ぶらんこ
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こころがギターを習いだした。 ギター教室に通わせてもいいかな、と思ったのだけれど、¥7.500@月3回(3時間)とのことで、あっさりあきらめた。 で、わたしの姉に教えてもらうことに。 といっても、コードの読み方や弦の押さえ方などを教えるだけだろうから後は独学かな。 それで良いよ、というか、そのほうが良いような気がする。
こころが習っている姿を見て触発され、わたしも久しぶりにギターを抱いてみた。 AmとかCとかG7とか。なんだか懐かしいゾ。しかも不思議と指は覚えているみたいだ。 つたないながらも、なんとか弾ける。なんとかメロディーになってる。 思えばわたしもこころくらいの頃に兄貴のギターをこっそりと借りて練習したんだった。 あぁ途中で投げ出したりせずに続けていたら・・・。 ま、そんなこと今さら言っても仕方がないけれどね。
それにしてもこころの最初の曲が「縁切寺」とは。 「なんだかすごい歌だねぇ・・・」と、こころ。 意味はちゃんと理解しているらしい。 一緒に口づさみながら、母はヘンテコリンな気分。かなり可笑しい。笑ってしまう。
さて、こころの目標としている曲は「飛行機雲」@荒井由美 わたしは「船乗り」@スピッツ
選択 自由 苦痛 受け入れること 馴れ合い 冒険への不安
古いメモを見つけた。そこに書き留められていた言葉たち。
そのひとにとって何がしあわせなのか。 それはそのひとにしかわからないこと。 それでもひとは誰かのことを想って、心を痛める。
愛しい気持ちって、そういうごくごく普通の、ちいさな素朴な想いなのかもしれない。
伝えるのは「言葉」 伝わるのは「想い」
先週参加した研修で印象に残った言葉。 ひとは伝える術として「言葉」を使うが、相手に伝わるものは言葉以外のもの。とのこと。 言語的なものよりも非言語的なもののほうが圧倒的に多い、と。
確かに、テレパシーとか予知能力とか、そういった大袈裟なものでなく、ひとは皆、何かしらそういった力を備えているように思う。 考えてみれば、心当たりがあろう。 熱心な先生とそうでない先生。なんとなくわかる。 押し付けがましいひとと、さりげないひと。たとえ同じ言葉で何かを説明されたとしても全然違う。 なんとなく冷たい感じのひと。 話しかけやすいひと。
「わたし」に心が向けられているか。 向けられた心は「わたし」を信頼しているか。
そういうことを、おぼろげながらも、ひとは感じ取ることが出来る。
さて、患者さんのケアをしているとき、わたしはその患者さんにしっかりと心を向けているだろうか。
写真は、瀬留教会。 パイプ椅子が並べられているのが懐かしい。 わたしの町の古いお御堂は中央部分が畳で、両脇にパイプ椅子がそれぞれ縦一列に並べられていた。 そこへ腰掛けるのは、畳に座るのがキツイ年寄りたち。
こころが幼い頃から、母親どうしの付き合いというものが苦手だった。 苦手というよりも、興味がなかった。と言ったほうが正しいかもしれない。
それは、「社交的でない」というのとはちょっと違うような気がする。 いわば「お高くとまっていた」という言葉が一番近いかも。 積極的に他人と交わろうとしない。 もしかしたら相手を選んでいたのかもしれない。 うーーー。なんだか嫌なヤツだ。
でも、だからこそ、自分のなかで「疎外感」というものを感じなかったように思う。
こころは密かにそんな母親(わたし)のことを心配していた時期があった。 わたしが彼女の友人の母親と喋っているのを見てものすごく嬉しかったらしく、何を話していたの、と興味津々に聞いてきたことがあったから。 あのとき、あぁこの子はわたしに人並みに(というのかな?)母親どうしのチャットをして欲しいんだなぁ。。。 なんて、ぼんやりと思ったものだ。
そしてわたしは、今もさほど変わっていない。 こころの学校へ行くと、母親たちは何人かのグループになって話している。 わたしはにこやかに挨拶はするけれど、すすんでその中へ入っていこうとはしない。 だから、いつもひとりでいる。 特別それを苦痛だとは思わない。 思わないどころか、そのほうが心地良い。 それがわたしの持つ「スペース」なのだ。
そういうわたしを長年見てきたこころはどう思っているのだろう。 特別聞いたことはないけれど、「マミィはマミィだからね」と言うかもしれないな。
ところで、相手が子供とかお年寄りだったらそんなことないんだけれどなぁ。 なんでだろう??? 自己分析は続く。。。。(してないけど)
瀬留(せどめ)教会。
島には父の建てた教会がまだいくつか残っている。 写真はそのうちのひとつ。
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