ぶらんこ
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底へ降りていくのに
どれだけの時間を費やしたろう
ここが深淵か
或いはもっと深いのか
わたしは闇を欲する
もっともっと
わたしを包み
わたしを飲み込むほどの
苦しみこそがわたしの支え
痛みこそがわたしの糧
闇に限りはない
ひたひたとどこまでも続く
じっと目を凝らす
拡がる闇を見る
闇は休むことがない
わたしに寄り添い
わたしを放さない
わたしは闇を見る
闇に
果てがあるかのように
その日は食事の支度が遅くなり、どこかへ出る気分でもなかったので、ではカレーの残りを食べようか。ということになった。 しかし、カレーにするにはご飯が足りない。 今から炊くのもなぁ・・・としばし思案した後、カレーうどんにしようという名案が浮かんだ。 そこで、普通のカレー1人前、カレーうどん2人前を準備した。
その日はわたしとこころと姉との3人であった。 いざ食卓へと持っていくと、3人とも「誰がカレーで誰がカレーうどんになるのか」という顔になった。
早速こころが「誰がどれ?」と訊いてきた。 ちょっとした沈黙の後、「じゃんけんで決めよう」と姉が言った。
またじゃんけんかよ・・・という空気が一瞬流れたが、とりあえず皆それに賛成した。
ラッキー!最初に勝ったのはわたしだった。わたしは迷うことなくカレーうどんを選んだ。 姉とこころは熾烈な戦いを繰り広げたが、結局こころが勝ち、彼女も嬉々とカレーうどんを選んだ。 姉は、「負けた人がカレーうどんじゃなかったの〜〜〜?」と、戯言をのたまった。
ほっほっほっ どうぞどうぞなんとでもお言いなさい。 「わたしは最初からカレーうどんが食べたかったもんね」 「カレーうどんのほうが美味そうだし」
勝った人はなぜか心も広くなる。「少しなら食べても良いよ」とか言ったりして。
兄弟姉妹を持つ良さというもののひとつに「真剣勝負」があると思う。 それはつまり、「容赦ない」ということ。 たとえば、何かを得るため「ぶつかり合う」こと。 その中には、本音を隠したり出し抜いたりということも含まれる。 そしてそれは歳が上だとか下だからというのは関係しない(少なくとも当人達にとっては)。 結構、ダーティー。純粋な汚さ。
と、ずっと思ってきた。 兄弟姉妹とはそうやって育っていくものだと思ってきた。 でも、そうでない家庭もあるんだなぁ・・・というのを大人になってから知った。 それは親の考え方とか家庭の経済状態だとか、色々な環境の違いから来るのだろう。
なので、「じゃんけんで決めよう!」と言ったとき、例えば相手から「あげるよ」なんてすんなり言われると拍子抜けしてしまう。 え?欲しくないのか?と問いたくなる(問うてしまう)。 欲しいことは欲しいけど、そこまでして欲しいわけじゃないからいいよ。なんて言われたりしたら、もう・・ホントに困ってしまう。
大体、「じゃんけんで決める」という発想すらない人もいる。 それはどういうことだろうか。競争意識がない?それとも渇望感がない?
こころはひとりっこだ。 そういう予定でそうなったわけではないが、結果的にそうなってしまった。 ひとりっこというのは、分けたり奪ったりする相手となる兄弟姉妹がいないということだ。 それは、常になんの障害もなく物が与えられる。ということになり兼ねない(もちろん、こどもが欲しいのはモノではない、心=愛情だ)。
と、いうことを意識してきたつもりはないのだが、どうもその「相手」役を自ら引き受けてきた感がある。 なので彼女はよく、「じゃんけんで決めよう!」と(わたしに)言ってきたし、今もそうだ。
相手となるからには、一切手を抜かない。真剣に勝負に挑む。 そこらへんを、母親らしからぬ・・・と言われたりすると、まぁ確かにそうかもね、とは思う。(それが何か?)
そう言えば以前、大皿に盛った鶏の唐揚げが残り少なくなったとき、皆でじゃんけんをしたことがあった。(しかし狡い話題だ、、ははは、、)
その夜のメンバーは、わたし、こころ、姉ふたり、母の5人だった。 さて、母抜きでじゃんけんを始めようとしたら、珍しく母が「母ちゃんもじゃんけんする」と言うではないか。 いつも誘うと「母ちゃんは要らんからいい」と断ることが多かったので驚いたが、皆、手放しで母の参加を喜んだ。もう俄然、勝つ気マンマン。
さて、仕切り直して、じゃんけん。
確か鶏は3個残っていた。最初のふたりが誰だったか忘れてしまったが、なんと3人目に勝ったのが母だった。
母は「では、いただきます」と言って軽く会釈した後、「はい、これはこころにあげるから」と言った(!)。 こころは、えっと驚いてから「いいよ、おばあちゃんが勝ったんだから・・」と(一応)遠慮がちに言っていたが、顔はもうにやにやだ。
「母ちゃん、そら駄目でしょう!」 「そんなんじゃ勝負っち言えんがねー」 「じゃんけんした意味がない!」
娘達の雑音に、母はびくともせず、にかっと笑ってぴしゃりと言った。
「母ちゃんが勝ったのだから、母ちゃんのしたいようにしていいの」
・・・うぅ、、、確かにそのとおり、、、
かくしてこころさんは、「おばぁちゃん、ありがとう〜〜〜!」と満面の笑みで鶏を頬張ったのだった。 しかも彼女は先に勝ってたよな気もするのだが、そこらへんは無理に記憶を抹消したのかおぼろげだ(確かめるつもりもない)。
ところで我が家の公平な選び方としては、じゃんけんの他に「あみだくじ」もよく登場する。 まぁどちらも文句のつけようのない公正さだと思うので、自信を持ってお勧めしたい。
つまり、何が言いたいのかというと、「真剣勝負」というのは、愛そのものだと思うのです、我が家では。
歳のせいなのか? 姉たちといるとよく昔話に花が咲く。 夏に帰ったときにも色々話した。笑った。泣いた。
なんだろうなぁ・・・昔の、島の我が家には、とてつもない明るさがあった。 「貧乏子沢山」という言葉がそのまま当てはまる我が家にあった、底抜けの明るさ。 あれはどこから来たのだろうね? 姉妹4人が揃ったとき、そんな話になった。
相当の貧しさだった。と、今になってしみじみ思う。 その反面、当時は殆どの家庭が貧しかったでしょう・・とも思う。実際、そう思っていた、「どの家もおんなじ」って。 いやいや片親だったからね。やっぱりかなりの差はあったんだろうねぇ。。。
不思議なことに、自分達は「貧しい」という感覚がなかった。 厳密に言うと、貧しいという「認識」はあった。それがいつ頃からなのか?兄弟姉妹それぞれ、違うのだろうと思う。
「よその家とうちは違う」という気持ちは覚えている。 それは、父親が死んでしまって、もうこの世にはいない、ということ。 それは、もうどうしようもないことだということ。
「貧乏〜貧乏〜」と、近所の子供たちに囃された記憶はある。何度かあったと思う。 強烈に、そしてこれが最後だったと覚えているのは、小学校4年生の頃の教室でのことだ。 たぶん彼には、悪気というか本気というか、そういうのはなかったのだろう。 椅子の上に立ち、両腕を揺らし、他の子らを扇動するように面白可笑しく叫んだだけ。 みんなはくすくす笑っていた。 わたしは・・・恥ずかしい!と思った。そして、なんでバカにされるのだ?と、憤りを覚えた。 よく覚えていないが、悲しかった気持ちもあったかもしれない。でも「怒り」のほうが強かった。
・・・バカにするな!
そうだ。バカにされたのだ。貧乏だからって、バカにされたのだ。 それは不条理なことだ。それはあってはならないことだ。貧乏であることが何が悪い。 バカになんかされるものか。バカになんか、させない。
・・・っていうのがいつも根底にあって、それで勉強を頑張ったような気がする。
というのは姉の見解。なるほどそうだったかもしれない。そう言われてみればそうだったのかもしれない。 あぁ なんというか・・・イヤラシイ・・・ははははは。
皆と同じ位置に立てるのが「勉学」。 覚えるべきことを覚えたり、頭を使わなきゃならんときは思いきり使ったり。
わたしは覚えていないが、父はとても教育に熱心だったらしい。 彼自身は充分な教育を受けられなかったが、非常に頭の切れる人だったそうだ。 兄や姉たちは父親のことが大好きだった。テストや通知表の成績が良いと父が嬉しそうだったので、余計に頑張ったそうだ。
そういう経験も、学ぶ姿勢に繋がったのだろうか。 そしてわたしの場合は、そういう姉たちを見てきたからか。
我が家は楽しいことだらけだった。笑ってばかりいた。お漏らししてしまうくらい、笑ってばかりだった。 もちろん泣くこともいっぱいあった。きょうだい喧嘩も沢山あった。 わたしはというと、ちぶって(拗ねて)家出したことも数知れず(笑)
それでも我が家が一番だった。
あの明るさは、どこから来たのだろう。 思い出すと今でも笑いの零れる、我が家のあの雰囲気。
島の、あばら家のような、古いふるい、懐かしい我が家の 明り。
入院している母へ、姉の携帯電話を介してメールを送った。
量は少なくてもいいから、出されている食材はなるべくすべて少しずつ口にして欲しいこと 食事を摂ることで体力がつき、腸の動きも良くなるということ 痛みがあるときは遠慮せずに看護師に伝えること 娘(姉のこと)が来たのだから、色々なことを気に病まず安心して療養してください
などなど。 かなり気弱になっているらしかったので、母の気持ちを損なわないよう心がけたが、しんみりし過ぎてもな・・と、最後にこう付け加えた。
「トラウなよ」
これは「喧嘩しないでね」という意味。(姉と母はよく似ているせいかよくトラウから・・) きっとふたりで笑っているだろう、と思っていたら、ほどなくして返信が届いた。 開いてみると、そこには一言。
「むどぅてぃくよぉぉぉ」
思わず涙が零れてしまった。。。母の言葉そのままを姉が打ったのだろう。
すぐに返事を送った。母に倣って、島ユムタで。
本当に・・・夏には帰れるようにしたい。 と、強く思う。
友人らと温泉旅行に来ている。山奥のわりと大きな旅館だ。 温泉に浸かって友人らと話しながら、今日果たすことの出来なかった山登りのことを思い出している。 そして、どうしても登りたい・・という気持ちが強くなっていった。
ちょっと行って来るから、と友人に声をかけた。 彼女達は「気を付けてね〜」と笑いながら気軽に手を振ってくれた。冗談だと思ったのか?
湯気の篭る渡り廊下を抜けながら、ワクワクと胸の高鳴りを覚えた。今から出かければ明日は皆と合流できる筈。。。
・・・
登山口に到着した。周囲にはもう誰もいなかった。 登り始める前に自分の跳躍力を確かめてみると、まずまずの感触だった。
わたしは飛ぶように山道を進んでいった。 ひと跳びで10m以上は軽くいけた。 跳び方に慣れてくると、もっと大胆に跳ぶように試みた。 そうだった、こうやっていつも飛んでたじゃないか、と思い出した。 そして、なぜずっと歩いてたんだ?と不思議に思った。なぜ忘れてしまってたんだろう?
あっという間に頂上まで来た。 辺りは靄に包まれている。これまで登って(跳んで)来た道程も靄に満たされ、ところどころ見え隠れしていた。 汗ひとつかかず、いとも簡単に到達してしまったのだが、とても晴れやかな気持ちだった。 ずっと忘れていた何かを取り戻したような満足感。
ふと、友人らに見せようと思い、周囲の写真を何枚か撮った。 ちょっと恥ずかしい気持ちもあったが、右腕をなるべく前へ出してカメラに向かってにかっと笑い、自分の写真も撮った。
それから山を下りた。 登ってきたときよりもさらに大胆に跳んで下りていった。
・・・
駅には大勢の人達がひしめき合っていた。 大久保、急行〜。というアナウンスを耳にし、慌てて電車に飛び乗った。 暗い表情の、赤ん坊を連れた女性の隣に座った。眼が合ったので軽く会釈したのだが、彼女はそっぽを向いてしまった。 赤ちゃんはシートの上に寝かされていた。古めかしい時代錯誤な服を着せられていて、生地の厚さとは裏腹に到底暖かい服とは思えなかった。
ほどなくして車掌が入ってきた。若い女性だった。彼女は真っ先にわたしの元へやってきた。 チケットを見せると、「指定席。480円いただきます」と言うので、「すみません、移ります」と席を立った。
それからその電車を降りた。乗り換えのためだ。 人の波に逆らわずに進むと、エスカレーターが伸びていた。前方からスムースにエスカレーターへ吸い込まれていく。 わたしの番になりいざ足を踏み出すと、そのエスカレーターには手すりも何も付いていなかった。いわゆる足元のベルトコンベアのみだ。 ひゅーーー危険だなぁ・・・と思い、軽く跳んで降りることにした。長いエスカレーターだった。 慣れているのか、人々は黙ったまま静かに立っている。わたしはその中を縫うように跳んでいった。 何度かめで地上が見えた。出口(?)には駅員が立ち、人々を誘導していた。そこを目指して跳ぶと・・・
エスカレーターの出口付近に、鉄棒のようなものが何本か立っていて、トンと足を下ろしたときに、それらがバラバラと崩れてしまった。 なんでこんなところに障害物があるの?と思いながらも、ぎろりと睨む駅員に「すみません、」と軽く頭を下げた。
駅員は冷ややかに「計何本?罰金はあちら」と言って、もうひとりの駅員を目で示した。 まったく気付かなかったのだが、もうひとりの駅員が少し進んだところに立っていた。こちらはとっつきやすそうな顔をした若い男性だった。
幾ら払ったら良いのか訊くと(なぜか英語)、彼はにこにこ笑って何も言わないので、わたしはお財布から10セントを手渡した。 「ダイムなんて!」と、彼は噴出した。「きみが倒したのは何本だったと思う?」(こちらも英語だった。喋り方からアメリカ人なのだと思う) 突然、恥ずかしい気持ちが沸き起こった。そして、10本もなかった筈、と思い、$1札を差し出した。 しかし駅員はまだ笑っていた。わたしは、これ以上は大きなお金になってしまうからそれしか出せない、と丁寧に、だが強気に交渉した。 サイフの中には$5と$20紙幣が何枚か入っていたのだが、$5払う気持ちはさらさらなかった。 駅員はにやっと笑いながら、「オーケィ」と通してくれた。
・・・
アミューズメントパークにいる。 屋内型の、巨大なアトラクションを見上げている。 透明な筒状があちらこちらに伸びていていて、6人乗りほどの車が音もなく通り過ぎていく。 わたしがいる場所は中庭のようだ。とにかく入り口か出口を探さないとどこへも行けない。 わたしは軽く跳躍して高いところへ立ってみた。何度か跳ぶと、こどもが座っているのが見えた。 どこから来たのだろう?いや、どうやって来たのだろう?と思っていると、下から母親らしい女性がその子を呼んでいた。 すると、いつの間にかその子は母親と一緒にいて、わたしのことを見上げていた。 あれ???どうなってんの? 女性はこどもに「見ちゃいけません」と言っている(ような気がした)。でもこどもはまっすぐな眼でわたしを見ている。 あの子なら行きかたを知ってるかもしれない・・という気がするのだが、今ではもう豆粒ほどに小さい。
ここは前にも来たことがあるんだけど・・・行きかたを思い出そうとするのに、どうしても思い出せないでいる。
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