ぶらんこ
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2005年10月06日(木) すまいる


   Hi!
   我が家のオムライスは
   いつも
   すまいる(^^)






今日、みかん狩りに行った。
年に一度行われる訪問看護ステーション企画のレクリェーション。
とっても楽しかった。
家から外へ出かけること、自然のなかで緑や土に触れること。
参加できた患者さんとご家族の素敵な(でぇっかい)笑顔を載せたかったけれど、それが出来ないので・・・・

上の写真はその代わり。笑




2005年10月02日(日) 刈り入れ

  稲刈りをした。
  生まれて初めての経験。
  あっ      という間に過ぎた
  素晴らしい一日だった。

 
  写真は、刈った稲の干し場を作る「お父さん」。
  メチャクチャかっこいい。ますます大好きになりました!




黄金色に輝く田はとてもとても、美しい。
青空の下で、垂れた稲穂は静かに刈り入れのときを待っているように見える。
実りの秋。
こんな風景を見られるなんて、訪問看護という仕事って本当に素晴らしい!と、運転しながらにっこりしてしまう。
それから、自分の田でもないのに(田のことをまったく知らないくせに)、稲刈りはいつなんだろう・・・と、気になって仕方がなかった。


稲がすごく強いものなんだということを、わたしは今日、初めて知った。
刈られた稲は青いビニールの紐で束ねられ、干しやすいように並べられている。
束ねるまでは、稲刈り機が行ってくれるらしい。(知らなかった!)
そして、並べるのは人の手で行われる。
また、田の端っこは機械では出来ないので、手(鎌)で刈る。
手で刈った稲は、ビニール紐ではなく、藁で束ねられる。
そんな稲の束たちを手作業で干す。
根っこの部分を真ん中あたりからねじり、前に半分、後ろに半分として、竹竿に干していく。

やり方を教わって、おそるおそる始めた。
最初はおっかなびっくり。こんなやり方で、お米がマズくなりやしないか、と心配したりして。
でもだんだん慣れてくると、なんとなく大胆になってくる。
なぜって、無造作に行っても、稲はしっかりと付いているから。
それに、投げたり放ったりしても、大丈夫。
馬鹿みたいだけれど、そんなことに感心してしまう。
そんな強い稲たちを触っていると、なぜだか嬉しくなってしまう。
この一粒一粒がお米になる、とか、そういった直接的なイメージではなく、もっと大きな、心の底から溢れてくる何かがある。
それは感謝の気持ちであり、喜びであり。

今日初めて稲に触れるわたしがそうなのだから、ずっと世話をしてきた彼は、かわいくて愛しくてたまらないだろうなぁ・・・と心から思う。
一粒一粒が、彼の子であり、生命であるのだろうなぁ・・・と、思う。


「刈り入れのとき」という言葉が好きだ。
ゆったりと深呼吸したくなる。
それでいて、どこか背筋をしゃんと伸ばしたくなるような、これまでの自分を振り返るような気持ちにもなる。

今日、「刈り入れ」というものにほんの少し触れたような気がした。
気が遠くなるような準備のときを経てやってくる「刈り入れのとき」。
草を取ったり鳥を追い払ったりもぐらよけを立てたり。
雨の日があり、風の強い日があり、日照りの日が続いたり。
それらすべてが必要なことだった、と、受け入れるような、大きな心。
自然のなすことに、そのまま心を沿える、ということ。
訪問先でぼんやりと感じていた、田を持つ農家の方々の「おおらかさ」をあらためておもう。
稲を干しながら、わたしもそうありたいなぁ・・・と、祈るような気持ちになる。

「ぼち、ぼち、やってくださいよー」
彼のにこやかな笑顔が、心に深く優しく灯っている。


真夏日となった、暑い一日だった。
日焼け止めを塗ったつもりだったのに、頬が火照ってチリチリする。
それでも気分爽快。
こんな経験が出来たことを心から嬉しく思う。
次はこころも連れて行きたい。



2005年09月25日(日) 芸術の秋


  『霧島アートの森』に行きました。

  館内で行われていたのは
  福田繁雄展 トリック・アート面白世界 
  こころと大興奮しながら鑑賞。
  すぅごく面白かった!
  彼の眼は宇宙からのものなのかも。
  
  ・・・写真は、館外にて。
  巨人と手を繋ぐこころさん。(トリック・アートの、つもり。笑)




芸術とは想像。
想像とは愛。
愛とは創造。
創造とは芸術。


芸術とは遊び心。
遊び心とは希望。
希望とは光。


秋は黄金の光。
輝く生命の光。


                                             ・・・芸術の秋に夏休みの課題を終えたこころさんでした!



2005年09月02日(金) 言葉足らず

メールを送ってから、言葉が足りなかったかなぁ。。。。とおもうことがある。
というか、大抵そうだ。
自分の心を的確に言葉にするというのはとても難しい。
言葉はどれも嘘じゃない。でも、それだけじゃない。
いつもいつも、足りない言葉があるような気がする。
でも、ひとはそれをも感じるのだと思いたい。
きっと、ちゃんと、伝わっている。



                  心友からの「なんだか話したい気分」という言葉にとっても感激。
                  わたしもおんなじだったー。。。
                  なので、足りない言葉は感じてください。
                  でも、すごくワンマンな言葉だったかもしれない。。。。。。。

      


2005年08月31日(水) 錬成

過去の出来事はいつまでもそこにある。
それを思い出そうと忘れてしまおうと、関係なく、その場所(時空?)に存在している。
それは消えることはないし、変えることも出来ない。


あるとき強烈に、そのときの匂いとか感触とか光の加減とかが、まるで今体験しているかのように蘇ってくることがある。
それは意識してではなく、何かのおりに、ふと。
もしも過去へタイムスリップしたらこんな感じなのかもしれない。(それとも、『してる』ってことなのかも?)
今ではもうすっかり忘れていた、そのとき湧き起こった自分の「感情」を感じたりもする。
悲しかったり、嬉しかったり、痛かったり。
嫌悪を感じたり、しあわせを感じたり。
でもそれを体験している自分は、そのときとは違う、「今」の自分だ。
実際体験していながらも、そんな自分をどこからか眺めているような。
そんなとき、「過去」を実感する。
過ぎ去ったこと。決別。
そして、とても神秘的な何かを感じる。



今日、映画を観に行った。
夏休み最後の日に、こころとふたりで。ずっと前からの約束で。
「鋼の錬金術師」
エドの選択。アルの選択。誰かの選択。
ふたりが決別した世界。
過去にとらわれず生きていく、ということ。


映画を観た後も、彼らの世界について考えてしまう。
生きて死んでいくということ。
等価交換。代償。錬成。
たぶん、わたしとこころ、それぞれがそれぞれ違う感じかたをしているだろう。
家に戻ってきてからも、わたしはまだ悲しい気持ちが心のどこかに残っている。
それはそれで良いことなのだろう。
あーあ。でも、夢に出てきそうな気もする。。。。エドもアルも笑っていると良いなぁ。。。。
そういえば、目覚めた後に夢を思い起こすことと、過去の記憶を思い出すことって、おなじことなのかもしれないね。


自己体験の反芻。
それは自分自身を癒すことだ。
そしてそれは、未来へと繋がる可能性なのだと思う。




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