ぶらんこ
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大事にしてたつもりはない
むしろ
忘れてることのほうが多かった
でも
はじけて消えて
はじめてわかる
うっすい膜に
映るは過ぎ去った光
シャボンボウル
消えたから笑えたのか
笑えたから消えたのか
どちらにせよ
今夜は
あたらしいあなたに
祝杯をあげよう
まぁるい笑顔で
祝杯をあげよう
いろいろな霊魂が自分で自分を作るべきである。 私は尊い種をまく。 種子はひそかに働く。 霊魂は、それ自身の働きのために尊敬すべきである。 最初の種にききめがないなら、もう一つをまく、またもう一つ。 種まきが全くむだである。という確かな証明がある時だけ退いてよい。 それに祈るべきだ。 祈りは土地の上の露のようである。 それによって土地がやわらかくなり、養われ、そして種が芽を出せる。 「マグダラのマリア」 マリア・ワルトルタ著 より
ひとを信じる。 そのひとの、霊魂の、自由な選択を信じる。 くじけそうになることもあるけれど、 それでも、信じること。 そして、祈ること。
祈ること。
幼い頃は、「てんにまします」とか「めでたしせいちょう」とかを唱えることが祈りだった。 間髪なく口にのぼる、心に広がる、祈り。
いつしか大人になって、祈りの言葉を唱えることが祈りではない、と、心のどこかで知る。 知ってしまってからは、祈ることが、難しくなる。 難しいから、結局は、馴染みの言葉をくり返し暗誦する、これも祈りだと言い聞かせながら。
それでも祈りは露のように働く。 心はその露の雫を求める。 露はゆっくりと心を満たす。
祈りは、祈ることでしか、得られない。 わからないなりに、祈ること。祈り続けること。
光はそこにさしこむ。 あなたに。 そのひとに。
辛いときにこそ一緒にいたい か?
そらそうだろう
じゃぁ
しあわせなときはどうよ?
そうやって振り回すな
そうやって振り回されるな
2011年10月08日(土) |
Then, prove it. |
自分にはpatienceが足りないな、と感じることが多々ある。 我慢、というのとはちょっと違う、強いて言えば辛抱強さ、根気。いやそれもちょっと違うか。
と、思ったところで、あ、短気か、と気付いた。
そうなのだ。わたしは昔から短気だった。今も全然変わっていない。気が短い。それだ。
だから物事を短絡的に進めようとする節がある。 ぐだぐだ考え悩んでいらいらするよりも、さっさと行動起こせよ、と思う。 怒りを周囲にまき散らすよりも、自分で出来ることをとりあえずしろよ、と思う。 やってからもの言えよ、と思う。
・・・自分もそうしてるかどうかは別だけど。
短気が短所な所以かね。
長兄が帰って来るというので、家の片付けをしている。 母ちゃんはとても浮き足立っている。兄貴に会わせようと、知り合いまで連れて来た。 母ちゃんが言うには、県庁の誰かとかなんとか。次兄の知り合いらしい。 わたしは忙しいなか、知らない人までやって来て、ちょっと困ってしまう。 母ちゃんが、「八月踊りでもてなさんばね〜」と言い、応接台やらを動かしてオモテに広場を作り、踊り始めた。 母ちゃんに合わせて、まぁ姉やたかおばも踊り始める。 わたしは最初、ぎょっとしてしまったが、母ちゃんの軽やかな八月踊りと、輝く表情を見て、なんとも嬉しくなる。 料理の準備をしないと・・・と思いつつ、ついつい自分も踊りたくなる。 八月踊りなんかしたことないのに。
・・・
8月13日に見た夢。 母ちゃんの調子がいまひとつで、介護に帰りたいが、、、と、ひとり悶々としていた頃。
夢のなかの母ちゃんは若くて、しゃきっとしていて、くゎんきゃに有無を言わせないパワーがあった。 自分のなかの母ちゃんのイメージは、今も変わらずそうなのだと思う。 だから、弱々しい母ちゃんを目にすると、胸が痛く、どこかとぅじない気持ちになるのだ。 悲しいのもそうだが、途方に暮れてしまう。といった感じ。
でも、そんなんじゃいかんのだろう。 今度はくゎんきゃがしゃきっとせないかんのだろう。
あるところで、こんな言葉を見つけた。
「介護や看取りというのは、動けなかったり制限された状況の中での心の思いを満たす手伝いをすること」
さて、どれだけの手伝いが出来るだろう。
やっと、年末に一時帰国の手配を済ませた。 今年も母ちゃん介護の真似事をさせて貰えることに感謝。
そうだ、八月踊りの練習もせんといかんね。
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