ぶらんこ
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その人に何か訊くと、何かしらの答えが「得られる」という。 それはその人自身からではなく、その人を媒介して伝えられるものなのだそうだ。 (与えられた言葉によって質問者は答えが得られる) たぶん霊能者とかのイメージに近いのかもしれないが、実際にそのような方々とわたし自身が会ったことがないのでわからない。 答えはそのまま差し出されるのではなく、会話のなかで導き出されるといった形らしい。
カウンセラーはカウンセリングという知識と技術を習得している。 スピリチュアル・カウンセリングとは、通常の心理学で勉強するのとでは領域が違うのかもしれないが、技法としては似ているのだろうか。 その人は、自分はカウンセラーではないと言うらしいが、答えを自ら得られるよう手助けしているという点では同じだなーと思う。 まぁ呼称などは(その人にとって)どうでも良いことなのかもしれない。
さて、では何か訊きたいことはある? と自問してみた。
・ ・ ・ ・ ・
それがなかなか。。。どうなのよ?
知りたいことは・・・ある。ような気がする。 それは、調べても調べようがないことだったり、科学的に証明できないようなものだったり。
奇抜(?)な類いでは「宇宙人の存在」とか「タイムトラベルの可能性」とか「死後の世界」とか。 身近なものでは、「魂の成り立ち」とか「脳の世界」とか。 「男」とか「女」とか「その中間」とか「両方」とか。 「犬の気持ち」とか「病気の正体」とか。
でも、そんなんが本当に知りたいことだろうか??? 宇宙人がいてもいなくてもわたしの暮らしに何か影響があるだろうか? タイムトラベル出来ますよと言われたら、やってみたいか? 前者は、興味はあれど、現実的にはどうでも良いような気がしなくもない。
どちらかというと、身近な問題のほうを訊きたい。 でも、興味本位にそんなことを訊くのもいかがなものか、、、と躊躇う気持ちがある。 ゲイの友人の本当の心を知ったからとて、どうしたいのか。 その人そのままを受け入れれば良いだけなのじゃないか? とか。 脳に損傷を負った患者さんとその家族とのコミュニケーションがなんらかの形で出来るようになればどんなにか幸せだろうか。 と、以前、訪問看護をしていたときに真剣に考えたことがあった。 たとえば霊能者のような人が来て、「息子さんはこう言ってますよ」と伝えたとする。 それがその家族の望むことなのかどうか。。。それはわたしにはわかりようがない。 超能力者と言われる人々が、難病と言われる病の治療に貢献できたら。。。 そういうのは、何か大事なことを見落としているような、どこかステップを跳ばしているような違和感がつきまとう。
犬に言葉が必要かというと、それもまた違う。 人間の言葉を持たないからこそ、彼らとの関係がより深く、優しくなれるのではなかろうか。 あなたの感じる、想像する「犬の気持ち」で良いのでは? と思ってしまう。
エンデの「はてしない物語」で、「ウユララ」という存在が登場する。 ウユララとは南のお告げ所の「静寂の声」である。つまり、声だけの存在だ。 彼女(?)からの声を聞くには、韻を踏んだ詩で語りかけなければならない。
「詩にする」とはなんぞや?
詩というのは・・・言葉をただ並べるのとは違う。 (自分の)心の昇華した形。たぶん。。。
というところで、先の「知りたいことって何よ?」と繋がっている。
答えは自分の中にある。 とはよく聞く。 おぼろげながらも、本当にそうだよなぁーという感じはある。
訊きたいこと=知りたいこと
という式は簡単には成立しない。なぜなら、答えを得る方法は色々あっても良いからだ。
今のところ、その人に質問したいことが見つからない。 それは、自分で見つけたいという積極的な気持ちの表れなのか、誰からの手助けも要らないという偏狭な天の邪鬼ゆえか?
或いは、まだ「詩」に至っていないわたし自身の未熟さか?
山間の村。 家族で旅行を楽しんでいる。 散策を終え、ゆるやかな丘を登って行くと、眼前には大きな海が開けていた。 ここは初めて来る場所だ。島とはまた違う美しさ。
海はどこまでも青い。ところどころ小さく白波が立っている。 初夏の風がさわやかに吹きあげてくる。 大型のフェリーが寄港しており、既にツアー客らしき人々であふれている。 そうだ、次はフェリーだった!と思い出す。
わたしたちはいそいそとフェリーに乗り込んだ。 大袈裟とも言えるシャンデリアがこの場には似つかわしくないほどに煌めいている。
出航前に、とトイレを探すのだが、なかなか見つからない。
部屋を取っていない人々だろうか、あらゆる場所に人が座っていた。中には横になっている人もいた。 辺りは、奇妙に圧縮されたような、フェリー特有の空気に満ちている。 装飾のかけらもない暗い階段を歩きながら、どこか心細い気持ちになってきた。
と、上方からバラバラと階段が崩れ始めた。 やっぱり。 なぜかそんな予感があった。 わたしは落ち着いて甲板へと向かった。
甲板に出ると、いつの間にか友人が一緒にいた。 彼女はいつものように肩からプロフェッショナルなカメラを下げている。 わたしたちは舳先に立っている。はてしない水平線を前に。 大きな声を出している筈なのにお互い何を言っているのか聞き取れず、ふたりして笑っている。 潮風が強い。少し肌寒いくらいだ。彼女は持って来た碧色の毛布を取り出してそれにくるまった。
と、そのとき。
目の前に大きなおおきな影が広がった。 それは、ゆぅるりと海面に近づいてくる。 影はその形を少しずつ現しながら、さらに大きくおおきくなっていく。
くじら。。。
くじら!!! ナガスクジラ!!!
息をのむ。とてつもない大きさだ。
ふと、身体を乗り出して真下を眺めていることに気付く。 そうだった。この船は水空両用だった。 「こういうとき、飛べるってのはいいよね」 友人が紅潮した顔で言う。万歳!テクノロジー。 わたしも興奮しながら頭をぶんぶん振って頷く。 本当は、振り返って船上に突き出ているであろう巨大な2本の羽を見たい気持ちもあったが、くじらから目を離すことが出来ない。
それほど高く飛んでいるのではないようだ。 ただ、くじらがあまりにも大きいので、うまく距離感がつかめない。 このフェリーはかなりの大きさだった筈だ。 そういえばスピードもどれくらいなのか、よくわからない。
船のまわりには、3頭〜4頭ほどのくじらがいた。くじらは群で泳ぐのだろうか?こんなことってあるのだろうか? そのうち、右側後方から赤ちゃんくじらがやってきた。 母くじらの半分にも満たない大きさだ。実際どうなのかわからないが、それでもゆうに8メートル程はあるように思えた。 母くじらは、子どもにその場を譲るように先へと泳いでいった。
子くじらは何度か海面に顔を突き出した。 大きな口が開き、笑っているようにも見える。
友人はカメラを取り出し、その姿をおさめようとしている。 舳先からは身体の半分以上、そのまま海へ落ちてしまいそうなくらいだ。 わたしは慌てて彼女の腰に手を伸ばす。
碧色の毛布が狂ったように風になびく。 彼女は何かに憑かれたようにシャッターを切っている。 わたしは友人をしっかりとつかむ。 友人と毛布の間から子くじらの飛び跳ねる姿が見える。
「あの子、毛布が欲しいんだよ!」 なぜかそんな気がして、友人にそう叫んだ。 「毛布をあげて!」
友人は毛布をはずし、子くじらに届くよう長く垂らした。 子くじらは、これまで以上に大きくジャンプして・・・
なんと毛布をちぎり、肢体を反転させながら海の中へと戻って行った。 それから、母くじらを追うようにどんどん先へ泳いでいった。 母くじらは子どもを待っていた。 2頭は一緒になって軽く飛び跳ね、海のなかへ消えた。
周囲から、お客さんたちの歓声があがった。拍手喝采だ。
くじらの母子は時折、海面に姿を現しながら、そのまま前方へと進んでいった。他のくじらたちも一緒だった。 わたしたちはくじらが見えなくなるまで、何も言わず水平線を眺めていた。
船はいつの間にか、また海面を進んでいた。
うたう
うれしくて うたう
かなしくて うたう
さみしくて うたう
さけびたくて うたう いみもなく うたう
きこえないように うたう
ささやくように うたう
きいてほしい と うたう
はらのそこから うたう
つきをみてよ と うたう
ほしがきれいだよ と うたう
ぼくはここだよ と うたう
つたえたいな と うたう きみがすきだよ と うたう
あいたいよ と うたう
ぼくはここだよ と うたう
うたう
2002
肉体の発する痛みを 意識は知覚しているのだろうか
仮にそうだとしても
魂のレベルでは
安らかに
かの地へと
向かっていたのではないだろうか
スピッツの歌に♪死神の岬へ というのがあり、歌詞の中に「ガードレールのキズを見た」というフレーズがある。 先日こころと一緒にこの歌を聴いていて、ふと、「ガードレールって、知ってる?」と訊いてみた。 知ってるよ。 そっか、知ってるのか。どんなのか言ってみ? こころはちょっとムっとした感じで、こんなこんななってて道路の端の・・と説明し始め、あー合ってる合ってる!とわたし。
それが何? いや・・・信じられんかもしれんけど、初めてガードレールを見たときのことを覚えてるのよ。 はぁ? いやもうーーー衝撃的だった!
あの時自分が一体幾つだったのか?小学生低学年の頃か?もうちょっと上だったか? 記憶の糸を手繰るのだが、モヤモヤして思い出せない。 でも、真っ白のピカピカのガードレールを初めて目にして、近付いて、手で触れて、うおぉぉぉぉぅぅぅぅ! 心臓の部分に風がビュワーーーーンと吹いてきたくらい、とにかく「凄いものが出来た!!」と、子供心に思ったのです。 何がどうなっているのかわからんが、これがあればもう大丈夫!というようなことを思った。 たぶん、ガードレール建設中に色々と耳にした情報から刷り込まれたのかもしれないなぁ。。。
でもね、違和感はあったのよ。
当時の島の、道があって崖があって海岸があってという曖昧な流れの中に、ガードレールという人工的なブツ(物)が突如表れたのだから。 この景色には合わんでしょう、変でしょう、、、という感情は確かにあった。
が、子供だからかな。そういう気持ちとはわりと簡単に決着を付けたのだと思う。 「ガードレール」なんてカタカナの名前を口にするのもどこか誇らしかったし。 まぁ色々と悩むこともなく全然へっちゃらに受け入れちゃったのだ。
しかーーーし。
どれくらい経った頃なのか・・・これもまた記憶がアヤフヤなのだけれど、ガードレールで、またまた強い衝撃を受けたのだ。 それは、初めて、ガードレールのキズを見たときのこと。
いや本当に。信じられんかもしれんけどね、初めてそのキズに気付いたとき、真新しいガードレールを初めて見たとき以上に強烈だったわけよ。 なんでよ〜。
それまで自分にとって「ガードレール」というのは確実なものだった。道と崖と海とを隔てる完璧な存在。 自然というものは日々変わるが、人工的なブツは永遠に変わらない。なぜかそう信じていたのだ。 それがどうだろう。 あちこちにキズが付いていて、そこからは塗装が剥がれ落ち赤茶色の錆びが侵食している。 あんなに立派に見えたガードレールが、ヨボヨボに年老いた爺さんみたいになっているじゃないか。
不思議なもので、このとき、わたしの中でガードレールと自然とが一体化したのだ。 錆びたガードレールのほうがこの景色に似合うー、とさえ思った。潮風にさらされて錆びて朽ち果てそうなガードレール。 全然凄くないじゃん!!海のほうがやっぱり全然凄いんじゃ〜!という喜びの発見。
なんかえらい大層な話になったけど、なんでまたガードレールを思い出したの? さっきの歌詞よ。 はぁ? ♪ガードレールのキズを見た〜 あ・・・気付かなかった・・・けど、まみぃって面白ーい!
がっくし。
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