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友達 - 2011年09月28日(水)

パラキートさんが亡くなった。彼女の病気のことは詳しくは知らなかった。ずっと痛くて苦しかっただろう。僕なんかでは想像もできない。ご家族や恋人のことを思うと言葉が出ない。

1番良く遊んだ2005年ごろはみんなでピクニック行ったり河原でDJしたり僕の家で映画観たりしてた。彼女はその多くに顔を出してくれていたと思う。不器用で優しい女の子だった。人に気を遣いすぎてわけわからなくなることが多くて、その度に僕は全力でからかった。「何でそこで遠慮するんだよ!」と。でも何年か前に恋人ができてからは落ち着きがある素敵な女性に変貌していた。とても幸せそうで他人への優しさにあふれていた。これからもっともっと幸せになるってことだったんじゃないのか。

心残りはたくさんある。

渋谷HMVが閉店する時の自慢話ができなかったこと。(カジヒデキのライブを至近30センチで観て手書きのセットリストを貰ってきたのだ)映画モテキの話題ができなかったこと。彼女の好きなアーティストばかりが出ていたのだ。渋谷のカラオケ大会に行けなかったこと。

最後に会ったのは高円寺ルーツだったか渋谷エッジエンドだったか。その時に綺麗な紙に包まれた石鹸をもらった。「なんか人にものをあげたくなる気分になった」とか言っていたと思う。始発電車は酔っ払いだらけだったけれども彼女からもらった石鹸のおかげで鞄の中から良い香りがして心が安らいだのを覚えている。

最近は彼女が好きだった小沢健二ばかり聞いている。そして初めて会った渋谷ネストのことを思い出している。
今までたくさん遊んでくれてありがとう。




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忘れていた過ちが大人になり口をあけるとき - 2011年09月26日(月)

本日レイトショーで映画「モテキ」を観てきた。

名作なのかどうかは自分にはちょっとわからない。(つまらなかったという意味ではなく)

確かに主人公の部屋にある漫画やレコードなどのネタ探しなどは楽しめた。でも肝心のストーリーが恋愛のキラキラ面ではなくダークサイドにだけにひたすら注目をさせる映画なので心が弱い人は観ないほうが良いのかもしれない。

現実社会でも恋愛を自分本位に進行させようとするときに多くの人が「悪の力を借りる」ってことをよく選ぶ。この映画でも同様に、男の子も女の子もとても汚い。常に卑怯で相手のことを全然考えない人ばかりが出てくる。いい歳した社会人がサブカルチャーの山に埋もれながら自己本位な恋愛を続けるとか・・・。

キラキラな音楽に乗せて残酷な恋愛が進行していくのは胸が痛む。しかし自分も00年代の前半ごろって自己中心的でこういう感じのイタい奴だったよなーと思う。そのころの自分を笑って許せる人は見ろ。そうでない人は傷が癒えるのを待て。

しかし人生にモテキって必要なのか?モテキの人間って幸福なのか?

モテキが過ぎ去るとみんな「あー最近つまらないなー」とか「もっと刺激がないかなー」とか。麻薬みたいに非日常の生活を求めるようになってしまう。

しかし幸福というのは常に恋愛の勝者になって甘い陶酔に浸ることではないし、何もかも手に入れて他人から羨ましがられることでもない。ましてやロックフェスみたいなパーティ的非日常空間が永遠に続くことでもない。

今ある状態に感謝ができない限りはどんなモテキが来てもその人はずっと子供のままなのだと思う。モテキなどバッサリ捨ててしまって日常に戻って幸せを手に入れることが大人になることだよなーとか最近思う。

映画「モテキ」で童貞(セカンド)っぽい人物を主人公として出すのならばその主人公の「成長」ってのを描いてくれないとちょっと寂しいな。次回作あるならば主人公が「いい男」になる成長がみたいものであるよ。

あ、でもサブカルネタは全て非常に面白かった。自分のようなサブカル検定10級レベルくらいの人間でも「女王蜂」以外の音楽は全て判別ができたし大体の漫画はわかった。決してマニアックな内容ではないと思う。心が強い人だけでなくかつてのサブカルキッズも劇場へ。




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考えるヒット - 2011年09月25日(日)

先週の週刊文春での近田春夫先生の「考えるヒット」が面白かった。

「吉川晃司やビジュアル系の人たちがデヴィット・ボウィから一番感銘を受けたのは『作品・内容』というよりももっと官能的な《なりきり》すなわち虚構性の方ではなかったのか」

という一文。ううむ流石。

そういやモテキの音楽が好きな人ならば好きであろうフリッパーズギターって作品や内容はもちろん良いのだがそれ以上に虚構性の塊みたいなバンドだったと思う。(お化粧はしていないしビジュアル系でもなんでもないけれどもその精神性の意味で)

ソロになってからのオザケンが「フリッパーズのCDなんか燃えないゴミの日に〜」って言ったのは「僕は生身の人間として表現をやりたいので虚構性はいらないです」っていう宣言だったのかとぼんやり思っている。




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はぐれメタル(長髪) - 2011年09月16日(金)

僕の人生には「メタル音楽好きな知人」というのが定期的に登場する。

最初に出会ったのは中学のころ。アイアンメイデンが好きな同級生がいて、僕が好きだったフリッパーズギターの「クールなスパイでぶっ飛ばせ」を聴いた感想が「ギターソロが遅い!」だった。

※小沢二のギターカッティングって遠藤賢司のギター1本勝負のレベルで早いと思うのであるが・・・

次に出会ったのは高校生のころ。伝統的にわが校の視聴覚委員会はメタル好きばかりが所属していてメタリカがお昼の校内放送で爆音で流れていた。そしてその人たちはいらないといっているのに僕の誕生日にはゴットハードとかインペリテリのテープを大量によこすのである。こういう人たちは「布教」ってのを行うからやっかいだ。卒業までに30本以上のテープをなんやかんやの理由で貰った。

大学から社会人になるころが1番酷くて筋肉少女帯からレーサーXまでいろいろなメタル音楽好きが僕の家に遊びに来ては爆音で一晩中騒いでいた。隣や下の階の人からよく怒られたものだ。エアギターってのが流行る前からみんなあの動きをしていたので麻薬やってるノリぴーのクラブ映像くらいにはテンション高かったと思う。

自分はメタル文化というのは全くなじめなかったが今でも千葉テレビや神奈川テレビでメタルのPVが流れているのをみると、上に挙げた友人たちのことを思い出してちょっとセンチになる。スタイルのダサさとか音の悪さとかチープさが思い出の甘酸っぱさを増幅させる。

この前、当時の友人の1人に総武線の車内で偶然出会った。
色々話題は弾んだが当時彼が好きだったメタル音楽ことに話が及ぶと「俺ってすごいギター練習して早弾きができるようになったけど、実はギターって早く弾いてもあんまり意味が無いことに気がついた」と元も子もないことを言うのでウーロン茶を吹き出してしまった。それは言うな。

でもやっぱり僕は黒人音楽の方が圧倒的に好きだったのでメタル音楽は全く趣味が合わなかったし、聴かされても「技術はあるけれどもつまらない音楽」だとずっと思っていた。「上手なのにつまらない音楽」ってのは結構ややこしい。聴いていると疲れてしまうのだ。「下手だからつまらない」よりも病根が深い気がする。

そして「上手だけどつまらない」ってのは音楽以外でも良くある。例えば「キッチリした文章を書くんだけど内容がつまらない」とか「すごい美人なんだけど色気がない」とかそういう事って多い。

昔から僕は「下手くそだけど面白い音楽」とか「ブサイクだけど色気がある女性」とか「汚いけどお酒が美味しい飲み屋」とかに萌え続けてきたのでやっぱりメタルとは合わないよなーと思う。そして僕が浦沢直樹の漫画を苦手な理由は「うまいけどつまらない」ってことなんだなと再認識。にんにん。


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男子は30歳になる前に - 2011年09月15日(木)

むかし杉山治夫さんという悪徳金融屋が昼間のテレビによく出ていた。僕と同年代かそれ以上の人ならばスタジオで1億円をばら撒くパフォーマンスを覚えている人も居るのではないか。

僕も小学生くらいだったのでハッキリとは覚えていないのだがいつも番組後半になると「借金を返せないならば臓器を売ってもらうぞ!ガハハ!」などと叫んで札束をばら撒きスタジオの客席にいる主婦たちからブーイングを浴びるという芸を披露していた。

大金持ちの経営者がテレビに出るのは出演料を稼ぐためではなく宮路社長のように本業の会社宣伝が目的だと思うのだが、杉山治夫氏の場合はそのパフォーマンスが彼の商売にどのようなプラスに作用していたのかがよくわからない。

ただ彼の場合1億円をスタジオでばら撒いている時の表情が恍惚としたまるで甘美な麻薬でも味わっているかのようなキラキラした笑顔で。きっと公共の電波で「偽悪者プレイ」というのをやりたい特異な人だったのではないかと思う。

最近知ったのだがその杉山治夫さんは「金満家教会」という宗教を開いていた。その宗教での神は「現金」の一神教。神殿に行くとあるのは仏像などのご神体ではなく現金1億円が鎮座しているらしい。何とも言えないエピソードだが、確かに「宝くじに当たりたい」とか「会社の経営を立て直したい」などの現世利益を求めるならば仏像とかご神木を奉るよりも、現金1億円に両手を合わせて拝んだ方がご利益はあるような気がする。

しかし日本人のメンタリティっていうのは「お金=汚い」ってのが強くある。例えばお金は汚いものなので人様にお渡しする時には綺麗な封筒に包むって感覚。日本には清貧って言葉はあるが清富って言葉はない。貧乏を恥ずかしがらない生き方は美しいが、財産を隠そうともしない人間は下品と。

実際に就職説明会や入社面接で給与の話をズバリ聞くとマイナスになると考えている大学生は多い。一通り質疑応答があった時に「あのう、、、最後にもう1つ質問なんですが、、、」と申し訳なさそうに給与の話題を聞くならばOKと思っているようだ。しかし「お金の話をする=はしたない」と思っているうちは子供だよなーと思う。むしろ聞きたいことを相手の気分を損ねない形で尋ねるという能力が大学生にもなって身についていないことの方がよっぽどマイナスかと。

ところで僕の友人たちの中には会社を辞めて独立してカフェだとか小物屋を始めたの人がわりと多くいる。このご時世にも関わらずうまくいっている人が多いので嬉しい。同世代が会社という檻を飛び越えて活躍するのを見ると痛快である。

しかしその一方で残念ながら窮状に陥っている人もいる。多分うまくいっていないのはお店に魅力が無いとか商品がダメとかではなくて「積極的にお金を稼ぐことに罪悪感を持っているのに商売を始めた」っていう歪みを解決できていないからだと思う。

そのあまり経営がうまくいっていない友人たちに共通して言えることは赤字にも関わらず必要以上に「良心的な」料金設定を敷いていたり、真剣に営業活動をしていなかったり。「これ以上お金を取るなんてお客さんに申し訳ない」「営業活動なんてブラック企業がやるもんだ」と抵抗感があるみたいな。そういう人ってあまり経営に向いていないから会社を辞めずに働き続けて、たまに無銘喫茶みたいなところで1日店長みたいな形で自己実現をすれば良いと思うのだがどうなのだろうか。

「赤字覚悟の良心的な値段設定」なんて誰でもできる。「あまりお金を取らずに満足させる」で赤字ならばちゃんと現実に向き合って「お金を取るけれども満足もさせる」にシフトしようと考えられないのだろうか。「自分が儲かる=相手から搾取している」と考えてしまっているならばちょっと幼い考え方かと思う。

「働き方には色々あって利益を追求しないスタイルを取っているだけ」という意見が当然あると思うのだが、利益を追求しないことと赤字を容認することは全くの別次元の話だ。利益を追求しないことでやりたいことを曲げずにはできるかもしれないが赤字ってのはそのやりたいことを根本から壊してしまう。

ちょっとの工夫で解決しそうな赤字なのにお金への抵抗感という目に見えないもののためにせっかくのお店を潰してしまうのは本当にもったいない。

ビジネスの基本は「相手を幸せにすることでお金を稼ぐ」でしかないので、ぜひ僕がたくさんお金払っているのに「いやー高いけど良い買い物したわー」と思わせて欲しい。




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小田急線紹介(新百合ヶ丘〜新宿) - 2011年09月13日(火)

新百合ヶ丘 金持ちが住む
百合ヶ丘 貧乏人が住む
読売ランド前駅 開発失敗。女子大があるのに寂れている。
生田 オザケンのパパみたいなインテリ老人が多い
向ヶ丘遊園 オザケンの友達みたいなインテリミュージシャンが多い
登戸 ここまで神奈川。住みやすい。
和泉多摩川 ここから東京。住みにくい。
狛江 たくさん人が住んでいる
喜多見 もっとたくさん人が住んでいる
成城学園前 いけ好かない店が多いが小澤征爾
祖師ヶ谷大蔵 イカす店が多いがみのもんた
千歳船橋 千葉の船橋に集合なのにここで待っていた友達がいる
経堂  オシャレぶりやがって!
豪徳寺 寺まで遠い
梅が丘 急行に追い越される
世田谷代田 「下北に住んでる」と言いはる奴が多い
下北沢 吉本ばななを見かける
東北沢 小学生の時は「トウホクサワ」だと思っていた
代々木上原 大江千里の歌が名曲
代々木八幡 バスが便利
参宮橋 初詣の時だけ殺人的な。
南新宿 この駅必要か?
新宿  新宿の種馬と呼ばれたい
 



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貧乏は正しい! - 2011年09月10日(土)

僕は青春時代を神奈川県と千葉県で過ごした。どちらも不良漫画で舞台になるような場所だし、実際に近所にヤンキーは多かったと思う。自宅はわりと品のよい住宅街の中にあったが、一歩そのエリアを出るとすれ違う若者の何人に1人はヤンキーファッションだったと記憶する。サティとかららぽーと等の地元のデパートに行くと大抵ヤンキーがゲーセンで溜まっていてカツアゲの標的を探していたものだ。(僕はマガジンやサンデーでやっていた「カメレオン」とか「今日から俺は」とか「特攻の拓」とか好きだったけど断じて不良にはならなかった)

中学生くらいのころは何故かヤンキーの方がモテた。90年代初頭にもなれば東京ではもはやギャング組織みたいのが台頭しているんだろうけれども、千葉と神奈川ではまだまだ暴走族が君臨していた。国道16号では毎日のように100台以上の暴走族の行列を見たものだが最近はさっぱり姿を見ない。たまに1人か2人くらいの若者がマフラー外して蛇行しているくらいのものだ。もう線香花火のように散ってしまった文化なのだろうか。

ただ暴走族は消えても「ヤンキー趣味」ってのはずっと継続して人々の中に残ってると思う。最近「湘南の風」ってグループの曲が店で流れていたのだが完全にヤンキーカップルの会話みたいなのがラップになっている。ああいうのが好きな人たちってのは常に一定数いるのだろう。

しかし自分は周りが青春時代から今に至るまで周りがどんなにヤンキー文化に染まろうとも、自分は頑なにその文化(ボンタン・短ラン・リーゼント・ライブハウス武道館へようこそ!)を受け入れなかった。嫌悪すらしていた。

僕も中学時代はヤンチャで3年間で2〜3枚の窓ガラスを割ったがそれは尾崎豊的な意味合いではなく、ましてやセックスピストルズ的な意味ではない。単に昼休みでのキャッチボールでの暴投などが原因である。極めて磯野カツオ的な意味であった。

何故自分はヤンキーにならなかったのか?

それは「ヤンキー趣味の持ち主が貧乏になると悲しさが倍増するから」という思いをずっと持っていたからだ。

「貧乏は辛いがヤンキーで貧乏だともっと辛い」ということを中学生ながら直感的に感じていて「おちおち不良なんかになっていられねえぞ」と思っていた。

例えばここに1人の貧乏な家庭の子供が居たとしよう。可哀想だ。何とかしてあげたい。ちゃんとご飯は食べているのか?心配は尽きない。

しかし親の趣味でその子が後ろ髪を伸ばしていて前髪の一部が金髪だったとしよう。するとたちまち悲惨が2倍くらいになった気にならないだろうか。貧乏は悲しいが金髪リーゼントで貧乏はもっと悲しい。

さらに母親も脱色をしていると事態は深刻だ。大抵の場合プリン状になってしまう。「貧乏+汚い脱色」ってのは本当にダメージが大きい。

「闇金ウシジマくん」の作者はその辺りが良くわかっていて、やたら「貧乏+ヤンキー」を描写した話が多い。あの後味の悪さってのはハンパではない。

どうせ同じ貧乏になるならば清楚な貧乏になりたい。休みの日はジャージ姿でドンキホーテに行くのではなく図書館とかボランティアへ行くような貧乏に。清貧とヤンキーは喰い合わせが悪い。

と、ヤンキー嫌いを主張しながら最近はクールスのレコードばかり聴いている。ブラックキャッツとかキャロルとかも。自分よりもうんと年上の不良は好きなのかもな。いえいえ。ノーコメント!ロックンロール!


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しりとり - 2011年09月07日(水)

ツィッターでもつぶやいたのですがブログってのは書く気分になかなかならないものですな。

かの近田春夫先生は「考えるヒット」の仕事を引き受けた時点では小林秀雄の名前は知っていても「考えるヒント」のことは何も知らなかったらしいです。

ただ編集者から伝えられた「考えるヒット」というタイトルを聞いて

「考えるヒットということは俺の仕事は考えるだけ」→「どのCDを選ぶのは編集者の仕事」→「チョイスの責任を負わなくて済む」という思考回路がたちまち出来上がり仕事を引き受けたとのこと。

僕も考えるのがめんどくさいというよりも何について書くのかを決めるのがめんどくさいというのがあります。

というわけでテーマを半強制的に決められてしまうシステムというのも僕も欲しいわけです。

そこで考えたのは「しりとり日記」。友人たち(知らない人でもいい)との間でタイトルやテーマについて「しりとり」にしてものを書くのならば続けられる気がしています。

現在1名の友人が一緒にやってくれそうです。他の人もいかがですか。頭の体操にぜひ。やってもいい人はtwitteerで@を飛ばすかDMください。
ルールは追ってお知らせします。


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スネ夫ポジション - 2011年09月03日(土)

「戦争を経験していない奴の文章なんか読むに値しない」ってのは戦前派vs戦後派の論争でよくあったフレーズだが、現代においても似たようなことはよくある。

「就職もしていない奴の文章がなんか〜」
「子供を育てたことが無い奴の文章なんか〜」
などは実際に良く聞くし、学生時代に言われたことがある。

「喧嘩もしたことがない奴の文章なんか〜」
は数年前にヤンキー風の男性に言われたことがある。(ちなみにそいつの武勇伝は後に全てハッタリと判明)

「精神を病んだことがないやつの文章なんか〜」
などは半分病気自慢が入っているので、もはや文章とはあまり関係が無い。

我々はそれぞれが人生を変えるような強烈なドラマを多かれ少なかれ経験している。そしてその自分と同じようなドラマを経験しなかった人間を軽んじる傾向にあるのだ。きっとこれは人間のサガみたいなものだ。

かの小沢健二先生の「うさぎ!」が圧倒的な名著にも関わらず『就職したことが無い世間知らずのオザケンに言われたくねえよな』って論調が圧倒的なのはそういうことだ。


もちろん僕もそういう経験が無い人を軽んじる性質を持っている。

先日、教育学部に属する大学3年生の男子たちと1時間くらい初等教育の問題点についてお話をする仕事があった。その会では初対面にも関わらずみんなよく喋ってくれた。しかし彼らが言っていることは全て正論なんだけど非常にイライラした。

「学校任せにせずにもっと自覚と責任感を親は持つべきだと思います」とか「地域コミュニティを復活させるために他人の子供を叱る風習を取り戻すべきだと思います」とか。

50歳主婦が唱えれば拍手をしたくなるフレーズでも大学3年生に言われると腹が立つのってどんなメカニズムなんだろうか。

彼らの主張自体には何の誤りもないけれども、子供が生まれた時に親がどんな気持ちだったのかとか、その後にどれくらいの苦労があったのかとかそういう「家庭の歴史」を全く考慮しないで、「現在の問題点」だけを偉そうに学者みたいに展開しているから腹が立った。

例えるならば、先人が荒野を開拓して何とか人が住めるようになってやっと一息つけるようになった後で、旅行者が「うわー田舎で何にもないなあ。スーパーとか誘致すればいいのに」などと勝手な意見を言って去っていったみたいな。

教育論は立派なものを持っているが一般常識に欠けるのが大学生の常なわけで「陣痛が始まってからだいたいどれくらいで子供が生まれるか知っている?」「2時間くらいっすかね」みたいなやりとりがマジであった。そんな奴が何を偉そうに・・。






と、ここまで書いてみてこのお話の中で1番ズルい人っていうのは誰かというと圧倒的に僕だということに気がついた。うわー自己嫌悪。

上記の話は僕が「経験が浅い学生に腹を立てている思慮深い社会人」という風のポジションに立って展開をしている。「経験がないお前らに言われたくないんだよ!」っていう立場で。

でもそういう僕にもまだ子供は居ない。だから子供を育てた経験が無い大学生に腹を立てる権利は無い。にも関わらず子供を苦労して育てている人たちの立場で大学生を批判している。

イソップ童話で言えばライオンの威を借りるキツネでありドラえもんでいえばジャイアンに便乗してのび太を苛めるスネ夫のポジションを僕は取っているわけです。


この経験していないくせに、さも経験したかのような「エア経験」って何なんだろうか。万年フリーターが学生に「社会の厳しさってのはなあ・・」とか語ったり、童貞が恋愛必勝法(女の落とし方)を語ったり、引きこもりがサッカー日本代表の布陣を本気で批判したり。

自分の経験の乏しさについては常に謙虚でいたいものよ。にんにん。




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チェーンソー - 2011年09月01日(木)

リラックマやプーさんの影響のせいか熊って何となくのんびり屋でおおらかなイメージがありますが、図鑑などでその習性を調べるとむしろ神経質で依存癖の強い病的な動物な気がしてます。『一度チョコレートやウィスキーの味を覚えるとずっと執着をみせる」とかは人間だったら部屋が汚いダメ女のイメージです。菊池成孔さんの「普通の恋」に出てくるヤンデレカップルみたいなイタさがあるというか。人間でも動物でも病的に何かに執着するってのはやっぱり不健全です。

でも、かの世界の宇多田ヒカルさんは大の熊好きらしく以前twitterで

「パンダって知能高いのかな?私はクマに特別な知性を感じるし、好奇心旺盛なところなんかも人間に通じるものがある気がして親近感も覚えると同時に何か「神」っぽいものも感じる、けど、パンダにはそれを感じないのだ。つまり何が言いたいかと言うとくまくまくまくまくまくまー」

とハイテンションで熊への愛を爆発させていたことがあったっけ。

しかし僕にとって熊は恐怖の対象でしかありません。特にこの三毛別羆事件って調べれば調べるほどすげえ怖い!最近これを舞台にした夢が出てきました。



最近は「個性」よりも「種としての習性」ということばかりを考えています。僕たちも熊みたいに何かを取り返そうとしたり何かに執着したりそのために何かを傷つけたりする「習性」があるのではないかと。そして人間が進化するためにはそのサガを克服しなければならないのではないかと。


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