ぶらんこ
indexpastwill


2009年06月04日(木) こんなきもち

さて 行きますか

用意はいいですか

わたしは変わったと思いますか

どうでしょうか

待っててくれて ありがとう

では 行きます





海に入るときは

こんなきもち







2009年05月09日(土) 自我

夜中に親に隠れてこっそりと家を抜け出す。
というのは、中高生くらいでは珍しいことではないのかもしれない。
わたしの場合、親ではなくて「教官」だったけど。。。

 

中学を卒業した後に入学した准看護学校は全寮制だった。
小さな学校で、全生徒数は30人前後だったと思う。
寮にはふたりの教官が一緒に住んでおり、週交替で学生達を監督していた。

寮の規則では確か「外出・外泊ともに月に1回限り」となっていた。
また、門限は夏と冬で違っていたが17時頃だったと記憶している。

当時わたしはその学校と並行して高校の通信教育を受講していた。
入学前、学校側に「看護学と並行して定時制の高校に通いたい」という申し入れをしたのだが断られたので、やむを得ず通信教育となった。
それも「看護学の成績に響くようであればただちに通信教育のほうを中止する」という約束の下、ようやく許可を得たのだった。

通信教育では、毎月各教科のワークを提出することに加え、月2回のスクーリング参加が必須だった。
スクーリング日(日曜日)には、指定された場所(電車で1時間ほどの女子高だった)まで行き、実際に授業?を受けたり運動?したりする。
体育の単位取得のためというのがメインだったように思う。秋には「体育祭」というのもあった。

だが、、、正直あまり役には立たないというか、15-6歳のわたしにとって年上の方々との交流は楽しいものではなかった。
共通の話題もない(その土地の方言が理解できなかった部分もある)。
彼らはとてもエネルギッシュだった。わたしは一番若かったので何かと借り出されたが、彼らのほうが遥かに活力があった。
出来る限り明るく振舞ったのだけれど、いつも「空回り感」が拭えなかった。
結局、最後まで疎外感を感じた。きっと、わたし側の心の問題だったんだろうな・・と、今は思う。


そんなスクーリングのために月2回外出していたので、それ以外の外出・外泊は必然的に不可能だった。
まして、遠距離通学だったがため門限にも遅れたのだが、それを特別に許して貰っていた。
周りの学生からは、そのことでチクリと嫌味を言われることもあった。「まこちゃんは特別でいいよね」

面白くもないスクーリングへと出向き、周囲からは特別視される。
自分のことを理解してくれる人なんて誰もいない。
あの頃はそんな気持ちで暮らしていた。それだけが心を占めていたわけではないけれど。


ある夜、兄が東京に来る、という電話があった。
兄が仕事で東京に来る。時間は短いけれど、皆で会おうということになった。まこも来ないか?
そういう内容だった。

会いたい! と思った。
行きたい! と思った。

けど、外出は2回しか出来ない。今月もスクーリングだけでいっぱい。

「先生に訊いてみれば?」と言われたような気もするが、実はよく覚えていない。
覚えているのは「絶対に行くから!」と答えたことと、親しい子だけに話し、こっそりと出かけたこと。


朝、タクシーを呼んで駅まで行き、何度か乗り換えて新宿へ向かう。
ロマンスカーに乗り込んだときには、学校のことも寮のこともすっかり頭から消え去った。

携帯電話のない時代、どこでどうやって兄弟姉妹と落ち合ったのか?もう記憶がアヤフヤだ。
とにかく、兄と会った。姉たちも一緒だった。
新宿で何をしたんだっけ?なんか食べたのかな???あぁ、全然覚えていない、、、
なぜか、兄が白いジーパンをはいていたことと、「バレたときには兄が先生に話してあげるが」と言ったこと。
(後にこれを兄貴に話すと兄はすっかり忘れていたけれどね)

帰路。
新宿小田急線のホームで兄たちと別れた。寮に戻りたくなくて戻りたくなくて仕方がなかった。
ロマンスカーの中でひとり、さめざめと泣いた。そんな自分の姿を想像するだけで、今も胸が痛む。
寮に戻ってまた孤独な生活が始まるのだ、、、



ところがどっこい。そんな感傷に浸る暇はなかった。
寮に戻ってみると、事実を打ち明けていた友人が困った顔で言うのだ。
「先生にバレちゃったよ・・・もう大変なことになってる」



その週の担当教官は日頃、特にうるさくない、どちらかというと楽チンな先生だった。だから、ちょっと甘く見ていたのもあった。
どうしてバレてしまったのか。何かきっかけがあったような気もするが、もう覚えていない。
とにかく、わたしが朝のうちにいなくなったことに気付き、隠れて外出したことを知ったらしい。
神妙な面持ちで彼女の部屋を訪ね謝罪したのだが、あんなに感情的な先生をそれまで一度も見たことがなかった。
夜叉のような顔で怒られた。「あなたのせいで!」
目が赤く腫れぼったかったので、泣いていたのだと思う。
さっきまでわたしも泣いていたのだけれど、そんな気持ち、どこかへ吹き飛んでしまった。

それから、もう一人の教官と面接し(こちらのほうは怖い存在)、学校長とも面接し、反省文を提出し(させられ)た。
ひょっとして停学とかなるのかな、、と思ったがそれはなかった。(あったっけ?)


反省文には「本当に悪かった」というようなことを書いた。でも罪悪感は殆どなかった。まぁ少しはあったけど・・・先生を泣かしたし。
確かに隠れて外出したのは良いことではない。でも、外出したことについては後悔してなかった。
なぜなら、バレたっていいという気持ちで出かけたし、正直に理由を言ったって、どうせ許可はされないだろうと思ってたからなぁ。
あ・・・今の台詞はこころがよく言うやつと似てるぞ。。。笑


まぁ若いうちだから出来たことなのでしょう。内容からすればかわいいモンですな。


ところで、この後に実はもう1回だけ、教官に隠れて外出したことがある。
それはわたしだけでなくクラスの有志何人かで、オールナイトのアイス・スケートへ出かけたのだ。
友達の彼だかが夜中に車で迎えに来てくれて、確かあけがた4時半頃に戻った。
で、これはバレなかった。笑

友人たちはその後も何度か出かけていたけれど、わたしはその1度限りだった。
理由は夜の富士急ハイランドが寒かったのと眠かったのと、そんなに楽しくはなかったから。
思うに、この年代って、考えてるようであまり考えてないのかも(わたしだけかな?)



ところで、もし、こころさんが夜中にわたしたちに隠れて出かけたりしたら・・・

なるべく感情的にならんようにしたいものですが・・・内容にもよるか?笑


でも、本当に隠しておきたいことは親にもきっと言わないんだろうな〜。








2009年05月07日(木) ガーブリ

今はどうなのかわからないが、昔、わたしが小学校の頃は、授業が始まるときに決まり文句(挨拶)があった。
生徒は日直さんの掛け声で席を立ち、先生に向かって一礼しながら「お願いします」と言うのだ。
当時は悩むこともなく皆に倣ってしていたのだけれど、なんだか軍隊みたいだな。起立!礼! なんて「号令」って言ってたし。

まぁそれで大抵の先生は「はい、お願いします!」とか言って授業を始めた。
が・・・当時、ひとり、ちょっと(?)変わった先生がいたのだ。



彼は理科の先生だった。
確か低学年の頃は担任がすべての教科を任されていたが、4年か5年からは理科や音楽は専門の先生がいた。
だから彼に教わったのは4年生になってからだったと思う。

「理科室」は校舎1階の端にあり、奥に倉庫のような資料室の付いた、大きな教室だった。
普通の机ではなく、作業台のような大きな机がいくつか並んでいて、生徒は班に分けられて座った。
黒い遮光カーテンを引かれた窓際には怪しげな液体瓶が置いてあり、タマゴから孵化する雛(鶏)が順番よく並んでいた。
(けっして見まいと思いつつ、ついつい目をやってしまっては酷く後悔したものだ)
他にも、虫やら貝殻やら石の標本があったり顕微鏡やらビーカーやらがあったり独特な匂いもあったりで、とにかく特異な雰囲気を放っていた。

そんな理科室は、どこか神秘的かつ魅力的な場所だったのだが、あまり近付きたくない場所でもあった。
その理由が、彼(=理科の先生)だったのだ。


彼は、一言でいうと、「怖い」先生だった。
どう接したら良いのかわからない、近付き難い先生。


理科の授業は、とにかく「緊張」の時間だった。
(他の子はどうだったのかわからない、少なくともわたしにとってはそうだった。ええかっこしぃの小心者だったからね)


まず、授業がなかなか始まらないことが多々あった。

起立、礼、 お願いします
そう言ってから座った後、なぜか先生が何も言わないのだ。
子供たちが、なんなんだろう・・・と思い始める頃、

「お願い・・・・・・されません」

先生の、低く抑えた声が教室中に響く。


最初の最初にこの言葉を聞いたときは、子供心にうろたえたよ。
お願いされません、って、、されません、って、、、どうすればいいのよ???

たぶん、このとき先生が「やり直し」とか言ったのだろう。
今になって思い出すのは、何度も繰り返された「お願いします」という言葉と、目を閉じたまま顔を横に振る先生の姿、
え?また?なんで?という気持ち、馬鹿みたい、、、というあきらめ、じゃったら授業なしで帰らせてくれ!という悲痛な願い・・・まぁ色々。
けど、そんなこんなの葛藤とともに、やっぱりその度いちいちうろたえるのだから、純粋だったのかも。


あの頃の自分たちがそんなにふざけてたのかどうか。 今ではもう思い出せない。
教師にかなりコントロールされてたんだなぁ・・・と、苦々しくは感じる。
子供にとっての「先生」という存在って、強大なんだなぁー ってね。

嫌いな先生ではなかったようにも思うが・・・どうなのかな。
思い起こすと「怖い」というイメージしか湧いてこない。というのが、ちょっと淋しい。
あ、でも、先生が「お願いされません」と言ったとき、たまーにちょっと口元が緩んでいたことがあったのは覚えている。
怒っているだけじゃなかった。それは確かだ。


そうそう。彼のあだ名は「ガーブリ」だった。
誰が付けたのかはわからないし、由来も知り得ない。
TVか漫画のキャラクター名のような気もするし、怖いイメージを名前にした島口なのかもしれない。

はげー、ガーブリ、好っかんかったーーー!

直訳すると、「ガーブリ(先生)は好きではなかった」だが、島口で言うとね、愛情がこもっているのだよ。(と、思いたい。笑)



 ・・・


ところで、なんでこんな話を思い出したかというと−


こころがあるクラスで日本の学校について説明する機会があったらしい。
彼女はそこで、小学校の頃の体験入学の話や、約3年間の中学生活の色々を話したのだそうだ。

 そのときね。。。授業の始め方についてマミィの『お願いされません』の話もしたかったんだけど
 あはは!それは〜 英語にしても意味が伝わらないちゅうか説明が大変でしょう〜
 うん・・・だから話さなかった
 それにしても、そんな話あなたよく覚えていたわねー


というワケ。笑


ちなみに、この国では授業開始の決まり文句などはなく、「お願いします」に合致する英語自体、存在しない。
あえて言うならば、
 Good morning/afternoon! という先生の言葉に
 Good morning/afternoon, Mr./Mrs. xxxx! などと子供たちが返す。

これも小学校くらいまでかも。。。しかも、日本の学校みたいに授業と授業の間の「休み時間」もないから、状況が違ってくる。
また、高校生ともなると、先生が入室しようがしまいが授業が始まろうが始まらまいが、「勝手にどうぞ」ってな態度だろう。


規律で強制するか、規制なしで自由にするか。
まぁどちらにしても、ティーンエイジャーの中身はさほど変わらない。だろうね。笑






2009年04月02日(木)

大昔・・・たぶん12か13歳くらいの頃だったと思う、ある夏の日、母にこんなことを訊いた。

「お盆っちゅうのは仏教の考えでしょ?じゃぁなんでまぁこ達もお盆するわけ?」

で、母の答えは以下のとおり。

「なんでそんなこと言うのね、やっちゃいかんちはどこにも書いとらんよ」

いや不思議じゃやーち思ってのことよ、と言ったが母は一蹴。

「そんなの仏教だからとかキリスト教だからとか区別しようちする方のがおかしい。ぐじゃぐじゃ言わんで、早くハカザレして来い」


ハカザレとは「墓ざれ」である。(ザレはたぶん洗い清めるという意味か)
お盆の前に、墓石を綺麗に洗い磨いて墓所に新しい白砂を敷き詰めておくのだが、この砂採りがまた大変な作業なワケで・・・。
(現代は墓石だけでなくその周囲も大理石?が敷かれているので、白砂を敷き詰める作業をするのは少なくなった)

暑いテダの中、眩しく光る白砂を集め、墓所まで運んで敷き詰める。
花瓶を磨き洗い、新しい花を挿し、そこらに咲いているクロトンの葉を付けたし飾る。
墓石を水をかけながら磨き、拭きあげる。
(作業の後は(一応)手を合わせて祈る)
最後に、竹箒で白砂をならし、墓所の周囲は箒の綺麗な線で敷き詰められる。

以上が「ハカザレ」である。



・・・主題から逸れてしまった。


「区別しようちするほうのがおかしい」という母の言葉に、当時のわたしは
質問の答えになっとらんが・・と思ったのだが、ハカザレしたくない言い訳と取られるのが癪だったので、それ以上追求しなかった。

そのうちに、深く考えることもなく、毎夏、お盆を迎える前にハカザレし(ハカザレは年に何度かあったけど)、堤燈を飾った。
それは暮らしのなかに充分に滲みついていたから、特別に意識することもなくなった。
亡くなった父の霊が我が家に帰ってくるという想いや感覚はなかったが、お盆には父や先祖の霊を思い起こした。


そして、だいぶ後になってから、お盆というのが仏教の行事でもないらしい、ということを知った。
確かこれを知ったのは、日本人の宗教観について調べていたときだった(30歳くらいの頃だったかも)。

そのときに先の母の言葉を思い出し、なるほど。。。と妙に納得したのだった。

これは、西洋文化(西洋思想)からすれば、非常に矛盾したものかもしれない。
けれども、その矛盾こそが日本人の良いところなんじゃないの?と思う。
矛盾を抱えることをよしとする何かがあって、さまざまなものを取り入れ、融和させていくことが出来た。のか?

残念ながら、適切な文章で表現できないのがもどかしい。


あ、だから母の返事も強引だったのかも?
日本人たるゆえに、ということか(これこそ強引か?)






2009年03月06日(金) 「親友」

町で開催されたアートフェアーへ出かけたことが引き金となったのか・・・ふと思い出したことがある。


中学2年か3年の頃、美術の時間に「人物画」というのがあって、わたしは親友の顔を描いた。
机をくっつけ、彼女と向かい合うように座り、わたしは彼女を、彼女はわたしを、それぞれ描いたのだ。


当時のわたしにとって、彼女はいちばん近い存在だった。
お互いを「親友」と呼んでいた(と思う)。

あの頃のわたしは非常に屈折していて、自分を表面に出さないようにしていたが、彼女には(比較的)防御を緩めることが出来た。
自分のすべては出せなかったけれど、そうしたい、とは望んでいた。
だから彼女には密かな恋心も打ち明けた。(彼女の他、誰にも言わなかった、否・言えなかった。と思う、たぶん)


本当に彼女のことが大好きだった。
名前も、姿形も(綺麗な子だった!)、頭の回転が良いところも、適度に運動が出来るところも。
何より彼女は面白かった。
あんなに綺麗な顔のどこからどうやって、あのふざけた思考が飛び出してくるのだ?と思った。
もちろん、思考は顔から発生するものではない。つまりはそのギャップが新鮮で嬉しい驚きで、不思議と波長が合ったのだろう。




その彼女を人物画のモデルに選んだ。
白い画用紙を前に、わたしの2B鉛筆は、さらさらさらと動いてくれた、ためらうことなく。
今でもはっきりと覚えているのは、まず彼女の眼から描き始めたということ。
眼というか、眼の部分。眼球と瞼、その周囲。その後に、鼻、頬、耳、口、それから顔の輪郭。
(実は、漫画を描くときにはいつも顔の輪郭からはじまり、眼、鼻、口・・と描いていたので自分自身ちょっと驚いた)


さて、こうして仕上がった絵にわたしは大満足だった。
わっ似ている!と思った。これはまさに○○じゃ〜!と思った。
彼女はというと、「えぇーーーこれ酷いよ、、、」と不満気だったが、別に気にならなかった。
いいの、自分で好きだから。

思いがけず、美術の先生からも絶賛された。
特徴をよく捉えている、というようなことを言われた。彼は他にも何やら言っていたが、残念なことにまったく覚えていない。

とにかく、誰になんと言われようと、わたし自身がその絵を気に入った、ということが大きかった。
なんとも形容しがたい、しあわせな気持ちだった。



それからしばらくして、中間だか学期末だか、美術のテストがあった。
教科書に載っている、美術一般の事柄や美術史からの何やらが問題として挙げられていた。
が、問題用紙の二枚目(だったと思う)最後の問題は「担当の試験官を描きなさい」で、ページ半分程が四角で囲われていた。


生徒たちがざわざわっとしだした。
それを見越していたかのように先生はわたしたちをなだめ、「ハンサムに描いてよー」などと言って笑わせた。


わたしは・・・

結構、自信があったのだ。
あれだけの親友を描けたのだから、先生なんて簡単カンタン〜ってね。


ところが、鉛筆が動かない。全然、まったく動かない。
おいおい時間がなくなっちゃうよ。早く描かないとーーー。

もちろん、焦れば焦るほど全然ダメ。
しょうがない。無理に鉛筆を動かす。顔を上げる。先生を見る。線を描く。線を太くする。細くする。消す。その繰り返し。


どれくらいの時間だったのか。とうとう鐘が鳴り、試験終了。

そうやって出来上がった先生の姿は・・・





とーーーっても





ちっちゃかった!!!




まぁーーわたしは自分の絵を見て愕然とした。どうなっちゃったの、わたし!

似てなくないことはない。が、違う。これは違うでしょうー。
正直、うろたえた。
すべて消してしまいたいとう衝動に駆られた。
でも、多少の点数は貰えるだろうと、そのまま提出した。

その後は、案外良い出来だったのかもよ?と思い直したり(言い聞かせたり)もしたが、いやあれはいかん、、、と、さらに落ち込んだ。


結果、テストそのものの点数は悪くはなかった(と思う)。
絵に対する点数は、高くもなく低くもない、といったところか?(全然覚えていない)

覚えているのは、筆記試験と一緒に絵を描かせて点数にするって卑怯じゃないか、と思ったこと。
また、いくらかでも点数になる・・なんていうイヤラシイ気持ちを抱いた自分が情けなく、なんとも腹が立ったこと。



う===嫌な思い出だ。




ところで、その親友とはもう長いこと会っていない。
一度、5年か6年前に島へ帰ったとき、遠くから姿を見たことはある。
あっと走り寄って声をかけようかと思ったが出来なかった。
彼女はふたりか三人の、まだ小さなこどもの手を引いて歩いていて、その姿を見てなぜか躊躇してしまった。
彼女じゃなかったかもね、と思ったりもしたが、いやあれは絶対に彼女だ、と変な確信もあった。
実際、彼女が島に住んでいるかどうかもそのときは知らなかった。



あのとき声をかけなかったことに後悔はしていない。
でも、もしもいつかまた会えたなら・・・


はて。何を話したら良いのやら?やっぱりわからんけど。。。
そうなったらそうなったで、楽しみではある。かも。



今、思うのは。。。

あの頃、自分をさらけ出せなかったと同時に、彼女のこともよく知ろうとはしなかったのかもしれないな〜ということ。
自分のことで精一杯だったのかもね。自分ばっかり見てたから。色々ぐじぐじ悩んでたし、そのことは彼女にも言わなかったしなぁ。
いわゆる「思春期」てヤツ、と姉に言われたけれど・・・

あ・案外、彼女もおんなじだったかもしれないなぁ。。。






marcellino |mail