ぶらんこ
index|past|will
エンピツ日記の新着リストを眺めてはちょこっと覗いてみたりしている。 覗いてみたいな・・と思わせる何かというのは、日記のタイトルだったりその日の題名だったり作者のハンドルだったり。 本屋さんで、本を選ぶのと同じような感覚かもしれない。
面白いな、と思うのは、タイトルや題名はもちろんその作者が付けるのだろうが、ハンドルもまた作者自身が付けている、ということだ。 当然と言えば当然なのだけれど、自分の名前って本来は自分で付けられないものだから、面白なぁ・・とあらためて感じた次第。
ところで、この前こころとふたりで今年の卒業生のリスト(新聞に載っていた)を見ながら「名前」の話になった。 ある知り合いの子の名前を見て驚いていたら(かなり仰々しい感じ)、本名と呼び名が違うことは多いよ、と他の例まで教えてもらったのだった。 いろんな名前を聞いては、ほぉ〜 おぉ〜〜〜 へぇ〜〜〜と感嘆の声。 でも、その後、「わたし、自分の名前が大っ嫌い!」と言われて、あらららら。。。
へぇーそうだったの!!と、びっくり。
理由は「つまらない名前だから」だそうだ。 そっか。それは残念だね。。。まぁわかるけど・・・でもなかなか変えられないからねぇ(変えようと思えば変えられるだろうけれど)。
わたしは自分の名前がわりかし好きだ。 大昔は名前でよくからかわれたので、「嫌だなぁ・・・」と思ったこともあったけれど、今は大丈夫。 好き。というよりも、しっくり来る。という感触かもしれない。 こころさんもいつか、そう感じてくれると良いなぁ・・と願う。
少し前の話だが、仔犬(生後6ヶ月)を迎え入れようかどうしようか・・という話が我が家であった。 新聞に載っていた記事をスカさんが見つけたのがきっかけだった。 仔犬を飼いはじめたは良いが、自分達の手に負えなくなったのだろう。
受け入れたい気持ちはあった。 でも、悩んでいるうちに彼は貰われていった。きっと、縁がなかったのだろうと思う。
実は、悩んでいる間、仔犬の名前を考えていた。(変な話だ) その子を何度か見たことがあったので、すぐに名前が浮かんだ。 それは Chaos(ケイオス)。 日常的に、混乱・無秩序状態という意味でしばしば使われる。 日本語にすると、もうぐちゃぐちゃのめちゃくちゃー!という感じ。やんちゃなオゥシーパップにはぴったりだ。 ちなみに、辞書できちんと調べてみると、ギリシャ神話の原初神であり、カオス理論というものも出てきた。 んーなかなか深い名前でますます気に入ってしまった。
言葉に込められた力(言霊)は確かにあると思う。 たとえその言語を知らなくても。 でも、心のまんまを言葉にのせられることって、本当に少ない。 だから、そのまんまを受け取る必要もないし、自分が抱いている言葉のイメージを手放しても良いのかな。。と思ったりもする。
と、ここまで書いてみたが、やっぱりうまく言えてないな。。。
簡単に言っちゃうと、いろいろ(勝手に)思い込まずに、シンプルかつオープンでいたいな、ということです。
ありがとう。
2008年05月16日(金) |
competition |
The life is tough.
でも、競って勝つことが目的ではない筈。 むしろ、「勝つ」ことに無頓着でありたい、とさえ思う。
この世界ではきみは簡単に死んでしまう。と、あなたは言うのだろうか。
いいえ、それは違います。 誰にも知られずにひっそりと生きるでしょう。 そうしてそれをわたしはしわせと感じるでしょう。
Meals on Wheelsと呼ばれるボランティアに参加した。 日本でいうところの配食サービス(home-delivered meal program)だが、決定的な違いは、配達がボランティアで構成されている点だと思う。
このボランティアを知ったのは、教会で手渡される週刊誌からだった。2ヶ月くらい前だったと思う。 すぐに申し込んでみようかな・・と思いながらも躊躇いがあり、そのままにしていたら翌週、また募集がかかっていた。 それを見て決心がつき、申し込んだのだった。
Meals on Wheelsはカウンティ(郡)或いは市、町レベルで運営されている。 また、その名はさまざまで、わがカウンティでの正式名はCongregate Mealsである。 (congregate;集まる[める]=つまり、皆で集まっての食事。という感じかな〜)
初日。 告げられた場所へと少し早めに向かった。そこは高齢者専用のコミュニティだ。ほぼ中央にコミュニケーションセンターがある。 そこの厨房で食事が作られ、我々ボランティアによって配達される、という仕組みだった。 到着すると担当の女性が元気良く迎えてくれた。電話で打ち合わせした女性だ。 想像どおり、彼女は(控えめに見ても)軽く70歳を超えた感じの女性だった。 周囲にテキパキと指示を与えていて、小柄ながら貫禄があり、頼もしい限りだ。そのパワーに、一緒にいるだけで嬉しくなってしまう。 わたしが、まったくの初参加であることをあらためて伝えると、彼女は「あぁそうだったわね!大丈夫よ!」と肩を抱いて歓迎してくれた。
まず書面にサインをし、担当区域の小冊子を渡された。 配達する食事を確認した後、彼女の持つ書類とダブルチェックしながら配達方法を教えてもらう。 (と言っても、住所の確認程度で、実にあっさりとしたもの) 配達は8軒分だった。思っていたより少なくて、ちょっと安心。 小冊子には町の簡単な地図も入っているし、初心者でもなんとかなりそうだった。
食事は袋に入った飲み物やデザート類と、保温庫に入れられた食事のトレイである。 それらは順番良く並べられているのだが、配達先を間違ってはいけない、と慎重に何度も確認した。 この町の地理に詳しくないこともあり、地図とともにストリート名を確認しながらの配達だった。 また、名前を見ててっきり女性だと思って届けると男性だったり(その逆もあった)、 はたしてこの人は家族なのだろうか、まさか間違った場所なんてことは・・・ と、ヒヤヒヤしたのだが、後になって男性にも女性にもある名前だと教えられて目からウロコだったり。。。
そんなこんなで、初日は思った以上に時間がかかってしまった。 コミュニティセンターに空の容器を返しに行くと、ホールには既に大勢の老人達が食卓に着いていて、ちょうど食前の祈りを唱えていた。 (Congregate Mealsはコミュニティの住居者のみでなく町の誰もが参加可能で、車でやってくる方々も沢山いらっしゃった)
翌日からはかなりスムーズに配達出来た。 利用者さんともちょこちょこっと話をしたり、とても楽しかった。 中には無愛想というかunhappy,grouchyな方もいらしたが、まぁそんなものだろう。 独居という生活体形は、たとえそれが自身の意思であろうとも、やはり淋しいものだろう。 また、配達希望者というのは、日常のなかで外出することが困難な方々なので、尚のことだと思う。 しかしながら、大概の方々はにこやかに迎えてくれたし、嫌な思いをすることは全然なく、ありがたかった。 そして、あっという間に5日間が過ぎてしまった。
昨日は最後の日だったので、利用者さんにお礼を言いながら配達した。 利用者さんも、週毎に配達者が変わることを知っておられる様子で、お互いに「ありがとう」を言い合った。 お昼前、毎日1時間にも満たないほどの時間だったが、とても楽しく良い経験だった。 機会があれば、是非また申し込んでみようと思っている。
ところで、このように「気軽に」参加できるシステムが完成されていること自体が素晴らしいなぁ、とあらためて感じている。 配達のボランティアはわたし以外にも7〜8組ほどあり、その殆どが高齢者夫婦だった。 途中で気付いたのだが、こころの学校のシニアも参加していた。 どうやら、各々の配達ルートにより、ボランティアの依頼先(というのかな?)が決められているらしい。 各団体(教会とか学校とか)は、依頼された期間のボランティアを募集する。 わたしの教会の場合、期間は5週間で、各ボランティアの担当は1週間。 それが例えばひとりで1ヶ月だったら・・・なかなか出来るものではない。。。かもしれない。 前もって決められた短い期間だからこそ、やってみようかなー。と思えるのかもしれない。 (ちなみに、こころの学校のシニア達は毎日違うメンバーだった)
さて、あっという間に5日間が過ぎ、あぁこんな簡単なことだったらもっと続けても・・とも思ったのだが、 それくらいだからちょど良かったのかも・・・と、今になって思い直している。 なぜなら、色んな人が参加できる機会が沢山与えられること=マンパワーの充実。に繋がるのかな。。。と思ったりして。
最後に。 Congregate Mealsは月曜日〜金曜日の昼食のみだ。 一食分のコストは約$4.75となっているが、食費の支払いは義務付けられず寄付金で良いとされている。 ただし、利用者が60歳未満の場合のみ、総コスト分($4.75)の支払いが要求される。 もちろん、配達サービスを受けるのも、ボランティアで構成されているので完全な無料である。
この国のボランティアの歴史、意識の高さを感じる。
わたしは、こどもと一緒に過ごす時間に「長過ぎる」ということはない。と思っている。 でも、「一緒に過ごす時間が長ければ長いほど良い」とも思っていない。
先日、面白い話を聞いた。 「マミィはこどもが好きじゃないんだよね」と、いきなりこころに訊かれたのが始まり。 「好き・・・じゃぁないね」 ちょっと間を置いて答えたところ、すかさず「ダディは?」と言ってきた。 本人に訊けば?と促すと、すぐに向こうから「Ha-ha!好きだと思う?」という笑い声がした。ははははは、 ところで意外だったのは、「あ〜マミィとダディがわたしの両親で良かった!」という彼女の言葉。 へ?どういうことよ???
事の発端は、こどもとの関係に問題を抱える親がNannyに依頼して問題を解決するという番組らしかった(わたしは見たことがない)。 その日彼女が見たのは、6人(だったと思う)の子をHomeSchoolで育てているケースだった。 授業に専念できないこども達の態度=やりたい放題のこども達をなんとかしたい、というのが親の願いだったらしい。
彼らの生活ぶりを見たNannyの指示に「寝る前のこどもとの時間は5分」というのがあった。 それを聞いた父親は、最初に激怒したそうだ。 彼の信念が「こどもが充分満足するまで一緒に過ごす」というものだったから。 しかし、ひとりひとり眠るまで時間をかけるため、それは毎晩深夜にまで及び、結果こどもは寝ない⇒父親は疲労困憊。なのであった。 「あんたに頼んだのはHomeSchoolでの彼らの態度を変えることだ。寝る前の僕達のやり方を変えることじゃない!」 結局、Nannyの説得によりこのルールに従うことになったらしいのだが、こどもの泣き声を聞きながら、扉の向こうで両親も泣いていたそうだ。 「あんなに泣いてかわいそう・・・胸が押し潰される・・・」 母親は、彼女の夫のためにNannyに訴えた。 「彼はこどもの頃、両親に満足に手をかけて貰えなく、とても淋しい思いをしたの。そういう思いを我が子にさせたくないの。 彼の気持ちもわかってあげて。」
ひとり気の弱い子は、両親の希望で太極拳(だと思う)に通っていた。 送り迎えは母親がしていたが、彼女は常に彼から見える位置に立ち、最初から最後まで見守るのだそうだ。 なぜなら、母親の姿が見えなくなると彼は不安になり、稽古が出来なくなってしまうから。
他にもいろんなシーンがあったと思うが、こころが(鼻息荒く)教えてくれたのは上記の2点だった。 たぶん、こども達が手に負えなくなっての依頼が、生活全般あらゆる場面を見直すことになってしまった。というところだろう。 問題の本質とは、いつもそういうものかもしれない。当事者には、なかなか見えないのだ。
「あなたがやっていることは、こどものためにはなっていない。あなた自身のため。あなたが満足するため」
Nannyが言った言葉を、かみ締めるように繰り返したこころさんであった。 本当に。あぁわたしも気を付けないと。
自己満足の追求はとても大事なことだと思う。これは、こころにもいつも言っていること。 でもこの場合の自己満足って、たぶん表面的な自己満足だからすぐに飽きてしまうのだろうな。 だから繰り返す。そしてどれだけ繰り返しても、「本当の満足」は得られない=苦しいだけ。なのだ。
では、本当のほんとうに自分を満足させるには・・・?
・・・それは誰も教えてくれないから自分で見つけ出すしかないのだろうなぁ〜。 きっとこころさんにも、色々あるのだろうなぁ〜。。。
ところでこの両親、問題の本質に気付いてはなかったけれど、依頼してみようという行動を起こしたこと事態が変化の兆しかもね。 あ、そう言えば、結果うまく行ったのかどうか、確認するのを忘れてしまったな・・・。
・・・・追記・・・・
ここではReality Show/Reality Televisionといわれる視聴者参加型の番組が非常に多い。 日本のTV番組というと、有名人ばかりが出て、楽しんで、おまけに賞品まで貰っちゃう、こことはまるで逆の様相だ。 (母が大好きだった東京フレンド・パークとかね。まだやってるのかな?)
Reality Showには実に色んなジャンルがある。 その中で、視聴者が抱える問題を解決する(先のリンクによると)Self-improvement/makeoverというプログラムがある。 こころの見た番組もそのひとつなのだろう、と想像する。 ところでわたしがたま〜に見るのは、プロのトレーナーがペット(犬)の問題行動を直すという番組。⇒It's Me or the dog! 犬たちのやんちゃぶり(賢さ)と人間たちの困惑ぶり(愚かさ)が対照的で、大笑いだ。まさに我が家を見ているよう。 かと言ってそれを問題だとは思っていないのだけどね。ははははは!(=愚か?犬バカ?)
今日はイースター(復活祭)。キリストの復活を祝う日である。 よって、今朝はEaster Mass(復活祭のミサ)へ行った。
神父さんの説教では、キリストが亡くなり葬られた後、墓所から遺体が消えてしまった聖書の話から始まった。 まだ若い神父さん(厳密には5月に神父になる)が熱く、今風の会話調で語るので、(英語が)とっても聞き取りやすい。 ・・・が、ふと考え事をしてしまい(よくある事)、気が付いた時にはなぜかある高校生の話に変わっていた。 なんだこりゃ?と思いつつも、実例を引き合いに出すことでよりわかりやすく話を進めたいのだろうと思い直し、辛抱強く聞いた。
でも、聞けば聞くほど、なんだか不愉快な気分になってくる。 内容は割愛するが、結局、彼はこの高校生のことを非難しただけじゃないのか?と思ってしまう。 もちろん、その高校生の名前も地名も出さないので、どこの誰なのかはわからない。 案外、実存する人物じゃないのかもしれない。 それでも、なんとなーく、、、心の中にモヤモヤとした陰りが残った。
悶々としていたら、隣でこころが掌に何かを書いてメッセージを送ってきた。 わからないから、後で。というサインをして、神父さんの説教を(一応)最後まで聞く。
けっして悪いことは言っていない。 さきのたとえ話も彼の言いたいことの導入なだけであって、不愉快に感じる必要もないのかもしれない。 きっと、そう感じる自分側にこそ、何かあるのだろうな・・と思う。
ミサが終わり、家へ帰る道すがら、ふと思い出してこころに訊いてみた。 「そう言えば、あのときなんて言いたかったの?」 「神父さんの話、長いねーーーー!って」 「なんだ。それより、あの高校生の話、どう思った?」 「オチはなんなんだ?って思ったけど、なんもなかったね」 「マミィは聞いててちょっと嫌な気分になったよ」 「別にわたしは。でも、あの高校生、実は自分なんです!っていうオチかと思ったら、そうじゃなかったねー」
そっか。。。 もしもそういうオチだったらば、これほど不愉快にもならなかったのだな・・・と気付く。 きっとわたしは、この神父さんが、「誰か」を咎めていることが気に食わなかったのだ。 自分自身の過去を反芻して引き合いに出したのであれば、これほど反応もしなかったのかもしれない。
「別に・・・いいんじゃないの?」と、こころが言う。 まぁね。そうだね。神父さんだって普通の人間だもんね〜。わたしが彼を咎める必要もない。それこそ、イカン!よな!
というワケで。
結果的にいろいろと考えさせられて、とぉっても良い説教だったな・・・と、思った次第。。。笑
|