じろちゃんが活動的になり、ますます自由がきかなくなった。 今日は天気がいいので、あきらめて散歩にいくことにした。 どっちみち何もできないのなら、なんかできることをしたほうがいい。 休憩挟んで、3時間ぐらい歩いた。 ベビーカーおして。
誘惑に勝って、昼食は2時半頃、家で食べた。 豆腐屋のチラシをみながら、なぜか、 「枯れちゃったなあ・・・。」と思った。 曲が書けない、というか、それ以前に発想がわかないのだ。
ふとある曲のことを思った。 「降りてきた曲」。 そんなたとえがぴったりだった。
わたしの場合、曲が浮かぶ時は2種類ある。 一つはピアノなり、ギターなりをつかって、ひねりだす曲。 「紡ぐ」といったほうがいいかな? もう一つは、「降りてくる曲」。 メロディが、勝手に浮かんでくる。
「降りてくる」ほうは、たいてい一部のフレーズだけだったり、その場を過ぎれば忘れてしまったりで、なかなか残らない。 でも、ある歌は、違った。 かなりまとまって「降りてきた」。 最初とサビがうかび、一部歌詞もくっついてた。
形にするまでには、少し間があり、最後は紡いだけど。
忘れられない歌になった。 「その歌を超える歌を書きたい」と思って、今日まで来た。 未だに・・・。超えるどころか、すっかり書けなくなった。 「超える歌を・・・」の想いも最近忘れていた。 ふと、その気持ちを思い出した。 他人様からしたら、なんということもない歌だろう。 でも、静かに、ささやかに、大事にしたい。
ふと気づいたことがある。
今、じろちゃんが7ヶ月末を迎えている。 たろ吉のときは、仕事を再開した頃だ。 きっと必死で余裕がなかったのだろう。 その頃の記憶があいまいだ。
じろちゃんが何度も夜起きるので、寝不足でつらく感じている。 朝もついつい寝坊しがちだ。 でも、たろの時は、もう仕事に行き始めてたんだ・・・。
そう気づいたら、ちとがんばって、朝早く起きられるように、体を慣らさないといけないな、なんて思う。
でも、裏返して言えば、「ゆっくりできるのは今のうち」だけなんだから、ゆっくりしてもいいじゃない? ってことでもあるから、ちと悩ましいな。
いずれにせよ、1歳まで一緒に過ごせるじろちゃんとの時間。 大事にしたいな。 いい日に生まれてくれたもんだ。エイプリールフール男(笑)
今月の始め頃、某所で手紙を出した。 10年後に配達してくれるという手紙だ。 とりあえず、自分宛にした。
そのサービスを知って、興味がわいた。 でも、ちょっとこわさを感じた。 10年後、自分が生きてる保障なんてどこにもない。 そういう気持ちが浮かび上がってきた。
書くときは、何を書こうかという単純な迷いに加えて、自分以外の人が開封するという可能性も考慮しないといけないな、と思った。 結果、たいしたことは書いてない。 便箋1枚半ぐらいの「なんじゃこれ?」という文になった。 万が一のことがどうしても頭から離れなくて、半分は家族あての単純なメッセージになった。特に、子どもたちにむけて。
ただ、一行、自分だけにわかるメッセージを書いた。 「絵に描いた餅は、食べられましたか?」
これは、わたしの言ではないけれど、伝え聞いて「いい言葉だなあ」と思って、最近印象に残っている言葉だ。 普通は食べられない絵の餅。 でも、「絵」=「夢」で、「食べる」=「実現」の意味なんだろう。 「そのままでは食べられない」=「実現にむけての努力が必要」。 生きる上での心構えのようなものが、ぱしっと短く、象徴的に表現されてると感じている。
その言葉を、10年後の自分に送った。 本当はもっと具体的な想いや事柄がこめられてる。 あえて文にできなかった気持ちが・・・。
10年後を思うとこわかった。 いつも「8年後の自分を見てみよう」と、自分をはげますこともあるのに。 具体的に手紙という媒体があると、保障のない未来が具体化された気がしたのだろう。 けれど、そのこわさから逃れたい気持ちもあって、ふと気づいた。 10年後はいきなりくるのではなくて、1日1日の積み重ねではないか、と。 こわいと言っても、10年前のわたしは、今のわたしをほとんど想像しなかった。でも、とりあえず、わたしは今、存在してる。 よくも悪くも積み重ねて、今日まで来た。 だから、これからの10年も同じだ。1日1日の積み重ねなんだよ、と。
手紙を出したのが、11月6日。 まだ、1ヶ月もたってないけど、精一杯過ごせてるかな? 時々、自分に問うている。 10年後のわたしが、後悔でいっぱいの人とならぬように、毎日、バトンをわたしたい。 昨日から今日、今日から明日のわたしへ。
日記のほうにも書いたけど、なつかしい人に今日会った。
若い頃、仕事でお世話になった人だ。 退職後、ふるさと方面に帰られたと人づてにきいていた。 だから、この街で会うなんて!とびっくりした。
ふるさとは田舎で、海も見えるらしいし、いいところらしい。 もう引退したら、こんなごみごみした街中はいやだ、とのこと。 わたしが昔、ちょっとだけゴルフをしていたので、そんな話にもなった。 ゴルフ場も平日まわったら安いし、当日の朝でも予約がとれるし、2人でラウンドできるとのこと。 2人とは、「ご夫婦で」である。 ゴルフ云々の環境はともかく、仲がいいのだろう。 うらやましい話である。 そういえば、昔お世話になってた頃に、「夫婦でショートコースをまわった」なんて話も聞いたなあ・・・と思い出した。 引退後、急に仲良く・・・なんてわけにはいかないよな(笑)
わたしは自転車にのっていて、前かごには、じろちゃんが乗っていた。 (子どものせ専用のかごです。念のため w) その子をみながら、「今たいへんだろうけど、一時のことだからがんばって。今、できることをやって。」という話をされた。
振り返ってみれば、その人は、その時その時を楽しんで過ごしていた人だったと思う。大事にしてたとも言えようか。 自分はどうしたいか、はっきりしていた人だったと思う。 自分なりの方向性を持つことって、大事だ。 それが、あやふやだと、悩むことになる。 わたしは、そういう部分があるように感じる。すべてにおいてではないけどね。
悠々自適の暮らしかあ。。 といって、わたしは、早く引退したいわけではない。 仕事はこのままやめたいという気持ちもないわけではないが、今「退職」という選択肢は、わたしにはない。 働かなくちゃならん。 どうせ働くなら、過労死しない程度にがんばろうか・・・と気合を入れなおしてるとこである。 なぜかというと、「やめたい」という考えがよぎるぐらい、希望をなくしてる部分が正直あるからだ。
自分に与えられた環境はいろいろ限りがあると思う。 でも、今しかできないことたちを大事に、どうせ取り組むなら、前向きに向きあっていきたいと思う。 仕事もくらしも。
なつかしい人に会って、悠々自適のくらし、いいなあ・・・と思いつつ、日々を大事にくらして、歳月を重ねていきたいなあ、と思ったのでした。
きっとわたしは欲張りなんだろう。 時間が足りない、といつもあせってる。 そのくせ、上手に時間を使えていない気がする。
子育てに専念しないといけないのに、 夢を見すぎているのかもしれない。
でも、どうしても埋めたい気持ちがある。 課題を一つずつ実現して、自信をつけたいのかもしれない。
「ありのままでいいよ」と人にいいながら、 「自分はこのままではだめだ」と思ってる。
前向きなことをわざわざ言うのも、今は気がひける。 でも、後ろ向きなことも、口にしたくはない。
胸の奥で何かがつかえてる。。。
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