小ネタ日記ex

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正しい春の迎え方11(笛/真田一馬)。
2004年08月26日(木)

 随分前からの友達なのだと、若菜さんは笑って言った。








「でも同じクラスどころか同じ学校だったこともねーの、俺も英士も一馬も、みんなバラバラ」

 食事中、笑いながら、真田さんのお友達さんは昔話をしてくれた。
 真田さんはときどき口を挟むぐらいで、食事のほうに重点を置いた食べ方をする。けれど若菜さんは反対に、喋るほうに重点を置いている。だけど相手の反応や言葉を聞くときは必ず食べるほうを優先する。かといって相手の話を邪険にしているわけでもない。食べながら聞いては話す。器用なことをさらっとやってみせる人だった。

「結構すごいだろ? すごくね?」
「結人、恥ずかしいこと言うなよ」
「お、そゆこと言う? 付き合いの長さイコールお前の恥ずい過去も知ってるってことわかってて。矢野ちゃんあのな、こいつ中学んときの体育祭で」
「ゆ…ッ」
「…と、まあ、こうやってからかうと楽しい男なんだよ、こいつ」

 軽快にして豪快。にやけた笑いも様になる若菜さんは、思わず椅子から立ち上がりかけた真田さんを指差して、楽しそうだ。

「お前、いいかげんにしろって!」

 悔しまぎれなのか、赤い顔で怒鳴る真田さんには、それほどの迫力はない。
 そんな様子は、わたしには新鮮だった。
 わたしの前の真田さんは、衝動的に物事を始めるよりも、少し考えて動くような思慮深さをたたえているように見えたから。年下のわたしからは、ずっと落ち着いた人のように見えていたけど、若菜さんの前ではそうでもないみたいだった。

「そうだ、矢野ちゃん明日の夜ヒマ?」
「え…?」
「結人、お前変なとこ連れ出す気か」
「ばっか、明日の夜、試合だろ。ヒマだったら観に来れば、って言おうと思ったんだよ。俺とお前の試合なら見る価値アリだろー? ついでに変なとこってどんなとこだ? ホレ言ってみろ」
「え、いや、それは」

 勝ててない。若菜さんを前にしての真田さんは、ほとんどそんな感じだ。
 でもきっとこの感じで、二人はずっと友達を続けてきたんだろう。真田さんをからかう若菜さんはずっと笑ってるし、真田さんは眉間に皺を寄せても本気で不愉快ではなさそうだ。
 この二人の間で、仲裁に入る郭さんの姿が目に浮かんだ。
 じゃれあう子犬のきょうだいみたいに、この人たちは子供時代と少年時代を過ごしたのかな。
 十年越しの親友たち。その姿が、ちょっとうらやましかった。

「で、明日ヒマ?」

 根源を思い出したのか、若菜さんがわたしのほうを見た。

「明日、は…」
「…無理しなくていいぞ」

 一瞬返答に迷ったとき、真田さんがそっと言ってくれた。
 若菜さんがむっとした顔になった。

「おい一馬、横からそういう言い方すんなよ」
「違うって。仕事終わってから会場来るとしたら時間的にかなり無理あるんだよ」
「え、そうなの?」

 若菜さんに振られて、うなずく。
 真田さんのチームが普段試合をしているホームグラウンドと、わたしの仕事先の大学は逆方向で、しかも大学は駅から遠い。平日の試合開始時間に間に合わなくもないけど、間に合わせようと思うとあちこちの時間を切り詰める必要がある。

「…お前、そういうの考えてやれるようになったんだな」
「すげえ失礼だぞ、それ」

 なぜか若菜さんがしみじみと言うから、不思議だった。言葉通り真田さんはちょっと不服そうだった。

「んじゃあ、しょうがないか。また今度観に来てよ。あ、そうだ一馬、次の代表戦ってどうだ?」
「どうだもこうだも、まだ決まってないっつーの」
「だから先に予約するんだろーが。な、矢野ちゃん、俺ら三人でチケットはどうにかするから観に来ない?」
「三人?」
「俺と一馬と英士。三人かがりで頼めば宣伝広報だろうか総務だろうがどこのおねーさんも落とせるから」
「誰も担当が女だとは言ってないだろ」
「英士みたいなツッコミはいらん! どうする? 一人じゃ嫌だろうから、友達の分ぐらい何とかするし」

 若菜さんの熱意は、正直困ってしまう。
 わたしはまだ新しい生活を初めて間もないし、サッカーのことに関してはほとんどと言っていいほど知らない。サッカーが好きな友達が出来たわけでもないし、行ったことのないプロの試合観戦の誘いは、わたしがまごつくのに充分だった。
 悩んだ末に、わたしは正直に言うことにした。

「すみません、あんまりサッカーのこと知らないから…」
「じゃあ解説役になる子も紹介しよっか? 歳が近くて女の子で俺ら三人共通の知り合いでいるから」
「どなたですか?」
「英士の――

 がしゃん。郭さんの名前が出た途端、真田さんのお皿とスプーンが激突する音がした。

「ば…っかお前! 英士関係で俺らが知ってるっつったら」
「いいじゃん。英士じゃなくて俺とお前で頼むんだから」
「い、いいわけあるか…!」

 わたしにはよくわからない人の話題だったけど、わたしには二人の会話を聞いているだけでなんだか楽しかった。周囲の人を安心させる気安さと、それを可能にする深い信頼。そんなものが二人の空気からあふれ出ていた。
 結局わたしの初観戦のお話は、真田さんと若菜さんと郭さんの三人が召集されてから決める、という結論に至った。
 ほとんどわたしの意向は忘れた様子で決められてしまったけど、観に来てよと明るく誘ってくれた若菜さんと、わたしの都合と無理強いさせないよう気を遣ってくれた真田さんの様子が、なんだか嬉しかった。
 思えばこの夜は、この部屋で初めて真田さん以外の人と一緒にした食事だった。







 楽しい時間はあっという間で、真田さんがお風呂に行ってしまうとわたしは若菜さんと二人だけの状況に取り残された気分を味わった。

「矢野ちゃん、この犬と一緒に来たんだっけ?」

 部屋の隅で眠ろうとしているさくらちゃんを撫でている若菜さんの背中が、急にそう言ってきてお皿を洗っていたわたしは驚いた。
 振り返って、その背に言う。

「そうです、けど…」
「あの日、や、次の日かな、俺、一馬から電話もらったんだよね」
「…………」
「犬の名前について相談されたんだけど、それより矢野ちゃんの話聞いてさ、すげー驚いたのなんのって」

 よいしょ、と区切りをつけるみたいに若菜さんが膝に手を置きながら立ち上がった。振り返った顔に、食事どきの軽快な笑みがない。静かな、青年の顔。

「正直、一馬が面倒背負い込んだと思ったよ」

 若菜さんの表情に、以前の郭さんに似た冷たさが過ぎったのを感じた。
 覚悟を決めよう。不意にそう思った。若菜さんが来てから、その思いはずっと胸にあった。三人一緒だったという彼らの少年時代。郭さんがわたしに感じたことを、若菜さんが思わないはずがない。
 けれど若菜さんは、ふっと目元をなごませて笑った。

「ごめんな、英士、かなりキツいこと言っただろ?」

 若菜さんが歩いてくる。手を拭くためのタオルを握り締めたわたしを気遣うように、まあ座って、とすぐ近くの丸いスチール椅子に座らせた。

「英士が先にここ来たって、聞いてさ、こりゃてっきり相手の子いじめたなコレは、と思ったんだけど。違う?」
「…………」
「マジごめんな、あいつの八つ当たりだから、何言われてもあんま気にしなくていいから」

 郭さんに言われたことを、気にしていないと言えば嘘になる。だけど、いじめられた、なんて人聞きの悪いことを郭さんから受けた気もしなかった。あの人が言っていたことは、みんな正しかったから。

「八つ当たり、って…」

 おそるおそる尋ね返すと、若菜さんは苦笑した。

「なんつーのかなー、俺ら、一馬は他人といきなり同居するような奴とは思えなかったワケですよ。だもんで、こりゃ押し掛けられたな、と思ってたら、そうじゃないと本人は言う」
「……………」
「はっきりとは言わなかったけど、こうやって矢野ちゃんと暮らしてるのは自分の意思でしたことだ、って俺たちに宣言しやがって」

 若菜さんは、仕方のなさそうな顔で笑っていた。弟の成長を笑うお兄さんみたいに。

「…俺たちが思ってるより、ずっとあいつが大人みたいで、なんかやられたってカンジ?」

 そうなんだ、とわたしは真田さんに軽口を叩いてからかう若菜さんの本音に触れた気がした。
 真田さん、若菜さん、郭さん。この三人の中で、真田さんは末っ子みたいな立場だったのかもしれない。他人で、同じ歳だけど、ほんの少し庇護を受ける立場の人。

「そこが英士にはショックだったわけです。あいつもまだまだガキだよな」
「…若菜さんは」
「俺? 驚いたけど、実際揃ったとこ見たらなんか二人とも普通だからまあいっか、って。柔軟性が俺のウリよ」

 だけど、と若菜さんは続けた。
 強い視線を向けられる。顔つきが、少しあのときの郭さんに似ていた。
 笑いかけられたけど、心はきっと笑っていない。

「本題に入っていいかな?」

 いやだ、なんて言えない。わたしは視線を外した。

「本題、ですか…」
「英士から話聞いてから、俺ずっと見てみたかったんだ。ここの生活」
「…………………」
「俺たちにしてみれば、マジで意外だったワケよ、赤の他人といきなり同居し始めた一馬なんて。有り得ないと思ったね冗談抜きで」
「…わたしは、会う前の真田さんを知りません」

 わたしにとっては、あの日会ったときからの真田さんしか知らない。
 それがいいとかよくないとか、考えたこともない。
 過去の真田さんを知ったら、わたしのことも知らせなければならない。片方だけが昔話をするのは、公平じゃない気がしたから。だから真田さんには現在以外の話を振らないようにしてきた。

「知らないから、今のことだけでいいんです。…真田さんを知る権利も、自分のことを話す権利はわたしにはありません」

 知りたくない。…知られたくないから。
 堅すぎるほど堅い声になったせいか、若菜さんはちょっと慌てたようだった。

「え、なんで? そんな深刻な事情アリってこと?」
「いえ…たぶん、他の人からすれば、本当にただのわがまま娘の家出です。もともといたところは、社会的に問題があるわけじゃありませんでした」

 言葉に出来る爆発的な問題や事件は何もなかった。
 あったのは、少しずつ積み重ねられた鬱屈のようなもの。

「じゃなんで家出なんか。…あ、ごめ、俺突っ込みすぎ?」
「いえ、大丈夫です。…聞かれたら、全部言おうと思ってましたし」

 言ってから失言だと思ったのか、若菜さんは素直に謝ってくれた。その態度に思わず笑ってしまう。深刻に言われるより、ずっと話しやすかった。

「自分からあいつに言ってやんないの?」
「…出来る限り、真田さんには言いたくないんです」

 ちゃんと、事情を言わなきゃいけないことはわかってる。
 何も言わずに、ただ置いてもらおうだなんてむしが良すぎる。わかっていたけど、誰かに話すことで過去の自分を見つめ直すのが嫌で、逃げ回っている。真田さんにも、自分にも。

「事情を言うことは、少なからず相手を巻き込むことだ、って少し前にほかの人から言われたんです。真田さんにはすごく助けてもらったので、どうしても…わたしの事情に少しでも巻き込ませたくないんです」

 嘘じゃない。だけど、全部真実でもない。
 偽善者だと胸の奥で、わたしはわたしを罵ることしか出来ない。
 だけど真田さんには言いたくないことが、たくさんある。わたしが捨てるために築いてきた時間を、輝く未来のために努力し続けてサッカー選手の道を手に入れて、優しい友達がいるあの人に。

「ごめん、それすごい奇麗事だと俺思うんだけど」
「ですよね」

 若菜さんの感想に、わたしは苦笑した。きっと、この人は見抜くと思った。
 自分の恥部をさらしたくない気持ちも、真田さんに負担をかけたくない気持ちも、どちらとも言えない曖昧さを。

「矢野ちゃん、もう充分巻き込んでるじゃん。今更事情話して一馬がどうこう思うとかないんじゃない?」
「…そう、だといいです」
「俺的には、矢野ちゃんいい判断したと思うよ。駆け込み先が一馬で」
「……?」
「だってさ、家出した子が見知らぬ男のとこ転がり込んで、何もされずにほのぼの暮らしてます、ってほうがまず奇跡。かなり無茶した割には、運いいじゃん。よかったなー、あの一馬で」

 …それは確かに、わたしもそう思う。
 人を見る目があったとかどうとかより、ただ運が良かったと思う。真田さん以外の人だったら、今ごろもっと泣く羽目になっていたかもしれない。

「…真田さんに会った日、ここでご飯食べたんです」

 思い出す。あの始まりの日。ここに、今みたいにわたしはいた。

「心細いときに、一緒にご飯食べてくれたから、いい人だなって思いました」

 泣いたときに手を差し出してくれて、困った顔でも見放さないでくれて。
 いろんな些細なことが、すごく嬉しかった。
 思ったままに言ったら、若菜さんは一瞬だけ唖然として、それから吹き出した。

「わはは単純! …でもま、そのへんが一馬と合うのかもな」

 立ったままの若菜さんが、座ったわたしの頭の上にぽん、と手を乗せた。

「あいつ、ときどき偏屈で愛想ないかもしんないけど、仲良くしてやってくれな」

 見上げた若菜さんの目は、なんだかすごく優しげだった。
 それはきっと、わたしに向けられたものじゃなくて、真田さんに向かったものなんだと、直感で思った。

 少し湿った春の宵だった。
 少しだけ長い、春の夜だった。








************************
 やけに長い、回になりました。
 そんな正しい春の迎え方11話。英士編が5話だったから、同じ分量で終わるはずだったんです、が。次の12話まであります。
 正規に直すときに一部削るかもしれません。前半長すぎた。そのうちダブルもしくはトリプルヒロインでアンダー話でも、とか欲を出したのが悪かったんだと思います。

 書けるうちにさくさく進めたいので、次も真田シリーズです。

 ところで昨日の五輪、シンクロのデュエット。
 銅メダルのアメリカの音楽、FF8じゃなかったですか…?
 すんごく聞き覚えがあった気がしたのですけれども。それとも聞き覚え違いでしょうか。妹と二人で、「ねえこれFFのなんかでなかった…?」「セフィロス?」「や、なんかこう、魔女のやつ…」とああだこうだと言ってました。
 最後の歌が盛り上がっていって、ジャジャジャン!で終わるところでスコールの顔がアップになるあのCGがよみがえりました。
 それともFFのあれがどこかの曲を借りていたのでしょうか。
 気になる五輪の謎。

 ま、気になるなら自分で8のサントラ聞き返せばいいんですけど(めんどくさがり)。






正しい春の迎え方10(笛/真田一馬)。
2004年08月24日(火)

 本題に入ってもいい? その一言に、俺は廊下の薄暗がりに縫いとめられてしまった。








 結人が持参してきたという手土産は、関西の高級レトルトカレーだった。
 高級だろうがレトルトはレトルトだ。そう言ったら、「バカ言うな。一食四百二十円だぞ? 米ついてないんだぞ? 自分であっためて盛り直さなきゃならないレトルトで四百二十円なんだぞ? 高級だろ!」と憤慨された。
 しっかり3つ持ってきたところから、結人は最初からうちで夕飯を食べていく予定だったに違いない。

「おいしいですね」

 うちの同居人は、結人に気を遣ったのか笑みを浮かべながら食卓に着いていた。

「だろだろ? 俺的にはこのビミョーな辛さが絶品だと思うんだよね」
「…俺にはちょっと辛いぞ」
「だってお前に持ってきたんじゃないし。なー、矢野ちゃん」
「え?」

 夕食の間中、会話の主導権はすべて結人が握っていた。結人はもともと会話上手で、初対面の人間から言葉を引き出す能力は俺の知る人間の誰よりも高い。
 三人でカレーの食卓を囲んで、結人は俺の近況を聞き出し、紅一点が知らないような知識(俺らには常識のJリーグのこととか、英士との昔話とか)をさりげなく説明してやっていた。俺とあいつ、どちらと喋っても残ったほうが会話にあぶれるようなことにはならなかった。全部、結人のおかげだった。
 本当なら、結人とあいつの間にいるのは俺だから、俺がその役目を担うはずだった。

「片付けは俺が手伝うから、お前は風呂でも入ってこいよ」

 最後まで食べていた彼女が食べ終わったのを見計らって、結人はそう言ってきた。
 笑いかけてきた結人の、俺より明るい色の髪が蛍光灯の光を弾く。
 思わず顔をしかめた俺は、結人からすればわかりやすいことこの上なかっただろう。結人は苦笑するように口許だけで笑って、俺の肩を小突いた。

「なーに保護者ぶってんだよー。なんもしないって」
「…別に」
「んじゃ入ってこいよ。きっちり洗っといたから、長風呂でもいいぜ」

 二人で残すのは不安がある。それは結人があいつに、具体的に何かするとかしないとかじゃなくて、もっと漠然としたものだった。
 予感は、二十分後に明らかになる。








「本題に入っていい?」

 結人の声が、風呂上りの湯気を俺から吹き飛ばさせた。洗面所から一歩出たところで立ち竦む。
 たいして長くない廊下の先、ダイニングキッチンから結人の影が伸びている。その近くにいるはずの小さな影は見えない。おそらく、冷蔵庫の前に置いてあるスチール椅子に座っているんだろう。

「本題、ですか…」

 夜の空気に混じる、頼りない声。結人を見上げているだろうか。それとも、うつむいて床を見つめているだろうか。

「英士から話聞いてから、俺ずっと見てみたかったんだ。ここの生活」
「…………………」
「俺たちにしてみれば、マジで意外だったワケよ、赤の他人といきなり同居し始めた一馬なんて。有り得ないと思ったね冗談抜きで」
「…わたしは、会う前の真田さんを知りません」

 透き通るような声は、俺も稀に聞いたことがある、前の生活のことを話すときのものだった。疲れ果てたような、自棄っぱちのような、怖いほど冷め切った声。
 俺の裸足の足の裏が、床との間で汗を生み出していた。

「知らないから、今のことだけでいいんです」

 昔のことなんて、知らなくても知らせなくても構わない。
 俺にはそう聞こえた。

「…真田さんを知る権利も、自分のことを話す権利はわたしにはありません」

 どういう、意味。
 俺の疑問には結人が代わってくれた。

「え、なんで? そんな深刻な事情アリってこと?」
「いえ…たぶん、他の人からすれば、本当にただのわがまま娘の家出です。もともといたところは、社会的に問題があるわけじゃありませんでした」
「じゃなんで家出なんか。…あ、ごめ、俺突っ込みすぎ?」

 わかってるなら言うなよ。
 いけしゃあしゃあと言ってのける結人に、立ち聞きの俺は自分のことを忘れて脱力しかけた。
 けれどそんな結人の悪びれる様子のない愛嬌さゆえか、あいつが少し笑う気配があった。

「いえ、大丈夫です。…聞かれたら、全部言おうと思ってましたし」
「自分からあいつに言ってやんないの?」

 主題が俺に移ったあたりから、居心地の悪さを感じ始めた。こういう話の聞き方はよくない。二人は俺が風呂から上がったことを知らない。

「…出来る限り、真田さんには言いたくないんです」

 名前が出て大きく心臓が跳ねる。
 拒否されたことに、思った以上に胸が痛んだ。
 何でだよ。そう怒鳴って飛び出したかったけど、出来なかった。

「事情を言うことは、少なからず相手を巻き込むことだ、って少し前にほかの人から言われたんです。真田さんにはすごく助けてもらったので、どうしても…わたしの事情に少しでも巻き込ませたくないんです」

 何を思って、その言葉を言うのか。
 何を考えて、この場所にいるのか。
 全部知ることが出来たら、同じ空間で過ごす時間と比例して大きくなっていく物足りなさを埋められるだろうか。
 それ以上二人の会話を聞くことは出来なかった。耐えられなかった。
 俺は足音を忍ばせて玄関に向かった。








 春の宵は花の匂いがする。
 マンションの庭代わりになっている小さな公園には、名前を知らない樹木の花が溢れていた。垣根がわりの低い木。植物に詳しいあいつなら、名前を知っているかもしれない。
 風呂から上がったばかりの頃には熱を帯びていた髪の湿気も、今はすっかり冷えて首筋の体温を奪う。バスタオルを肩に掛けたままだから、あまり寒くない。
 居たたまれなさに部屋を出て、見上げた夜空にはうっすらと雲がかかっている。月はなく、ほんの少しの星だけが見える。
 俺に喫煙癖でもあったなら、こんな時間のこんな場所でも絵になったかもしれないけど、現実として俺は煙草は好きじゃない。アスリートの寿命を少しでも延ばしたいのなら絶対に吸うなと先輩にも言われた。
 気づけば二十一だ。揉まれ続けるプロの世界にも慣れたと強がって言える歳かもしれない。
 でも、こんな風に二十一の春を過ごすことになっていることを、十年前の俺は予想だにしていなかった。


「かーずまー」


 エントランスの自動ドアが開き、軽妙な足取りの男が手を振ってやってくる。

「やたら長い風呂だと思ってのぞいてみたらいないって、何の密室トリックかと思ったぜ」
「…トリックでも何でもないだろ」

 声が低くなったのは、不機嫌のせいなのか体温が奪われつつあるせいなのか、自分でも判別出来なかった。
 結人は素早く片眉を動かした。

「あれ、もしかして、聞いてた?」

 なんで俺の行動だけで、思い当たってしまうのか。結人の勘の鋭さは、時として英士の洞察力を上回ることがある。そしてわざと屈託のなさを装うもんだから、やけに鼻につく。
 黙って視線を逸らした俺を肯定と取ったのか、結人は片手を顔の前で立てた。

「悪い、別にお前らのことに本気で口出しする気じゃなかったんだけどさ」
「……………」
「…ま、でも、お前ですらうっかり拾ってみたくなる気持ちは、ちょっとわかった。あの子危ういっつーか、真面目すぎて怖いタイプっつーの?」
「言われなくてもわかってるよ」

 ためいきと一緒にそう言うと、結人は黙った。この台詞を言うのは何度めだろう。
 この話題を延々と続けるのが嫌で、俺は結人を見ずに斜め上の夜空を仰いだ。

「なぁ…結人」

 戻る反応が否定でも肯定でもいい。浮かんでは数を増やすこの感情を、誰かに聞いてもらいたかった。
 巻き込みたくない。あいつの健気な気持ちは、裏側に残酷な意味を孕んでいた。

「放っておけないって気持ちだけじゃ、頼られる理由にはならないんだな」

 たとえ俺が、同じ場所で暮らすほど近くにいても。
 心の距離は決して縮まらない。片方がかたくなに拒むから。

 寂しさなのか悔しさなのかわからない。
 見上げた空に、かすかに瞬く小さな星。頼りないのに、それでも光ってる。
 たとえ、誰も見ていなくても、この春の夜に。








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 正しい春の迎え方10話め。前の話一覧はこちら
 …なぜまだ残っているのでしょうメモライズ(でも残ってるなら使う)。

 真田くんは読んだり見たりはものすごく好きなのですが、自分で書くとなると眉間に皺が寄るキャラです。好きだけど書くのは難しい。
 同じ不器用でも、三上とは毛色が違うのでむずかしい。三上は思ってもプライドがあって言えない不器用、真田は思ったことに自分で疑問を感じて悩む不器用、…だと、個人的に解釈しております。正解はどこなんだろう…。
 笛的いじらしい恋をしてもらいたい人ナンバーワン、それが真田一馬。
 でもこの話がいじらしい恋物語なのかは全然別問題です。

 今回も、ヒロインの苗字のみデフォルト名を使用させて頂きました。そういうのがお好きでない方、毎度毎度申し訳ないです。脳内変換でお願い致します(土下座)。




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