ぶらんこ
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水平線を見ながら焼きそばをほうばるリゥちゃん
“もう一口”欲しさにリゥちゃんから離れられないふたり
・・・従兄妹たち@国直海岸
あー 「限度」を共有することの素晴らしさよ!!
ひどく悲しいことがあった。 心なんてモンは、弱っちくてへなちょこでふにゃふにゃでちっとも役に立たないものだ。 ということを、存分に思い知らされた。
悲しみを溶かしに夕陽を見に行こう。 重い気持ちを海へ還そう。 そう思って車を走らせたのだけれど、だんだん、晩御飯の仕込みが気になり始めた。 料理長は食材を無駄にはしないものでしょう?
どんなに悲しみが深くとも、それがなんだっていうのだ。 悲しみはいつまでも続かない。 満ちてはひいていく潮とおんなじだ。
だから何よりも今夜の食事。 ちゃんと作りしっかり食べてぐっすり眠る。 今日が過ぎ、明日が生まれ。
甘えるな。 顔をあげろ。 わからないことを嘆くな。
自分は自分であれ。
中学の頃、新聞配達をしていた。 なんでそんなことを始めたのかすっかり忘れていたのだけれど、この前ふと思い出した。 あのとき、島を離れるひとつ上の従兄弟から譲られたのだった。 「新聞配達やる?」と聞かれて、「うん!やるやる!」と答えた。なんも考えず、いとも簡単に引き受けた。 もちろん、お小遣い稼ぎになると思ってのことだった。 なのに、当時いくら貰ったのか、まるでちっともでんでんまったく、覚えていない。 綺麗さっぱり、忘れてしまっている。
大丈夫、すぐに覚えられる。と、クン(従兄弟のことをそう呼んでいた)は言った。 クンとは2回くらい一緒に行って、配達の方法やルートを教わった。 まず村の入り口あたりにある家へ行って、そこのおばちゃんに挨拶をする。 おばちゃんは既に起きていて、何人かの人と一緒に、配る新聞をまとめてくれている。 そして、「はい、これね。」と渡される。 わたしの分は、大体50件分くらいだったように記憶している。 配り先は、鳩浜(はとばま)という新しい埋立地の集落だった。
自転車で順番に配っていくと、約1時間くらいで終了した。 一軒家が殆どだったが、何件かはアパートやマンションだった。 1階部分にポストのあるところは良いが、階段を昇ってって、それぞれのドアに差し込まなければならないところもあって、ちょっとキツかった。
新聞はいつも幾つか余分に入っていた。 その分は、「家に持って帰っていいよ。」とおばちゃんから言われていた。 なのに、まったく余らなかったり、逆に余り過ぎたりした。 つまり・・・・実を言うとわたしは配達先をきちんと把握していなかった。 この家、そうだったかなぁ。。。。。そんな風に感じながら配っていた。 だから、余っているとどうも不安になって、最初の方へと戻って反芻しながら、余らぬよう適当に配っておいた。
翌日になって何度か、「新聞が配達されなかった」という苦情をおばちゃんから言われたことがあった。・・・ように思う。 あまり覚えていないけれど、確か、怒られた記憶がある。 苦情がないワケがない。毎朝、ギャンブルをしているような気持ちで配っていたのだから。
寝坊して、おばちゃんから電話が入り、母に叩き起こされたことも何度かあった。 そんなときは、学校には遅刻しても、新聞配達を休むわけにはいかなかった。 なんで起きれなかったんだろう、、、と悔やみながら、これまた適当に配った。
なんて「てげぇー」なバイトだろう。 これでよくお金をいただけたモンだ。(たぶん、貰えていたと思う。)
わたしが新聞配達をしていた埋立地は、当時は新興住宅地だったのに、今ではかなり古びた集落になってしまった。 堤防近くにあるアダンは自生なのか植えられたものなのか、もう区別が付かないくらいに大きく育っている。 埋め立てられてから・・・ざっと計算しても35年くらいになるのかな。 人が移り住むようになって30年くらい。。。。 あの頃とおんなじ風景は、堤防から見る水平線くらいだ。
新聞配達を終えて、太鼓橋を渡って家に帰る頃、ときどき会う少年がいた。 彼も新聞配達少年だった。 そう言えば、当時新聞配達をしていたのは、陸上部の連中が多かった。 考えてみたらクンも陸上部だった。 みんな、体力づくり・トレーニングとして、配達していたらしい。 わたしは・・というと、帰宅部だった。 ときどき会う少年はテニス部だったが、退部して帰宅部になった。 アウト・サイダーという点で、妙な親近感を持っていたんだった。。。。
なーんてことまで思い出した、三角ブロックの上。
意識の向こうにあるものを 見たり聞いたり感じたりできることを 羨む気持ちはなかったが もしも自分にそれが出来るのであれば あなたの世界を見たい 聞きたい 感じたい あなたの想いを受けとめて あなたの愛するひとに伝える ただその 「媒介」になりたい
すごく大袈裟なネーミングに聞こえるかもしれない。 でも考えてみるとわたしたちは生きていくなかで常に「選択」し「行う」ということをやっている。 それは誰の意思でもない。自分の意思だ。誰かに相談することもなく、ごくごく普通に選択・決定している。 たとえば朝起きたら頭のなかでトイレにまず行こうか先に珈琲を淹れるかなんてことを考える。 わたしなんかはそこに「ぷーを外へ連れて行く」が優先される。
ではなんらかの理由でその行動を起こせない場合は? ―きっとぷーちゃんのお世話はこころに頼むだろう。ぷーはおうちの中では絶対におしっこしない。我慢させていたら病気になってしまう。 では頼みたいのにもしも声が出せなかったら? ―紙に書いて頼むか? じゃぁペンを持つことが出来なかったら?どうやって伝えたら良いのだ?
人は自分の意思を誰かに伝えたいという欲求がある。ちいさなことから難しいこと、なんでも。 もしも自分の意思を伝える術がないのだとしたら、どんなに苦痛だろうか。想像してみて欲しい、先の日常のちいさな出来事でいいから。
ALS(筋萎縮性側索硬化症)など神経難病の患者さんや障害者の方々とのコミュニケーションをはかるため、意思伝達装置というものが開発された。 『伝の心(でんのしん)』というソフトだ。 その人の「意思」は、彼の動かせる部位(1本の指先だったり頬の一部だったり口唇だったり舌先だったりする)を利用し、モニター上に現れる。 それは声に合成もされる。抑揚のないいわゆるコンピューター調の音声ではあるけれど、その声は紛れもない彼の意思を代弁している。
研修で、『伝の心』を開発された技術者(小澤邦昭氏)と話しをすることが出来た。 とてもとても穏やかな人。彼のどこにあれだけの情熱が備わっていたのだろう、と不思議に思う。 長い年月をかけ、修正に修正を経て。(経済的な)利益の伴わない研究を続けられたのも、彼の「人となり」の力だと思う。 実際、『伝の心』はビジネスにはならない装置だ。 大手の企業(日立)がそれをバックアップしたという事実が嬉しい。思いっきり拍手。 それこそが大企業の役割だと思う。認知度うんぬん関係なく、日立というグループの価値がぐっと上がった。→日立・情報機器アクセシビリティ
小澤氏は『伝の心』開発の後、更に重症な患者(身体のどこも動かすことの出来ないALS患者)さんのために『心語り』という装置も開発された。 『心語り』は「はい」「いいえ」を脳血流量によって認識するもの。 患者さんにとって「はい」「いいえ」このふたつの簡単な気持ちを伝えること(家族にとってはそれを知ること)が、どれだけの喜びになったか。
「意思を伝える」「その人の意思を知る」。 この2点について、深く考えさせられた、とっても有意義な研修だったと思う。
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『伝の心』は日本語のソフトだ。試用版はこちら。→『伝の心』 小澤氏に英語のソフトはないのか質問してみると、アメリカではWords+社からEZ Keysというソフトが出ているらしい。→Words+ EZ Keys 言語が違うと勝手も違う。確かに『伝の心』のシステムをただ英語化しただけでは、時間がかかってしまい、かえって不便だろう。
・・・世界中の技術者に敬意を表したい。
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