『心のめざめ』
自分はこれでよいのだろうか
こんな自分ではだめだと
自分で気がついたときが
あなたの心のめざめです
自分は悪くないと
思っていたら
それ以上のよい人には
なれません
これではいけない
まだまだだめだと思えば
もっとよい人間に
なれるのです
藤本 幸邦(曹洞宗 和尚)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
誰でもそうなのですが、自分が間違っていることは認めたくないものです。 仕事等でよくない結果しか得られなかったとき... 申し訳ありませんでしたと謝罪をしながらも 「私は悪くないのに」という思いが心の中にあるかぎりは 成長はないでしょう。 自分は悪くない、ではなく 私はどうしたらよかったのだろうかと省みれる自分でありたいと 私はいつも思っています。
皆様によくお伝えすることなのですが、一日の終わりに “今日一日の自分の心の在り方を省みましょう“と私はお話をいたします。 これは家事でいそがしいかた、仕事が忙しい方、病気をしているかた、悩みで心が折れそうになっているかた、どのようなかたでもほんの数分でよいので、 今日の自分の心の在り方を省みることをなさっていただきたいと思います。 「ああ、あれはよくなかった」「こうしたらよかったのに」という気づきこそが、明日からの貴方をかえていくのですから...
杏珠
早いもので今日から6月ですね。 朝のニュースで能登半島地震発生から5か月が経過し、現在もまだ多くの方々が大変な生活を強いられていると伝えていました。 改めまして、1日も早い復興を心からお祈りいたします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 今日は四門出游についてお話をしていこうと思います。
お釈迦様が釈迦族の太子であったころのお話です… 約2500年程前のインドに生まれたお釈迦様は太子(王子とお考え下さい)でした。 豪華な生活をなさっておられ、美味しい食事や美しい女性に囲まれ、何も困る事のない贅沢な暮らしをされておりました。
ある時、城の外の暮らしをみてみたいと思ったお釈迦様は、家来を連れて城の東西南北の門(4つの門)から出かけてみることにしました。
まず初めに東の門から出かけてみますと、歯が抜け、腰が曲がり杖に頼って歩く哀れな老人に出会いました。城の外にでたことがないお釈迦様は連れてきた家来に「あれは何者なのだ?」と尋ねました。 「老人でございます。全ての人間はいつか年を取りあのようになるのです。」と家来は答えました。 お釈迦様は城に戻り老いの苦しみについて深く考えました。
また別の日に次は、南の門から出かけますと、道端に倒れている病人に出会いました。 そこでお釈迦様はまた家来に「あれは何者なのだ?」とお尋ねになりました。 「あれは病人です。人間はいつか病気にかかりあのような姿になるのです。」と家来は答えました。
次に西の門から出かけると、お葬式の行列に遇いました。 「あれは何者なのだ?」とお尋ねになりました。 すると家来は「あれは死人でございます。人間はいつか死んであのようになります。」と答えました。
お釈迦様は深く考え込んでしまいました。 人間、誰でもが必ず老いる、老いの苦しみを痛感し、また人間は病むという病苦の現実を実感し、人間は必ず死ぬものなのになぜ生きていくのだろうかと死苦の現実をまざまざと見せられ、どのような人間でも老いて、病に苦しんで、いつかは死んでいく、なのにどうして人間は生まれてくるのだろうか… 贅沢をするような生活ではなく、本当の意味で幸せになるのはどうしたらいいのだろうか…と深く考えました。
最後に北の門からでかけますと、質素な身なりの出家した修行僧に出会いました。 身なりは質素でしたが、穏やかな清々しい表情をする修行僧をみてお釈迦様はハッと気づいたのです。
『人は限りのある命を己の欲を満たすためだけに生きるのではなく、老いや病気や死が訪れるとわかっていてもそれを超えたところにある普遍的なものを求めるために生きているのではないか。』 『老いても病んでもいつか自分が死ぬとわかっていても心がそれに左右されない人生を…』とお考えになられ、準備を整えたのちに出家なさいました。
四門出游は仏教において根底にあるもの “苦悩からの救い“を示しています。 全ての人間が避けることができない苦悩、人生における悩みに対してどうしたらいいのか、どのような心の在り方が心の平安をもたらすのか等を、 生きている私たちに対してお釈迦様が説かれたのが『仏教』なのです。
私どもの身代わり念珠や祈祷や供養を執り行って下さっておられる六明師は高野山真言宗の僧侶であり、私がこうして皆様にお伝えしているお話は六明師から教えていただいた仏教の教えが根底にあります。
生きていれば自分ではどうしようもない悩みが出てくるでしょう。 そんなときは一人で悩むことはやめて、いつでも私にご相談ください。 心が折れてしまう前にその悩みを私にお聞かせください 私はいつも貴方を見守っております。
杏珠
そろそろ沖縄が梅雨入り、少し後には本土も梅雨入りとなるのでしょうか。 5月とは思えない暑い毎日が続きます。 皆様いかがお過ごしでしょうか
今日は『邪魔と警告』についてお話をしようと思います。
「さあ食事にいこう」と自動車のキーを探すと…さっきそこに置いたはずなのに見当たらない 「日帰りの家族旅行は久しぶりだ」と出かけようとすると誰かが熱を出してしまっていけそうにない
このような事はよくある事ですが… (この場合は邪魔ではなく警告ですね) 貴方はそのあと、どういう行動をとるのでしょうか。 出鼻を挫かれたと感じてイライラとしながら “どうにかして出かけよう“となさっていませんか?
六明師の祈願を受ける前の貴方だったらそうだったかもしれませんが 祈願を後押しをうけながら前に向かって進もうと努力なさっている貴方は 「杏珠先生これは邪魔でしょうか?警告でしょうか?」とご相談メールをくださるのではないかと思います。
邪魔とは貴方が良くなろうとするときに「そうはさせるものか」と足を引っ張るモノですが… ある程度の供養がとどき始めると貴方に対して「そのまま行くと危険」だと御先祖さま等が警告を発することがあります。 と、書こうとしている私に“Microsoftの更新がありますが実行しますか?“という邪魔が入る… 「皆様に対してこれを伝えたい」「良くなる為のヒントになるのではないかな」と私が行動を起こそうとするときに足を引っ張ろうとするものこそが邪魔なのです。
そんな時に貴方にとっていただきたい対処方法は… “自分にとって都合のいい解釈をして即決しない“ことです。 私が今とった対処方法は“ダイアリーを一度保存する“という事でした。 先ほど書いた例のようなことが起こった時に私でしたら 「これはちょっと日を改めた方がいいのかな」 と、一旦冷静になるでしょう。 何故ならそのような時に無理をして出かけると何かしらトラブルが起きるからなのです。
一見するととても簡単なことなのですが、いざそのような場面になると人は 冷静になることができずに自分の都合のいい答えを出して即決することが多いものです。そしてそのあとにトラブルや困ったことが起きたときに言い訳をするでしょう。
私がこう伝えていることは全てではありません。 霊的に見て伝えてはいけないこと=その人の学びにつながることはむやみに伝えてはいけないという難しい面もあるのです。 “伝える“ということは本当に難しいものです。
貴方が前向きに何かをしようとするときに、邪魔なのか警告なのか、判断に困るようなことがあるならば遠慮なく私に相談してみてくださいね。
|