ぶらんこ
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わたしの姓はカタカナだ。 結婚するときに変わった。
後になってわかったのだが、姓を変更せずとも良かったらしい。 役場で「姓をどうされますか?」と聞かれたときに、はて?と思ったのだが、普通の婚姻と同様にしてもらった。 何も旧姓をキープする必要もなかろう、と思ったのだ。 そのために、わざわざ「氏(うじ)の変更願い」という書類まで書かされた。 面倒なこった・・・と思いながら記入した。
夫には「戸籍」というものが存在しない。 よってわたし自身が戸籍の筆頭者となる。 わたしの旧姓は縦線で消され、その横にカタカナで新たな姓が書かれた。 こうしてわたしの姓はカタカナになった。 カタカナでなくとも良かったのだろうな、と今になって思う。当て字とか。 或いは全然違う名前でも案外大丈夫だったかも。 夫の姓の読み方(日本語表記による)はわたしが勝手に決めたのだから。
カタカナの姓を名乗るということは、日本では面倒なことになる。 そうわかったのは、もちろん変更してからだった。 名乗った後には必ず「え?」と聞き返される。 そのうえ、「あなたは何人ですか?」と聞かれる。 ふざけて「フィリピンです」と答えたことがあったが、大抵、騙される。 こんなに流暢な日本語を喋っているのに。笑
日本で暮らすには日本語の名前のほうが「住みやすい」。 帰化するときに名前を変えるのは、そういうことも理由のひとつなのだと思う。 気持ちの切り替え、ということもあるのだろうけれど。
訪問で新しい患者さんを受け持つとき、わたしはIDを見せながら名前を言う。 姓はカタカナで読みにくい(発音しにくい)し、馴染みがないだろうから、名(まこ)で呼んでもらう。 だから患者さんは皆、わたしのことを「まこさん」とか「まこちゃん」と呼ぶ。 それはそれで嬉しい。
先日、新しく受け持った患者さんは、わたしのカタカナの姓を一生懸命覚えてくれ、二度目の訪問のときにはカタカナで呼んでくれた。 でも、やっぱり、しどろもどろ。
「あーーダメだ。カタカナで難しいから。やっぱりまこちゃんでいいね。」 「上手に言えてましたよ。でもカタカナは大変だからまこで良いです。」 そう言ってから、ふと気付いた。
「あっ でも、○○○さんもカタカナじゃないですか〜。」 「あらっ そうだった!○○○って、変な名前でしょう。恥ずかしいわー。」 「そんなことないですよ〜。」
わたしたちはふたりして大笑い。 患者さんの名前は(姓でなく名のほう)カタカナだったのだ。 そういえば昔の人はカタカナの名が多い。
カタカナも・・・悪くないなぁ。笑
先日、懐かしい方からめーるをいただいた。 B&Pのおかげだなぁと思う。 離れてしまっても忘れ去られたとしても 必要なものはすべて 「そのとき」に 引き寄せられるのかもしれない。 人も物も物事も環境も。
こころから聞いた話。 「日本人は外国に住むべきではない。 あなたがたは日本に住んでいる外国人を心から受け入れていますか。 そうじゃないでしょう。 国が違うということは文化も言葉もナンタラ(なんだか忘れた)も違うということ。 外国へ行くこととそこに住むということは違う。 日本人は外国に住むべきじゃない。」
ちょっと表現は違っていたかもしれないが、こんな感じ。 (日本では)高名な女性の言葉だ。 こころは彼女の話を聞いて嫌な気分になってテレビを消したらしい。 だからその先はわからない。よって、その言葉の真に意味することもわからない。 もしかしたらとっても素晴らしいことを言いたかったのかもね。(どうだろ?)
こころは言う。 「じゃぁわたしはどこに住めば良いわけ?」
まぁきっと彼女のことだから「20歳までにどちらかの国を選びなさい。その後は自分で選んだ国に住みなさい」くらいのことを言うかなぁ。 と、わたしは答えた。 どうかな?当たらずとも遠からず。といったところだろう。
外国に住むべきじゃない。だなんて、突拍子もないことを言うなぁ! というのがわたしの最初の感想。 思わず笑ってしまったよ。時代に逆行しているというかなんというか。
まぁいい。 ひとの考えというものは自由だし、それを豪語するもしないも自由だ。 ある意味、あれだけのことを口にすることは凄いことだとさえ思える。 (最近は言うことがかなり無茶苦茶だなぁとも思うけど。) とにかく、彼女の言葉を最後まで聞いていないので、本当に言いたいことがなんなのかはわからないな。
それにしても 「あなたは外国人を心から受け入れているか。」
すごい命題だな〜。 それは対象が外国人でなくても良い筈なのにね。
言葉はそのひとの心の鏡だなぁ〜。と、心から思うよ。
気をつけよう。 というか、気にかけよう。 もっと自分の言葉に耳をすまそう。 もっと自分の心に耳をすまそう。 丁寧にていねいに。
お月さまに降り立った。 なんとなく淋しい気持ちになる。 きっと樹とか海とかがないせいだ。 でもこの建物は、遠くから見たらきっと森のように見えるかもしれない。 そのときによって、森の影が動くと良いな、と思う。 月に吹く風のかわりに。
・・・・
先日、こころの学校の合唱コンクールへ行って来た。 合唱も素晴らしかったが、母は終始、こころの後姿に惚れ惚れ。 まっすぐに背を伸ばして他のクラスの演奏(合唱)に聴き入っていた。 そんな彼女の後姿を見て、凄いなぁ〜と、心から感じた(親馬鹿かな)。 本当に感動したので、帰り道、素直にこころにそれを言った(親馬鹿だな)。 友達のことで色々悩むことはあるようだけれど、ちゃんと進むべき道を歩いているようだ。 ああやって、たっぷりいっぱい悩むのが良いのだろうなぁ。
友達と書いてともだちと読む。 ふと思ったのだけれど、この言葉、特に「友(とも)」と「達(たち)」のふたつに分けられることはなさそう。 つまり、複数形であることを意識的に示した言葉ではないようだ。 「友」も「友達」も同じような意味で使われるひとつの言葉。なのかな。。。
この前ラジオに「ザ・クロマニヨンズ」が出ていた。 このときまで知らなかったのだけれど、このバンド、甲本ヒロトと真島昌利だったのね。 わおーーーーなんとなんと。訪問車走らせながらわたしは大笑い。 ラジオではなんとも噛みあわない(?)会話が続く。 DJ(中田美香氏)は困っただろうなぁ・・・。笑
このふたりの話で非常に共感したことがふたつ。 ひとつは「ずっと続けるかどうかなんて考えたことない。続けることが偉いとも思わないし。」 ひひひ。思わず拍手してしまった。
もうひとつ。「俺ら、ともだち少ないし。」 わはははははー。 このふたり。聴く側にとっては、非常に高飛車或いは横柄に聞こえるかもしれない。
実はわたしも「ともだち」少ない。・・・と、思う。笑 冷静に考えるとそうなのだ。 以前こころに「マミィって『ぼっち』だったんだ!」とわたしの中学時代のことを言われたが、今もあの頃と大差ないように思う。
「ともだち」という言葉を使うとき。 はて。と考えるちょっとした「間」がわたしにはあって、ある意味それって大切なことかな、とも思ったりするのだけれど・・・うまく言えないな。 なんちゅうか、簡単に「ともだち」と口に出来ないところがある。 かと言って、彼は(彼女は)友達じゃないのか?というと、そうでもなく。
ありゃ。だんだん何を言いたいのかわからなくなってきた。
べったりぴったりでなくても全然大丈夫。 きっと「突き放した」人間のように見えるかもしれないけれど、そうじゃないんだよ、と感じられる。 それがわたしのおもう「ともだち」。
わたし自身は、自分のことを屈折しているとは思っていないが、世間一般的には、とっつきにくい人種らしい。 いろんなことに簡単に「うん」と言わないせいかなぁ・・・と、最近、思う。 普通のことなんだけど。 そういう意味では、先のふたり。なんだか親しみを抱いてしまう。 ま、昔から大好きだった。それだけのことかもしれないけれど。
なんて名前の花?と聞いたときに 「九月花」と言われたので 10月の末に咲く9月の花かぁ〜おもしろい。。。 と感心していたのだけれど ホントの名前は「孔雀草(クジャクソウ)」 ・・・でんでん違う、、、 どおりでネットで検索しても出てこないワケだ。笑!
写真は職場にて撮影。朝の珈琲を準備してたときのもの。 後方に映っている(?)のは同僚ナース。本日の訪問スケジュールを確認中。
朝晩はそれなりに冷えてきたが、日中はまだまだ暑いくらいの日が続いている。 10月も末になるというのに。 そろそろ冬の気配がしそうな時季なのに。
今日、訪問先で患者さんの奥さまがこんなことを言われた。 「雨が降らんから暑いままなんだねぇ。一雨毎に、っち言うもんねぇ。雨が降らんと冬が来んが。」 あーなるほどなぁ・・・と思う。 このところ本当に雨が降らない。この前、夜中に少し降ったくらい。
雨降りが恋しい。 わたしは雨降りが大好きなのだ。と、あらためて想う。
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