小ネタ日記ex

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もしも君が(2)(笛/渋沢と三上)(パラレル)。
2007年05月03日(木)

 もし君がジュリエットだったら。








 蒼穹を鳥が飛んでいた。
 晴れた午後、人で混みあった市庭の中を長身の渋沢克朗は迷いなく歩いていた。売り手の商人たちと買い手たちとの間で取り交わされる会話は、ネオ・ヴェローナでは珍しい活気に溢れている。
「騎士さま、おひとついかがですか?」
 辻で花売り娘がにっこりと彼に笑いかけてきた。
 十を少し過ぎた程度の娘は、明るい笑顔と籠一杯の青い花を一緒に見せる。花売り娘はもう少し年齢を重ね、売り場を変えると春をひさぐ少女たちもいるが、この娘の清潔感のある様子はそれとは違うようだった。
 用事を済ませ、寺院に戻る予定だった彼は花売り娘の売り物を見て、ふと顔をほころばせた。
「綺麗だな。何ていう花なんだ?」
「矢車草です。すてきな青でしょう?」
 姫林檎の大きさほどの、わずかに紫がかった青色の細い花弁がぐるりと円を描く花。紐で括られた幾輪かの花束は質素なものだったが、新鮮で美しかった。
「じゃあ一つもらおうか」
「はい、ありがとうございます」
 籠の中から良いものを選り分け、渡してくれた娘の手のひらに神殿騎士の装束をした彼は代価を置く。
 ぺこりと一礼してまた客引きに戻った花売り娘を見送ると、彼は花を潰さないよう、左手に持ち直した。右手は剣を使うために空けておかなければならない手だ。
 花などあまり買ったことはないが、寺院で待っている主人の心の慰めになればと考えた。世俗から隔離された暮らしを余儀なくしている少女には、この清らかな青は好ましく映るだろう。
「あっ、亮さま!」
 唐突に、花売り娘の華やかで大きな声が渋沢の耳朶を打った。
 思わず振り返れば、先ほどの花売り娘が黒髪の青年の前で頬を染め、満面の笑顔で迎えている。
「よ、元気でやってるか? ちゃんと売れてんだろーな」
 仕立ての良い服で花売り娘に笑いかけているのは、貴族の青年だった。渋沢はその黒色の目を持つ彼を見て、気づかれないうちに踵を返した。
 貴族の青年は、このネオ・ヴェローナの現大公家の長男だ。当主とは異なり、市井にもよく顔を出すとは知っていたが、民衆の支持とは裏腹に渋沢にとっては縁起の良い顔ではない。
 見たくない顔だった。
 逃げるようで業腹だったが、見咎められたくもない。そう思った渋沢は早足になった。
「おい、そこのでかい神殿騎士!」
 しかし、貴族の青年は目ざとく渋沢の背中に向かって高慢な声を投げかけてきた。
 少なくとも、これが自分の兄弟であったのなら、渋沢は大して知らない相手への礼儀について懇々と説教したいところだ。そう思いながら、仕方なく歩みを止め、人の合間を縫って近づいてくる青年を冷ややかに見据えた。
「何か?」
「今日は一人か? こないだのあいつは?」
 渋沢の隣に誰かを探したのか、黒髪の三上亮は問いかけた。
 あいつ、という言い方に渋沢は露骨に顔をしかめた。
「…恐れながら三上亮殿下、あいつとは、当家の令嬢の意味でしょうか」
 冷淡にわざわざ確認してみせると、三上はしまったという顔をしたあと、「悪かったよ」とつぶやいた。
「で、先日のご令嬢サマは?」
「彼女はおりません。ご用件なら私が承ります」
「……お前、神殿騎士なのに貴族の従者もやってんのか?」
 ふと何かに気づいたように、三上亮の目が鋭くなった。
 渋沢の記憶にある限り同じ歳の彼は、次代の統治者としての意識もあるのだろう。渋沢の、神殿騎士と令嬢の従者という二重の立場が不可解に思えたに違いない。
 思ったよりも馬鹿ではないと感じながら、渋沢は口を開く。
「確かに、本来神殿騎士というのは修道院で礼節と貞節を誓った修道士たちが帯刀した姿のことです。ですが、私は神殿騎士として寺院に属し帯刀を許可されていますが、本質は主人と共に在る者として寺院の長老に認められています」
「要は、修道士の誓いを持たない寺院の私兵か」
 建前では寺院に入ることは即ち世俗と断ち切り、家名も財産も捨てることであるが、特例はいくらでもいる。現実の裏側も知っている三上家の嫡男に、渋沢は笑ってみせた。
「その通りです」
「道理でうさんくさい奴だと思ったぜ」
 歯に衣着せぬ言葉使いは、流麗さを尊ぶ貴族階級のものとは思えない。気安く花売り娘を懐かせることといい、余程市井に慣れ親しんでいるのだろう。
 渋沢をにやにやと胡乱げに見やる目つきといい、とても御曹司の品格があるようには思えない。
「それで、あの生意気な女はどこにいんだよ」
「………………」
 渋沢は押し黙った。
 確かに主人格のあの少女は、正義感が強く気位も高く、特に三上のような傲慢な人間が大嫌いだ。三上にとって先日の一件は不愉快だったのだろうが、今の渋沢も主を悪し様に言われて気分が良いはずもない。
 吐息ひとつをこぼして、渋沢は本気で三上を睥睨した。
「俺の主人を侮辱するのは、そのぐらいにしてもらおうか」
「…主人? 違うんじゃねーの? こないだのお前の態度、どう見ても主人とかじゃねぇよ」
 あれは恋人への扱いだ。三上はそう続けた。
 せせら笑った三上に、渋沢は怒気がこみ上げてくるのを感じた。下卑た思考に、自分たちの関係を貶められる筋合いはない。
「主人だ。彼女は、俺たちの守るべき人だからな」
 守りたい人。必ず守り抜くと誓った人。それが渋沢と、連なる一族全員の誓いだった。
 十年前の夏、革命によって主の家は失われた。まだ幼かった次女一人を残して、一族は皆殺された。近衛隊長を代々輩出してきた渋沢の家も、辛くも次女と共に逃亡できた渋沢と祖父をのぞいて全員殺された。
 あの夏から、彼女だけが生きる希望だった。
 彼女がいなければ、生き残った一族が団結して生き延びられたとは到底思えない。
「主人、ね。…本当か?」
 真剣に窺ってくる三上に、渋沢は不機嫌顔でうなずいた。
「本当だ。大概失礼な奴だな」
「しょうがねぇだろ。やたら俺警戒されてんだろ」
「言っておくが、彼女を探しても無駄だ。二度と会わせないからな」
 確か同じ歳だったと思い出しながら、渋沢は三上を敬う口調をやめた。三上のほうもそれについてはあまり気にしないようだった。
 ふんと鼻で息を吐き、不遜な態度で三上は腕を組んだ。
「会わせろよ」
「ダメだ」
 結局はそういう目的なのか、と渋沢は呆れた。
 三上の嫡男ということは、いずれはグランドデューク―大公と呼ばれるようになる青年だ。本来ならば、渋沢の主人の家のものだった称号を奪った男の息子。
 冗談では済まない話だった。
「彼女には近づかないでくれ」
 持っていたことすら忘れた青い花が、渋沢の左手の中でしおれていく。強く握り締め、体温を与えすぎたせいだ。
 あの少女が、彼に名前を教えた。あの出来事は渋沢の胸の中で少し引っかかっていた。寂しそうだったからと言った、あの少女の横顔。異性として意識して欲しくない相手だというのに。
「それはお前が決めることじゃないだろ」
 けれど三上はさらりと渋沢の意向をはねつけた。
「お前は貴族だろう」
「あいつだって貴族なんだろ? 爵位は知らねぇけど」
「無駄だ。諦めてくれ」
 彼女はきっと、寺院から出たがらない。渋沢はそうであって欲しいとこのときばかりはそう思った。
 仇の息子なのだ。三上亮は。
「じゃあ、これ渡しておけよ」
 唐突に会話を変え、三上は外套の隠しから白い封筒を取り出した。宛名はなく、封印は盾と薔薇の意匠。三上家の家紋を目の当たりにし、筆舌し難い憤激が渋沢の脳裏をよぎった。
 受け取らない渋沢に、三上は視線を違う方向へ向けながら説明し出した。
「来週、城で夏至の仮面舞踏会がある。二人で来いよ」
「…ふたり?」
 渋沢が目を瞠ると、三上は封筒を少しずらして見せた。確かに二通ある。それぞれへの招待状ということなのだろう。
「爵位のない中層階級とかも来るし、夏至ってことで城内のほとんどを開放する。それなら、まだ来易いだろ?」
「彼女と、俺がか?」
「どーせあの女ひとりで来ないと思ったからお前も」
「…本気で言ってるのか」
「本気だね」
 何の運命だ、と渋沢は眩暈がしそうだった。
 同時に十歳まで過ごしたネオ・ヴェローナ城の壮麗な広間や、花で溢れた中庭を思い出す。2つの尖塔を持つ、美しい白亜の城。あの夏から一度も踏み入れていない城。幼少期は、成長すれば大公家の騎士としてあの城を堂々と歩くのだと思っていた。
 はねつけるべきだとわかっていた。仇の息子だ。彼の父が、あの少女の両親や兄姉を殺し、与えられるはずだった少女の幸福を奪った。最低限の世界しか知らず、家名を持たない娘にした男の家。
 それでも、手を伸ばしてしまったのはせめてあの城を見せてやりたいという思いと、黒髪の青年の真摯さを感じ取ってしまったせいだった。
「俺が、彼女に渡す前に捨てる可能性があるとかは思わないのか」
「でも他に方法はないだろ」
 そのときはそのとき、とでも言いたげに三上は首をすくめた。
 右手で封筒を受け取ったまま黙った渋沢に向かって、彼は「それから」とまた隠しに入れていた白い薔薇を取り出した。たった一輪、しかも矢車草よりも小さな白い薔薇だった。
「一応コレもな。封筒だけってのも格好つかないだろ」
「…ますます捨てたくなるな」
「んなこと言うなって」
 苦笑した三上だったが、渋沢は笑って受け取ることは出来なかった。
 憎しみを募らせる花。華麗でかぐわしい薫りの薔薇は、彼女も渋沢も嫌いな花だった。花を美しいと思う心よりも、つらい記憶を呼び覚ます。
「…気が向いたら渡してやる」
 花も封筒もすべて左手に持ち直した渋沢が、青い矢車草も持っていることに三上は気づいたようだったが何も言わなかった。
 別れの挨拶もせず、渋沢はさっさと雑踏に紛れる。礼儀知らずになっても構わない、と半ば自棄で思う。封筒も花も、受け取ったことをすでに後悔していた。
 彼女と自分のことを一切知らずに話す黒髪の青年が憎かった。彼はこの十年、自分の家がどんな行為の果てにいまの地位を得たのかわかっているのだろうか。
 圧制に苦しめられる平民、活気のない街、権力者だけが横行するネオ・ヴェローナの現状を、あの跡取り息子はどう見ているのだろう。渋沢の主人のように搾取される民衆を悲しんでいるのだろうか、それとも。
 白い薔薇。この花だけは、渡せない。
 雑踏を歩きながら、渋沢はそっと左手をゆるめ、白い薔薇だけを石畳に落とした。小さな薔薇は冷たい石の上に落ち、彼は振り返らなかった。










***********************
 …イタリア貴族はわからん(じゃあどこの国の貴族ならわかるのかと言われると困る)。
 詰まったときはパラレルを、というのがお約束なのですが、前回はこちら
 ロミジュリといっても、アニメ版のロミジュリのパラレルです(赤い疾風設定忘れていますが)(劇場じゃなくて寺院で匿ってもらってますが)。
 この場合ジュリエットは彼女なのか渋沢なのか微妙。
 思いつきで渋沢はテンプルナイト。信仰心が全く無く、隠れ蓑的な騎士様です。史実の神殿騎士とは全然違います。

 ロミジュリの音楽がどうもFFっぽい(特に戦闘シーンなどの緊迫感のある曲がFFTの戦闘用曲と、OP音楽と似てる)と思っていたら、音楽担当が共通でした。FF12とも。
 …きっとサントラも買うんだろうな、と思う。
 っていうかロミジュリとFFTの世界観がちょっと似てるので、結局こういうのが趣味なのだな、と己を再認識中です(剣と魔法の中世ファンタジーが要は好き)。

 以下視点を変えてちょっと続き。

*******

 ぱさりと軽い音がして、木のテーブルの上に青い花が咲いた。
 続けて渡されたのは白い封筒だ。一見して、寺院ではとても使えないような硬貨な紙であることがわかる。そして宛名はなかった。
「…この間の三上亮に頼まれた」
 届けてくれと。
 淡々と言う渋沢が、相当不機嫌であることに彩は気づいた。表情が変わらず、花と封筒だけを彩の私室に届けて下がろうとする。
「ちょ、ちょっと渋沢!」
「何だ?」
「手紙はともかく、この花は?」
「…一緒に届けてくれと言われた」
 苦虫を噛んだほうがもう少しやわらかい表情だったかもしれない。そんな、渋沢の顔つきにむしろ彩は笑ってしまう。
「わざわざ届けてくれたのね」
「君が捨てるべきだと思った」
「え…」
「言ったはずだ。三上亮は、仇の息子だ」
 現実を突きつける渋沢は容赦がなかった。それでも先んじて処分することが出来た渋沢が彩のところまで届けてくれたのは、彼の誠実さだと彩は理解する。
「捨てるよな」
 戸口のそばに立ったまま、渋沢が低い声でつぶやいた。
 そうして欲しい、という願いが見える声に、彩は思わず手紙と花を胸の前で持ちながら、うつむく。
「…読まないほうがいいもの?」
 いいに決まっている。今のところ三上亮は彩と渋沢の素性に気づいていないようだが、知られてしまったら今の生活どころか命すら危うくなる。
「…君の好きにすればいい」
 渋沢は強固に意見を押し付けようとはしなかった。
 しかしその態度にこそ、彩は申し訳ないと思う。あまり薫りの強くない青い花を見つめながら、彩は素直な気持ちを吐露する。
「私、手紙もらったの初めてってこと、知ってた?」
 親しい者同士の手紙のやりとりは寺院であっても頻繁に行われている。修道女たちは世俗と断ち切られていても、離れたところにいる親類や家族からの便りを心待ちにしている。
 けれど幼少期から寺院で過ごし、親類縁者は亡く、居所を明かせる友人もいない彩には、手紙を取り交わす人どころか手紙をもらったことすら記憶にない。
「手紙が欲しかったのか?」
「そうじゃなくて、手紙が届くっていうのは嬉しいのね。知らなかった」
 ささやかに彩は笑む。宛名はないが、一度しか会ったことのない人が、他の人を介してまで届けようとしてくれたことがやわらかな感動を生む。
 青い矢車草はやや瑞々しさを失っていたが、水に与えればすぐに戻るぐらいの様子だった。
「この花にも罪はないでしょう?」
 捨てずにいたい、という彩の思いを渋沢は酌んでくれたようだった。ため息のあと、彼らしく穏やかに笑う。
「そうだな、そのぐらいならいいんじゃないか」
 同意してくれたことに彩は内心ほっとする。本来彼に悪感情の表情は似合わないのだ。
 花瓶を取りに渋沢が出て行った後、彩は白い手紙と青い花を見比べる。不思議と仇の息子からのものと聞いても、極端に強い感情は出て来なかった。
 近づかないほうがいい相手ということはわかっている。いずれ三上の家を廃し、断絶したはずの元大公家の復興を目指している彩の一族にとって、敵であり毒にしかならない存在だとわかっている。
 それでも、この届け物は隔離された存在である彩にとって、思いがけない喜びになってしまった。
 実際に会ったときの印象は傲慢で気位が高く、貴族としての矜持以上にプライドを隠そうともしない男だった。不愉快な思いさえした。けれど、別れ際の一瞬の顔つきが忘れられなかった。
 二度と会わないと、渋沢は言った。しかし結局渋沢も彼と二度も会い、言葉すら交わしてしまっている。
 この場所を離れられない自分も、いつか彼と会ってしまうのかもしれない。
 会わないほうがいいのに、会うことを望んでしまいそうな自分を感じ、彩はそっとテーブルに手紙と花を置いた。






喪失の日(デス種/ルナマリア)(最終話後)。
2007年04月29日(日)

 世界で何が失われたのだろう。









 長い長い一日が終わった。
 艦長が不在となったミネルバへ帰投したルナマリアを迎えたのは馴染みの整備士だった。機体からラダーで着床しながら、ルナマリアは努めて朗らかに笑った。
「ただいま」
「お帰り、ルナマリア」
 ルナマリアからは父親ほどの年齢に当たる整備士は、ルナマリアと同じ考えであったのかもしれない。穏やかに笑い返した。その顔に滲む疲労に似たものに気づかない振りをしながら、ルナマリアはフェイスメットを外す。
「機体異常なし。後は艦の修復だけでしょ? 終わったらプラントに戻れるわね」
「ああ、そうだな。お疲れさん、ゆっくり休んでくれ」
「ええ、そうさせてもらうわ。あとよろしくね」
 これまでと大差ない会話。それでも、やけに広くなったモビルスーツデッキに響く声の空々しさは消しきれない。ふと、ルナマリアは目を細めて高い天井を仰いだ。
「…広くなっちゃったわね、ここ」
 かつては三体のモビルスーツを収容し、ザフト軍のエースを複数擁した艦。ミネルバとは、地球の伝説でいう女神の名だ。しかしその初代艦長だった女性も今は亡い。
 そしてルナマリアの同期生も、彼の白いモビルスーツも、二度とこの艦には戻らない。
「慣れないな」
 短く整備士が呟いた。ルナマリアよりも軍歴が長い彼は、整備した機体とそのパイロットが戻らない事実をいくつも見てきたに違いない。その歴戦の士ですらそう思うのなら、ルナマリアにはきっと一生慣れないのに違いない。けれどこれは慣れ不慣れの問題でもないのかもしれない。
 感傷を吹き飛ばすように、ルナマリアは快活さが見えるよう、口角を吊り上げた。
「でも、今やれることをやりましょう。そうでしょ?」
「…ああ、そうだな。ほら、早く着替えて食事でもしておいで。一人じゃ大変なんだから」
「はーい」
 まるで肉親のように優しげな響きで言われ、ルナマリアは明るく返事をしてから踵を返した。
 慣れない? ちがう、そんなのじゃない。
 ここにいない。二度と会えない。その意味がまだよくわからない。
 何度も笑いながら歩いた狭い通路を歩き、ロッカールームへ向かう。パイロット用のそこを使っているのは今はルナマリアしかいない。三人いたパイロットのうち、一人は戦死、一人は体調不良で医務室で眠ったままだ。
 最早無意識ですら出来るパイロットスーツから制服への着脱を終わらせ、赤い軍服の襟元を調える。髪をブラシで梳き、鏡をのぞけばいつも通りの『ルナマリア・ホーク』の出来上がりだ。
「…あ、そっか。シンのところに行かないと」
 茫漠した思いで、ルナマリアはそうひとりごちた。
 潜めた声、それが空疎にロッカールームに響く。パイロットの数に見合わない二桁の数の細長いロッカーが並ぶ部屋。なぜ、ここにはこんなにロッカーを並べたのだろう。
 そのときふと、自分がシャワーも浴びていないことに気がついた。
「ああもう、なんで私着替えてんのかしら」
 ぶつぶつ言いながら、ルナマリアは赤い上着の合わせを解く。袖を引き抜き、ハンガーに掛けようとして、突然手が止まった。

『全く、お前は考え無しで物事を進めるから、後で困るんだ』

 冷淡な声。耳の奥、心の底からよみがる。
 レイ。
 淡い金髪の友人。戦死したと聞いたのはほんの数日前で、それ以来ルナマリアはレイに会っていない。
 ルナマリアは制服の袖にもう一度腕を通した。シャワーなんて後でもいい。いまは、早くシンに会わなければいけない。シンは高熱を出してここ二日ベッドを離れられない。早く行かなければ。
 シンに会わなければ。
 頭の芯が茫としたまま、ルナマリアは出入り口へとふらりと脚を向ける。
 モビルスーツに乗っている間は何も考えない。ただ計器を見つめ、トリガーを握り、上下左右に広がる宇宙空間だけを思っていればいい。そこには自分しかいない。
 けれどこうして機体を降り、生身の自分になってしまうと先日までの戦いを思い出さずにはいられない。再び会えた人たちのことや、いなくなってしまった人たちのことを。
 疲れているのかもしれないと、ルナマリアは頭の一部分に残っている冷めたところで思う。落ち着いて今後のことを考えられないほど疲れているのかもしれない。戦争は終着を迎えつつあるというのに、その先の未来を何も夢見ることができないでいる。
 シンと一緒にプラントに帰る。
 そばにいると約束したシンと、一緒にプラントへ戻る。
 それだけを思っていればいいはずだというのに、それすら億劫になりつつある。
「ルナマリア」
 呼ばれ、顔を上げれば顔見知りの看護兵が微笑んで医務室の前に立っていた。
 反射的に快活な笑顔を作り、ルナマリアは片手を上げた。
「お疲れ様。シンの様子、どう?」
「熱は随分下がってるけど、体中に打ち身があるから、今日一日はこっちに泊まったほうがいいわね。会ってくんでしょう?」
「そうね、そうするわ」
「先生もいないから、ごゆっくり」
「ありがと」
 滑舌の良い口調が、遠くから響くようだった。それが自分の声であることがルナマリアには信じられない。声と体は、脳の支配下にあるはずだというのに唇も脚も勝手に動く。
 開閉ボタンを押し、静かな医務室に入ると奥のベッドに黒髪の彼が横たわっているのが見えた。
「シン、調子どう?」
 軍用ブーツで歩み寄る。戸惑いのない歩調。背筋を伸ばしたルナマリアは、あまり動けないシンが首を動かしてこちらを向くのを見た。
「…ルナ」
「熱下がったんでしょう? 早くこっちに戻ってきなさいよ。エースパイロットの名が泣くわよ」
「…きっついなぁ」
 はは、と弱弱しく真紅の目が苦笑する。
 頬骨のあたりに青い痣が残っている。大破した機体を思えば、生き残っているシンはやはり悪運が強いのだろう。しかし戦場ではそれすらも実力だ。生きて帰って来れば、新に人員を補給せずに済む。兵士が生きることは人材の喪失を防ぐことでもあるのだ。
「ごめんルナ、すぐ戻るから」
 それだけははっきりとシンが言った。起き上がることが出来ない身体で、ルナマリアを見上げたまま。ルナマリアは目元で笑い、そっと手を伸ばした。
「無理はしちゃダメよ。もう戦況は落ち着いてるんだし、ゆっくり休みなさい」
「さっきと言ってること違んですけどー」
「あんたがあんまり情けないからよ」
 指先でシンの整えられていない黒髪を撫ぜる。地肌に触れると伝わるぬくもり。確かにシンが生きているという証拠だ。
「ルナは?」
 ふと、シンが真剣な顔でルナマリアを見た。
「え?」
「ルナは、大丈夫?」
「大丈夫よ。怪我もしてないし、ちゃんと元気よ。あたしを誰だと思ってるの」
「そうだけどさ」
 心配になるよ。
 妙に大人びた顔で続けられ、ルナマリアは一瞬言葉を見失った。しかしややあって腰をかがめ、寝台のシンと視線を同じくしながら「ばかねぇ」と言って微笑んだ。
「あたしは大丈夫。ね?」
 軽く、ほんのわずか触れるようにシンの瞼に口付ける。母親がぐずる子どもにするようなキス。微笑を絶やさないときのルナマリアに、シンが安心することを知っている。
 こういうときにルナマリアは自分が女であることを実感する。この人のためなら、姉にでも母にでもなれるという実感。守られる快感と守れる幸福を感じさせてくれる人。
「また来るから、おとなしくしてるのよ」
 至近距離で微笑めば、シンは素直にうなずく。
 その様子に満足感を覚えながら、ルナマリアは立ち上がる。じゃあね、と手を振って笑った後は、もう振り返らなかった。
 今度こそシャワーを浴びなければ。
 大体、好きな人に会いに行くのに汗臭い格好でも構わないなんて、そっちのほうがおかしいんじゃない? ルナマリアの脳裏で奇妙な声がする。まるで背後に他の人がいるようだ。
 シンから離れてしまうと、また思考が止まってしまう。霧がかった凪の海の中、たった一人でいるような感覚。シャワールームへ行かなければ。
 行ってどうするの? 誰かいるの? いないでしょう。また声がする。
 人の気配がない通路を足音を響かせながら歩く。かつん、かつ ん、と。足元がふらついていることにルナマリア自身は気づかない。
 誰もいない。
 誰かいる。
 誰がいない?




「レイ」




 声が聞こえ、ルナマリアは立ち止まった。
 誰の声だろう。そう考え、数秒経ってその声は自分で言ったものだと気づく。


「レイ」


 どこにいるのだろう。
 そういえば艦に戻ってきてから会っていない。
 早くシンの容態が落ち着いたことを伝えなければいけないのに。

「レイ」

 会わなければならない。シンに、会わせなければ。
 シンもきっとレイに会いたいはずだ。水と油のように違う二人だけれど、士官学校時代から仲が良かった。とても良かった。
 過去形?
 ぽたりと水滴が落ち、ルナマリアの心に波紋が広がる。
 そうだった、彼は、もう。
 瞬間、膝から力が抜けた。
「レイ」
 彼はもう、いないのだ。
 通路に崩れ落ちながら、ルナマリアには何も見えない世界が広がっていた。茫漠とした穴が急速にふさがっていく。現実で塗り込められていく。
 レイ。
 彼はもう。
「…いや」
 右手で赤い髪を握り締め、冷たい壁に身を預ける。
 この身に触れるものは、何も変わっていないのに。
「いや…!」
 髪を握りこんだ手ごと、かぶりを振る。埋めようとしてくる事実を振り払うように、ゆるゆると。駄々を捏ねる子どもと同じ仕草で。
 シンが言った「大丈夫」の意味を、涙と一緒に思い知る。
「いやぁ…!」
 いなくなるなんて、そんなはずなかったのに。
 レイ。

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……!!」

 狂える慟哭が、世界の果てから押し寄せる。









***********************
 没入り復活連続です。
 最終話後に書いたものの、「どーよこれ」的なストップが入りました。自分で。女の人の悲鳴はそれだけで凶器、というのを思いながらつらつらと書いた覚えが。
 シンとレイとルナマリーの三角関係にもならないような、友情と愛情ごっちゃまぜのバランスが好きでした。最終的にシンルナで落ち着きましたが、それでもマリーはレイのことも好きだったんじゃないかな、と。
 ただマリーは世話の焼けるシンのほうに傾いただけじゃないかな、とか。レイを失った後、泣くのはシンで、狂うのはマリーかな、とか。
 そういうのがごっちゃになって、こういう感じになりました。

 没作品は結構残してありまして、ときどきネタがないときにひっくり返しては再利用できないか考えます。

 没時代にはなかったものとして、今回追加したのはルナマリーのシンへの瞼キス。どうもこの二人って、唇キスよりも瞼とか額とか頭のてっぺんとか、そういうイメージがあります。
 世のシンルナがどんなものかは全然知らないのですが、私の中のこの二人はどこまでも姉弟カップル。




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