VITA HOMOSEXUALIS
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2016年07月25日(月) 少年の日の回想(1)

 突然思い出したことである。

 18歳で郷里を出てから最初の夏、東京から鈍行を乗り継いで帰省した。3ヶ月ぶりに見る故郷は昔と同じようでもあり、何かが変わっているようでもあった。

 私の郷里は海のそばである。海水浴場もあった。私は一人でぶらっと海水浴に出かけた。

 白い砂がまぶしく、海に入ったり出たりしているうちに背中がひりひりと痛くなってきた。

 そこにT君が来た。T君とは高校の同じクラスだったが、特に仲が良いというわけでもなく、あまり話をしたことはなかった。高校生にしては珍しく坊主頭をしていて、小柄で目鼻立ちのくっきりした可愛い子だった。彼のお姉さんは生徒会長を務めたりしてなかなか活発で能弁な人であったが、弟のT君は地味で無口な子だった。

 「いまどうしてるの?」という話をし、彼は岡山の専門学校に通っていると言った。彼はほとんどしゃべらなかったので会話は途切れがちになった。「泳ごうか」と私は言った。彼はこっくりとうなずき、それから水に入った。

 水に入ると彼は活発になった。海辺で育った私たちにとって、泳ぐことは歩くことと同じである。速くは泳げないが、5キロでも10キロでも泳げる。彼が先になって沖へ進み、私が後から続いた。彼を追いかける私の手が彼の体に触れると、ぬるっとした感触があった。彼は身をかわし、さらに沖へ泳いだ。私たちは水にもぐり、小さなサザエやウニを手に取って遊んだ。

 しばらく泳いだ後で砂浜に戻った。私たちの体は水滴で光っていた。「鼻水が出てる」と彼は言った。「君も」と私は言った。大きな水たまりが上唇まで届いて光っていた。水にもぐるときには、水圧で海水が鼻腔に入り込んでしまうから、鼻から強く息を出す。塩水で鼻腔が刺激されると、自ずと鼻水が出る。手鼻をかんで水から上がってもなかなか止まらない。私たちは「洟たれ」、「おまえも」と笑いながら追いかけたり、追いかけられたりした。息がはずんだ。

 そのまま砂浜に倒れ込んだ。粗い砂が体中にくっついた。私たちはそこらをごろごろ転がり、体に砂をかけたり、相手に投げたりした。息がはずみ、腕が触れ合い、私たちは抱き合った。彼が勃起しているのがわかった。私も勃起していた。しばらくそうやって抱き合っていた。

 それだけのことであり、それ以上のことがあったわけではない。お互いに目が赤くなった。潮のせいでもあるだろうが、それだけでもない涙だったかも知れない。彼にもそれなりに辛いことがあるのだろうと思った。

 松林にベニヤ板で囲いをし、水道水が出るようにしたシャワーを形だけ浴びて私たちは別れた。すでに日は暮れ始め、カナカナ蝉の鳴き声が響くようになっていた。


2016年07月18日(月) 体長12センチの男の子を思う

 Rは新卒で入社した。目が大きく、少女といっても良いくらい幼い感じの女性であった。

 会社が倒産したのはその1年後であった。

 倒産してから私らは雇用関係を切られたが、かなり残務があり、私らは雀の涙ほどの謝金でそれをこなしていた。その仕事に身が入らなかったRを私は作業室で叱責した。

 「入社して1年、何がどこにあるのかもわからない、そんな状況でハローワークに通いながら必死で仕事を続けているのに」

 彼女の訴える声は涙声になり、大きな目に涙が湧いて、ぽろぽろと落ちた。余った涙は鼻に流れ、鼻水がたらたら流れて出た。私は彼女に謝り、これから仕事をサポートすること、未来を見ることを述べた。私自身に未来がないとき、半分は自分に言い聞かせる述懐でもあった。私は誰もいない作業室で彼女を抱き寄せ、そっとくちづけをした。

 それから数年経った。私はときたま彼女と連絡を取っていたが、あるとき全く音信不通になった。どうしたのか、私は少し強く彼女にメールした。

 彼女からの返事には、茨城県の職場にいること、妊娠したこと、結婚できる相手ではないこと、シングルマザーとして産み育てようかとも考えたが、将来を考えてそれは断念したこと、摘出された胎児は体長12センチの男児で、それを郷里の寺に葬ったことが書かれていた。

 私は愕然としたが、気持ちはわかると思った。倒産を経験したものは不安定な日々を過ごす。見知らぬ職場での仕事が始まる。誰も頼りにならず、話し相手もいない。そんなときに親身な人が現われたら、身を任せるのも無理はない。

 それにしても、と私は思った。あの少女のようなRが妊娠するとは。彼女はいったいどうした態度で男を受け入れたのか。彼女の体はどんなふうに反応したのか。

 私はそれを想像してオナニーした。寒い雪の日。私自身も自室の布団以外にはぬくもりを知らぬ日々であった。

 年が明けた早春、私は犬吠埼で彼女に会った。Rはおとなびていた。私たちは荒い海の見えるレストランで食事をし、仕事のことをいろいろ話した。男の子のことはまったくおくびにも出さなかった。

 私たちは寒い海岸を歩いた。強い風が吹き、コートがばたばたとひるがえった。

 そろそろ帰らなければならないときが来た。

 「君は私とは違ってあの会社に過去と言えるほどのものは持っていない。今が現実だ。これからキャリアを開けばいい」

 私は彼女の肩に手をかけた。

 「私にもいろいろあって」彼女の声はふるえ、大きな目がみるみる涙でいっぱいになった。しかし、それは頬を伝いはしなかった。そのかわり、ふたすじの鼻水がつーっと流れて厚い唇の上に水たまりを作った。

 私はそれをそっと吸った。少ししょっぱい味がした。彼女は肩を震わせた。私は強くキスをした。鼻水がどんどん溜まっていくのが感じられた。私は唇を離し、それを優しく指でぬぐった。

 私は同性愛者だから彼女に性欲は感じなかった。感じる男もいるのだろうと思った。性欲は感じなかったが私のトランクスはガマン汁で濡れていた。

 犬吠埼の海岸にはハマグリの殻がたくさん落ちていた。


2016年07月06日(水) 長野

 長野県は南北に長い県である。

 私がとりあえず就職したのは県南の小さな会社だった。秋に採用面接があり、中央高速を駆ってその地に赴くと、東京はまだ夏の色おいを残していたのに、塩尻を過ぎるとすでに晩秋の景色なのだった。

 採用が決まって赴任したのは年が明けてからだった。まず、20センチの積雪が私を迎えた。「本当は年齢制限を越してるんだが」と総務部に言われつつ、独身寮に入った。独身寮は男性棟と女性棟に別れていたが、入社早々私が聞かされたのはかなり自由な行き来があり、乱脈なセックスも行われているという噂だった。何しろ、冬の間は雪に閉ざされるから、仕事が終わってからスキーに行くか、この独身寮で過ごすかしか、楽しみはないのだった。私はここで、冷蔵庫とうものはモノを凍らせないため、暖めるために入れておくものだということを知った。

 私はここで気ままに過ごした。仕事は前の職場よりは楽だった。そのぶん給料は少なかった。

 休みの前日ともなると車を駆って鄙びた宿場町に出、フィリピンパブでぐでぐでになるまで酔った。不思議なことに、こんな田舎にフィリピンから何人かの女性が働きに来ているのだった。フィリピンの女性は鼻が大きく唇が厚く、女性に興味のない私にも肉感的なことは判った。

 私は大きくて重いラップトップパソコンの走りを持っていた。電話回線にそれをつなぎ、夜はパソコン通信で同性愛の掲示板を見て、何人かの男性とメールをした。その頃は今と違ってSNSなどはなく、メールをする人は長文を書くのが好きだった。画面上に字がポツポツ現われるような遅い通信速度ではあったが、その人々とエッチな話をし、オナニーした。

 部屋は寒く、石油ファンヒーターの風が当たるところだけが暖かい。布団をめくってその風に当てていると布団が良い具合に暖まってくる。そこにもぐり込んでオナニーすると、そのたびに私はガマン汁を出してあたりがベトベトに濡れるのだった。

 風は冷たいというよりは痛かった。通勤には車を利用していたが、独身寮の雪かきをしたり、近くの店まで出かけるときには歩いた。男子棟で雪かきをすると、数分もしないうちに手や顔の感覚がなくなった。雪かきの後は飲み会で、私は若い同僚たちに鼻水が出ていると笑われた。しかし、そういう彼らの鼻の下も鼻水で光ってい、頬は赤く染まっているのだった。私は青年が鼻水を光らせているのを見ると感じてしまい、部屋に戻ってから必ずオナニーした。

 私はまた、暖かい寝床の中でオシッコをした。体の上にも下にも厚い毛布を敷いていた。その中に下着のままでもぐり込み、懐中電灯でペニスを照らし、少しずつオシッコを漏らした。性感が高まってくると衝動的な気分になり、思い切って毛布を濡らした。そういうときは下着も熱くなるほど濡れていた。濡れたパンツを脱いで匂いを嗅ぐ。そうするとますます乱暴な気分になり、湿ったペニスの先からオシッコの滴を出し、毛布を濡らす。下着だけはまめに洗濯したが、毛布はそのままだった。

 そのように私の生活はすっかり青年の頃に戻っていた。もっとも、体はすでに中年だった。

 やがて農協からリンゴの消毒日が知らされてきた。それが来ると春も本番になるのだった。


2016年07月04日(月) ゲイ

 私が再び同性との束の間の愉悦を味わうようになった頃は、往年の「ホモ」という呼称は影をひそめ、「ゲイ」という明るいがどこか軽い響きが私らのことを指すようになっていた。

 その頃の大きな社会情勢の変化と言えば、HIVの治療薬が開発されたことだった。かつてはHIVに感染すれば免疫力の低下は否み難く、いずれはAIDSと呼ばれる状態になって日和見感染から命の終焉を迎えることが宿命のように思われていた。しかし1996年から、HAARTと呼ばれる多剤併用療法が行われるようになり、HIV感染は適切に治療すれば恐ろしい病気ではなくなった。

 アナルセックスを行わない私は、行う人よりもHIVに感染する危険性は低いと思っていた。しかし、HIVはレトロウィルスであるため、ごくわずかでも感染すれば影響は全身に拡がる。私は時に応じてHIV検査を受けるようになった。

 そのころ私はとあるオーケストラのバイオリン奏者とつきあっていた。

 この人とは掲示板で知りあい、何度かメールのやりとりをし、音楽やワインの好みが(私の知らないものが多かったが)高尚だと思った。初めて出会ったのは新宿であった。そのとき彼はメールで「それなりの食事とワインを楽しむからには、それなりのお金がかかりますが良いですか?」と聞いてきた。相変わらず動物実験の現場で糞尿にまみれて働いていた私のことを相当貧乏だと思ったようだった。実のところ私のふところは苦しかったが見栄を張って「大丈夫です」と答えた。

 新宿の裏町のどこだかわからない路地を歩き、看板も何も出していない小さなビストロに私たちはやってきた。店主と彼は顔なじみらしく、こんなものが食べたい、あんなものが飲みたいといろいろ注文をつけた。店主の出してきたワインは彼の口に合ったらしかった。

 彼は演奏旅行で世界中を歩いており、私の知らないヨーロッパの田舎町のことをいろいろ話した。彼の口から出るのは世界的な指揮者やオーケストラの悪口だった。

 私はもう、話と食事とワインだけで頭がいっぱいになったので、これで別れても良いと思っていた。しかし彼は「これでさよならではちょっと寂しい」と言った。それで、二人で新宿のラブホテルに行くことにした。そのラブホテルの前では、酔った男女がお互いにしなだれかかって入るか入らないか言いあっており、そのうち女は男に肩を預けるような形で店内に入っていった。これからセックスをするこの男女の振る舞いを私は醜いと思った。

 ラブホテルの部屋に入ると私は彼を後ろから抱き、ペニスに手を当ててみた。それはすでにガマン汁でヌルヌルと濡れていた。「ああ、もう・・・」と私は声を出した。彼がこれから起こることへの期待で興奮しているのが何か嬉しかった。

 私たちは一人ずつ軽くシャワーを浴びてベッドに入った。彼は少し太めで、私の上になると重かった。彼は始終興奮して、ペニスの先はガマン汁でベトベトに濡れていた。私たちはからみあい、お互いのペニスをしゃぶりあい、動物のようなうめき声をあげて転がりあった。

 普段は燕尾服を着て舞台の上に立っている演奏家なのだろうが、性的に興奮してしまうと見境のない青年と変わりない。当たり前ではあるが、その落差が面白いと思った。

 彼とは3年にわたってつきあった。その間に何回か新宿で出会ってセックスした。彼は演奏会のチケットを私のために取っておいてくれ、私はあまりなじみのないクラシックの音楽会に出かけた。

 しかし、彼はあるとき突然「好きな人ができた。可愛がってくれる。これからあなたと付き合うのは構わないがセックスは抜きだ」と通告してきた。それで私たちは縁が切れた。

 こういう突然の別れは私にある種の喪失感をもたらしたが、若いときのことを思うと、それが男同士の出会いの特徴なのであった。要するに私たちは男女のように安定して巣を作るような恋愛はできないのだ。常に行きずりの一時的な縁が私たちを結ぶ。それは突然切れることもある。

 そうして私は自分の体がだんだん中年の真っ盛りとなり、若い時のように「おじさま」を引きつけるわけでもないことに気づいた。


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