ぶらんこ
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2007年11月05日(月) まかせる


   神よ 
    わたしは母の病気のために なにを祈ろう 
    あなたのみ旨を 母が受け容れるように 
    あなたの恵みのなかで 母が病気を乗りこえられるように 
    あなたの愛を 母が感じられるように
    あなたの手のなかで 母が心やすらぐことができるように 
    今わたしは わたしの祈りを あなたにまかせて祈る。
                              『母のための祈り』
                              〜マタイス神父・心の日記(10/26)より〜
 




「天にまかせる」というのはどういうことだろうか?
何が起こっても、それを受け容れるということだろうか。
それとも、その前の希望やら怒りやらあきらめやら嘆きやらのすべてを、受け容れるということだろうか。
ならば、「闘う」ということもまた然り。

「天にまかせる」とは、自身の選択を受け容れる。ということだろうか。
自身の願いを赦し、受け容れ、差し出す。ということだろうか。


わたしにはわからない。

それでも、わからないなりに、わたしの祈りを 天にまかせて  祈ります。



2007年10月25日(木) 黄葉


 陽に照らされる黄葉
 いよいよ美しく

 




最近、音楽を聴かなくなった。
聴くのは、車を運転しているときくらいだと思う。
それはそれで良いのだが、よくよく考えてみると、暮らしの中でそういう欲求がなくなったらしいことに気付いた。


そのことを昨日こころに話すと、
「マミィ、それヤバイよ」と言われた。
・・・そうかもしれない。自分自身、愕然としている部分がある。


こころはずっと音楽を聴いている。
部屋にいるときもシャワーをするときも皿洗いするときもPCに向かっているときも。
そういう意味では、わたしも耳に入ってくる(彼女の)音楽を聴いている。
ただ、自らすすんで音楽を聴こう。という気持ちが薄くなっているのだと思う。


こころの保存している音楽のジャンル(?)はさまざまだ。
日本語・英語、歌詞(言葉)なし。わたしの知っている楽曲もあれば、まったく知らないものもあり。
特に気にならない楽曲から、逆に耳障り或いは不快な楽曲。などなど。
とにかく彼女は、莫大な量の音楽をいつもノリノリで聴いている。


わたしも以前は、音楽をかけながら掃除したり皿を洗ったりしたものだ。
なのにいつ頃からか、そういうことがなくなった。
音楽が「雑音」になってしまったのかもしれない。
そう気付いたときは、自分でもちょっとショックだった。
どうしちゃったんだろ。。。。。。という感じ。




「マミィも歳とっちゃったんだねぇ」と、こころは言う。
歳はもちろんとっているし、それが嫌だとは思わないけれど、そう言われるとどこか淋しい気持ちになる。
歳とった。というよりも「老いた」ということなのかな?或いは「乾いてきた」?

わわわ、、、今、書いてみて気付いたのだけれど、そうなのかもしれない。
「乾いて」きたのかもしれない。
「乾く」とは、「瑞々しさ」がなくなるということだ。
瑞々しい気持ちは心を豊かにする泉だ。



「ヤバイ」というこころの言葉がやけにしっくりと響く。
そして、車の中で聴く音楽もいつか雑音になってしまうのかな・・・という想いを慌ててキャンセルした。

うーーー。わたし、大丈夫か???


いやいや。きっと大丈夫。
人生の午後はいよいよ美しい。。。はず。(←ちょっと強引)





2007年10月14日(日) 柔和な顔

「柔和な顔」という言葉を見つける。
あぁいいなぁ・・・と思う。
そして、自分はどんな顔をしているのだろう・・・と思う。

柔和な顔って、見せようとして見せる表情なのではなく、きっと、にじみ出てくる表情なのかもしれないな・・と思う。
偽りとか取り引きとかとは無関係なもの。
きっと誰もが持っている、その人の「本当」の顔なのかも。


柔和な顔は、人の心の目を開いてくれる。


2007年10月11日(木) 成長痛

こころはよく「成長痛」で泣いたものだ。
最初はその痛みがどこからくるのかわからず(幼いこともあり、こころ自身、説明できない)、とにかくさすったりなだめたりしていた。
いつだったか姉から「これはきっと成長痛だね」と言われ、あぁそうかも。。。と、思い当たった。
それからこころは、「まみぃ、またセイチョウツウーがするー」と言って泣いた。
そんなにすぐ成長痛って決め付けちゃダメだよ。と言うのだけれど、10回のうち7回くらいは鎮痛剤が必要な程の痛みだった。
だいぶ後になってからは、「わたしには成長痛の痛みとそうじゃない痛みと、違いがわかるのよ」と言われた。
見ていて、そらそうだろうなぁーと、思った。
彼女自身、腕や脚をさすりながら、なるべくは薬を飲まずにやり過ごそうともしている様子だった。
それでも我慢できないとき、鎮痛剤のお世話になった。
「成長痛がする、ってことは、それだけ成長してるってことだからね。きっと、こころは背が高くなるんだよ〜」と慰めたものだ。

が、彼女の背は今だにわたしよりも低い。。。

「あんなに酷い成長痛があったのに、どういうこと???」と、こころは嘆く。
わたしも不思議に思う。
なんでこころはちびっこいままなんだろう?
まぁそんなことを本人には言わないが。


昨日、こころのバレーボールが終了した。
なかなかハードだったと思う。
練習内容(ドリルを含め)は、ソフトボールよりも格段にキツかったらしい。
それに加え、コーチ陣が非常に strict(厳格)だった。
ただ厳格、というのではなく、かなり偏っていた、という感もあり。。。
とにかく、彼女は心身ともに、かなり辛かったと思う。途中で「止めてやる!」とも思っただろう。
わたし自身、「止めてやれ!」と言いたかったくらいだ(良くない)。
それをなんとか完遂。
よくやったなぁ・・と思う。本当に、心から、手放しで、賞賛したい。


けれども、彼女の心には大きな傷が残ったと思う。
今もまだジクジクしてるかもね。
こころを見ていると、かなり痛い思いをしているのだろうなぁ・・と、感じる。
でも、この「成長痛」には、鎮痛剤は効かないのだなぁー。
こうやって、だんだん、母ちゃんが「手を出せること」がなくなっていくのだろう。
なんとかしてやりたい。と思っても、目に見えるようなことは、もう出来ない。しない。
やはり、ちょっと淋しい気持ちもある。
きっと今、母ちゃんに出来るのは、目に見えないサポートだけだ。さて、何が出来る?
ある意味、これは母ちゃんにとっても、「成長痛」???




先日、ホームゲームを一緒に観戦した義母が、試合を終えて帰ってきたこころにこう言った。
(ちなみに、この晩こころはなかなかの活躍ぶりだった。)

「あぁ〜あなたの背がもう少し高かったらって思うわ・・・!」
「んーーーグランマ!!」

「わ〜。。その話題に触れるなんて、なんというチャレンジャー!」
わたしがそう言うと、義母もこころも大笑いしていた。
ま・・・これが今のわたしたちに効く「鎮痛剤」なのかも。ね。



2007年09月11日(火) ・・気

気になる

気にやむ

気にかける


気がきく

気がつく

気がおける



気をくばる

気をゆるす


気を 


送る







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