ぶらんこ
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2007年09月07日(金) あいのうた

「あいうえお作文」です。
四苦八苦の末に大作(?)が出来ました。
充実感と仕上がりは比例しない。 ってことは、さておいて。


 ・・・


あいのうた


愛を伝えよう
色を塗るように
後ろ歩きの
笑顔のこどもはあなた

思い出して
髪を切ったときの
傷ついてた
くじけてた気持ち
けどでも
心は
さっぱり
しっかり
すっきりしてたね

世界はまわる
空は広がる
たどたどしくも
千尋に
続く
でこぼこ道
どこまでも
ナンセンスに
虹の向こうへと
縫うように進もう

ねぇ
野森にはそぉっと
羽根を隠しながら
密かに抱く
膨らむ想いがあるでしょう

平気なフリしても
頬を染める
真っ赤な夕陽
見つけに行きたいの
難しくしてただけの
「めざめ」のときよ

物思う
優しさって何?
ゆるやかに弧を描く
弱いとか強いとか
烙印は要らない
理由なんかない
ルールはいたって単純な
錬金術だから

路肩に咲いた花を
分かち合う
を(愛)しむ心がすべて

ん〜! 愛をうたおう


 ・・・


かなりこじつけ?
でもいいのです、ことばあそびですから〜。






2007年09月04日(火) judgment

親がこどものネットの規制をする、或いは履歴を見る。

といったことは、特別なことではないらしい。
(ここで言うネット規制とは、訪れてはならないサイト、作成すべきでないブログなど)
まぁそれはそれで良いんじゃないの?と思う。
その親にはそれなりの考えがあるのだろうし、わたしには関係のないことだからだ。

では、わたしはどうか?と言うと。
規制はしていない。
基本的に、訪れるサイトに関してはこころが自分で考え、自分で決めることだと思っている。
なので、履歴に関しては、まったくもって見たいとも思わない。
大体、そんなことを始めたらキリがない。
彼女も賢いから、履歴を消す方法などとっくに知っているだろう。
追いかけようとすればどこまでも逃げていくに決まっている。そんなモンだ。


親には見られたくないが、友達には見て欲しい。
そういう気持ちでブログをやっているのだろうと思う。
まぁ当然かな。
親に言いたくない・知られたくないことなんて、もう山ほどあるだろうから。
学校の作文は大嫌い。でもブログだとすらすら書けちゃうのよねー。
とはよく聞く言葉。
それだけ自由に自分自身を表現できる場なのかもしれないなぁ。



「ネットを規制しないとこどもは危険だ」と言うのもわからなくはない。
でも、そう短絡的にならなくとも良いのではないか?規制しなくても、きちんと教えてやれば良いのでは?
そして教えたら、後は信頼することなんじゃないか?と、わたしは思う。
なぜって、自分で走ってみないと「行き過ぎ」とかってわからんでしょ。
走って、行き過ぎて、戻って、止まって。
喜んで、浮かれて、ぶつかって、へこんで。
もしも「取り返しのつかない」ことになったとしたら、それはネットうんたらのせいじゃない。
それはあなたとこどもの関係だ。
親と子はネット上で付き合っているわけじゃないでしょう。


さて、これは「放任」?
それとも「ええかっこしい」?


何はともあれ、分別を教えられるだけの度量を持ち合わせていたいものだと思う。



2007年08月28日(火)

早々に起きて月を見る。皆既月食は既に始まっていた。

月の色が変わり、闇が膨らむ。
満天の星空。流れ星。
吸い込まれそうに美しい。
胸が逸る。心が静まる。

 

女性がひとり道路へ出てきて、軽くストレッチを始めた。
彼女の姿は街灯にぼんやりと照らされている。
「月を見て。月食が始まってるの」
声をかけようかと思ったが、あちらからわたしは見えないだろうか。驚かせてしまうだろうか。と、ためらう。
そこへ、もうひとり、女性が歩いてくる。
いつも一緒にウォーキングをしているのだろう。約束の時間に合流した様子。ふたりで歩き始めた。
と、後から来た女性が月を指差して言う。
「あそこ見て。月食が始まってる」
ふたりは一瞬、歩みを止めて月を見上げた。
月は薄暗い赤錆色の衣をまとって隠れているように浮かんでいる。

ふたりの後姿が見えなくなってから、一旦家の中に戻り、珈琲を淹れて裏庭のほうへ移った。
ちょうど良い場所に椅子を置いて座ると、B&Pも近くに来てのんびり。
二頭をそれぞれ交互に撫でながら月を眺める。珈琲がいつもより美味しい。
頭上はこんもりとした葉陰に覆われているが、その間から星たちがきらきらと瞬いていてとても綺麗だ。
少し向きを変えると、煙のような天の川が横たわっているのが見える。


夫はちょうど良い時間に月を見ることが出来た。
彼は「すごいね」と言って、仕事へ出かけて行った。
仕事じゃなかったら起きなかっただろうから、ちょうど良かった。
わたしは彼を送り出した後、ゆっくりと月を眺めることにした。
月の動きとともに、椅子を移動させながら、夜が明けるのを待った。
時々風が吹いて、葉っぱをさわさわと揺らし、心地よい音を奏でた。きりっとするあけがたの風。
それにしても、月はもちろん、星空もまた素晴らしく、あぁ早起きするモンだなぁ・・・と、しみじみ思った。
6時前。
月が消えてしまう前にこころを起こした。せっかくだからやっぱり見て欲しいな・・と思って。
彼女は寝ぼけ眼ながらに淡い色の月を見た。それから双眼鏡にて月食をしっかりと確認。
おぉ〜と、感動的な声をあげた後、「双眼鏡まで持ってきちゃって・・・」と、わたしのことを笑っていた。
(たぶん、終わりのほうしか見られなかったのが悔しかったのだろう。)


しばらくして、東の空がぼんやりと白み始めた。
星たちはゆっくりと姿を消していく。
月もまた、朝の空に混ざり始めた。


 ・・・

「まだ月が出んよ」と、メールが届いていた。
ちょうどわたしが月を見上げていた時間だった。「早起きして見た?」と、短いメール。


返事を書きながら、ちょびっとだけ感傷的になった。
さっきまで見ていた月が向こう側へ沈むことと、向こう側で「月が昇ってくる」ということ。
お月さんをここから向こうへと手渡したような気分。繋がる感触。

まぁそれはほんの一瞬だけだったけれど。
朝が始まり食事をこしらえる。それから、いつもどおりのその他いろいろ。
もちろん、あちらさんもまた、同じだろう。
それが至極当然であり自然であり。


でも、世界中のいろんなところで同じような時間に沢山の人が同じ月を見上げていたのだろうなぁ・・と、あらためて思う。
そして、それはとても素敵なことだと感じる。
その一瞬、人々の純粋な気持ちが合わさったような、そんな気がする。
その純粋さというのは、ナンセンスを楽しむような味わうような、そんな感じのもの。
そういうところに、人間の可能性が秘められているような、そんな気もする。



2007年08月26日(日) 独学

最近、英語ではなく島口を勉強している。
ここへ来てなぜ???という感じだが、流れ的にそうなった。
特に「声に出す」ということを重点的に行っている。
なかなか流暢になってきたような気がする。
しかし独学なので「ひとりよがり」になりがちだ。
大切なのは、なめらかさとメリハリ。英語と一緒やね。
さて、成果を知り得るには誰かに聴いてもらうしかない。
母が退院したときにでも電話をかけるか。


ここで暮らしていると、帰ったときによく「英語が話せる」と(勝手に思い込まれて)褒められる。
わたしとしては、どちらかというと英語ではなく「島口が話せる!」と言われてみたいものだ。

なのでこっそりひっそりと、独学中。




2007年08月21日(火) 空腹感

食事のとき、「沢山食べると太る体質?」と聞かれた。
わたしは「どうかな。もう歳だから。そうかもね。」と答えた。
「じゃ、小さい頃は?」
「小さい頃はお腹一杯食べるってこと事態なかったからなぁ」と、ここで自分の言葉に笑ってしまった。
確かにそうだった。小さい頃は、常にお腹を空かしていたような気がする。

「じゃぁいっちばん最初に、お腹いっぱい食べた!って思い出は?」との質問に記憶を辿ってみた。が、鮮明な思い出はなかった。
「そういえば、教会のキャンプではいっぱい食べられて嬉しかった。今思えば、美味しい食事にありつけるからこそ参加してたのかもしれない。カレーとか、スイカとか。それから、カルピス!」
でっかいアルミのやかんに入った冷たいカルピス。やかんには水滴が沢山ついていたっけ。

小さい頃のわたしは痩せていた。わたしだけでなく、兄弟姉妹みんな痩せっぽっちのポキポキだ。
貧しかったもんなぁ。。。
その一言に尽きる・・・。というのが、なんだか可笑しい。
しかし今はみんなそれぞれだ。弟は今でも(たぶん)痩せギスだけど、彼もそのうち中年太りの域に達するだろう。
わたしは、というと。まぁボチボチといったところかな。
いやいや。自覚がないというのは要注意だ。食生活に気を付けなければ。それからワイン。???


ところで、こんな話をしていて、ふと思った。
「『ひもじい』って言葉、知ってる?」
答えはもちろん、「知らない」だった。
そうだろうなぁ。ひもじいなんて、最近ちっとも聞かないしね。今の子たちは「オナカスイタ」って言うのかもね。

そんなこともあって、家に帰ってから「ひもじい」という言葉を辞書で調べてみた。
「ひもしい」とも言うのかと思っていたが、それは大きな間違いで、「ひもじ」という名詞の形容詞化ということだった。
ひとつ、勉強になった。



幼い頃のわたしにとって、「ひもじい」という感覚は身近なものだった。そのひもじさは、身に迫る純粋な空腹感だった。
今でももちろん、空腹感を覚えることはある。
でも、「食」は手の届くところに確実に存在するので、昔のそれとは全然違っている。
物質的に充分に満たされているからなのだと思う。


では精神的には?
hungryとは、精神的な飢えのことも指す。
満たされていない。と、いうと、なんだか不幸な感じが漂ってしまう。
かと言って、満たされている。とも言い切れない。


って・・・これは「欲望」なのかなー。欲望という言葉はどうも「不純」な感じがする。
ということは、純粋さが欠けているのか?今のわたしには?

んー。中途半端。


いつかはなくなるのか。空腹感。



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