ぶらんこ
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稲たち
すくすくと育ってくれてる
不思議 7月29日撮影
「結構、好き嫌いが激しいんだ」と言われた。 『だ』で終わっているのが『断定』なのか『問いかけ』なのかは不明。たぶん、どっちでもないのだろう。
何かをするとき、決めるとき、人は何を基準に行動を起こすのか。 わたしの場合は、「好きか嫌いか」なのだと思う。 こんなことを言うと、「こどもじゃないんだから、」と、(こころあたりから)言われそうだ。
好きか、嫌いか。 欲するか、欲しないか。 気持ちが満たされるのか、そうでないのか。 自分の気持ちだからね。自分にしかわからんだろう。
たとえ話をする(愚痴じゃないよ)。
毎朝、誰よりも早く職場へ到着し、掃除をする。 床を掃き、ゴミを集め、タオルを新しいのに替える。花や緑に水をやる。それから、仕事前に必要だと思われる準備をする。 ある朝、その人は言った。 「わたしがやらないと誰もやらないから。」
んんん?そうか??? それなら「しなければいい」のだよ。 あなたが「しない」ことで、誰かが「する」かもしれない。 少なくとも、誰かがそれを行う「機会」にはなる。
違うのだ。 その人が行っていることは、その人が「欲してる」からなのだろう。 それは「綺麗にすることが好き」なのかもしれない。 「綺麗にしてしまわないと気が済まない」或いは「人がするのを待つよりも先にやってしまいたい」性質なのかもしれない。 要は、「あなたが何をどうしたいのか」なのだ。
掃除しないことは「苦痛」だ。 誰も掃除しないことは、もっと「苦痛」だ。 誰も掃除しないでいるのを見過ごして我慢することは? たぶんもっともっと!「苦痛」なのだろう。 では、「綺麗にしたい」と想う気持ちの度合いは? それらの苦痛よりも、もっと大きいだろうか、そうでもないだろうか。 どちらがあなたにとって大切?
うーーーかなり、くどい。。。。つまり。
自分が「欲している」ことを心から認識すれば、もっと気持ちが満たされるのじゃないかな、と思うのだ。 そうしたらば、「誰かが」などという言葉はなくなるだろうし、心がもっと豊かになるんじゃないかなぁ、と思う。 「わたしが好きでそうしたくてやっているのだ」ということ。
もちろん、「好き」という気持ちは不思議なもので、「苦痛」をも受け入れてしまうところがある。 こんな辛いのならやめてしまいたい。 なんだってこんなキツイことを選んでまでしてるんだろう・・・。 あーーー人を好きになんかならなきゃ良かった! などなど? 笑 人は苦痛の向こうに何を見ているのだろう? そもそも「苦痛」とはなんぞや?
きっと、そういうことを味わうことで「しあわせ」を紡いでいくのじゃないかなぁ・・・と思う。 ただ純粋に「好きだ」という想いで、曲がったりなんだりしながらね。
ろくでもない夢を見て、飛び起きた。 まだ4時頃だった。 ドキドキする胸を押さえ、正夢ではありませんように。と祈った。 その後、なんの気なしに窓を見ると、遠くの木立のすぐ上に、オリオン座がくっきりと耀いていた。 あんな低いところまで星が・・・ ゆっくりと見上げてみると、星たちがちらちらと揺れながら空いっぱいにはりついている。 満天の星空。
しばし言葉を忘れて見入った。 深呼吸。 星たちの静寂の音楽が聴こえてきそうなよあけまえ。
患者さんの中には牛の生産者の方々も多い。 牛舎は敷地内にあり、それほど大きくはない。 写真を撮ろうとしたらもう一頭も近付いてきた。 優しい眼でわたしを見る牛たち。
子牛は生後8ヶ月くらいでせり市場へと出されるのだそう。 一頭あたり、30〜50万円前後。 子牛の状態を見て値がつけられる。良い子牛ほど、高値でせり落とされるが、80万だか100万を超えると税金が課せられるという。
「高値がつくと嬉しいっちゅうか誇らしいね。せりの日は朝から気持ちが逸るよ。」 とは生産者の弁。わたしの担当する患者さんの奥さまだ。 以前は夫が主にやっていたが今ではすべてが奥さんの仕事。夫の介護をしながら、牛の世話をしている肝っ玉ばぁちゃんである。 「朝と夕2回えさをやるくらいで、牛の世話はそんなに大変じゃないよ。」
買われた子牛はどこかよその牧場(?)に引き取られ育てられるそうだ。 そして2歳頃になったら「食肉」として売られる。 わたしたちがいただいている牛肉はそれだ。
「子牛を手放すときは淋しい気持ちとかにもなりますか。」 ・・・馬鹿な質問をしてしまったなぁと今になって思う。 奥さまは笑って言ってた。「去年は一度に3頭せりに出したよ。」
わたしは菜食主義者でもないし「もう食べられない」と言うほどセンチメンタルな人間でもない。 ただ、牛でも豚でも鶏でも美味しくおいしくちゃんと味わっていただこう。と、思う。 牛たちを見ていると、逆に彼らから見られているような気持ちになった。
青天の霹靂ではなかったはず
きっと知っていた
たぶん待っていた
垂水港の黄昏
少し前に読み終えた本のことを反芻している。
私は今、私の目の前にいるこの男を愛している、なぜなら、私は彼を所有していないし、彼も私を所有していないから。 私たちは自由に基づいて互いを捧げあう――
『11分間』 著:パウロ・コエーリョ
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