそうだ。

私が行くまで父の体は温かかった。

私も妹も母もたくさん たくさん泣かされた。
だけどいつも心にかかる愛おしい人だった。

4年も患っていたので、いつでも別れの覚悟はできていると私も妹も思っていたのに全く違った。

認知症でも何でもいいから、生きて体温を伝えていてほしかった。

お母さん、お父さんがそっちに行ったよ。
とてもさみしいよ。
お墓参りのときいつも「もうちょっとまってね」ってお願いしてたけど、もうお母さんもさびしくなってしまったのかな。

親がいなくなるというのはこんなにも心細いものなのか。

父の棺が炉に入るとき、私と妹は泣き叫んだ。
私は「お父さん お母さん」と叫び続けた。

もうちょっとで誕生日だったのに。

母は誕生日まで生きると執念を燃やし、誕生日の朝「えっちゃん 生きてたよ」と私にしがみ付きその後現実を認識できなくなり6日間戦って苦しんで 亡くなった。

父は誕生日を認識できなくなっており、誕生日の10日前に眠るように亡くなった。

2人とも 心からお疲れさまでした。
ほんとうにたいへんだったね。きつかったね。
ありがとう
ありがとう
また会いたい。

chick me

2013年10月28日(月) まる

父の手を握りながら話していたら急ににこにこし始め
「悦子が笑ってる」
と天井の丸い電気をみて言いました。

ああ、私は赤ちゃんのときから丸顔で母がよくそれを指摘しては
うれしそうにしてたっけ
と思いだし、今手を握っている私ではなく電気を見て
丸い光

丸といえば丸顔

丸顔といえば悦子
と父の中ではつじつまが合っているのか

と思った瞬間涙が止まらなくなり、涙がこぼれるだけなら目がよく見えていない父には
ばれないからがまんしなくちゃと思ったけれど嗚咽が漏れてしまいました。

「おとうさん、おとうさんが死んじゃったら私もう親がいなくなっちゃうよ。
ちょっとずつでいいから良くなって、まだ死なないでね。
透析のあと嘔吐したって聞いて本当に本当に心配したよ。」
としゃくりあげながら言うと父は私の手を握ったまま
「良くなってきとるけん(心配するな)」
と二度言いました。

そのあとの会話はやはり支離滅裂で、でも急に
「家に帰ろうかー」
と言ってきてまた涙が止まらなくなり「透析してるし点滴(だけで生きてる)外せないからせめて肺炎が治ったら一日二日、いったん帰れるねえ」とうそをつきました。

娘が泣いた瞬間だけ父親に戻ってくれたんだなと病院の帰り道、また泣けて来て困りました。

母がなくなったのは30になった年でした。
私は今38で1月に39です。
30代で親を両方亡くすことにはなりたくないなと強く思います。

chick me

2013年10月21日(月) ひっそりと更新

夏から入院している父が、小さくなりました。

母がなくなったのは8年前。

母は58になって一週間のとき
父は57でした。
父が元気に普通の生活を営めたのはそれからたった2年。
2年で父は自分の糖尿を悪化させ60のときから幾度か脳梗塞に見舞われ
さっさと仕事を引退し そこからは1年くらいはバイト医者。

しかし糖尿からくる眼底出血の後遺症もあり視力もだんだん失われ
杖とサングラスなしでは歩けなくなり

ここ2年くらいはほぼ寝たきり。

今年のお正月はもう普通の食事をすることはできなくなっており、大好きだったお酒も飲めなくなり。

胸が苦しいと言って週に2回夜中に救急車を呼ぶまでになった今年の夏、妹は3人の子供を育てながらの父の介護に限界を感じ施設を探してました。

野田のほうにできたばかりで入居金がいらないフェアをやっている施設を見つけ、妹は父を透析でお世話になっている病院に一時入院で託し見学に行きました。
「おねえちゃん、すごくきれいなお風呂なんだよ。広いんだよ。あれならお父さんも手足を伸ばしてお風呂に入れるよ!しかも透析の病院まで送迎があるんだよ。」
と嬉しそうに電話で報告してきました。

施設に入れるという後ろめたさよりも、妹は自分ではやってあげられないケアを受けさせることができることへの安堵で嬉しそうでした。
お金も労力もほとんど貢献できていない私としては、介護の苦しさを実感していない以上、数年毎日世話をしてきた妹の言うことであればなんでも受け入れるつもりでした。

野田なら妹はあまりいけなくなるけどうちからなら1時間せず行ける場所だし、最後は私なのかなと母のときのことを思い出し それはそれで受け入れる気持ちになっていました。

それが、いざ退院させようとしたら病院からストップが。

嚥下性肺炎にかかっている、と。

医者である父の兄弟たちに連絡したところ長崎から飛んできました。
その状態で嚥下性肺炎にかかれば最悪1か月も持たないからと。

それが8月の終わりのこと。

あれから父は何とか肺炎を治したのですが、いまもたまに高熱を出し、退院は一時的にすらも難しい状態になっています。

そして今日。

病室に入ってきた私を見てこう言いました。

「なんでお父さんがここにいるってわかったと?」

ああ きたか

「だってお父さんはずっと病院にいるんだよ、知ってるよ。」

ふと父の右腕を見るとキズだらけ。
ナースが切ってくれたのでしょうが左手の爪がぎざぎざ。
脳梗塞のマヒがあるため、左手があまり動かないのですが指を伸ばそうとすると痛がるのできっとちゃんと切れなかったのでしょう。
ここ1年以上、実家に行くイコール父の手足の爪を切ってやすりで研ぐ、ということをしていたので私はやすりを持ち歩いてました。
痛くないようゆっくりと爪をけずっていると
「僕はなんば買ってくればよかと?(何を買ってくればいいの?)」
と言いだす。
「お父さんは何も買ってこなくていいよ、全部あるよ。」
と答えながらぎゅっと唇を噛んで爪を削る。

あまり見えていない目でもシルエットと声で私と妹を判別していたのでしょうが、もともと私の声と妹の声は似ていて。

「郁子かね?」

ちがうよ さっきまで私ってわかってたじゃない。

「悦子だよ。お父さん、私ってわかる?」
「わかるよ」
「郁子は昨日来たんだよ。お父さん寝てばかりだったって。」
「そうね」

廊下で話してる人の声を全部自分への話だと思って返事をしようとしたりしてました。

病院に着いたのが遅かったのですぐに面会時間の終了が来てしまったため、痛くないよう手を握りながら
「お父さん、今日は来るのが遅くなったからもう時間になっちゃった。
帰るけどまた来るからね。」
というと
見えない目でじっとわたしを見て
「それまで僕は何をしてたらよかとかね。」
と。

叫びだしたかった
そばにいなくてごめん
毎日来なくてごめん
お父さんがゆっくり壊れていくのを止められなくてごめん

「看護婦さんが来て、テレビと電気を消してくれるからこのあとは眠ってね。
またすぐ来るからね。」

というと、うなずく。
病室を出ようとすると 一人では歩けないのにベッドから降りるそぶりをするので慌てて戻って「歩いたらだめだよ。」と止める。

病院を出て妹に電話して。

とうとう来たよ と今日のやり取りを伝えると少し黙った後、覚悟はしていた ずっと覚悟はしてた。
これまでのことに後悔はない。
ないけれど
と震えを我慢する声で話した。

来月父は66になる。

妹と、お正月は1日だけでいいから家に戻してあげてひとくちでいいから好きなものを食べさせてあげたいと話していたのは先週のことだ。
どうやって家に連れていくかということばかり考えていたが、そもそもそういう状態で年を越せるのかということのほうが問題になってきた。

お父さん
お誕生日おめでとう と
あけましておめでとう
ちゃんと言わせてくれ

chick me
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