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20101025

 イカ娘2話と3話まとめて見た。
 今木さんが「見てられない」って言ってたのは、あれは今木さん流のレトリックかなーと思ってたんだけど、3話まで見たらだいぶ考えが変わった。かなりひどい。もちろん構造上はギャグでしかないんだけど、通常ギャグって、特にチャンピオンのやつは伝統的にそうなんだけど、ギャグの中心である「異人」みたいな存在が、人間としての結構を備えてないことによって回転してるんだよね。イカ娘の場合も、イカちゃんは確かに人間ではないんだけど、それにかわいい外見と「女の子」という属性を与えてしまった時点で異様なことが発生した。つまり「かわいそう」だ。しかもこの構造がかなり露骨。
 侵略者とイカちゃんが名乗っている時点で、それを日常に取り込むためには侵略者としての脅威を無効化するギミックが必要になるわけで、この場合「実際の日常生活においてはイカちゃん無力」ということになる。これケロロもそうだったわけで、それゆえに似たような感じを受けたわけなんだけども、ケロロの場合、侵略者どもは人間じゃなかったし、なによりやつらは集団だった。ところがイカちゃん一人きり。これがひどい。栄子なんかはよく「ああ平気こいつなんてどうせそんなもんだから」っていう扱いをするんだけど、それ自体は栄子の側にとっても、イカちゃんの側にとっても「日常の一コマ」でしかないんだけども、見ているこっちから見ると、はっきりと「イカちゃんがまともに扱ってもらえてない」という構図になる。
 イカちゃんは本気で世界征服をできると信じている一方、周囲はそれをまったく問題にしていない。かといって、イカちゃんの正体について疑念を抱いているかというと、イカちゃん本人の言うことをそのまままともに受け取っている。しかもバイトとしてイカちゃんを使う方便として「ここを拠点に世界征服」っていうのまでついてる。そして事態が深刻になることは、すべてギャグの文法によって流される。
 すでに書いたように「そういうものだ」といって流すには、イカちゃんちょっとかわいすぎるしなんでも真に受けすぎる。

 というように、かなり厄介な構造を持った作品。
 基本的にそういうことはいっさい考えずに作品を見れるほうではあるんだけども、ちょっとこれについて構造が露骨すぎて感じずにはいられない。
 まあそれはそれとしてイカちゃんかわいい。このかわいさはおかしい。かわいそうだからいっそうかわいい。ただ、やっぱりなにぶんにもギャグの主人公なんで、なんかこう、入っていけない感じがある。いろんな点ですごく見ていて不自由な感じのするアニメ。これがギャグの連載として継続してるってのはかなりなもんだなー、と。まあそんなような。
 あと唯の歌声が効きすぎてしにそう。



20101014

 自宅のPCを完全に解体した。これで自宅ではPCを触れない環境になった。理由は別に大したことじゃない。どうもネットに時間を食われすぎて、なんにもしないからだ。
 基本的に無駄とか無為とか大好きなのだが、なんぼなんでも、ヤフー地図を見て、地名をウィキペディアで調べて、それで10時間が経過して眼精疲労で翌日死んでるとかは無為にもほどがある。それは無為というよりもはやただの馬鹿なんじゃないか、って気もする。
 意思の薄弱さには相当の自信があるので、とにかくPCがあること自体がだめだ。仮にネットにつなげないとしよう。今度はえろげやる。積んでる数を考えればいいから崩せよ、という話でもあるのだけれど、どっちにしろ翌日は眼精疲労で死亡。
 人間の衰えは目から来るというけど、目はほんとに弱くなった。強度の近眼であるため、老眼っていうかたちではなかなか来ないんだけど、ちょっとディスプレーを長時間見てると、焦点がなかなか合わなくなってくる。なにより翌日の頭痛。これが笑えるレベルでひどい。
 それともうひとつ。俺はとにかくアウトプットしすぎる。
 子供のころからよく「おまえはてんつきみたいな子供だ」と言われてきた。ところてんを作る道具のことを「てんつき」と呼ぶらしい。実物は見たことがない。これが比喩として用いられた場合、なにを意味するかというと、ごはん食べたらすぐうんこする。事は俺の優秀な消化器官の話だけではない。外部から刺激を受ける。すぐうんこという名の文章を排泄する。そのスパンが極端に短い。いわゆる脊髄反射だ。
 人は外部からの刺激を自分なりに解釈する。表現する人というのは、解釈した結果をなんらかのかたちで出力しなければならない種族だ。なぜ出力しなければならないのか、ということは措いておく。とにもかくにもそうしなければならない。あえて機械的に考えるのならば、その場合における人間というのは、単なるフィルターだ。表現方法の巧拙というのは訓練でどうにもでもなる(もちろん限界はある)。表現された結果のものが判断されるとするならば、それは「どんなフィルターであるか」ということを判断されている。
 俺は、フィルターとしては「変わっている」という点において比較的優秀で、それゆえに外部からの刺激を即座に出力に変換しても、それなりに読まれ続けることが可能だった。
 フィルター。
 そうはいっても、人間は、少なくとも自分自身にとってだけは単なるフィルターではない。俺は効率を上げるあまり、自分自身を単なるフィルターとして扱いすぎたのだと思う。
 刺激に対する反応が、人間のなかに貯留されていくならば、それはその人のなかで発酵する。もちろん腐敗といってもいい。同じ現象だし、それが乳酸菌たっぷりの有用な発酵食品であるのか、腐っちゃってかわいそうなことになった食いもののなれの果てであるのかは、それを作った人間ではなく、摂取する人が判断する。俺はそう信じる。現実はしらねー。
 で、少し発酵させてみようと思った。
 正直にいえば、残り時間の問題もある。前にも書いたように、別に死ぬまでになにを為さなくとも、おそらく俺は後悔しない。ただ、まああと10年くらいは死なないだろうなーと考えるときに、そのうちの何ヶ月かくらいは、アウトプットせずにひたすら自分のなかになにかを貯留する時間というのを作ってもいいんじゃないか、と思った。どうせ貯留ったって、すぐに飽きてなんかは吐き出すんだろうけど、そのとき吐き出すものは、いままで自分が吐き出してきたものとは違うものなのではないだろうか、そういう淡い期待を持つ。


 で、PCを撤去して数日が経過したわけだけど、よく「ネットを使わなくなると時間が余る」っていう話を聞く。
 ……で、余ってるかっていうと……なんか、ぜんぜん余ってない。本読んで、必要なところをメモったりまとめたりして、気がついたこととかをてきとーにノートに書いて、そんなことをやってるうちに、またたく間に時間が過ぎる。それもまあ、なんていうか、あたりまえといえばあたりまえの話ではある。ネットがなかったころ、あんたはなにやってたんですか、といえば、そりゃ本読んでなんか書いてたわけだ。
 こう考えると「書く」という行為だけは、絶対に自分から切り離せないものらしい。問題は「公表するか否か」という点で、公表すればそれが俺にとってアウトプットだし、そうしなければアウトプットではない。
 少しは自分を制御しようと思う。駄々漏れは、いつか自分を損なう。
 うん。なんか、わりと悪くない着地点だと思う。


 そーいや、本読んで、ノートに要点まとめてとかって、これつまり勉強じゃんとか思った。俺はどうやら勉強を始めたようです。ポストイットというものが必要とされる理由が初めてわかりました。ものすごいいまさら感。



20101011

 どうにも、頭からノイズを完全排除して、ただそこにあるように作品を見ることが難しくなってる気がするが、これは俺が長年それをさぼってたせいだろうなー。

 んじゃけいおん8話。

 なんかねー、4人が登場すると背景が見えなくなる感じするんだよね。クラス発表のときなんかも、昇降口っていう空間の広がりがあって、春で、それなりにひんやりした空気で、湿度は……みたいなのがあるはずなんだけど、その空間を「見る」能力が下がってる気がする。

 これ最初に見たときも思ったけど、澪にここで「さびしい」って言わす理由あるのかなあ。

 澪の「ガーン」が……なんかなあ。

 ところで憂が結局軽音部に入らなかった理由ってなんなんだろ。考えたことないんだけど。

 あずにゃんってふだんジャズ聴いてるんだっけか。

 そっか。1年生のとまどいは過不足なく表現されてるんだ。テンション高い先輩ってのに対する。そのへんはあんまり考えてなかったなあ。

 アイス食べたいのくだりひっでえな。もうラブラブすぎて手におえねえ。

 たまに展開のろすぎていらっとするんだが、まあ、その間こそがリアルってことか。あそこ乗りきれねーけどなー。

 唯のクソステージ度胸ってこのへんから導入されるのかな。

 ああ、いい高音部……。声ってのは持った武器ですねえ……。

 「よかったね! お姉ちゃん」 どこまでも唯基準の憂。

 8話終了。……ああ、まあ。ライブのシーンは1期最後のやつだけだなあ。ただこの回はセリフすごくよかったと思う。キャラクターに違和感がない。あんまり集中してなかったんで、嗅ぎ取れてない部分があるとは思うが。澪だけが若干微妙だったが、空気は全体的に嗅ぎ取りやすい感じだったと思う。


 9話。

 あずにゃん、後半になったら床に足が届いてるかどうかは確認必須。

 ああそうか。あずにゃんにとっては唯たちって最初から「上級生」だったんだよなあ……そこんところあんまり意識してなかったなー。8話のときもそうだけど、このとまどいとか期待ってものをあらかじめ意識しておかないと読みまちがえるな。

 ああ……あずにゃん……これはきっついよなあ……。そっかー。期待にあふれてたんだ……。

 あずにゃんないちゃった……。

 ああ、この段階ではまだあずにゃんのキャラかたまってねーな。そして澪に対するあずにゃんの憧れはこの段階で確定してんのか。

 うん。これ思ったよりぎくしゃくしてない。最初のときは読めてなかった。あずにゃんのキャラの揺らぎさえ微妙にマイナスしておけば、先輩と後輩っていう関係って感じで読んどけばいいんだ。

 まずいなー。あらためてあずにゃん異常なかわいさ。

 あー、澪の空気の読めてなさすごいなー。明日こそは部活やるってシーンな。

 澪はなー、タイプ似てるからあずにゃんのことよく見えるんだろうなー。

 あと、あずにゃんが音楽に対して完全にガチだっていうのは忘れちゃいけない要素だなー。

 9話おしまい。8話と9話はもう一度くらい見直したほうがいいかもしれない。珍しいくらい情報量が多い。全体からすると確かにこの2つの話は人間関係の確執めいたものがあるんで、雰囲気としては異質なんだけど、あずにゃんの側からみれば至極真っ当な展開であるし、唯たちの側からみても「どうやって接していいかわからないけど、結局自分のペースで」っていうのが相当にうかがえるんで、ここをきっちり見とく必要がある。
 あとあずにゃんの登場時点でのキャラの揺らぎは想像以上だったなー。基本線がちっちゃくてツリ目気味で神経質でまじめで、みたいなところで確定してるだけに、このへんは意識してなかった。特に食べもの与えるとおとなしくなっちゃうあたりとか、かわいがられるとつい許しちゃうあたりとか。このへんはムギの百合好き要素と一緒で、後半になるにしたがって抑制されてったあたりか。
 ただ、ムギの百合好きは、実際には「自分もあんなふうにふざけあってみたい」っていう憧れの別のあらわれである可能性もあり、もし最初に見たときに気づかないような変化の過程が描写されてるなら、それはまあそれ。あずにゃんにも同様の変化はあるのかもしれない。



20101011

 一昨日あたりにディスカバリーチャンネルでやってた、アメリカのUFO番組が、おもしろいとかいう水準を越えた異様な場所に到達していた。なにしろサブタイトルが「異性人との性行為」だ。立ってる地平が最初からぜんぜん違う。アメ公すげえ。
 番組中に次から次へと「異性人とセックスしました」っていう人が出現して、生々しい証言をする。「彼女は大きい異性人だった。胸の下あたりで手を交差させて、胸を持ち上げるんだ。それが私に対する誘惑のサインさ」とか60歳のじーさんが証言してる。これでメシを射出しかけてると、次には同じくらいのばーさんの歌手が登場して「彼が私の中で大きくなったのを感じたわ。目を開くと、彼の姿が変化していた。あれは……そう、爬虫類。ウロコはなくて皮膚はなめらかなのよ。あの体験は忘れられないわ」などと証言する。完全に無法地帯。横で一緒に見ていたうちの奥さまがものすごい嬉しそうに「爬虫類かよ! 爬虫類がビッガーインサイドマイボディかよ!」「おまえ絶対、人間じゃないから浮気じゃないヨ!とか言い出すだろ!」「いまこいつクリーチャーって言った! クリーチャーこええ!」とかツッコミ連発している。ああいうときあの人本当に嬉しそうだな。
 というような内容そのものも、ヘタなお笑いなんか完全に超越したおもしろさだったんだが、さらにおもしろかったのは番組の構成そのもの。まあ早い話が異性人とのセックスなんか妄想ですね、という結論になるのだけれど、そこに至る手順がいかにもアメリカって感じだった。
 まず証言が紹介される。そしてその証言を「専門家」が検証する。たとえば上述の金髪巨乳宇宙人とセックスしたじーさんの場合だと、そのあとに生物学者が登場して「異性人が人間と同様の生殖器を持っている可能性は極めて低い」「外形が人間に近い可能性も低い」とか言い出す。つまり証言者の言葉を、のっけから「ねえよwwwww」と判断してネタにする方向に持っていかない。前提として「証言者がそう言ってるんだから、とりあえずそれは真実だとしよう」っていうところからスタートしてる。突飛であろうがなんだろうが、話題として取り上げる以上、証言者の発言は尊重する、という前提があるわけだ。それをとりあえずは「科学的に」反証を挙げていって「彼の発言は妄想でした」という結論に至る。ま、いってみればシャレが通じない人たちだ。
 とはいえ、アメリカのよくあるジョークなんかを見てると、アメリカの人たち自身がこうしたクソまじめなやりかたに対して充分自覚的であることはよくわかる。アメリカのジョークというものは、物事をクソまじめに把握したうえで、そこに浮かび上がる「ねえだろwwww」を対象化したものが多いように感じられるからだ。シャレがわからずにあえてやっちゃうバカさ加減あたりにシャレを感じるというか。
 あと、登場する証言者たちが、どいつもこいつもニューエイジ世代っぽいのがまたおもしろかった。ちなみに異性人が人間とセックスするのは、地球を内側から侵略するためだそうです。みんなそう言ってました。そしてそれに対して専門家が「それは効率の悪いやりかたです」と反証する。アメ公すげえ……。
 ちなみに宇宙人とセックスして子供できちゃった人の話については、やはり生物学者が「遺伝学的にいってまず不可能」っていう結論を導き出すために延々となんかしゃべってたんだが、途中で噴き出しかけてた。よーやるわ、あの人たち。


 なんか友だちの妹が憂だっていう夢を見た。唯憂あずにゃん三角ラインが見えてからというもの、どうにも思い入れの対象がかなり憂に傾いてるっぽい。俺に百合好きの素養はあまりないように思うんだけど、姉妹は別らしい。というわけで「姉妹は百合ではない」という仮説でも立てて、ここを見てないだろう彩さんを煽ることにする。つまり「お姉ちゃん大好き」は百合ではない。なんて魔力のある言葉だ。「お姉ちゃん大好き」。そうだ。俺はきっと俺自身が妹を欲しいのではない。妹になってお姉ちゃん大好きになりたい。でも妹くれるってゆったらもらう。
 夢のなかの憂はなんか死病に侵されている。余命何ヶ月かよくわからん、てな状況で、ちなみに俺は夢のなかでは憂とはつきあっていない。どうも両思い寸前の寸止め状況であるらしい。夢のなかまで行ってなお寸止めか。NTR好きの猿元さんのことをどうこう言えた筋合いではない。でもNTRはわからん。
 なんかもう、自分の欲望がストレートに反映しすぎてるような夢で、俺は憂のことが大好きでどうしようもないんだけど、失う恐怖にいつも不安でいる、というような設定。病院のベッドに寝ていてなお憂は「お姉ちゃん」のことをずっと心配しているらしく、どうやら自分が死病にかかっていることも薄々は気づいているらしい。「私がいなくなっても、お姉ちゃん、平気だよね。だってお姉ちゃんだもの」などのセリフを俺は聞いた。
 まあ何度も書いていることではあるけれど、死に別れに対する強迫的な嗜好ってのは、結局「失ってしまうからこそ、強く求める」っていう、その補強材料として死というものが利用されているのだろう。あとはねー「なくなってしまうものへの愛着」っていうのもある気はする。ある人の運命みたいなものが対象化されているときに、ようやく安心してそれを愛することができる、みたいな心理。継続している限りは事態が変化していくわけで、その変化につきあうってのはそれ自体が現実なんで、そこにはめんどくささが伴う。めんどくささなんて言うと軽く聞こえるわけだが、時間が経過すること、未来があること、なんてのはとてもめんどくさいことだ。明日のごはんを心配しなきゃならないのはとてもめんどくさい。一方で明日のごはんを心配すること自体が生活であって、それこそが喜び、ということはありうるわけだし、実際に俺にもそういう嗜好はあるわけだけど、変化することはめんどくさい。この矛盾する要素を解決する手段として、たとえば萌え4コマみたいなものは実に重宝するな、と。だとすると、こうした俺の嗜好は、ひとり俺だけのものではないのかもしれない。
 俺の世代だと、十代には世のなかに成長神話ってものがまだ満ち溢れてる時代で、そんな世界のまんなかで未来とかいっさい信じられなかった俺は、カギカッコつきの「成長」ってものが大嫌いになった。「明るい未来」とやらに対するアンチですらなくて、世界の片隅でじとーっと蟠ってるような状態だったわけだ。まあなんていうか、そういう人がエロゲの日常シーンが好きで、萌え4コマ行ってけいおん見てる、っていうのはいろんな意味でわかりやすい。
 ところでおんなのこ死んじゃうタイプのエロゲも、もういまとなってはあんまり流行らないわけですが、俺としては死んじゃう女の子には、一度でもいいから「死にたくないよぉ……」と絶叫して泣いてほしい派です。みっともなくて、見苦しくて、ばかで、なにも解決できない愚かしさほどかわいいです。それ以前に俺はいろいろ中断しすぎ。バイトの女の子から「まだクラナドやってないんですか!?」と呆れられました。いやだって、いたる絵が……まだ効くから……。年の利益で1000万超えるようになったら好きにえろげ買っていいって言われてるんですけど、なかなかその壁を越えられねえ……。まあ自営業者で1000万超えたって、税金とか引かれると、ようやく「生活に余裕出たねー」くらいなんすけどね……。

 あとぜんぜん関係ないんだけど、唯と憂は外見がよく似ているわけです。どこまで似ているか問題についてですが、俺としてはスク水の唯のもっさりとした体型を見るにつけ、憂もまた同様にもっさりとした体型であってほしいと切に願うものであります。
 また、安産型の定義についてですが、俺としては「尻以外はそんなにボリュームがない」という一項目をつけくわえたい。なんというか、全体的にボリュームがある場合、主目的はだっこしてぎゅーとかのほうが楽しいのではないか。尻以外にボリュームがない場合、やわらかさを体感するためには座られる以外に方法がないため、顔面騎乗が正当化される、いやむしろ顔面騎乗こそが正当なエンジョイ法なのではないか、という理屈を思いつきました。でも実は唯憂には顔面騎乗欲を感じません。座られるなら圧倒的にムギでしょう。



20101009

 ものすごい長時間労働が終わった。これなんとかせなあかんなー。
 さて、ひどめの自分語りで毒素も出し終わったことだし、なに書くかねー。とにかく店内でけいおんの曲がかかるのは本気でやめていただきたい。人が心地よくすべてを忘れて仕事に没頭してるってのに唯がだいすき♪だいすき♪って歌うからもう本気で勘弁してくださいよ。

 ただまー、あれやね。「俺ら」の定義でいうところの「萌え」からはかなり遠ざかった場所にいるような気はする。今回の「しにたい」の主成分は、たとえば唯がいなくてしぬとかそういうのとはかなり違うから。そのへんは前に書いたから詳述しない。
 けいおんって作品の性質もあるだろうが、だれかひとりの人をとことんまで突き詰めて考えるっていう感じが今回はあまりない。それだけ人間に対する見方が皮相的になったのかもしれないし、逆に深まって「その程度のもの」というところでうまく定位させることができるようになったのかもしれない。なにより飢えの度合が違う。というよりも、飢えてるにしても、その限度というか、現状どの程度飢えているかということについて、ある程度計量ができるようになって「まあ空腹でも死なないだろ」くらいの見定めができるようになったということなのかもしれない。他人がこの状態であればつまらん結果になったなー的なことは思うかもしれんが、ほかならぬ自分のことなので、やや安堵しながらそのことを思う。
 たとえばすいしょさんみたいな、あんな情熱のただなかにいることを羨ましく思わないかというと、それは嘘になる。以前は絶対に公言しなかったけどな、これ。まあ現役下りちゃった宣言もしたわけだし、実際に、昔のスタンスを貫くことは無理だ。いや、無理すればできないことはないが、無理していいことなんにもない。それは「捨てる」ということなんで、そりゃ相当の覚悟は必要だったし、身を切るような感覚はあったわけだ。そんで、あの文章書いてから、ようやくいまになって「あー、俺は自分がこういう状態になったことを無意識には知ってたんだなー」と。俺の場合、実感は常に文章の後から来る。
 文章が先走って、盛大に大騒ぎするのでそのときどきで悲壮な決意をしているようにも外野からは見えるんだろうけど、実際の俺は非常に頭の悪い人なので、1年くらいかけて、ゆっくりといろんな覚悟が固まる。この1年ばかりの迷走を通じて、ようやくいまのスタンスに辿りつくことができたって感じだ。ほんと解決まで時間かかるな。
 だからまあ、現在の俺は、すいしょさんやちゅーとろさんみたいな情熱のありかたを、素直に羨ましいと思ってかまわない。敗北感あるけどなー。
 で、失ったとしよう。それは認める。じゃあかわりになにを得たんですかって話なんだが、さしあたって得たものは見当たらない。なのでまだ呻吟している。ま、得たものについては鈍感なのが人間かもしれんけど。あるいはこうやって、ただいろんなものを失っていくだけが、残りの時間なのかもしんねーな。まあそれはそれでってやつだ。その場合は、落剥していくさまを実況するくらいしかやることないでしょう。

 40歳ってのは、まあ一区切りだとは思うんだよね。平均寿命からいえば折り返し地点だし、かといって70歳越えてなお明晰な頭脳(いま現在も明晰じゃねえが、それはそれとして)保ってられるとも思えず。持ち時間としては、たぶん40歳までの時間と比較すれば限りなく短い。ただそのぶん効率は上がってる。なにごとかを為すにしても、その「なにごとか」について、より焦点が絞りやすい状況はできてる。
 俺のまことにタチが悪いことには、いまだに自分はなにごとかを為しえると信じてることだ。これはたぶん死ぬ瞬間まで変わらないような気がする。ま、癌の宣告でもされて余命2ヶ月なんて状況でなお笑いながら未来を信じられるかというと、それはさすがに微妙なところのような気もするが、とりあえずなにごとも為しえずに死んでいく覚悟だけはできた。というより、俺は人間の型としては実のところなにごとかを為しえるタイプの人ではなく、生きている過程とか人格そのものが商品みたいなところがあるので、苦悩しつつ七転八倒しつつ勃起しつつオナニーしつつ、そういったありさまを活写すること自体が作品となりうるのだろうと思っている。つまりあれだ。存在自体が文学(笑)。ま、文学かどうかは知らんが、性質としてはそうなのだろう、と。
 笑えるのが今木さんのふぁぼり。俺のポストもけっこうふぁぼってくれるんだけど、キャラクターの把握に関するポストと、俺自身のマヌケ言動しかふぁぼらない。つまり今木さんわかってんだよなー。俺ってそういう物体だって。それがまた嬉しい(また始まった)。たぶんこの先も今木さんと会う機会は、よっぽど強引に作らなければないだろうし、また強引に作る気もないんだよね。会ったところでなにが伝えられるでもないだろうしさ。サンフェイスさんはまあ、その気になればいつでも会えるとして、あんよさんとも会う機会はそのうち作りたいです。こっちの身辺が落ち着いたら。ちょっといまのところはまだ周囲がごたごたしてて、あと2年くらいは落ち着きそうにない……。

 と、ここまで書いてきてふと思ったんですが、この日記、コメント機能がない。作らなかったんじゃなくて、確か最初からない。なにせ仕様が11年前に俺が使ってたときのまま。すごい話だ。せっかく古巣に戻ってきて、ブログからレンタル日記に退化したことですし、ここはさらに退化して、レンタル掲示板でも設置してみようかしら、ということで、作りました。づしの森の余生ってことで。
 別についったーでも用は足りるし、ミクシもある現状で特に作ったところでどうなんだってこともないですが、まあ気が向いたら相手してやってください。いまさらって話なんで「またMK2さんが発作的になんか始めたよ……」とか思ってぬるい目で放置されてもまあ、それはそれで当然って気もしますので。はい。
 つーわけで、づしの森知ってそうな人には、ミクシで告知出してみたりした。



20101009

 てゆうわけで1期4話。合宿回。


 しかしこのOPの唯のかわいさってのはどう表現したらいいもんかな。世間様が女子高生をカギカッコに入れて特別扱いするのがよくわかる気がするよ……。

 律が学園祭の演奏についてあんまり考えてないふうなのは、自分に対する無根拠な信頼があるからと見た。律はなんにも考えてない子ではないけど、全体的に未来については「なるようになる」としか思ってない風味。

 「バンドの強化合宿って言ってるだろ!」 澪の声のヒステリックさ。

 唯のお姉ちゃん大好きっぷりはまだ控えめ。これ、最初とあとのほうで違う最たる部分は、憂のお姉ちゃん大好きっぷりかもしれないなあ。あんがい、憂が唯の予定を知らなかったりするし。

 日常的に海見てると、海に対する感動は薄くなるね。

 ムギの「みんななかよく」は本物だなあ。

 いちばん楽しそうに遊んでたのは、そりゃ唯でしょ。

 ああ、ここだな。合宿回の。花火をバックにした。ここで唯の「ステージ映え」が確定してる。これ仕組んだのが律だとしたら、まあ大したもの。

 律だけは「もえもえきゅん」来ないはずなんですが。

 「合宿しようっていってくれた澪ちゃんのおかげだよ☆」 唯……無制限だな全方向だな……。

 ここまでの段階では、各話ごとに役割ってのがあって、それに沿ってやってる感じだ。んで、その個々の話において、どうもキャラクターの扱いに若干の差があるらしく、それがばらつきを与える大きな要素になってしまっている。スタッフまでは踏み込んで考えるつもりはなかったんだけど、花田なんとかっていう人の脚本は、特にノリ重視でキャラの扱いが雑な印象。各キャラにそれぞれ狂言回しの役が与えられて、それで展開「させられている」というか。こうなると律の扱いがいちばんぞんざいになる。澪の扱いもたいがい。ムギの扱いはさほどラフではなかったものの、これって「少しだけ」表面から潜り込んで考えれば、ムギの行動の原理がいちばんわかりやすいせいだろう。
 澪はなー。見てる俺がキャラを把握しづらいって思うくらいだから、作り手にとってはあんまり扱いやすいキャラじゃないだろうなー。


 5話。

 どうでもいいんだが、下手にいいヘッドホンと、そこそこのサウンドボード使ってると、元の音源の悪さが聞こえてしまうことがある。音には一定以上の金をかけないようにしてたんだが(キリないから)。

 物陰から覗くムギちょっといい。

 ああ、やっぱ唯は人の顔よく見てるんだ……。気づいたのはまちがいなく唯だよね。

 あれ。そういえばムギのさわ子先生大好き伏線って、どこにも生かされてないな。

 歌詞先って、曲作ってんのってムギじゃねーの?

 やっぱり。俺も完全に忘れてたけど、ムギの百合好き設定完全に捨て去られてるなあ。

 そしてさわ子先生の意外なまでの面倒見のよさ。ここまでけいおん部に関わらなきゃいけない理由、さわ子先生の側には実はないんだよね。

 5話終了。……微妙だなあ。ムギの百合好き設定って、活用するなら最後まで活用すべきだったし、これがライターさんの個人的な趣味だとしたらちょっといただけない感じはするわよねー。それだったらそれで、最初、律と澪の漫才を見て軽音部に入部したってのは筋が通ってるわけなんだけど。ただ「彼女たちの物語」を駆動するために特に役に立たない要素だから切り捨てられたのか。個人的には、下世話な意味での客引き要素しては、捨ててしまったのはもったいない気がする。
 教師の演出はまあこれでよし、みたいな感じ。2期終わりあたりのさわ子先生と比較して、確かに距離がある感じがちゃんとする。最後まで進んでから戻ってきて違和感がないってのは、まあ大したもの。
 ところでいま気づいたんだけど、俺、唯のこと、まるでアイドルを見るように消費してるんじゃないかなあ……。


 6話。

 BGMが非常に控えめでいいのは、この作品の特徴のひとつですね。

 あ、この回の律はいい。「ごめんごめん」のタイミングがいい。あと「はい! 次の方!」も。キャラクターを演出するっていうのは、こういう些細なことだよなー。その些細なことが難しいんだよなー。

 澪の「遅いぞ」は悶えるべきところでしょうが、なんも感じねえ。

 唯のもっさりした体型。しにそう。でも唯がそういう体型だっていうことは、憂もまた……?

 しかしムギがあれだけ力持ちということは、女の子特有の二の腕あたりのふにふに感がなく、大胸筋が締まっているということを意味するので、あんがいムギむちむちじゃない可能性があります。

 ああ、このしわがれた声の演技が入ってから、唯の声の演技が特徴的になったのかなあ。

 そういうおまえは律殴りすぎ。

 ところで本来は合唱部に入りたかったムギなので、ある程度は歌えるものと考えられるわけです。となると、このバンドは非常に有利ではないか、と。ボーカルとれる人間が3人いるわけですから。

 「わあ、人がいっぱいいるよぉ!」 唯すげえなあ。あと、律の強心臓っぷりもな。

 いまの澪の手の動きかっこいいなあ。

 いまの澪のイキ顔すげえ。

 初ライブにしては、って唯に限らず基本的にはみんなそうなのでは? そうじゃないの?

 終了。学園祭のための過不足ない話って感じ。逆にいうと演奏シーン以外ほとんど見せ場がない。澪メインの話で、サブとしての律が引き立ってるって感じか。逆に唯は完全な添え物。
 しかしふつうの4コマのはずが、アニメでこれだけのクオリティのものぶつけられたら、そりゃ原作者も燃え尽きるよなーと思った。そう考えると、らきすた原作のブレなさはちょっと異常なくらいだった。原作者がシナリオ書いた終盤の回にしても、その精度ってのは完璧に近かったし。
 まあ、なんか微妙な感じの残る回。


 7話。

 こどもゆいたん! こどもういたん! もし二人並んで目の前にいたら勃起しない自信がない! 二人がととととって駆け寄ってきて、同時に右足と左足にぎゅーって抱きついてきたらその場で性的な意味で血圧上がって死ぬ可能性を否定できない。おくちに指つっこみたい。
 ところでいままで曖昧にしてきた俺が本当にロリコンであるかどうかの問題についてですが、正味なところ、こどもゆいういのエロ同人あったらたぶん買う。てゆうかこの単行本(http://adatore.blog112.fc2.com/blog-entry-1059.html)持ってる時点で推して知るべし。

 憂のお姉ちゃん大好き現象はこの回あたりからか。つまり、あったかマフラーということである。この二人はもう結婚すればいい。世間の目がなんであるというのだ。

 「律の家は汚くて足の踏み場もない」という澪のセリフは現実に反します。

 プレゼント交換で浮かれるムギの心境いかに。相当なもんでしょうね……。

 吐く息が白いのとかよくやるよなあ……。

 まずい。だんだん憂に感情が偏ってきた。

 「お姉ちゃんはしょうがないなあ」的な表情一発目。もうういゆい見てると表情筋がジストロフィ。

 憂はおねえちゃんだいすき! だいすき! だいすき! 楽しそうですね俺。

 さわちゃん……これはひどい……酒も入ってないってのに……。でもここの描写も微妙に矛盾してる気がする。しかもきれいでやさしいさわ子先生、確信犯で壊しに来たのか、これ。

 「いっしょに寝てもいぃ?」 焼死。もういい。君たちは結婚すべきである。

 「かわいいよ」に意外に弱い澪。

 「みんなと楽しく過ごせますように」 ムギなー。

 というわけで7話。ういゆい大ブレーク回。これはどうも、ここから急に導入された要素っぽいなあ。それまでの流れでは「しっかり者の妹さん」っていう設定しか憂には与えられてなかったみたいだし。そしてこの段階ではまだ、ムギの百合好き設定は生きてるなあ。とにかくういゆいやばい。
 で、次回あずにゃん登場回か。あのへんのぎくしゃくっぷりはすごかったなー。それが最後まで見たいま、どう見方が変わるか楽しみ。



20101008

 店で「新規テキストドキュメント」を開いたら最後のホッテントリがそのまま残ってて死んだ。美森さんの忠告はようやく俺の体内にしみこみ、俺はブラウザで直接文章を書くのではなく、ちゃんとローカルでテキスト書いてバックアップ取るようになったんだけど、いつまで経ってもデスクトップには「新規テキストドキュメント」ひとつきりで、それ以上のバックアップを取る気はない。
 昔はテキストに手打ちでHTML、それをFTPでアップロードという手順でやっていたので、その影響でテキストは手元に残っていたのだけれど、一定期間が経つと発作的に「俺の文章はダメだ!」とか思って全消去。その流れを繰り返しているうちに、いつしかバックアップを取っておく習慣そのものがなくなった。いまやHDDもギガどころではなくテラの世界になっちまってるっていうのに、たかだかキロ単位のテキストが食う容量なんて知れてる。それをあえて保存しないでいるのは、要は青くさい反抗心の名残だろう。
 とばかりもいえないものがあって、俺には強度に「一度ネットに放流した文章は、もう自分のものではない」という考えがある。自分のものでない以上、自分の手元にあってもしかたあるまい、ということだ。もうひとつは、そもそも自分の書いたものなんて覚えていたくもない。俺は、どんなクソつまらない文章でも、かならずだれかの娯楽にはなるに違いないと考える人間だけれど、それは「だれか」であって、決して自分の娯楽にはならない。俺の娯楽は書くところまでだ。そう思わないとやってられないような文章をたくさん書いてきた。

 しかし、いまこうやってほとんど読む人のいない状況で書いていると、自分の原風景がよく見える。俺は本当に「みんな」のために書く書き手ではなかったと思う。もともと自分を切り売りするようなスタイルだ。切って売る相手が少数であるうちはいいが、一定数を越えればそこはもうオナニーショーにしかならない。残念ながらオナニーショーそのものが自分にとって娯楽になるほどには、俺は露出体質の人間ではなかった。だから「装って」書くことになるし、どうやらその程度のことはできたらしい。そのようなものをして人は資質と呼ぶのかもしれないが、資質の有無とやりたいことは別っていうのが、人間のめんどくせえところだ。めんどくさいという以上に、たまに悲しい。
 ある人は、俺があの路線を継続して、より「多くの人」のための書き手であることを望んでいただろう。
 でも、無理。無理だった。ブログをメインにしていた一時期は、たぶん俺が富士通のワープロを手にして以来、もっとも文章量の少ない時期だったと思う。あ、例外は結婚したころかな。うちの奥さまは基本的に俺が多くの人に向けて文章を書くことに、あまり肯定的じゃないから。ま、このオチが見えていただけって話かもしれないが。
 とりあえず1ヵ月なりなんなり、いまの状況を継続してみようと思う。さんざん迷走したこの1年の俺なりの結論がここだ。そのうえで自分がなにを書くのかは、1ヵ月後の自分に任せようと思う。
 それにしても、読んでいる人の少ないことのなんと気楽なことよ。これは数字というものを捨ててなお過ぎた余慶だ。人はそれを退化と呼ぶかもしれんけどね。じゃあ進化ってなんなんだ、という話になる。もとより成長なんざどうでもいいのよ。いかに文章というツールを自分のために最適化するかという問題であって、そのためには俺にとっては他者の視線というのは邪魔だった。ごく少数だけいてくれるという確信(という名の幻想)を俺が持てれば、それだけで最低限のモチベーションは成立する。というより、成立することは証明された。
 もっともこのことは、一度はある程度の力を入れて「読まれること」を目的とした後だから言えることかもしれない。自分の力が通用するかどうか、という疑念は常にあった。そして通用した。そう断言してもいいと思う。少なくとも、なにか「本当に」伝えたいことがあって、それを入念に書いたとき、俺の文章は「伝わる」。もちろん原理的に真意なんてのは伝わらないものだとは思うが、多くの人からの反響があるならば、それは伝わったことに準じると考えていい。そのようなやりかたでしか計測できない。
 おそらくは、俺が考えているよりも「多くの人に読まれること」は困難なことであるのだろう。努力らしい努力もなしにそこに辿りついてしまったのは、幸運なのかどうか。とかゆったら多くの人のやっかみを買うことになるだろう。でも、この方向に、もうこれ以上の努力はない。これ以上の「多く」を望むのであれば、その方法はすでに理解した。そこに夢はない。
 ……てゆうようなことを、たぶん死ぬまで繰り返してるわけさ。でもその過程で、より自分自身に最適化した文章というものには近づけるはずだ。10年前より俺はうまくなった。5年前でも現在のほうがうまい。失ったものはあるか。あるだろう。変質もするだろう。てゆうか現に変質した。

 かつて、自分の文章に可能な限り強力な力を与えたいと思ったことがある。力というのは影響力であり、支配力でもある。まるで邪悪なもののように、読む人を支配したいと願った。しかしそれですらも実質は技術だ。もちろん「俺」という人格にこの技術が搭載されたからこそ、そのことは可能になったのかもしれない。だけど、一定ラインを越えて、大きく強いものになろうとするならば、そこから先にはおそらく迎合しかない。ある人はそれを迎合とは呼ばないだろうが、俺は感じる。真実に自分のためでないようなものはすべて迎合であり、そこに他人が価値を見出すかどうかは、俺にとってはまったく別の問題だ。他人がいかに称賛したとしても、そこに自分にとっての真実がなければ、すべては迎合にしかならない。
 たぶん、そういうやりかたでしか、最終的には書けない。



20101008

 文章書く時間あるっぽい。
 考えてみれば、いままでに「制服女子高生バンド」というのが登場しなかったのは、まったくもって隙間というほかない。どう転ぶかはわからないのだが、これは一定の需要があるように思える。まあいままでにも、女子高生通り越して女子中学生ってのがあったような気がするのだが、あれは楽曲がまずかった。夏祭りこそは、それ自体が名曲といっていい力があったから通用したが、それ以外をいくつか聞いた限りでは、相当に微妙なシロモノだった。
 というより、いまでも「夏祭り」というと、あのバージョンを思い出す俺のような人がいるということは、少なくとも「女子中学生×夏祭り」という組み合わせは一定の力を持ったのだ。てゆうよりふつうにあれは破壊力あるよね……いろいろね……おっさん打ちのめされるくらいにね……。
http://www.youtube.com/watch?v=77u_j3YImdU
 というわけで、プロモーションビデオもそこのところわかってるっぽくはあるのだが、制服姿がないのは、やはり片手落ちといっていいと思う。ちなみにさっきから制服にこだわっているのは、齢40歳にして制服に対する下半身と追憶が直結するような絶望的な憧憬がいまになって隆起生成されてきたというわけではないないないない(エコー)。もちろんただし書きを入れれば入れるほど逆効果なのは重々承知だっていうかリアル制服にはまじであんまり興味ない。ついでのように書いておくと、ホワイトベリーは確か北見出身だったと思う。というと、女子中学生がヘルメットかぶってハッカ畑のまんなかを自転車で走るような幻想が出てきたりするわけだが、北海道は都市部とそれ以外が徹底的に分かれているので、そういうことはあんまりないなーと思いました。少なくとも函館から横浜に引っ越してきた俺の第一印象は「畑がある! 田舎だ!」というものでしたので。あと北海道の子供はあんまり自転車乗らない。冬季自転車が使えない関係上で。
 あと関係ないんですけど、ヘルメットでこれ(http://hideruaobu.blog71.fc2.com/blog-entry-1185.html)思い出した。しかし春籠漸はくどいですね。あと昨日コンビニで見かけた雑誌をちらっと立ち読みしたら、あいかわらず井ノ本リカ子が水準ブチ越えてえろかった。あのえろさって、どうもエロ劇画互換なんだよなーと思いつつ、女性の肉体の描写が、主に肉のねじれとか体毛によって表現されている代表的なエロ劇画の人の名前が思い出せなくていろいろぐぐってたら、こんなサイト(http://namekujinagaya.blog31.fc2.com/)ひっかかった。漫画ローレンスとか一定数は常に売れるんですよね。うちは成人向け全面カットなんでありませんけど。


 最近はどうも夢見が悪い。夢を見て泣きながら目を覚ますことは俺にとってはわりと日常茶飯事なんだけど、これが珍しいことなのかどうかは知らない。自分というキャラの演出的にはアリなのかもしれないが、そうでなくてもわりと泣きながら目を覚ます。その気分をいつまでも引きずることもあまりない。それだけ激しい夢を見ておいて熟睡してるってのもたいがいだし、多少の不安ごとがあってもやっぱり寝る。ちなみにどんなに精神的にダメージがあるときでも、ひどいストレスがあるときでも食うことは絶対にやめない。胃が痛くなることもない。このへんが俺が自分自身に対して「なにがあっても、とりあえず死なない」と思う所以だ。食って寝てれば肉体は死なない。そして積極的に死のうとしなければ肉体は生きようとするが、唯の「だいすき♪だいすき♪」でやっぱりしにそう。
 とはいえ、なんにもなければ泣きながら目を覚ますこともあまりないわけで、ここんところはとにかくけいおん関連の夢を見る。以前にも書いたが、俺は映像的記憶力が極端に悪い人で、その影響は夢にも及び、登場人物の外見が夢のなかではわからない。そのせいもあって、二次元のキャラが夢に登場することにほとんど違和感がない。「あれが唯なんだ」と思ったらそれは唯だっていう。
 だいたいストレスが蓄積するほどに夢は大掛かりになり、ファンタジー的要素が強くなる。今日のは、空が半分に分かれている世界の話で、半分には青空が、もう半分には巨大な都市の幻影みたいな雲が浮かんでいた。「あの雲を目指すんだ」っていう少年と少女のお話で、周囲の大人たちは「あれは単なる雲だから」って少年たちを引きとめようとする。それはすでに科学的には解明されていることらしい。なんかもっともらしい理屈があって、どこかの映像が映ってるだけだっていうのね。
 だけど真実はそうじゃなくて、それは星の記憶だっていう。夢は旅立ちのあたりで終わってるんだけど、手作りの飛行機みたいなもので、それは飛行テストにこそ成功しているものの、どこまで飛べるかもわからないようなオンボロで、それでも少年と少女にとっては確かに夢の道具であって、きっと失敗するだろうその旅立ちにあって、彼らの顔は期待に輝いてるっていう例のしにそうな国からやってきた人特有の腐ったロマンチシズムに全編を支配されてるような感じの。ああ、世界って広いんだなあっていう感慨に貫かれたやつ。
 あれなんだよね。感受性が鈍っているっていうよりは、どこかで直接に「それ」に触れることを自分が拒んでるわけ。拒み続けると反動がどかーんって来たりして、俺の場合はそれが夢に出るということなのだと思う。


 それとハゼさんのポスト見て、あずにゃんの唯に対する激しい片思いに妄想がたどりついたので、この場を借りてお礼を言っておこうと思います。あの報われなさは特筆すべきものがあると思いました。しかしこう考えてくるとですね、憂はお姉ちゃんのこと大好きですし、あずにゃんもまた唯のことが大好きなのですけれども、その両者ともに「絶対に」報われることはないのですね。唯さまみんなが大好きですから。それは別に憂でなくてもあずにゃんでなくてもいい。唯には「だれかがいなければならない」っていうのが基本的にない。しかもあれ一人でも基本的に退屈しない人種だし。
 で、思ったんですよ。憂はきっと、あずにゃんが唯のこと大好きだって気づくだろうなーって。見えてきた光景は、たとえばあずにゃんが一人きりでいる部屋のなかで、ふだんは聞かないようなCDとかかけるんですよね。頭のなかがずっと唯のことでいっぱいで、もうどうにもならなくて、気分転換にと思って、ふだんは聞かないようなメロコアとか聞いたりするわけですよ。そんで、そのラフなギターの音がわりと心臓のあたりにすんなりしみこんでくる感じがあって(このへんはサンフェイスさんのミクシ日記を参照。歪んだギターの音は確かにやさしいときがある)、気づいちゃうんですよね。ああ、自分は唯せんぱいのこと大好きなんだって。不意に。んで脳内であずにゃん泣かすことに成功したわけなんですが。
 気づいたからってどうにかなるもんじゃなく、ましてやあずにゃんにとっては初恋ですから、初恋ですから、初恋ですからもうどうしていいかわからない。教室にいたって心ここにあらずっていう感じで、憂と話をしていても「え、うん……」みたいな感じで上の空なのに、憂が「お姉ちゃん」っていう単語を発したそのときだけ、反応が変に過敏になったりして。ああ教室。しにてえ(最近ぐだぐだですな、俺は)。
 そんで憂が不自然に思うわけじゃないですか。
「梓ちゃん、お姉ちゃんとなにかあったの?」
 みたいな感じで。こんな直接的な聞きかたじゃないかもしれないですが。するってーとあずにゃんが、
「え!? ううん、なんでも。あ、私トイレ」
 と、あずにゃんは排泄行為をする場所を意味する言葉を口にして教室を逃げ出してしまうわけです。あずにゃんも排泄する。これはすごいことです。さすがに3人(たぶん)しか見てない場所とはいえ、それ以上の細かいことに言及するのは避けますが、あずにゃんも排泄するというラディカルな現実がですね(以下自己検閲)。
 そんで憂が追いかけてくるか、教室に戻ったときにでもいいし、あるいは放課後になって二人きりになったときでもいいんですが、
「梓ちゃん、私ね、お姉ちゃんのこと、大好きだよ。梓ちゃんは?」
「わ、私は、別に……そ、それは先輩だから……嫌いっていうのは、ないけど……」
「そっか」
 憂はそういって、なんともいえない顔で笑ったりする。
 あずにゃんから見れば、その笑顔の意味は理解できない。あらゆる感情を通過してしまったあとの穏やかさをもって、笑ってる。見ようによっては唯にも似てる(このポイントは強く押し出していきたい!)、でも表情としてはまったく似ていない笑顔。
 それを見ているうちに、あずにゃんはなんだかつらいような気分になる。
 というような、対立的というよりは「同じ人が好きだけど、双方ともに絶対に報われない」がゆえの、融和的な三角関係がよろしいのではないかと存じます。あとみんなオナニーしない。
 もうちょっと倒錯させるならば、唯の格好して唯のしゃべりかたしてる憂に、あずにゃんが「先輩! 先輩……!」とかなって、なんかもうその関係はダメなんじゃないか、というところまで推し進めてもいいと思うのですけれども、こうなると、必然的に生じる隙間を埋めるためにセックスでもさせる以外に展開がちょっと思いつかないので自重。セックス自重。確実に赤ふぁぼ行ける展開だが。
 ああ……11年目の冬の花火がしみますね……。



20101008

 てなわけで、けいおん1期からもう一度フル完走めざします。


 ああ、駅の背後にムギいた。

 ちなみに音楽としては1期のOPはガチだと思う。

 入学式での唯。物見高い感じ。

 ぐさっの反応がこなたちっく。

 唯のものを凝視するくせ。

 内股設定は当初から。

 律は勢いだけだったんだけど、本物だったんだなあ。

 ムギって合唱部希望だったのか。現状でのムギは単なるお嬢様で、一般の公立(いや女子高なんだから公立はねえか。ごくふつうの女子高って扱いな)に入ってきたばっかりだったんだな。

 そして確かにちゅーとろさんが言うようにムギって律がきっかけで軽音部に入学したのな。

 ああ、ポテト。なるほどね。

 和がずいぶんと唯に対してフランクな感じなのな。

 あ、ドラムセットが搬入されてる。4月の最終週の前までに搬入したのね。

 早くもお茶搬入されてる……。

 唯ってこわがり設定だ。

 そして唯が入る前からすでにお茶の時間は定番化してた、と。

 そだね。ジで始まる人多いね、ギタリスト。

 そしていつのまにか部の存続に前向きになってる澪。おまえ流されやすいな。

 毎日こうやって、お菓子を一緒に食べましょう。おい、ムギ。おまえ、原動力は。

 注目されるのがうれしい唯。

 泣いちゃう唯。いい子だなあ……ぐちゃぐちゃにしたいなあ……。

 ここに至るまで演奏はしてたんだ。ちなみにムギのキーボードの腕だけは最初から保証されてるわけだよね。

 何度聞いても、この最初の演奏のシーンは完璧だ。完璧すぎてしにたい。

 というわけで1話終了。まあ長期にわたるシリーズではよくあることではあるが、声優さんの演技が違う。アニメとしてのキャラクターの演技もけっこう違う。
 それにしても、キャラクターの設定としてよくできてると思うのは、唯の主人公適性。注目される大好き。周囲に見られることが苦にならない。天然。感情をうまく表現することができる。素直。おだてに弱い=人からの応援は素直に力になる。そう考えると最初の唯のこわがり設定から、徐々にそうでなくなっていく過程というのは、それ自体が見ものであると思える。
 あとは、律とムギが部活に与える求心力みたいなのをあらためて見落としてることに気づいた。少なくとも軽音部を「あのような」場所にしたことには、相当にムギの意志がはたらいている。その関係に注目したちゅーとろさんの嗅覚の鋭さには、あらためて感心する。まあ、繰り返し見てるとそのことは理解できる性質のものではあるのか。
 あと、澪と律が音楽が好きであることは自明なのだけれど、その描写がばっさり削ぎ落とされている段階で、やっぱり音楽は主題からはズレてるよね。それといまさっき牛丼食ってきたんだけど、そのあいだにあずにゃん脳内で泣かすことに成功したのであずにゃん俺のもの。


 次2話。

 音楽室に向かう途中の踊り場からの風景、いったい唯たちは何回見たんだろうねとかそういう発想になるともうしにそう。

 実際のところ、律の行動原理がいちばん把握しづらいんじゃないかなあ。引き際心得すぎてるんだよね。

 「秋山澪(15)」の表示に俺御逝去。

 大人の女性(笑)。15歳。

 やっぱムギの部室に対する支配力でかいなあ……。

 やっぱり。話に詰まるとムギが食いもので方向ねじまげてる……。これ、まだ唯に逃げられる可能性を危惧してるのかなあ。

 「うーぃ」  勃 起 し ま す 。

 「さすがー。頼りになるぅ」 この唯のセリフに対する憂の「えへへー」っていう反応が絶品。「もう、しょうがないなあ、お姉ちゃんは。だいすき」というのがこのセリフの内幕である。

 あー、このウインドウショッピングが親睦を深めることになってるんだ。あとムギの「楽しかったですねえ」が必聴。

 「おー」 あーなるほどねえ。

 澪うざいなあ。前向きになるにもうざいぞ。

 ムギのお嬢様っぽさっていうのはもうちょっと強調されてよかったんじゃないのかな。いまにして思うと。

 唯の空気読めるけど団体行動できないっぷりは最初からよく表現されている。

 唯いい子。たまらねえ。

 この楽器に対するわくわく感の表現はほんと特筆すべきものだった。

 ああ、これだ。アンプにつないだギターの音。うん。

 2話終了。やっぱりキャラについては最初の段階から相当に練りこまれてる。らきすたのときもそうだったが、これを「自然発生的に」発展させていって、2期の最後までつなげていくという作業そのものが持ち味なのだろう。そこに矛盾の発生のしようがない(もちろん例外は数多いが)。あとは方向性の問題だけ、ということだ。らきすたの場合、原作が堅実すぎてかえって自由度が低かったような印象だが、けいおんの場合はその制約も少ない、というより1巻だけ原作を読んだ限りでいえることは、そもそも唯のキャラクターは大幅に改変されてたと思う。あと、つくづくムギの支配力を甘く見ていたよ俺は……。
 しかし唯さまの全方面攻めっぷりはすごいっすね。愛されキャラなのに唯さまのほうはだれでも大好きだからね……。これからは「さま」付けで呼ぶしかないっすね。呼ばないけど。


 3話。これだけ見たら寝る。

 こうやってみると、初期の段階では、唯ってずいぶんふつうの子として描写されてるなあ。

 なんか不自然なくらいゆっくりした時間の描写。

 澪の「わかんない子を諭す口調」が絶品。「追試に合格しないと、部活自体がなくなっちゃうかもしれないんだよ」

 3話、作画微妙だなあ。

 そっか。この段階では憂はまだ中学生か。

 やっぱ律のイメージがいちばん輪郭はっきりしないなあ。

 門限平気なの。とくにムギ。

 やっぱりこっちの「だいじょうぶなんじゃないのー?」が律だよなあ。

 3話終了。んー情報量が少なすぎるかな。人間関係整頓、及び学校内におけるキャラクター付けの回って感じかな。成績とか。
 どうでもいいんだが、1期も最初に戻るとあずにゃんのこと忘れるな……。
 しかしこうやって見直してみると、やはりちゅーとろさんの読みの正確さには呆れるしかない。見てる回数の違いだといえばそれまでだが。ただ、ムギが輪郭薄いってのはないかなーと思った。わりと最初から明確。むしろ律の扱いが回によって違いがありすぎる。元気と勢いがあってボーイッシュってのはキャラとして非常に扱いやすい反面で、そこさえ押さえておけばオッケーという結果にもなりがちで、3話なんかはまさにその典型だったと思う。確認したわけじゃないんだけど、律って周囲の邪魔をするにしても、同じことを二度以上繰り返すことってあんまりしてないはずなんだよね。あと、意外に斜に構えてる部分があって、自分が目立ちたいとかそういう部分少ないはずなんだよね。たとえば、クラス単位のイベントがあったとして、必要とあらば先頭に立って「いくぞーっ!」とかやらないことはないんだけれど、だれかがかわりにやれば、すっと後ろに下がって「まあ、いいや私は」ってなって、一定以上に熱くならないラインがあると思うの。勢いだけで突っ走ってるわけではないと思うんだよね。
 そこ行くと、澪は、当初俺が思ってたよりは安定してる感じだった。ただあの怖がり要素だけはどうにもうまく扱えないんだけどさ。いちばん簡単な解決策は「まあ女の子ってのはああいう部分ありますね」で括っちゃうことなんだけど、それもなあ……。いずれにせよ澪は、律がいるときだけは律にツッコミ入れられることから、みんなとなかよくできる、みたいな側面があるはずで、その意味での依存っぷりは大したもんだよね。律もそれわかってるんだろうけどな。「まあ、澪だし」みたいな部分で許してる部分ある。寄りかかられること自体あんまり意識してないっていうか。
 ムギと唯の関係はけっこうおもしろいよね。3話まで見る限りでは、明確に唯のことを子供扱いしてる。しかしその子供扱いしてるムギ自身が、実はそんなに大人じゃないっていう裏の事実もあって、つまりこの二人って噛みあってない。だから、唯と接するとムギの輪郭が薄くなるというよりは、これはムギの側に微量のとまどいが常にあるんじゃないかな、ということだと思うんだが。ムギが言う「楽しい人」に唯は含まれないんだよね。なぜならば、ムギにとって唯はたぶん「おもしろい」とか「変」とかの範疇だから。そこに人の意志が反映してない痙攣反射的な反応って、ムギにとってわかりづらいものなんじゃないかと思うんだ。だってムギの行動は激しくモラルによって制約されてるわけで、それなしに空気読めてほぼ本能のままに行動できる人間のことを理解できるはずがないでゲソ(うるせえ)。
 とまあ、現状までの理解はこんなところ。
 ああ、あとあれだ。あと秋元康さんにおかれましては、制服女子高生バンドをデビューさせるなら、ここから半年が勝負だと思いますよ。ただし個々のキャラは隙なく練りこんで、あとはオタ相手に商売しないことですね。楽曲で勝負。歌詞には細心の注意を。これでうまく行きます。



20101008

 眠りが浅くてしかも目が覚めるたびに勃起しているという、これからミルクもシュガーも入れない熱い熱いコーヒーが出るんですかあんたは的な謎症状のためめんどくさいから起きてきた。しかし別に性的な意味で勃起しているものではないらしく、疲れマラの一種だと判断。けっこう無茶してズーラシア行ってきたからなあ。
 ……と書き出して思ったのだが、以前はこうした時間をすべてツイッターに費やしていたのらしい。なるほど、さしもの俺といえども、ひとりでなにかを書いているよりはツイッターで相手がいる状況でなんか呟いていたほうが楽しかったものであったらしい。それで他人の目線がある場所では吐き出しきれないものがあるとか思ってれば世話がない。
 ちなみにここを読んでくれている(かもしれない、とつけくわえておく。なんか日記の仕様が古すぎてアクセス解析とか設置できる方法がないっぽいんだけど……)お二人の方へ。昔からそうですけど、別に全部読んでほしいと思ってるわけでもないし、まあ、づしのころからそうですが、玉石の比率でいうとあんまりよろしくないことになるのが俺の文章なので、てきとーにつきあってやってください。
 あと、うちの奥さまが自分の意志でちゃんと日記を書く気になったらしいので、よろしければどーぞ。
 http://nekaduke.webspace.ne.jp/diary/
 つっても仕事に関するメモくらいしか書かないらしいですけども。
 あとぜんぜん関係ないんだけど、日記のカウンタが、リロードするたびに回る古い感じのやつでね……180まで回ってるの、全部俺が回したんすよ……設定やって見直してるだけでこんだけ回った……。


 本を読まなくなったし、アニメも見なくなったなーと思う。や、常にある程度は読んでるし、ある程度は見てるんだけども、絶対数が減った。持ち時間が少ないというのはちょっと当てはまらない。確かにふつうの勤め人と比較すると拘束時間は長いかもなんだが、そのわりに仕事中にやることない時間が3時間くらいあったり、シフトがないときは3日くらいまったくなかったりもする(ただし税理士のとこ行ったりとか本部に行ったり他店の視察をしたり税務署行ったり駐車場前の段差を埋める工事を依頼したり切れた蛍光灯を買いに行ったりおでんに入れるダシ買いに行ったり、あとなにより発注があるせいで完全に店に行かなくていい日というのは365日、1日もない)。だから時間がないかといえばそうでもないのだ。でないと1週間くらいのあいだにけいおん2期全部見るなんてまねができるはずがない。
 けいおんといえば、一時期ツイッターでよく話題にしていた、声優志望(を現在は諦めた)バイトのSさんと話をしていた。Sさんは長髪黒髪しかも長身というなんだか3要素兼ね備えてしまった感じの子で、ついでにいうと非常に細身で胸のあたりに中性的な魅力が不可抗力でただよってる感じなのだが、ただし最近は尻まわりがコルベット的なアメ車展開を見せており、うちの奥さまが「あれはやせたほうがいい。太って尻まわりに来るのはやばい。Sさんは日本人への道を驀進している。安産か。安産の準備なのか」などと非常にうるさい。どうでもいいんだがあの人はどうして女子に対するチェックがああもやかましいんだろう。スタイルから歩きかた、しぐさなんかのいちいちをチェックしており、別にそうした情報をまったく欲していない俺に報告に及ぶ。
 会話そのものは大した内容ではないのだが、来月あたりから始まるキャンペーンでお菓子を2個買うとついてくる、クリアな感じのファイルについて最初になくなるのはどれか、最後まで残るのはどれかというものだった。
「澪だろ」
 俺は断言し。
「えー、澪ちゃんいちばん人気ありますよ?」
 澪ちゃん! そういう呼びかたを俺は初めて聞いた気がするよ!
「いや、知人に、澪が最後まで残ったほうが嬉しそうな澪好きの人がいるもんで……」
「屈折してるんですか?」
 はい屈折入りましたー!
 ちなみに会話をしているその向こうでは、うちの奥さまが発注している。そちらを見ると、俺を見ており、缶コーヒーを飲む矢沢永吉みたいな苦味走った笑いを浮かべている。別に話したわけでもないのにだれのことかわかったらしい。まあ、ネットの知人で俺が日常的に「知人」として扱って話すのは、ここを読んでいるお二方か、あとは直接あったハゼさんくらいしかいないわけで、消去法で正解に至ったのかもしれない。うちの奥さまは澪の外見は知っているので、その時点であんよさんはないな、と思ったのだろう。俺もないと思う。ちなみに俺自身についてもあんよさんと同じ理由(だけではないにせよ)澪はない。
「え、てゆうか澪が一番人気?」
「ですよ? ほかは知らないですけど。店長の周囲ではだれなんですか?」
「あずにゃん……いやいや、人数だけでいえばやっぱ澪なのかなあ」
「澪ちゃんかわいいですよ」
 みおちゃんかわいいですよ。
 響きそのものが斬新すぎて2フレーム分くらい硬直した。どうやら俺は世間の澪好きの人の7割くらいは澪を壊したくてたまらない衝動に襲われているのかと思っていたのだが、それはどうやら俺が見かける澪好きのサンプルがサンフェイスさんのふぁぼりのみに由来するせいだったようだ。
「最後まで残るのはムギかなあ」
「あ、そこは同意です」
 Sさんがオタとして属するコミュニティは、声優好きかつジャンプ方面だったりするので、俺が見ている「オタ」の文化とはまったく違うものを見ていることになる。
 んで、実際のところどうなのか、と推測すると、あんがい最初になくなるの唯じゃないかって気がするんだよね。なんだかんだいってけいおん好きのボリュームゾーンって、中高生だと思うわけ。確かにかつてよりは大きなお友だちの層は増してるんだけど、一定以上の人気が出るには、中高生の人気って不可欠だと思うわけ。バイトの話を聞いてると、カラオケの定番らしいんだよね、けいおん関連の音楽って。CDが売れた現象も、オタ層もあるにせよ、カラオケ対策として中高生がかなり買ってるってのはあるんじゃないかと俺は思ってる。しかも女子人気がかなり高い。
 だとすると、そうした層がけいおんを見る視点っていうのは「唯ちゃんかわいい、かつかっこいい」あたりだと思う。あの作品は、唯の成長物語っていう側面は確かに含んでいる。ただし含んでいるだけで、それが軸になっているわけではないあたりで、どうにも「芯が通っていない」感じを受けたりもする。あ、いま気づいたけど、あの作品のバランスの悪さってこのへんに由来するのかな。
 ライブのシーンとか見てると、ふつうにかっこいいんだよね。OPでもそうだけど律がドラム叩いてるシーンとかふつうにかっこいいの。唯にしても「かわいい」と「かっこいい」のバランスが絶妙なんだよね。ましてや唯の場合「ギターが弾けなかった状態から、あれほど弾けるようになった」っていう事実が裏側に隠されてる。あと単純にいって唯って女子ウケがいい。
 ああそうそう。けいおんのキャラって、基本的に女子ウケいいんだよね。あずにゃん以外。作中に男がまったく登場しないことの利点ってあんがいここにもある。律はガチで女子ウケいいだろうし、澪も「かわいいのにそれをひけらかさない」という点においてウケがいい。しかも引っ込み思案でしょ。あのへんで解毒されてる。唯は行動が天然だけど空気めちゃくちゃ読めるじゃない。というより嗅覚が図抜けて鋭い。ムギは特に嫌われる要素を与えられてない。育ちがいいけど茶目っ気が強いっていうのは女子のツボのひとつだろうし。
 ただし、ここに「男」っていう要素を導入した瞬間、唯は空気読まなくなって「私のだもん。私が最初に好きになったんだもん!」って主張しはじめるし、澪はかわいいのにその自覚がない(というよりそのことを武器にできない)がために「なにブッてんだよ」っていう非難の対象になる。ムギは「私、はじめて男の人を好きになってしまったんです!」とかゆって、それであれって逡巡しながらもけっこう直接的に男のほうに向かってくタイプだから、そういう点では嫌われやすいよね。律だけは別で、この局面でもまず嫌われない。ちゅーとろさんが律のこと好きなのはよくわかるね。たぶんちゅーとろさんは、あらゆる意味で他人に負担をかけるうざいタイプが嫌いだ。
 以上、すべての例にあずにゃんが登場しないのは、あずにゃんはそのままでも女にあんまり好かれないタイプだからです。そういや憂も「おねーちゃんだいすき★」っていう一点において解毒済みなんだな。ところで俺はなぜ黒い星使うんですかここで。まさか憂はだれも知らない知らないやりかたでおねーちゃんのことが大好きだとでも俺は主張したいんですか。いいからSS書けよおまえ。

 ……俺なんの話してたんだったかな。なんかいろいろどうでもよくなってきたな……。
 いままでもたびたび書いてきたけど、憂はいいよねえ。あの絶望的な依存構造が。あれもう、おねーちゃんいないと絶対に成立しないでしょう。憂のなかには、必ず唯のことバカにしてる思考回路があるはずなんだよね。あんがいに自分自身のことについて無頓着なところは憂にはあると思うんだけど、それって憂の「いい子」っぷりが、たぶん姉がいろいろやらかすの見て無意識的に身についてきたものだからだと思うんだよね。あとはフォローしなきゃいけないから。だけど唯がいなければ自分がなにかをする理由が基本的には憂にはない。たぶんそのことには自覚的。だって憂かしこいから。このかしこさってのが憂にとっての癌細胞。たとえば家で唯があずにゃんの話をさんざんしたときに、そして実際にあずにゃんかわいくてたまらない的な行動を自分の前でとったときに、憂は身を引くと思うんだよね。なぜなら憂はかしこいから。どうするのが最善であるかをよく知ってる。
 でも、それで憂自身が最善かといえば、もちろんそんなことはない。もし唯が家をあけるような日々が増えたとするじゃない。別に男ができたでも、百合的な意味であずにゃんを性奴隷(「いまからあずにゃんはぁ、にゃんこだから、にゃんっていう以外言っちゃだめだよ?」的な)にするような日々になっちゃったとしてもまあ理由はどうでもいい。要は唯が憂のことを忘れて家にいないような日々が続いたとする。そしたらもう、憂やることなくなるね。ぼーっと居間にいてテーブルにだらしなくもたれかかって、天板に頬をぺったりとつけて。もちろん家事はきっちりやるんだけども。でもそれ以外のときは時計をちらちらと見て姉の帰りを待ってる。たまに物音がすると「帰ってきた!?」とか思ってすぐに様子を見にいく。そんなことを繰り返しているうちに、
「そうだ。お姉ちゃんとかくれんぼしてるんだ。そうだよね。お姉ちゃんはきっと、どこかに隠れてる」
 とか言い出す。お姉ちゃんがおなかをすかして出てきたときのために、お菓子とか作り始めちゃう。もう泥沼。「お姉ちゃん、遅いなあ」 トイレを覗いて「おねえちゃん?」 部屋を覗いて「……おねえちゃん?」 玄関を覗き込んでは「お姉ちゃん……?」
 もうとっとと壊れちゃっていいのに、かしこいからなかなか壊れられない。そこまで病状が進んでいながら「もう、お姉ちゃん離れしなきゃだよね」とか自分に話しかけてる。仮にあずにゃんが唯のにゃんこちゃん(性奴隷と読む)になっちゃって、あずにゃんの家に入り浸りだとしても、憂自身はあずにゃんに対してはふつうに接する。
「お姉ちゃん、ちゃんとごはん食べてる? クッキーは、バターと砂糖少し控えめのほうがいいかな。市販のは、お姉ちゃん食べすぎちゃうから……」
「寝てるときね、タオルケットをベッドから落としちゃうことがよくあるんだ。お姉ちゃん、けっこうおなか弱いから……気をつけてもらえると嬉しい……かな」
 ふつうに接してはいても、会話の端々にこんなのが散見される。
 さらに病状が進むと、鏡に向かって唯の髪型で話しかけたりする。
「うーいー。ういー。ういー、ういういういういー」
 だけど憂はかしこいので、そんな行動の意味のなさをよく知っている。ついには鏡の前でしゃがみこんで「お姉ちゃん、お姉ちゃん……」とか言って泣き出す。泣いてしまって少しはすっきりして、ちょっとは前向きに歩き出すかというと決してそういうことはなく、そういうことはなく(大事なことなので以下略)、さびしさに耐えられず同じことを繰り返す。でも憂はオナニーひどくないので唯の下着とかには手を出さない。「うーいー」 毎日繰り返される夜11時の秘密の儀式。
 そうこうしているうちに、どことなく言動が唯と似てくる。
「あのね、梓ちゃん、ぎゅーってしていい?」
「う、うん……ダメじゃないけど……」
「あーずにゃーん★」←やっぱり星は黒いらしい。
「ちょ、ちょっと、憂?」
「すりすりすりー」
 そう、満たされないさびしい憂が最後に向かうのは、唯への同化願望。そのへんだと思うんですが。
 ちなみにこう考えてくると「ごろごろしてるお姉ちゃんって、すごくかわいい」っていう憂の言葉は異常なくらい罪深いものになってくるわけですが。


 た の し い な あ 。



20101007

 ズーラシアに行ってきた。目的はキノボリカンガルーだ。ちなみに目的の動物はこちらに対して背を向けていて微動だにしなかったので、どんな顔面をしているからすらわからなかったが、非常にマヌケそうな生物だったのでよしとする。ズーラシアとかゆってずいぶん仰々しい感じの名前ではあるんだが、そこは市立の施設だけあって、そこまで気合が入って商売気のあるものじゃなかった。管理状態はちょいと微妙で、動物についての説明のシールがガラス面に貼ってあるのがはがれて一部読めなかったりとか、清掃が行き届いてなかったりとか。「飼育員のとっておきエサやりタイム」とかがあるんだが、これが順路とまったく関係なくばらばらの時間に行われてたりとか、まあ客のことを極限まで考え抜いた感じにはなってなかった。まあ土日優先でやってて平日なんぞに行く客は基本相手にしてないのかもしれないが。
 価格は前売りで480円。現地で買うと600円なので、まあそこそこお得。問題は駐車場で、これが時間に関係なく1000円取る。なめんな。電車バスで来いってことか。あんな僻地に作っといてそれは通用しねえだろう……。
 おもしろかったところとしては、キジとかの微妙なラインアップの動物のあたりに一緒にスズメが入りこんで余裕でエサ食ってた。むしろスズメが気になって気が気じゃなかった。

 ズーラシアの所在地は旭区の上白根という場所で、実は昔、このへんで配送のアルバイトをしていたことがある。で、その配送の途中で昼飯をしょっちゅう食ってた定食屋が近くにあるのを思い出したので、そこでメシを食うことにした。もっとも中原街道沿いってかつては中小の工場がやたらに多かったところで、それらが撤退した跡地に中規模のスーパーセンターだとかファミレスだとかが入りまくってるんで、個人経営の定食屋なんぞなくなってるんじゃないか、という危惧はあった。
 はたして現地に行ってみると、隣に吉野家ができていて、反対側の隣にはローソンができてる。じゃあ定食屋本体はっていうと、なんか、まだ生きてた。駐車場の悪夢のような入れにくさもそのままに、建物の様子も20年前と変わらず、ただちょっと古びて、そこにあった。
 店のなかに入ると、こぎたねえコンクリート打ちっぱなしの床のうえに、どうでもいいようなテーブルが3脚と、クッションが完全に死んだビニールレザーの椅子がある。んで奥のほうにはテーブル席であって、当時となんら変わってなかった。ただし、おっちゃんとおばちゃんは、完全なじーさんとばーさんになってた。ヤニで茶けた木の壁には紙に手書きのメニューがずらりと並んでいて、いままでの人生で一度も定食屋に入ったことのないうちの奥さまは、なにを食っていいかさっぱりわからないもよう。
「イカのてんぷらを食いたい」
「じゃあ頼めばいいんじゃないか」
「イカのてんぷらと、イカのてんぷらの定食とはどう違うんだ」
「定食ってついたらあれだな、味噌汁とか漬物とか付け合わせのものとか、まあそんなのが一緒についてくる。ちなみにこの店は、俺の記憶が正しければ付け合わせの量がそれ自体でメニューとして成立するくらいに暴力的だから気をつけろ」
「味噌汁はいらない」
「いらなイカ」
「さっきからあんたのしゃべりがわざとらしくてムカつくんだけど」
「そうでゲソ?」
「その語尾はねえだろ」
 などの会話をしつつ注文。
 ちなみに時間が午後1時半と半端なこともあってか、客は俺ら以外には、作業着姿のおっちゃんが2人だけだ。
「分煙なんて小ざかしいものはここにはないのか」
「ねえだろ」
「ところであのナスヤキってのはなんだ」
「なすの焼いたものだろ」
「ところでカレーライスが650円で、ラーメンが450円ってのは価格設定めちゃくちゃじゃないか? あとわかめラーメンのほうがバターコーンラーメンより高いってのは、原価考えてるのかあれ」
 とにかく、もの珍しいのであるようだ。
「地球儀が置いてある! 定食屋にはみんな地球儀が置いてあるのか?」
「あるわけねえだろ」
「あの地球儀になんの意味があるんだろう。出前のとき探すのか」
「やだよそんなグーグルマップみたいな精度の地球儀」
「テレビが古い……あ、強盗殺人が起きた」
「あー、死んだね」
「昼ドラの冒頭で悲鳴上げる係の人も大変だよな」
「係とかあんの!?」
「あるある。サスペンス系のやつって悲鳴係いるだろ。悲鳴当番っていうか」
「日直とかの延長線上に悲鳴当番いそうでやだな。起立! 気をつけ! ぎょほーーーーー」
「そんな怪鳥みたいな悲鳴あげる人間いないから」
「そうですか」
 などの会話をしつつメシが来るのを待つ。
 しかしこの定食屋、もう儲かるなんてレベルの話じゃないなーと思う。かつてちゃきちゃきと動いて焼肉定食(しかしここの焼肉定食はなぜか生姜焼きが来る)を運んでくれたおばちゃんは、いまや歩くのも覚束ないようなありさまだし、奥の厨房にいるじーさんは迷子札つけて住宅街のまんなかに放り出したら警察が保護しそうな勢いだ。あれでは昼のピークがあったところでとうてい対応できるものではないだろう。
 そうこうしているうちに、イカのてんぷら定食が運ばれてきた。
 厨房から出てきたばーさんを見て、うちの奥さまがテーブルに突っ伏した。
「どした?」
「ああ……無理だあれ」
 振り返って見ると、手元が震度4。お盆がばーさんの手の揺れにあわせて緩やかにウェーブ。いつ味噌汁が完全崩壊を迎えるか気が気じゃない。しかしそこは熟練の技がものを言うのか、見事イカのてんぷら定食はテーブルにソフトランディングした。
「……やるじゃん」
 テーブルからばーさんが離れたタイミングを見計らってうちの奥さまが言った。そして、テーブルの上に置かれたお盆を見て絶句した。
「なんだこのたくあん」
 でかい。枚数そのものは2枚なのだが、これは単位が枚ではありえない。しいていうなら、たくあんが2個乗っている。これが某全体的に肉付きがよくて、肉と肉が触れ合っている部分に汗その他に由来するいい感じのにおいがみっしりと詰まっているに違いないと某畏友が考えるところのキャラクターのまゆげだったとしたら、それは立体的すぎて手に負えないことになる。
 単位がおかしいのはそれだけではない。付け合わせのポテトサラダはそれ単体でコンビニのサラダの分量を越える。そして白飯。俺の忠告を聞かずに、うちの奥さまはふつうの盛りで頼んだのだが、これをふつうと呼ぶのは定食界だけだろう。
「私、頼んだの中って書いてあるやつだったよね」
「だから言ったじゃん……」
「丼にぎっしり詰まってるごはんを、中とは呼ばない」
「いかに大盛りとはいえ、やざわが勝負を挑まれたと感じるような盛りだぞ。中サイズだってまともなわけないじゃん」
「やざわさんが勝負を!? そりゃだめだわ。話にならない」
 話にならない扱いっすよやざわさん。
 しかし果敢にうちの奥さまはいろいろと規格外のイカのてんぷら定食に挑みはじめた。それと同時にばーさんが厨房から俺のぶんの焼肉定食を運んできた。
 ああ。危ない。震度が増している。さっきより確実に揺れが大きい。さきほどは絶妙なバランスで惨事は起こらなかったが、二度目はなかった。コーナーを曲がるとき、ひときわ大きなビッグウェーブがやってきた、味噌汁はたっぷーんと盛大に波打ち、お盆から床まで被害は及んだ。
「お待たせ。味噌汁ちょっとこぼれちゃったけど」
 ばーさん退場。まったく何事もなかったかのように。いや、実際に何事もなかったのだろう。この店を利用する客にとって、味噌汁がこぼれることはおそらく日常なのだ。そしてもちろん、こぼれた分量はちょっとなんてなまやさしいものではない。というよりお盆のなかにちょっとした味噌汁の湿原ができている。
 俺は「運命。」みたいな顔でお盆を見つめた。
 ちなみにここまでの内容だが、本気であまり誇張がない。
「……塩味すごい」
 次なる試練がうちの奥さまを襲っていた。
「逃げ場がない」
「ごはんがあるじゃないか」
「だから、ごはんしか逃げ場がない。あとは全部塩味きつい。強制的にごはんが進む」
「働く男たちの店ということか……」
「しかもタチ悪いことにおいしい」
「おいしいのか」
「塩味きつい以外は」
 俺も食っているわけだが、なるほど味噌汁は煮干のどぎついダシの味はするが、味噌はちゃんとしたものを使っている。ただし、味噌がムダに濃い。ポテトサラダはよくあるマヨネーズの酸味がやたらにきつい感じではなく、ちゃんと芋の風味が感じられるくらいにはうまいのだが、塩がなんか入ってるっぽい。ドレッシングもおそらくは自家製のマイルドなオーロラソース風のやつなのだが、なぜそこに塩をこんなに入れた。なぜだ。
 そうだ。思い出した。思い出したぞ俺は。
「そうだよ、この店、味濃いんだった」
「遅えよ……」
 ちなみにうちの奥さまから天つゆを少しもらった。
 やだ……すっごくブッ濃いの、ノドに入って……血圧上がっちゃうぅぅぅぅ。
「これは……天丼のたれレベルのブツであり……」
「でも、ダシしっかりしてるよね……」
「うん……」
 俺たちは無言で食べた。いや、うまいのだ。誤解のないように繰り返しておく。おいしい。しかし、濃い。ありとあらゆるものが濃い。
「たくあんおいしい……濃い……」
「生姜焼きもうまいぞ。肉も筋がなくてちゃんとしてる。味付け濃いがな」
 しかし2人とも完食した。ちなみに、おかずの非情なまでのごはん進むアシストがあってなお、ごはんはちょうどいい分量だった。

 会計のときに「20年前くらいに、よくこちらに来てたんですよ」とばーさんに告げた。ばーさんは「あらあら、それはそれは」と笑顔になってくれた。おいしかったですよ、ともつけくわえておいた。もちろん塩味以外は、だ。こうなってくると、じーさんとばーさんのふだんの食生活が心配だが、あんがい自分たちが食うぶんについては減塩しょうゆとか使ってるかもしれない。あの味付けは客層に対応した結果なのかもしれない。
 20年間。
 元気だったおっちゃんとおばちゃんが死にかけのじーさんばーさんになるだけの歳月が流れた。自分の内部では時間の流れは連続している。あのころ、やざわと一緒に配送の仕事をやっていたが、収入はばかげて多かった。かわりに休みはまったくなかったが、わずかな休みを使って古本屋を巡って、少女マンガを買いあさっていた。月に100冊くらいは買っていたと思う。俺の前には80年代、70年代の名作が山のように堆積していて、その名作の所在地を、古本屋から自分の部屋に移し変える作業をずっとしていた。それから20年だ。やざわとは袂を分かつことになった。俺は小さいとはいえども一国一城の主となり、店を経営している。
 帰りはてきとーにあちこちをぐるぐると回って帰った。新桜ヶ丘団地のあたりも通ったのだけれど、歩道を中学生の集団が歩いていた。趣味の悪い色の制服だった。自分も中学のときに着た制服だ。なんか、きつかった。
 中学のころに楽しい思い出があったかと問われれば、そりゃロクにない。まったくなかったかといえば、別にそんなこともないのだろう。中学1年2年と通った中学ではあるけれど、俺にはそのころの記憶がほとんどない。前からよく書いてるけれど、記憶にくっきりと焼きついているのは、そのときに読んだマンガのことばかりだ。けれど、その記憶に現実からのフィードバックがまったくなかったと考えるのはかえって不自然だろう。アルミサッシの窓枠、廊下のリノリウム、階段の冷えた空気のわだかまり、昇降口の湿度、そんなものがまざまざと、手のなかに蘇ってくる。時間の不可逆性というものは、そりゃ多くの人がテーマにするわけだ。あたりまえのことだ。本当にあたりまえのことなのだけれど、学校という箱のなかに冷凍保存された14歳は、二度と解凍されない。記憶にも蘇ってきやしない。いま、現実に俺がよく知っている校舎のなかに、14歳の無数の一瞬が閉じ込められている。それを手の届かないものとして眺めるこの俺の気分をなんと表現したらよいのだろう。しにたい。便利な言葉だ。マイナーコードになりきれないメジャーコードのように、中途半端な感傷のなかで俺は中学生の群れを眺める。ああ、この感情にはまったく憑り代がない。叩きつけるものを失った。叩きつける相手が、たとえば唯のようなものであればよかったのに。俺にはもうそれすらもできない。皮膚の上にべったりと張り付いた出来の悪い雨具で、汗が排出できない。湿度が出ていかない。秋のさわやかな空気のまんなかで、じとじととした精神を抱えて、血のような夕焼けに向かって帰らない旅に出る14歳のようでありたいと願う。なにかに置き去りにされたような夕暮れだから、少し、息苦しい。その息苦しさですらもが一種の快楽であり、浸透性の悪い雨具に穴をあける方法であることを俺はまた知っている。その「知っている」という事実がさらに感度を鈍らせる。なにも直接的ではない。なにも、痛点を刺激しない。そのことを敗北であると感じることのばかばかしさを俺はよく知っている。かたちを変えて自意識の堂々巡りは続いている。益体もないやりかたで存在しもしない追憶を中心にぐるぐると回る。なにも鮮烈ではないというのに。
 そうした自分になるべく営々と努力を重ねてきて、うまくいったと思ったらこれだ。まったく俺は度しがたい。なにか、方法はないのか。失わずに済む方法は。どうやら俺はその方法はあると思っているようなのだ。しがみつくこと自体が醜悪であるということを百も承知で、それでも俺はまだなにかにすがりつこうとしている。己以外のものに頼る心根が、精神を腐らせる、か。


 話は飛びますが、というかやや余談的ですが。
 ツイッターは確かに俺に向いたツールであったし、あれおもしろくはあったんですが、俺にとってあればかりは麻薬でしたね。少なくとも、随時ガス抜きされることによって気分的にはずいぶんと楽にはなった。だけど「そこに行けば自分を受け入れてくれる人がいる」っていう状況はダメだね。孤独こそが人間を表現に向かわせるなんて青くさいことはさすがに言わないけど、だれかが理解してくれるっていうあの感覚はだめだ。そして理解されたところで、やっぱり心底にわだかまりは残るんですよ。俺の場合、そこまで含めて文章で表現してきたわけで、わだかまりに到達するだけのモチベーションがないと動かない。その結果、常になにかがヘドロみたいに残ってる状態で、結局のところトータルではガス抜きになってなかったんだと思う。



20101007

 というわけでけいおん2期番外編25話と26話。


 けいおんはきつい。このきつさについて、ちょっとうまい説明が思いつかない。このきつさの一部についてはすでにどこかに書いたとおりなんだけど、どうにもそれだけじゃない。
 とりあえず現象だけ説明すると、見ているときはそんなにきつくない。見終わった瞬間がものすごくきつい。それからずっと引きずる。簡単に説明をつけるとしたら、まぎれもなく俺がけいおんの作品世界を「ひとつの世界」として把握しているということだ。つまり「ここではないどこかには、確実にあるもの」というように。このことにきつさを覚えなるなんざ、俺も年とったもんだなーとは思うものの、こればっかりはどうしようもない。
 ほんというと、言葉にするのすら物憂い。この物憂さっていうのは、たぶんいままで俺がほとんど感じたことがなかったものだ。なにはともあれ文章にしなければ気が済まないのが俺だからだ。
 なんていうんだろ。ほんとにもう「どうしようもない」んだよね、これ。

 まだブログの更新する気があったころに、ちょこっと「ネット中毒」について書こうと思ってた。わりとホッテントリ狙いの内容で、要は、ネットとリアルの二項対立って、もはや一定以下の世代ではほとんど意味をなくしていて、ネットってものをインフラ化させることにきちんと成功してる。それがインフラならば、ディスプレーのこっちと向こうにそれぞれの人間がいるだけで、仮に「ネット中毒」というものがあるとして、それはつまり「リアル中毒」とそのまま換言することができるよね、っていうもの。ただこの場合の「リアル」って、俺らの周囲にそのままある「現実」とはちょっと位相が違ってて、少なくとも生身ではない。俺が生身を知っている何人かの人たちは、ネットでもそのまま生身であるかというと決してそうではない。自分を表現する手段が、いまのところはテキスト以外にない方法では、どうしても生身の人間は捨象されざるを得なくて、そこのところでは「リアル」そのものとはいえない部分がある。
 なんでこんな話をとつぜん持ち出したかというと、俺がけいおんを好きな構造っていうのは、これによく似ていると思ったからだ。ただしこの場合「ディスプレーの向こう側」は存在しない。古くてなじみのある構造がここに出現しているわけなんだけど、いままではただキャラの不在に耐えればよかった。ここで「耐える」という言葉を使うのは俺らしくないが、やっぱり本質的にそれは「耐える」ということだと思うんだ。その「耐える」ということ自体も、こうした構造を温存するためには必須の要素ではあるものの、でも「いてくれたらな」っていう願いだけは絶対に消えない。このへんって「それを願った」時間がものを言う。いいかげん40歳になったら、この願った時間の長さってのは磨り減ってもいいようなもんなんだけども、別に思春期だけに願ったわけじゃないもんな。ずっと継続して、時には強く、別のときにはそうでもなかったにせよ、ずっと不断に願い続けてきて、それで現在がある。だから、それだけ願いは先鋭化してて、いまさら現実とやらにそれを満たせるとも思わないし、それになによりも、すでに俺は「夢見るころを遠く過ぎて」の場所にいる。可能性の有無を夢の世界に持ち込むのは不純だろうが、おっさんにはこのけいおんの世界が実現不可能だということは絶対の現実で、そこに距離が発生する。
 距離ってのは……あー旅に出てーとかしにてーとか、あのへんの距離と一緒。その距離そのものが、かえって作品世界を際立たせる。しかもけいおんって、特に二期はそうだけど、このへんの距離をいやらしいくらい演出しにきてるでしょう。きらきらしてるっていう。きらきらっていうのは「一瞬」だよね。限定性。学校っていう箱庭のなかに、モラトリアムを詰め込みましたっていうアレ。書いててどんどんしにたくなってきた。俺はなんでこの年になってまでもこのへん突き詰めて考えようとするんですかね。答えなんかわかりきってるってのに。
 こういう心境にある人にさ、あのけいおんの描写のリアルさってありえねーだろ、と思うわけ。特に終盤になってどうにもならないくらい際立ってきたんだけど、唯の行動のリアルさったらないよね。戯画化されたアホの子なんだけど、確かにああいう子っていそう。律と澪の関係もそうだし。あれは26話だったかな、卒業アルバムを教師のうちに持ってったときの、律に対する澪の強気な態度。あれってつまり、澪は律に許されてるからできるわけじゃない。甘やかされてるっていうか。自分ひとりじゃなんにもできない、でも「いい子」っていう路線は踏み外さない澪がさ、世間的には「いい子」じゃない律のことを「どうしようもないヤツ」っていう目線で見ることが可能だから、それを許されてるから、澪はあんなに律に対して強気になれる。その機微っていうのが、別に律澪だけじゃなく、あずにゃんにしろムギ(カタカナで表記するとダーティペア思い出して微妙な気分になるんですが)にしろ、相当の精度で描写される。そしてそれを補強する絵の力だよね。あの解像度はおかしい。今木さんにいわせればこれは怠慢なんだろうけど、いちいち例は挙げない。とにかくしぐさのあれこれが「ああ、確かにそこにいるな」って思わせてくれる。人が演じるんじゃない「どこにもいないけど、確かにここに存在する」っていうものとしてね。
 だからまあ、そういう要素のすべてが「きつい」わけ。

 妄想はねー、ほんとにしなくなったと思う。それだけ現実が重たいってのもあるし、その現実を背負って生きてかなきゃもうどうしようもないってのもある。だからいまの俺はパートタイム妄想erくらいなんだけども、その事実すらもが、いざ画面に唯たちがいるのを見たときには、この「きつさ」の補強材料になってしまう。少女マンガで始まって、鍵ゲーを経由して、いまここにいるわけじゃん。んでけいおんみたいな「求めていたものそのもの」の方法論で、しかも絶対に俺の手の届かない世界を描写する作品が出てきた。これってもう、俺にはどこにも行き場はありませんよ、ここから先はありませんよっていう最後通牒のようにすら思える。存在しない思い出というものがあるとして、そのものずばりを与えられたわけですよ。もうそれは記憶なんですよ、夏は過ぎたんですよ。追憶に浸って生きなさいね、という。それもまたよし、なのかもしんないけどさ。
 あー、だめだ。まだ書ききらねーなー。全解放できてねえ。そうそう、結局最近の煮詰まり感って、これなんですわね。なまじ文章書くのうまくなっちゃって、効率も上がっちゃって、いまの「しにてー」を全解放する手段がなくなっちゃったんですわ。そりゃ煮詰まりもする。あとはねー、作品と自分のあいだに夾雑物を入れないってのは俺の本質であり、かつポリシーでもあったわけですが、いまとなっては作品と自分のあいだに自分のハンドルがが挟まりすぎた気はしますね。名前がでかくなるのはけっこうだけど、ほかならぬ俺自身だけはそれに引きずられちゃいけなかった。それ自体が自分を損なうことになるんだから。ネット上での別人格を作るほど器用な人間じゃなかったっすわ。ほんと。
 それにしても今木さんのリリカルさってすげえよなあ、あれ。見た瞬間には俺も理解したけど、イカ娘って作品の本質的な「かわいそうさ」に気づける人間ってそうはいねえぞ。今木さんが今木さんたる所以って、あの参照範囲の広さは当然なんだけども、やっぱり根底にああいうリリカルさがあるからだよね。そのリリカルさに自覚的で、それを絶対に損なわないから。あらためて今木さん大好き(どんだけファンなんだよ)。



20101007

 注意。内容ひどいです。


 というわけで、侵略イカ娘1話。今期は、えむえむと俺妹しか見ないつもりだったんだけど、とある事情によりイカ娘をちょっと見てみようという気になった。なんか全カットかわいいっていう話を聞いて。
 原作はチャンピオンでちらちらとは見てた。なにはともあれ絵はかわいいので。だけど、チャンピオンのこれ系のマンガって肌にあったためしがない。というより少年マンガのギャグ全般がどうにも受け付けない。語尾が「ゲソ」の段階でアウト。この判断はそうまちがってないよね……。
 なのでアニメも完全スルーのつもりだったんだけど、ちらっと見てみたら、確かにOP異常にかわいい。録画してなかったんだが、これくらいならまあ、ということで動画サイトで見てみたが、1話やばい。本気でやばい。ほんとに全カットかわいい。
 まあ「かわいい」ってのも曖昧な概念ではあるんだが、このイカ娘のかわいさに抵抗できる人はけっこう少ないんじゃないかと思う。顔がかわいい、声がかわいい、そしてなにより動作がかわいい。姉に指つきつけられてしりもちつくあたりとか。あ、あと特にイカスミ吐いてるところがめちゃくちゃかわいい。
 このへんはちょっと説明が必要なところか。俺は女の子の体液とかわりと大好きな人であるのだが、これはわりと特殊な嗜好というわけでもないと思う。しかしこの場合、吐かれるものはイカスミだ。そしてイカ娘にとってイカスミを吐くのは「ごくあたりまえ」のことだ。だから「体液を吐く」ということに関してどういう意識もない。この無邪気さがいい。ふつう女の子は人前で唾液を吐くことをあまり喜ばない。寝てるときに流れる女の子のよだれにある種の人々が異常に興奮するのはこの故だ。わざわざ「この故」なんて使って表明しなきゃいけないことかそれ。
 要するに、まったく性的な意識のカケラもない状況が、俺にとってはまぎれもなく性的であるという、そのギャップによって興奮が発生する。ましてやこの場合、イカスミは食える。こんなにかわいい女の子が吐いたものを食える。しかもそれはおいしい。たまりません。
 あとはねー、これ基本的にはギャグだし、イカ娘自体にあんまりその意識がないからついつい忘れてしまいそうにはなるんだけど、これ、かわいそうな子だよね。もし侵略の意志自体が本物であったとして、それは永久にかなえられないわけじゃん。あと孤独。ひとりぼっち。この側面が描写される日はおそらく永久に来ないだろうけど、それを考えるとイカ娘よりいっそうかわいいねー。
 内容そのものはケロロの味付け変えただけやつっぽいけど、アニメとしての作りの堅牢さと、あとなによりイカ娘のかわいさによって、これはとんだダークホースでした。今後、よりいっそう益体もない語りが増えていく予定。



20100106

 このデザインはなかなか気に入った。といっても実はこの日記サービスは以前(もう10年も前の話だ)にも使っていて、そのときも似たようなデザインにしていた。してみると、俺はこういうデザインが好きなものであるらしい。なにより驚いたのは、カスタマイズの方法が10年前とまったく変化がないことだ。web界隈のスクリプト言語にはまったく知識がないが、あれだけ純然たるHTMLでカスタマイズするサービスってもうほとんど残ってないんじゃないだろうか。だからこそ俺みたいな素人のクソ錆びついた知識でもカスタマイズできたわけだが。
 つい最近まで別のブログをやっていた。ネット界隈でもなかなか活発なほうのサービスで、そのサービスの内部においては相当の知名度を持っていたと思う。というより、なんらかの議論をする人や、いわゆるライフハック系のブログを読む人ならかなりの確率で俺のブログのことを知っているんじゃないかと思う。まあネットの自称なんてあてにならないものだから、俺の文章がそれに価するものであるかどうかは、読む人が判断してくれればいい。
 アルファブロガーとまではいわないが、半分はそのへんに足を突っ込みつつあったのは確かだ。あと1年も似たようなペースで進めていけば、なんらかの書籍化の話も舞い込んだかもしれない。しかし、そうした状態を続けてきて、ずっと違和感が拡大しつづけていた。
 俺はなんのために書いてるんだろう、ということだ。
 いい年をしたおっさんが「本当の僕」とか探すのはちょっといただけない。というか、ありていにいって爆笑ものだ。しかし本当にそういうことで悩んでいたのだからしかたない。
 「なんのために」というのは、そのままで「だれのために」ということだと断言してもいい。ネットで文章を公表するようになってから、もう10年以上が経過した。最初は、まぎれもなく自分のために書いていたと思う。自分のためだけに書いたものを公表したら、たまたまだれかが読んでくれた。そして俺が「まったく自分以外のだれの役にも立たない」と思っていたものは、どうやら自分以外の人間を楽しませる可能性があるらしい。そう気づいたことは、自分にとって革命的なことですらあったと思う。
 それをさらに進めて「より積極的に読む人を楽しませよう」と思ったのは、たぶん2年前のことだ。そう思って、ちょっとした努力を重ねてから、瞬く間にアクセスが増えた。少なくとも俺の「人を楽しませる能力」は、数字だけを見れば本物だったといっていい。
 アクセスが増えるのは楽しい。影響力が増すことは自尊心を満足させてくれる。頭の悪いヒップポップではないが、天下取ったような気分にもなれる。ツイッターでもミクシィでもいい、知名度のある人が降臨したとなればありがたがってくれる人は一定数いる。どこに行っても特別扱いしてもらえる。ネットの世界はフラットだというが、それは機会とシステムにおいてそうなのであり、影響力というものは金以上の力を持つ。
 もちろんそこには裏があるわけで、どこでなにをやってもかならず注目される。些細な言動のひとつひとつが取り上げられ、批判され、あるいは評価される。一定以上の反応の大きさというものは、それが肯定的なものであれ、否定的なものであれ、こちらの真意から離れているという点では似たようなものだ。そりゃ叩かれるよりは肯定されたほうが気は楽だが、それが本来こちらが意図していた文脈とかけ離れたものとして賞賛された場合に、人が感じる違和感はなかなかのものだ。
 その状況でブログを書きつづけ、俺はある日気づいた。自分は文章がうまくなっている。悪い意味で。ブログでどうやってアクセスを伸ばすか、読まれるためにはどうしたらいいか、なんていう文章はネットの世界には腐るほどある。実際俺も書いたような気がするんだが、これは実は内容の問題ではない。まったく箸にも棒にもかからないような内容ではどうしようもないが、自分の意見なんて一般論程度でかまわないのだ。それはおそらく、受験の小論文の書きかたで指導されるものとよく似ている。発想において奇抜すぎるもの、だれも辿りつけないほど深くまで穿たれた視点は、むしろ多くの人には読まれない。そうした意味では俺程度の知識の浅さは「ちょうどよかった」のだといえる。あとは構成とレトリックの問題だ。捻るのは「ほんの少し」でいい。そしてそれを「多くの人が欲している意見」に沿って展開する。その展開自体は文章力の問題なのだが、これは読まれるエントリとそうでないものを注意深く自分で見守れば「どういう展開がベストなのか」というのは自ずと体感される。その体感を得てしまえばしめたもので、あとはネタさえあればだいたいのエントリは伸びる。その典型例として俺はひとつのブログを知っているが、ここで名前を出すことはしない。
 俺は、それでもよかった。そういう方法論に則って書かれた内容でも、だれかを楽しませる可能性はある。より多くの人に届くように、より広い範囲に。書いている以上読まれたいというのは、願望というよりはもう本能みたいなものだ。そもそも書く人は、その内容がいかに「自分のためだけ」に存在していたにせよ、かならずや「読まれたい」のだ。なぜならば、それは一度出力されたからだ。出力された動機は、その内容を自分ひとりで抱えていることができなかったからだ。俺は文章書きの本能に従って、読まれようとした。努力というほどの努力をせずそれが可能だったのは、それが自分の資質だったのだろう。
 しかし、あるとき気づいてしまった。だれかって、だれだ、ということに。多くの人に奉仕するということは、必然的にそこに自分のいるスペースがなくなるということだ。たとえば俺個人が殺人を許容していたにせよ、それは多くの人にとっては許容できないものだ。このときに殺人を肯定する思想を多くの人に読ませるためには、煽りに近い手法を選ぶしかなくなる。もし真摯にその思想を追って文章を書いたときに、それは多くの人にとって理解できないものとなる。
 このとき俺は、自分のブログが「そのへんによくある人気ブログ」になってしまったことを知った。それを書くのは俺でなくてもかまわない。なるほど月間のPVは30万くらいはある。文章だけでここまで増やしたのは大したものだ。だが、だからなんだというのだ? 常に「大衆」とやらに準じた存在に気をつかって、ウケそうなエントリを書く。そんなことを繰り返しているうちになにが起こった? 自分のブログには一種の公共性が必要だと考えるようになった。完全な自縄自縛だ。俺が文章を書く本来の光景はなんだったのか。それは深夜、ひとりでいる部屋のなかで、だれが読むともわからない文章をただ自分のためだけにキーボードに叩きつけているような光景だ。それをしているとき、俺はたとえようもなく充実していたのではなかったか。はてなブックマークを眺めていてよさそうな題材を探して、それをネタにするようなことではなかったのではないか。


 いろいろ考えた。その結果、一度すべてを捨ててみようと思った。過去にも類似のことは何度かやった。しかしそのたびに結局は元に戻った。「完全に」切り捨てることはしていなかったのだと思う。ハンドルまで変えたのはたぶん今回が初めてだ。
 だれに向けて書こう。
 かつてそうしていたように、深夜にPCの前で、特に行くあてもなく、やることもなく、だらだらとネットを回っている「あなた」だろう。しかし俺がこれから書いていくだろう文章はあなたの「ため」に存在するのではない。俺が書きたいことを書きたいように書いたそれが、ひょっとしたら「あなた」にとっては娯楽になりうるかもしれない。その「ひょっとして」のために俺は書こうと思う。どのみち筆を折るという選択肢は俺にはない。書くことは俺にとって病のひとつだ。それを欠かしては自分が成立しないような、根本的な要件のひとつだ。
 そうだ。深夜の「あなた」が、この文章を読んでくれれば、俺はそれでいい。



<まえの   にっきいちらん   つぎの>    ★じこしょうかい    ★けいじばん