ぶらんこ
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頭の中が真っ白になって何も考えられなくなった
何が起こっているのか処理できない
それでも仕事に戻り
現実に何かに対応しているわたしは誰なのだ
ときおり 魂が抜けていくような違和感
信じられない 信じたくない 信じない
その繰り返しで
心は置き去りになる
なんで どうして なぜ
声にならない叫びで
胸がつぶれそうだ
こんなにも
こんなにも
遠く感じるのは
初めてのことです
あなたに
さよならを言いに行きたい
元日の朝。薄暗い中犬たちを庭へ出す。東の空、低いところが赤橙色に染まり始めていた。 あぁ初日の出・・・!と思いつつ、犬たちのpoopを探す。 外気温13℉だったか。雪がないので、それほど寒く感じない。
初日の出というと、遠い昔、亡き兄に連れられて初日の出を拝みに行ったことを思い出す。 どれくらい前だったろう。わたしは小学5年生か、もっと前か。
大晦日の晩に、兄貴が「明日は初日の出を見に行くぞ」と言い、「やった「やったー」とはしゃぎながら寝た。 わくわくドキドキしながら寝たのだが、兄貴に起こされたときには行きたいなんて気持ちはとうに消えていて、げんなりした。 本当に、行くのか?なんで?という気持ち。 どこへ行くのかもわからない。というか、初日の出というものに対する想いさえ、怪しかった。 世の中では、初日の出を拝んで新年を祝う、という習わし(?)があったことは知っていた。 でもそれは、TVや本の世界で、自分にとっては無縁のものだった。 お日さんを拝むなんて・・・という感じ。
兄貴がなぜ、初日の出を見に行こう、と思い立ったのか、謎だ。 この話は、兄弟姉妹間で何度か登場したのだが、兄貴のその時の心情を知っている者は誰一人としていなかったと思う。 記憶の糸をたぐって、当時の兄貴の置かれていた状況を鑑みて、もしかしたら・・・という予測は出来るかもしれないけれど。 そういう話も以前、姉たちとしたような気もするが、今は思い出せない。 今度、帰ったときにでもまた訊いてみるかな。。。
兄貴の車に乗せられて、わたしたちきょで一行は、初日の出を見に出かけた。 場所は南のほうだったと思う。 当時はトンネルもなかったので(確かね)とても遠いドライブだった。 本当にたどり着くのか、、、と思った。というか、車の中で寝ていたように思う。 着いたら起こしてくれるだろう、と。
長い長いドライブだったことを覚えている。 なのに、肝心の初日の出を拝んだ記憶がない。 曇り空で日の出を拝めなかったのか。或いは、時間に間に合わなくて拝めなかったのか? いや、見たような気もする。 黒い雲が横たわっている中から、うっすらと赤い色が滲み出てきて、お日さんが昇ってきた。 そんな気もする。
でもそれはわたしが作り出した記憶なのかもしれない。
今になって思い出すのは、兄貴がわたしたちきょでを一緒に連れて行ったこと。連れて行きたいと思ったこと。 それだけだ。
兄貴はどんな想いでわたしたちを連れて行ったのだろう。
きょでがなしゃ、という言葉がある。
父親を早くに亡くして、母親はいつも仕事に精を出していて、きょでとばかり一緒にいたせいなのか。 きょでの数が多いおかげで、どぅしを切望することもなかったのか。 よくわからん。
が、きょでつながりは強いみたいだ。 そんな気はまったくなかったが、いつからかそれを認識するようになった。 良い意味でも悪い意味でも、きょでがなしゃ。
さて、今年はどんな年になるだろう。 きっと素晴らしい年に違いない。心からそう思う不思議。
姉の元生徒が入院している病院へ行く。 その帰り道。 リュックをかついで、自転車に乗って帰る。 海岸線を自転車で走りながら、海を眺め、大きな岩山を眺めている。懐かしい岩山。そこで遊んだ記憶がある。
途中、道が凍っているところと、氷の融けたところとあって、走りにくい。 倒れないよう、滑るように走る。対向車が来ると怖い。 バスが通り過ぎてったところで、道が洪水のように水嵩が増していく。 とうとう自転車では走れなくなり、足をつくと、かなりの深さになっていた。
しょうがなく自転車を押しながら歩く。他の自転車乗りの人たちも同じようにしている。 自分の靴が、登山用のゴア製の靴で良かった、と思っていたのだが、もうその靴も水のなかにすっぽりと入ってしまった。 足首くらいまでの深さになっている。
と、大きなカーブのところで、前を歩いていた自転車の男の人が、つつーっと、水の中に体ごと(自転車ごと)沈んでいってしまった。 おおおおおおおおーい!!驚いて大声を出す。 その男性はなんとか浮上して来たが、、、一体どうなっているのか? だって、さっきのバスはどうやってここを走れたっていうの???
そんなことを言いながら、前へ進むべきか、引き返すべきか、悩んでいた。
2014年09月20日(土) |
夢だけど。夢だから。 |
大きな古い家にいる、どうやら自分の家らしい。 庭を見ると、誰かが犬を連れて我が家の庭をうろうろしている。 なんで?と思いながらカーテン超しに見ている。 その男性は2匹の犬と一緒にいた。紛れ込んだだけなのかもしれないと思いつつ、でもなんで?と不思議に思う。
そのうちCosmoが気付いて大変なことになるのではないかと心配する。 と、娘がCosmoを連れて庭へ出ていった。男性に一言二言話しかけている。 いつの間にか男性と犬たちはいなくなってしまった。 わたしも庭へ出て、CosmoとBruceと一緒に歩く。(わりと幼い姿のままの)甥っ子や姪っ子も一緒にいた。
中へ戻らないと、という気持ちになって家を見上げるのだが、二階に続くデッキの階段は壊れかけている。 そこをするすると娘とCosmoが上っていった。 わたしも、と思うのだが、やはり壊れているところはなかなか恐ろしくて上れない。 一カ所は思い切って逆上がりをするような形で上れた。 が、次の場所は到底出来そうにないところだったので、そのまま落ちた。 頭のどこかで、夢なんだから落ちても大丈夫、と思いながら、でも怖かった。
落ちたときは、それほど痛くはなかった。そして、早く階段を直さなきゃ、と思う。
家の中に戻り、壊れかけたデッキのところから庭を見下ろす。 と、奥のほうで、母が何やら作業をしていた。
え?母ちゃん???
夢だから、母は昔の姿で、草取りかなんかをしていて、自分の足で歩いていた。 頼もしい母の姿を見て嬉しくなって声をかけた。「母ちゃん!」 母はわたしを見上げ、なんね?という顔をしてわたしのほうへ向かって歩いてきた。 デッキの下をくぐり抜けてどこかへ行こうとする母をもう一度、呼び止めた。 夢だけど、夢だから、母の手を握りたい。そう願った。
母ちゃん! 母は戻って来てわたしを見上げた。 「手!」 わたしは上から思い切り手を伸ばした。母も腕を伸ばしてわたしの手を握り、なんね?という顔をしていた。
夢だけど、夢だから、触れられて、嬉しかった。
Bruceが奥のほうでわたしのことを見ていた。 わたしは心のなかで、Bruceに「ありがとう」と言った。きっと彼が母も一緒に夢のなかへと連れて来てくれたのだ。
誰かに「誕生日おめでとう」とお祝いの言葉を言うようになったのはいつからだろう。 考えてみれば、友人らにはかなり前から言っていたのだろう。例えば、学校とかで。 では、家族ではどうだろう。 兄弟姉妹に、「誕生日おめでとう」と最初に言ったのはいつだったろう。
「クリスマスおめでとう」ならば、物心ついた時から言っていた。というか、言い合っていた。 クリスマスはイエス・キリストの誕生日である。 イエスさま、誕生日おめでとう。ではなく、イエスさま、誕生してくれてありがとう。なぜならば、イエスはもう既に亡くなったおひとだから。 (イエスさまが「ひと」でありながら「神」であった、とか、そういうのは、ここでは省く)
そういう意味では、誕生日をお祝いする、という感覚は備わっていたのだと思う。 そして、それは小学校に上がり友人らとの関わりのなかで、さらに培われた。
あれは確か小学校4年生のとき。いや、もしかしたら5年生だったかもしれない。 同じ町に住む女の子から誕生日パーティーに招待された。 彼女とどれだけ仲が良かったかと言うと、正直、よくわからない。ただ単に、同じ部落内で、同じ教会に通っていただけのような気もする。 しかし、あの頃の友人関係というのはそんな感じだった。性も歳もバラバラで、集まれる者が集まって一緒に遊んだ。 遊ぶのに、約束とかそういうのもなく、ただ誰かがいるところへ行き、そこで何かを皆でする、という感じだった。
だから、パーティーをするから来てくださいなんていう「招待」に、からだも心も踊った。 パーティーという言葉の響きだけで、もうもうもう、めろめろーなのだった。
何人集まったのかはよく覚えていない。女子だけだったのか、男子もいたのか、それさえも覚えていない。 小さなプレゼント(文房具屋さんで選んだレターセットだった)を持って彼女の家に行き、そこでケーキやお菓子を食べジュースを飲んだ。 三角の白いサンドイッチも出た。バターにハムときゅうりの薄切りが挟まっていた。 わっ、洋食!と思いながら食した。我が家では決して目にすることのない料理だった。
(なぜか)主役である彼女が仕切って、皆で「劇」をして遊んだ。即興で作ったクリスマス劇だったように思うのだが、記憶は曖昧だ。 面白くっておかしくて、劇はなかなか前に進まなかった。皆がそれぞれ途中で笑い出すモンだから。
そんな中、だんだんお腹が痛くなって来て、こんなのすぐに治まると言い聞かせながら我慢していたのだが、それはどんどん酷くなり、泣く泣く家へ帰った。 帰ってからも腹痛は治まらず、うんうん唸っていた。途中で帰らねばならなかったのが悔しくて悲しくて、そして腹が痛くて、泣いた。 そして、しばらくしてから・・・吐いた。 夢のような食卓だったのに、あそこで食べたもの殆どすべてを・・・吐いた。 吐瀉物の中に薄切りのきゅうりとハムが混じっていて、とてもとても悲しくなった。 あんなに美味しかったのに。あんなに楽しかったのに。 吐いてからは少しずつ腹の痛みがおさまり、いつしかそのまま眠った。涙も枯れてしまった。夢物語の悲しい結末だった。
実は彼女とは誕生日が近かった。3日とか4日とかの違い。 彼女から誕生日パーティーの招待を受けてから、そうだ自分もしよう、と決めた。 彼女より先にしたのか、或いはその後にしたのか、それはまったく覚えていない。しかも、彼女を招待したのかさえ、覚えていない。 あの頃はただ、お誕生日パーティー、というものに憧れていたのだと思う。
しかし我が家は貧しかった。母は女手ひとりでわたしたちを育てていて、学校から帰っても家にいることはなく、いつも工場で機を織っていた。 母に誕生日パーティーをしたい、と言ったとき、母がどんな風に答えたのかどんな顔をしたのか、それもよく覚えていない。 だが、わたしの願いは聞き入れられた。ひとりで準備も片付けもする。それが母の注文だった。そしてお金をくれた。
いくら貰ったのだろうか。その金額ですべてを工面しなくてはならない。わたしは真剣だった。 ジュースは必須だ。そして、ケーキ。しかし、いくらなんでもケーキは無理だった。 母のくれたお金がケーキを買えるような金額でないことは知っていたし、そもそもケーキを買うにはバスに乗って「ケーキ屋」というところへ行かねばならない。
ケーキみたいなお菓子を買おう。
あの頃のわたしはなんて逞しかったのだろう。出来ないことを悲観することなどなかったのかもしれない。
わたしはいつも行く「ふくやま商店」で、ケーキっぽいお菓子を探した。 はたしてそれはあったのだ。 ピカピカと光る銀紙に包まれた、ふわっとしたケーキのようなお菓子が、透明のプラスチック箱に並んでいる。 そのお菓子はいつだったか教会の集まりで口にしたことがあった。これだ、と思った。 予算内でおさめるために、その他のお菓子をあきらめなくてはならなかった。しょうがない。このケーキがあればそれでいい。 もしもタイムマシーンであの頃の自分に会えたとしたら、わたしは言ってやりたい。その潔さは素晴らしい、って。よくやったぜベイベー、って。
当然のことながら、その日、母は仕事でいなかった。 わたしはオモテを丸く掃除して中央にオーセツダイを設置し、来てくれる友達の数分、コップを出して皿を並べた。 トゴラを探して見つけた食べものはなんでも出した。みかんがあったのは大収穫だった。 それから、ピカピカ銀紙のあのふわふわケーキをお皿に載せた。わたしの心もふわっとした。
不思議なことに、実体である誕生日パーティーそのものについては、記憶がない。 どんなプレゼントを貰っただとか、誰々が来た、だとか、何をした、とか、そういったことは思い出せないのだ。 唯一覚えているのが、あの銀紙のふわふわ菓子は、思っていた以上にぱさぱさしていて、中に挟まれたクリームがもうちょっとあればいいなぁと思ったことだ。 でも、がっかりはしなかったと思う。なんてったって、メインのケーキなのだ。
なんだかこうやって思い返すと、不完全で、一生懸命で、それゆえにものがなしい感じがつきまとう。 パーティーの準備をしているとき兄に馬鹿にされた記憶もあって、それはもしかしたら記憶違いなのかもしれないけれど、なんだか悲しくなる。 ノスタルジック。 兄は、身分不相応だと言いたかったのか、それともノーテンキでフルムンな妹が恥ずかしかったのか或いはただ単にそのボットぶりが羨ましかったのか。 いずれにせよ、今では兄の気持ちも少しわかる。 だから思い出す度、ハゲハゲ、キモサゲサー、という気持ちになってしまう。
兄弟姉妹で誕生日のお祝いの言葉を言い合ったかどうか。おめでとう、くらいは言ったのか。 それより何より、母はどうだったろう。 我が家に誕生日パーティーがなかったのは確かだし、プレゼントなんてモンもなかった。 プレゼントというのは、招待されたときに渡すものだと思っていたし。いわば、食券のような役割。 純粋に「誕生日おめでとう」と思ったかどうかも怪しいな。 わけわからぬまま、誕生日には「おめでとう」と口にし、何かをあげて何か(食べるもの)をいただく。交換。そんな感じか。 当時の我が家では当然ながら家族でそんなお祝いはなかった。そして、誕生日を祝う心が芽生えたのも、大人になってからだと思う。
しかし我が家族は「誕生日」を大事にしていたとも思う。 あの懐かしい我があばら屋のトゴラの壁、天井に届くくらいのあの高さには、亡き父が作成した家族の表があった。 そこには、名前、誕生日、霊名がそれぞれ書かれていた。 兄弟姉妹が多かったから忘れぬようにそんなことをしたのだろうと、ずっと思って来たが、いや父はきっとそういうことを大切にしたい人だったのだろう。 それぞれの名前に付随してくる情報を、誰が見てもわかるような形にする。そういう細かいことが好きだったのかもしれない。 父は聡明な人だったと聞く。父にしてみればごく普通にやったのかもしれないが、目に入る場所にあるそれを眺めるだけで、それぞれの心に何かが刻まれた。 父は無意識にもそれを狙っていたのか、或いはー。
わたしたちの家は火事に遭い、すべてが燃えてしまった。あの表も、跡形もなく消えた。 あれから、母は何度か誰にともなく、父ちゃんが書いたみたいにあの表を書いてくれ、と言っていた。 だが、もうそのころには家族の形態は変わっていたのだ。 父と母の子供たちであるわたしたちは、それぞれがそれぞれに独立し家族を持っていた。 表にするにはどこまで手を伸ばすのか。クヮ、クヮンキャヌウトゥ、トゥジ、マガンキャ? それが理由がどうかはわからないが、新しい表が作られることはなかった。 あの表は、父ちゃんがいて母ちゃんがいて、ぼろぼろと生まれたクヮンキャがいて、のもの、なのだ。
母ちゃんは今でもあの表のことを覚えているかねー。 覚えてはいるかもしれないな。でも、誰も新しくしなかったと、ヤナグリすることはもうないだろう。 それはそれで、ちょっと淋しくもある。
誕生日には「誕生日おめでとう」と言う。 いつだったか誰かが、誕生日は両親に感謝する日だ、と言っていた。 そんな風に思ったことがなかったので、新鮮だった。理屈はわかる。両親がいたからこそこの世に誕生した、ということ。 でも、どこか違和感のような、ちょっとおこがましいような気がする。なぜだかわからないけれど。
今年の誕生日、娘から「大人気ない」というようなことを言われた。まだ自分の誕生日をそんなに喜ぶのか、と。そんな大人はいないよ、と。 それは自分でもそう思う。わかっている。大人気ないどころか、幼稚だと言ってもいい。 あの頃からちっとも変わっていないのだ、泣きながら吐いたあの日から。真剣に悩み、計画を立て、ひとりで準備したあの日から。 誕生日というものへの、純粋な、憧れ。喜び。馬鹿みたいに指折り数えて迎える、マイ・バースデイ。
色々考えたのだが、誕生日は「自分の日」だと思う。 母の誕生日は母のための日。姉の誕生日は姉の、兄の、娘の、夫の(夫と娘は誕生日が一緒だけどね)。
誕生日というのは、「生」を確認する日なのだ。その存在を祝う、喜ぶ、尊ぶ。 それは死してからも変わらない。その人が生きていた「生」を心に蘇らせ、思い出す、抱きしめる。
「いのち」を祝う日。それがわたしの思う、誕生日。 だから、声を大にして言おう。いくつになっても心から祝おう。
誕生日、おめでとう。
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