フタゴロケット
DiaryINDEXwill


2008年10月22日(水) ささくれ

疲れ果てて、やっとベッドにもぐりこんだ所で、
ふと指先のささくれが毛布に引っかかって、
短くキッと痛かったので、
起き上がって電気をつけた。

なんだかすごく大きなささくれだと思ったのに、
見ると、
左の薬指の爪の根っこが少し捲れているだけだった。

すごく小さなささくれなのに、
完全に乾いてしまっていたので引っかかりやすくなっていたのだ。

ベッドで毛布に包まれる、
私の貴重な安らぎを妨害されてしまったような忌々しさを感じて、
ささくれを指から引っぺがしてしまおうとするのだけれど、
私は爪を長くしないので、
どうにも掴めなくて、
指先から剥がすことが出来ない。

ささくれの根元を切り落としてしまわないように、
爪きりで甘く挟んで引っこ抜くことにした。
ただ根元から切ってしまうと、
その切り口が乾いて、
また毛布に引っかかってしまう経験を何度もしたことがあるからだ。


うまい具合にささくれを挟み、
そっと皮膚を傷め過ぎないように、指先の方向に引っ張る。

皮が剥がされている間、
鋭い痛みが指先を支配する。

ピッと剥がれた瞬間、
意外にも深い場所の皮まで剥がしてしまったらしく、
薬指の爪の根元に、
赤く潤んで美しい血の玉が出来た。

ふるふると切なげに震えながら、
その玉は大きさを増してゆく。

ころんと指先を流れ落ちた時、
その様子をずっと静かに見守っていた彼が、
「あぁ」と小さく叫び、素早く私の指先を口に含んだ。


「キレイだったのにもったいなかったね」
彼はそう言って毛布にもぐりこみ、
あっと言う間に寝息を立て始めた。


もう引っかかるところがない。
血でベッドを汚してしまわないように、
少しきつめに絆創膏を巻いて、毛布にもぐりこんだ。

彼が少し、動いた気がした。

もう引っかかるところなんてない。







2008年10月20日(月) アボガドと向日葵付随する悲しい音

たまたま入った書店で私は果物の名前の作家の本が気になり買った。

そして隣接された(便利な事だ)パン屋兼カフェに入り、カフェオレを注文して恋の始まりのような甘さに調節してストローを舐めた。 

ウェイトレスは暇なのか、店内の所々に置いてある観葉植物を見回している。彼女は純白のとても長い帽子を被っていて、そしてそれがとても似合っていた。

そういえば私は以前、パン屋さんで働いてみたかった。
私の弟はパン屋さんで働いていた。

「良君はあの背の高い帽子をかぶるの?」

と私が聞いたら

「かぶらないよ」

とはにかんで言った。

昔、私がとても好きだった人が弟を気に入っていて、良く遊びに連れて行ってくれた。彼は歌がとても上手で、背がすらっと高くて、唇がセクシーな人だった。他にも沢山形容詞があるのだけれど、何となく、時間が彼の影を風化させてしまって、悲しいけれど私は上手に思いだせない。

彼はピザ屋さんでバイトをしていた。
林檎ちゃんの歌を初めて知人の車で聴いたときに、ピザ屋さんの彼氏の事を歌っていて、やっぱりピザ屋って何だか色っぽいよなとか、何だか適当な事を思ったりした。



店内は閑散としていて 私ともう一組熟年のカップルが居るだけだった。大きくなったパキラが緑の葉を茂らせて近くに居る、ウェイトレスのお尻を触ろうとしているのを私は何となく見つめた。

本を開く。

短編集で 私はゆっくりと2,3の物語を読み 珈琲を飲んだ。そしてまた其れを繰り返した。物語に私は時々同調し、反論し、陶酔し、些か反芻に疲れて、瀟洒な白のテーブルに裏返しに置いた。

そして珈琲を一口、口にした瞬間私は突如、ピザ屋の元彼の事を鮮明に思い出して震えた。リアルに彼の香りがして私は周囲を伺い挙動不審になった。丁寧なSEXや癖のある髪や真っ赤なギターを得意そうに弾く仕草が流星のように頭の中に降ってきた。息苦しくなって、ストールを取り、珈琲を一気に飲み干した。

彼はいつも珈琲を飲んでいた。

「お前が入れた珈琲じゃなきゃ駄目だ」

彼はそう言ってくれた。
私は毎日一生懸命入れた。
珈琲を入れるという行為に対して、色々な書物を読み漁り、豆の知識を吸収し、温度もきちんと管理し、高いサイフォンを買い、死力を尽くした。

そして彼の満足そうな顔を見るたびに私は満たされた。

彼は食べ物を美味しそうに見せる特技を持っていて、ある時誰かから、アボガドを貰ってきて食べていた。 帰路に着きアパートの戸を開けると、彼が余りにも美味しそうにそれを食べているものだから、「少し頂戴」と云って美味しそうなイメージを頭の中で風船のように膨らませて口にした途端、甘美なイメージはガラガラ崩れ去って、瓦礫の心にヒューヒュー隙間風が吹き荒れた。そして尚且つ少し戻しそうになった。

「ねぇ・・・?」
「ん?」

彼はどうしたのだ?というように私を見つめて不思議そうな顔をした。

「此れ・・・美味しいかな?」
「いいや うまくねぇよ」
「・・・そうか」

何となく奇妙な気持ちながら私は安堵して、食べかけのアボガドをキッチンに置いた。

私は彼が腕をまくって洗物をするときに見える、昆虫の刺青が好きだった。もう兎に角何でも好きだったのだけれど、所々で一気に(好き)という感情がレッドゾーンに入るのだ。そのまま押し倒してやろうかとも思うが、ぎりぎりのところで自制する。羞恥は大事だ。

そうそう、彼はそして不思議な力持っていた。

彼は言った事を現実にした。

どうしようも無い嘘を吐く事もあったし、無意味なユーモアを特に好んだけれど、要所で彼が云った事は、ゲンジツになった。其れはタイミングが良さかも知れないし、たまたま事が起こっただけなのかもしれないけれど、私は何となく彼の力のようなものを密かに信じていた。

その日、アタシが運転する車で皆と出かけ、目的地に辿り着くまでの行程は殆ど山道で雨が降っていた。私は彼の濃紺のアーデン使用の古いジャガーのハンドルを握って運転していた。何で私が運転していたのか忘れてしまったけれど、兎に角運転していたのだ。彼は助手席に座り前を走行する車を見ていた。前を走る知人の車は、雨だし元来、飛ばす人種でも無い。

彼が唐突に言った。

「あいつ事故るよ」

こんな事を言ったらH君に怒られるかも知れないけれど実際H君は事故を起こした。彼自慢の丸目4灯の20年前のBMWは見事に崖から落ちて廃車になった。奇跡的に誰も怪我は無かったけれど、私は事故ったことより彼の一言が何だか頭の奥の方で鈍く重い音で響いていた。
そして微妙な電波の中、友達に助けを呼んだら「直ぐ行く」と言って、向ってくれた友達は途中でオーバーヒートを起こして、結局ジャガーのトランクまで使い、大量の人をすし詰めに乗せて私達は山を降りた。

彼はある種のオーラに包まれていて、時々近寄りがたく、でも私はそういう所にも惹かれたかもしれない。

優しいし、良く笑うし、ハンサムだったけれど、時々どうしようも無く悲しい顔や私が絶対に入っていけないような寂しそうな顔を見せた。私はそんな顔を見る度に泣きそうになるのを堪えてじっと黙って、静かに音楽を聴いた。そんな時は時間が無駄に、永遠と続くようで、とても苦しかった。

彼がある日突然、ふわふわとタンポポが新しい種を春に運ぶように言った。

「俺達別れるぜ きっと」

私は暫く何も出来ずに 何もしなかった。

私は彼が居なくなった事よりひょっとしたらその言葉のほうが苦しかったかもしれない。分からない。両方。

そして彼は荷物を纏めて家を出た。元々彼は私と違って荷物が少ないから そんなに大した作業じゃなくて、簡単にパッキングを済ませて、簡易的な抱擁を残して、私の前から去った。追おうか、追うまいか、迷っている時点で負けだ。何も考えないで追えば良かったのだ。

彼はきっと自分の生き方を変えないだろうし、変わらないだろう。私は予想以上に疲れていて、彼の事が好きだったのだろう。

彼はルーマニアで狂ったよふに咲く向日葵に恋をした。



珈琲はすっかり冷え切ってしまって ウィンドウの外の街行く人は時々寒そうに襟を立て女の子達は俯いて 男の子は斜め45度に空を見上げていた。
何だかそんな事を考えていたら携帯が鳴った。

何処からか時期外れの向日葵の絵が送られてきた。


2008年10月14日(火) 美人とブス

ガチャっと部屋の玄関を開けてアパートに入ると知らない女の子が体育座りで僕の居間に居た。

僕の居間。

僕は間違ったかなと思った。思う筈は無いのだけれど、思わざる状況が目の前に繰り広げられていたので僕は自分の置かれている立場に非常に懐疑的になった。

僕は部屋を一度出て、廊下に出てぐるりと周囲を一度見渡した。
何時もの・・・僕が正しいのであればいつもの光景が此処にあった。夏に向けての空が上を見ると広がっていて、向こうに少しだけ涙を落としそうな雲が見えた。

僕はもう一度、錯覚だったのかも知れないなと思って部屋に入りなおした。
そして其処に同じ姿勢で先程と同じ状況で女の子が座っていた。

僕は玄関に立ったまま、女の子を見た。彼女は少しだけ俯いて、折った膝を丁寧に華奢な腕で抱いていた。何かが可笑しいとは感じていたけれど、余りにも物事が飛躍しすぎていて僕にはうまく判別が付けられなかった。

肩下くらいまで伸びた少し茶色い髪、細い指、華奢な腕、ちょっと寂しそうなおっぱい、僕と同じ歳位(恐らく)この角度から認識できるのは其れくらいだった。僕は頭をフル回転させた。

(誰だ?)

でも自分に問いかけるというのは大体において、自分の記憶の欠落ではなく、経験をしていない事だ。

僕は暫く考えて、其れから考えた振りをして口を開いた。

「誰?」

中々緊張するフレーズだ。
自分の家で知らない人間を見て、誰?と問いかけるのはナンセンスな事くらい僕だって分かっている。世間ではどの位の頻度でこういう事があるのだろうな。例えば此れが老人とかで、認知症にかかって勝手に部屋に入ってお茶を啜ってしまったとかだったらまだ自分の中で処理をすることが出来る。自分のキャパシティにおける想定できる範囲内の出来事だからだ。裸の女でもいいだろう?まだ分かる。裸の女が僕の部屋に入って、SEXしたくてうずうずして部屋に入って素っ裸になり、僕を待っていた。まぁ・・・そうそう在り得る事では無いし、怖いけれど。でもそれならまだ目的を感じられるから

「SEXしたいのかな?」

等声をかけられるだろう。

でも今のこの状況は意図が全く分からないし、彼女は至って普遍的で、僕の部屋の風景に見事なくらい同化をしていた。

「こんにちは」

「はい・・・?」

僕はこう返すのが精一杯だった。
いや・・・どうだろう。挨拶は大事だ。挨拶は大事だけれど、あくまでも状況の把握能力というのは一般社会で生きていく上で非常に重要な筈だ。筈だった。筈なのに。

「・・・こんにちは」

僕はそこで少し噴出してしまった。僕は一体何をやっているのだろう。

僕は携帯を持って外に出て、恋人に電話をした。生憎彼女は捕まらなかった。小室に電話をした。数秒して寝起きの声で「ふぁい・・・」と反応が返ってきた。

「あのさ・・・」
「はいどうしました?」
「あのさ・・・知らない女が家に居るんだ」
「追い出せばいいでしょう?」

僕は彼が本気でそう答えているのか、僕の問答を冗談だと思っているのか、僕には分からなかった。僕は少しだけむっとした。

「いや、本当に知らねぇ・・・ねぇちゃんが家に居るんだ」
「どっかで引っ掛けたとかじゃなくて?」
「行きずりの女とSEXしたりしない」
「そういえばそうですね。で?」

(で?)

そうだ。で僕は結局彼に電話したところでどうしたいのだろう?僕はますます混乱した。相変わらずこいつの寝起きは本当に冷たいなと僕は思いながら、叩き切って智宏に電話をした。そして彼も寝起きだった。

僕は彼が電話に出る前にもう一度玄関を開けて部屋を覗いてみた。

やっぱり其処に彼女は居た。
当たり前のように、そして彼女は煙草を吸っていた。顔を見ると中々の美人だった。

「おう」
「あのさ・・・知らない女が家に居て煙草吸ってんだ」
「うん」
「うん・・・?うんじゃないよ。知らない女が家に居て、俺の部屋の居間で風景と同化して、木漏れ日を浴びる観葉植物のように其処に存在して、ニコチンとタールを俺の部屋で自然に、吐き出してるんだ。分かる?」
「うん。怖いな」
「怖いさ。どうすりゃいいんだ?」
「そうか、そりゃ話し合いをするべきだ。話しが終わったら連絡くれ。じゃあ」

電話は一方的に切られて、プー、プーという無機質な男が携帯電話のお腹辺りから毀れてきた。

ハッシーに電話するか?いや酷くなるな。
キチエイに電話するか?いや誤作動だ。
タカヨシに・・・いや無意味だ。

僕は頭を抱えてポケットからマイルドセブンを出して火をつけた。
青空の下で吸う煙草はちょっと気持ちが良かったが、僕の部屋に何故入れないのか、とても単純で、そして氷解しない疑問が脳裏を過ぎった。

「何を話せっていうのだ?」

僕は1人で呟いて、煙草を投げ捨てて、玄関を開けた。
玄関を開けると、彼女が其処に立っていた。

「ぎゃあああああああああああああああああああああ」

僕は叫んだ。

逆に女の子が驚いて、少し眼を丸くして、後ずさりした。
僕が心拍数を大分高速にして、彼女をおそるおそる見ると、彼女はにこっと微笑んだ。

何だ・・・その素敵な笑みは?

「入って下さい」

そういうと彼女は元居た位置に戻った。

僕は靴を脱いで、部屋に上がり、まず家の中を見渡した。汚くも無かったが綺麗に整頓されているわけでも無かった。

僕は彼女から離れ、キッチンのシンクの前に僕は自分のポジションを見つけた。
彼女は僕の姿を大きな瞳で追い、僕が流しの前まで来るとまた優しく微笑んだ。

「あ、私も此れ好きなのです」

と言って、マイルスのビッチーズブリューのCDケースを指差した。

「コリアとザヴィヌルのピアノの絡みが気持ちいい」

彼女は続けて言った。

OK。
分かった。僕も其れは好きだ。
一般的な会話の観点から言っても、内容はさほど悪くない。寧ろ、普段なら僕が喜びそうな内容だ。

でも・・・だ。

物事の現実味を欠いた飛躍はリスクを伴う。
大きなリスク。

「えぇ・・・」

僕は答えた。其れしか喉から出てこなかった。

「今、講義が終わったのですか?」
「・・・えぇ」

僕は答えた。
彼女はぎこちない返答をする僕を見てもう一度柔らかく微笑んだ。
その笑顔は一体なんだ。
完全に安心しきってしまうような笑顔の向こう側には一体何が潜んでいるんだ?

「あの・・・」
「はい?」

彼女は真顔に戻って僕を見た。整った顔立ちで女優の様な顔をしていた。

「此処で何をしているのですか・・・?」

一番聞きたい事を聞くのは、一番勇気のいることだ。
試してみるといい。気になった彼や、彼女に

「ねぇ?僕の事どう思ってる?」
「ねぇ?私の事どう思ってる?」

胆力を要する。

「貴方を待っていました」

彼女は平然と僕に言った。

僕を?

君が僕を待つ理由が何処にあるのだ。

大体、彼女が今部屋に帰ってきたら豚を殺ったような騒ぎになる。

「待たれるのは嫌いですか?」
「嫌い・・・嫌いではないです。待たせる事しか出来ない人間ですから・・・いや、何か違う・・・決定的に何か違う」

僕は軽い貧血のような症状を体が示してきた。
部屋が異様に蒸し暑く感じた。変な汗が体中から噴出してくるみたいな感覚が僕を襲う。こんな話が村上春樹の小説の中に沢山出てきた気がしたけれど、その中のどれとも全くリンクしなかった。現実を小説に持っていく事は出来るが、空想を現実に持ってくる事は難しい。

「違うと言い切れますか?」

おくびも無く彼女は僕に問うた。
抽象的な問いに答えるほど僕の頭脳は今、うまく機能していない。

「散歩しませんか?」

僕は決定的に状況を変える手段は、環境を変えるしか無いと漠然と思った。
警察にも連絡しようと思ったけれど、一体此れをどんな風に説明したらいいのだろう?

「いいですよ。天気も良いから」

(テンキモヨイカラ)

天気なんて関係無い。

やれやれ・・・僕は彼女を外に連れ出して並んで歩いた。丁度外に出ると、友人の彼女が僕を見つけ

「あ!who浮気だ!」

と言った。
僕は何も言い返す気力も無くて力無く笑った。返ってきた言葉は

「最低だな・・・」

だった。

OK。僕も今最悪の気分だ。

僕と彼女は6月の初夏の晴れた日の夕暮れ前を長い影を作りながら並んで歩いた。思考は滞り、世界に漂流する全ての疑問が此処に、今此処に集約されたみたいな感じだった。僕が半歩先を歩き、彼女がそれに寄り添って付いてきた。

「現実感が無いですか?」

気づくと小さな公園に出た。桜はすっかり葉桜に変わり、公園の地面も夏の訪れを前に雑草が勢い良く伸び、時々風に撫でられてゆらゆらしていた。僕と彼女は並んで汚れたコンクリートのベンチに座った。確かにデート日和だ。

「貴方は誰ですか?」

もう一度云おう。
物事の確信を突くのは非常に・・・勇気の居ることだ

「私を誰だと思いますか?」

間がいいのか悪いのか、携帯電話の無機質な音が鳴った。
恋人からだった。

僕は顔所の凛とした横顔を見た。
放っておく以外に選択肢は無かった。

「分からないから聞いているのですよ・・・」

自分の発する言葉の配列やイントネーションまで変な事になってきた。

向こう砂場で母親二人と、子供二人がタッグを組み、世間話と砂遊びに精を出していた。幼児退行したい気分だ。

「私は私です。そして貴方は貴方です」

緩慢と、時間の流れが何かとても観念的になり、秒や分や時は光年に消えた。ただ此処には降り注ぐ太陽の光があり、木漏れ日があり、美しい青い緑が広がり、子供の笑い声がし、閑静な住宅街の一角で僕と彼女が並んで座っていた。そして、それだけの事なのに、世界は凄まじい程の意味や概念をぐちゃぐちゃに混ぜて、今此処に、僕に浴びせかけていた。

「そうですね・・・そうですけれど、僕は自分の家に帰った。ジブンノイエです。分かりますか?貴方にも家があるように僕にも自分の家・・・厳密に云えば賃貸の貸し部屋ですが・・・あります。自分のという事は其れを所有しているという事です、契約書を見せましょうか?そしてそのボ・ク・ノ・イ・エ・に君が黙って上がりこんで、知らない君が黙って上がりこんで、体育座りをして、時々煙草を吸い、僕の部屋の一部分で、僕の所有する景色に同化していた。少なからず・・・大いに問題だと思わないですか・・・?」

僕はなるべく言葉を選んで、自分を納得させられるように、内容を紡いだ。精巧なデジタル製品ではなく、なるべくアナログで自分に一番近い場所で、自分で言葉を発する必要が生じた。総じて物事の飛躍は自分の存在を曖昧にする。背伸びをすれば自分を見失う。

僕が言い終えると、彼女は深いマリアナ海溝のような深い色の目で僕を真っ直ぐ見た。

「契約書?」

僕はため息を吐いた。
あぁこの人は、本当は白痴かも知れない。だったら悪い事をした。そう思ったら幾分暗雲の心に柔らかな陽光が差した。

「貴方はあのアパートメントの一室と独占契約を結んでいて、借り物でも貴方の所有している物件だということくらい私は分かります」
「では何故、貴方はあそこに居たのですか?居るはずの無い、居て良いはずも無い僕の部屋に」
「ですから先程も申し上げたように、待っていたのです貴方を」
「待つ・・・ 待つ っていうのは待たれる理由があるわけですね?分かりました。居たことはもうこの際どうでもいいです。・・・良くないですが、忘れます。その代わり、僕に分かるように、貴方が僕を待っていた理由を教えて下さい」
「分かりました。理由は二つあります。でも貴方が本当に私を拒絶するのなら、あの時点でどうにでも出来た筈です。私が貴方を攻撃しそうに見えますか?」
「・・・或いは」

そういうと彼女は目の眩むような笑顔を僕に向けた。

「仮にそうだとしても、激高することも出来たし、拒絶する事も十分出来たと思います。でも貴方はそうしなかった。出来なかったのです。そう決定付けられていた。決まっていた事なのです。・・・話が逸れました。理由は二つあります。まず私が貴方に逢いたかった事・・・そして・・・」
「ちょっと待って下さい。それなら道端で僕を捕まえて、僕に勧誘なり、お喋りなりすればいい」
「物事はタイミングです。そうした場合貴方はその時点で拒絶します。そしてそのタイミングで私と貴方がもし出逢っていたら、もうきっと逢えないのです。世界はそういう原理で廻っています。だから貴方の部屋で待つという事が必要だったのです。現実感の無い、強い・・・強く現実離れした状況下で人は、中々抗する事が難しいのです。その非礼はお詫びします。本当にごめんなさい」

(ごめんなさい)

というのはずるい言い方だな。素直なその言い方は物事を、大抵の起こった事を諫めてしまう。そして彼女は正にそういう云い方で僕に詫びた。

僕は彼女の顔を見て、続きを催促した。
受理をしたわけだ。

「ありがとう」

そして彼女は微笑んだ。声のせいもあるな。いい声だ。声というのは一種の魔法をかけられるツールだ。

「・・・二つ目。此れが大事です。貴方はこれから大きな道が分岐します。多分直ぐ訪れると思います。自分でもはっきり分かるでしょう。此れをどっちに進むかで、先行きが・・・執着が分からなくても、大きな分かれ道だということがきっと貴方には理解できる。どっちに進んだから良いとか、悪いとかでは無いのです。でも大きな流れです。そしてその選択は世界を変えます」
「・・・」

僕は黙った。
彼女の言葉は抽象的だけれど妙に真摯で、そして強い説得力を持っていた。そしてこうしろと強要しているわけでは無く、また自分を庇護しているわけでもなさそうだった。

「・・・果たして、そうだとしても、でも、僕は世界を変える力を持っているわけでもないし、そんな大それた事が出来るわけでもない。何処かの馬鹿のように、ナイフを振り回して、人ごみに突っ込むのならまた話は別だけれど、僕は・・・今のところそんな風になる予定も無い。どっちに進むかわからない。人間は選択しか出来ない生き物だから、その都度選択をする。さっき貴方は、そう決められていると言ったけれど、もしそうであるなら、其れも既に決められているのではないですか?」
「だから私が切欠として貴方の前に来ました。少々強引なやり方で」
「切欠・・・少々・・・ほぉ・・・」

感嘆詞が転がった。

「じゃあどちらかだと世界を救い・・・もう一つなら?」
「貴方は死にます」
「・・・ほぉ・・・其れは選んだ瞬間に?」
「時間までは分かりません。でも 死 というのは肉体的な事だけでは無いのです。精神的な死も意味します。貴方の内包しているエネルギーが放出を止めて、ベクトルが変わり全て内側に向きます。貴方は経験上そういう事が分かる得る方だと思います」
「どれを選べばいいのですか?」
「其れも私には分からないのです。先程も貴方が言われたように人間は連続で選択をしてゆく生き物です。勿論、当人が思い描くような正しい選択を全てにおいて取れるわけではありません。正しい・・・というのはやはり良いとか悪いなどでは無いのですが・・・それ以外の力というのが物凄く大きく働き、影響をします。言葉を変えるなら世界はそれで均衡を保っているとも言えます。その他の力とでも言いましょうか?唯、他の方は余りにも其れを軽く見られているのです。選択というのはとても重大な作業です。全てを変える力があり、そして二次災害も起すし、はたまた、隣に居る人を笑顔にすることも両面併せ持っているのです」
「・・・僕にどうしろと?」
「ですから・・・その選択肢が今、これから貴方に訪れます。普通なら私はこうやって人に逢いに来たりしないのです。でも貴方が発するもの、そしてその大きさを考えた時に、自分で選択して逢いに来ました。だからその瞬間を疎かにしないで欲しいのです。疎かに出来る瞬間なんて本当は無いのですけれど、普通の方でしたら、影響はそれ程大きくなくて、歪も日常の一コマと為りえる。ただ貴方は違う。そしてそういった方達は、全ての選択に大きな意味も、影響も周囲に与えるのです。そして貴方の周りもとてもそういう方が多いです」
「僕はきっとそんな大した人間じゃ無いです」

彼女は僕の話を聞いているのかどうか分からなかった。其れくらい、彼女は必死で僕に桜の木の木漏れ日の下で僕に一生懸命伝えた。

「・・・私が伝えられるのは此れだけです。本当にご迷惑をお掛けしました。そして聞いて下すってありがとう。良かった」

彼女は言い終えて本当に安堵した表情を僕の視界に晒した。

「では・・・私は此れで行きます」
「あの?」
「ハイ」

美しい彼女はもう全く興味が無さそうに僕の方を向いた。

「また逢うことがありますか?」

彼女は空を見た。

「多分無いでしょう。無い事を望みます。さようなら」

僕は暫くそのベンチで煙草を何本か吸った。

選択 選択 選択 

此れも選択。あれも選択。そんな事を考えるよりもっと他に考える事があるような気がしたし、気づけばでも其れも選択だった。

全てにおいて。

僕はゆっくり歩いてきた緩い傾斜の坂道を下ってアパートに帰った。

鍵を取り出して差し込み、玄関を開けようとすると、開かなかった。そうか鍵を開けて行ったのだな。

もう一度廻して玄関を開けると、今度は別の女の子が居た。そして其れは又僕の知らない女の子だった。女の子はよく肥えて、化粧を顔に一センチくらいの厚さで施していた。そして僕が楽しみで取っておいた、焼きプリンの三つ全て食べて空のなったプラスチックのケースを床に放り出して居た。僕の姿を見ると

「おそーい。ちょー待ったし!ちょ!どういう事?待たせるとか無くない?」

えらい強気で人のプリンを勝手に食っている女の子は僕にそう言い放った。

「一度だけ聞くけど君は誰?」

僕はそっと静かに聞いた。

「はぁ?意味分かんないけど?何か此処来たら金もらってSEX出来るっていうから来ただけだし、しかも、顔とかあんま好みじゃ無いし・・・幾らくれんの?」

選択ね。

僕は靴のまま部屋に上がり、女の子のはち切れそうな二の腕を掴んで玄関まで引きずって行き(大層大変な作業だったけれど)僕は外に放り投げて後ろから蹴りを入れた。

「ちょ!マジ痛ぇし!・・・ざけないでよ!!」
「家帰って糞して寝ろ。其れも選択だ」



「洗濯してきたし!!」

彼女ががなった。

玄関のドアを勢い良く閉めて久しぶりに僕に静寂が訪れた。

僕は携帯を取り出して電話をかけた。

「はいはーい」

甘い声の相方が出た。

「くるみ。腕枕。」


2008年10月10日(金) 音科

眠ったまま溺れている様な夢で、
ベッドから跳ね上がるようにして目覚めた。

まだ水中にいるような嫌な気分のまま出かける支度をしていると、
いつもは、糸の張っていない機織のように空回りな早朝の天気予報が、
どこかの啓蒙セミナーの指導者のように、
大声で、押し付けがましく傘を持つことを勧める。

駅までの線路沿いは地獄だった。
iPodはすでに、音楽を楽しむためのものでは無くなっていたし、
とにかく電車の通過時には、
私は両手で力いっぱい耳を塞ぎ、
目を固く閉じて通り過ぎるのを待った。

しゃがみこんで動けなくなった私に、
同じく駅に向かっていたらしい女性が声をかけてくれた。

「大丈夫ですか」

幼さの残る顔立ちに、
優しい色のストールを巻いた、
ほっこりとあたたかそうな女性だったけれど、
その声はひどく低く掠れていた。

「あぁ、ごめんなさい。なんだか今日は調子が悪くて」

彼女はそっと私の背中に手を沿え、歩けそうか聞いた。

可哀想になるくらい、ひどい声だ。

「大丈夫、ありがとうございます」

彼女が歩幅をあわせてくれて、私たちは一緒に歩いた。

「風邪ですか」
彼女が聞いた。

「いえ、なんだか変なんです。音が頭に響いて、
 それが苦痛で不快で仕方ない。
 実は自分の声さえも」

「大変」
声の大きさに驚いた。

「あなた、もしかして私の声なんて、
 地獄から響いてるみたいに聞こえない。
 あぁ、やっぱり。そうだわ、それは病気なの」

「病気」

「今すぐお医者様に」

遂に精神科か。と思ったところ、彼女は言った。

「音科よ」


初めて聞いた「オトカ」と言う言葉に、戸惑った。

彼女は親切に、
以前掛かっていたという「音科」の病院を紹介してくれ、
それは、以外にも近かったけれど、
とにかく「音科」自体、本当にあるのかと聞いてみた。

「あるわ。実は以前、私もその病気にかかったことがあって」



もっとその病気の症状について詳しく聞きたかったのだけれど、
声は耳に痛いし、彼女は遅刻しそうだと言うので、
早速「音科」に行ってみることにした。


彼女の言うように、
彼女が以前患っていた病気と同じなら、心配することは無い。
「オトカ」で処方された薬を飲むなり、通院するなりすれば、
また普通の生活が送れるはずだ。
その証拠に、彼女が何か一日中不快な音を聞いているような可哀想な人には見えなかった。


私は、少し安心して、
でも、やはり耳を塞ぎながら「音科」へ向かった。




2008年10月09日(木) 居ない居ない

居ない居ない。

鏡を覗いて、居るかなと思ったら今日も不在だったので諦めて私はそのまま家を出た。

居ても居なくても大して変らないのかも知れないし、大層変るのかも知れない。

解らない。

暫く私は鏡の中に私が居るなんて事は無いからだ。

「何時から居なかったかな?」と私は少しだけ広葉樹が色付いてきた街路を歩きながら逡巡した。

真っ青なコートを買った。
とても素敵なコート。

海色のコートなんて滅多に売ってない。

大切なのはソノトキノ私の海色の気分をその服が持っているかどうかで、そんな確立は東京中歩いたって神戸を隈なく散策したって天文学数値で儚く成就しない。

たまたま私はその日代官山に野暮用で出かけて行き、駅から吐き出されて直ぐ、鉛色の空から雨を落とされた。

「傘、傘」

と空言のように呟きながら目に入った雑貨屋で黄色と桃色の折りたたみの傘を買った。
広げるとそうでも無くて、少々残念だった。暫くすると「ビィーン」と音を出し、傘の骨が骨折して、哀れにもぶらぶら銀色の金属が私の頬に冷たさを伴って張り付いた。雨とは違った冷気だった。私はクレームを云うのも億劫になり、屹立する灰色の牢屋のようなマンションの前のガチャピン色のゴミ箱に其れを突っ込んで濡れながらそのまま歩いた。歩いた瞬間、瀟洒な白と黒がバランス良く配色された店内の奥で海色のコートが私を見ていた。

私は少々用心しながら、獲物に近づき、照明の下で色を見て、少し暗がりでもう一度そのコートを見た。文句の付けようが無い。

其れは今日の私の気分にぴたりと当てはまった。正に天文学的な数値の上に成り立った奇跡的な事象だ。私は値段も見ずに其れをレジまで持って行き、158000円を若い男性の店員に突きつけられた。そして支払いの事も考えず私は大きな紙袋を背負い、また濡れながら歩いた。

暫く歩き、美容室の脇の階段を通り抜け更に西に歩くと、住宅街の一角に二階建ての家に少し手を加えたカフェがある。尤も外見は、看板も何も出てなくて、寧ろ苗字の表札が掛けられていたりするので、一見してカフェでも何でも無く民家である。違うのは入り口にどかどかと入り込んでも、聞こえるのは「何ですか?」という怒声ではなくて、品のある声で「いらっしゃいませ」という暖かい出迎えの言葉だ。私は此処を殆ど誰にも教えない。私の家を親しい友人にも教えないように。

私は軽く会釈をして入り、奥行きの在る店内の一番奥の席に座る。理由があって其処は高台でその奥のテーブルからは街が見え、鉄道が見える。時間が緩慢になり、電車で寝ることの無い私は其処でなら、居眠りをする事が出来、長期戦の時は店主が毛布を掛けてくれる。
私だけなら嫌だなと思っていたら先日、両腕にカラフルな猫の刺青を施術した店主が村上春樹氏の本を読んでいた男性にも同じように毛布を丁寧に掛けていたので私はますます其処が気に入った。

私は「いつもの」と店主に言い「かしこまりました」と男前の彼は言う。少し濃い目のカフェオレにブランデーを数滴垂らして貰った特性のドリンクを頂戴しながら私は本を開くと戸口が開いて、更にカラフル刺青をした男性が入ってきた。

「おうおう」

と彼は私を見て言い、「マスターいつもの」と言い、形の良いスェードのロングブーツで彼は床を軋ませながら一番奥まで入ってきた。

「何買ったのさ?」

彼は言い

「コート」

と私は言った。

「見せて」

と彼は言い、私は大きな紙袋を彼のまえにちょっと見て欲しくてわくわくしながら出した。

「格好良い!」

彼はそう言って、袋から其れを出して、立ち上がって羽織った。
そして其れは見事なくらい彼に似合っていた。

「マックィーンか?」
「何だったかな?」

私はいちいちブランドをチェックしないので分からない。
彼にしたって知っているのかどうか訝しい。この前「ユニクロ」と言って着ていたシャツはギャルソンだったし、「ノースフェイス」と言って羽織っていたブルゾンはアンダーカバーだった。どういう間違えなのか私は大変気になったが彼という人間を冷静に考察すれば不思議と気にならなくなった。

「頂戴?」
「え?」

私は大分真顔だったと思う。
真顔で聞いたら、彼も真顔でもう一度「頂戴」と言った。私はもう一度丁寧に彼の出で立ちを見た。やっぱり似合って居た。

「いいよ」
「やった」

彼は本当に嬉しそうにはにかんで、莞爾と微笑んだ。

これで私はまた長い時間を掛けて海色のコートを探す旅をしなくちゃならない。

まぁいいかと思いながら子供の用にはしゃぐ彼を見て少々羨ましく思った。
この人はきっと何時までも何処までもこの人なのだろうな。

贈与は後腐れ無い方がいい。

「何か買ってくれる?」
「いいよ」

彼は言った。こんな時彼に任せると彼は驚くほど素敵な物を見つけて買ってきてくれる。何時だってそうだ。きっと高価な物もあるのだろうけれど、彼も私も気にしない。其れを大切に使う。

店主が私と彼の分のドリンクを持って来て慇懃な態度で奥に辞した。珍しく他にお客さんが居なくて、私と彼の二人切りだった。何時だって此処はJAZZとROCKをくれる。時折みんなの耳が慣れて飽きてくると、クラッシックを流してくれる。丁寧に一枚一枚流してくれる。良い時間は、良いアルバムによって彩られて演奏者が変るごとに万華鏡のように時間も空間も姿を変える。一枚のアルバムを延々たれ流すような事はこの店では絶対にしない。窓を見ていたら雨脚がまた強くなった。

「さっきね。暫く、下北に居たんだ。たまたま雑誌を見つけて買って、本屋の近くの喫茶に立ち寄った」
「うん」
「女というのは何て我侭な生き物だろう。そして其れを許せる男は何て悲しい生き物なんだろう?」
「珍しいね?そんな事言うの」
「ううん。雑誌に誰かのコラムでそう書いてあった」
「そう思うの?」
「どうだろう・・・?」

彼は両腕を組んで大きな手で頬を挟み暫く沈思した。
「髪が伸びるの速いなこの人」と私は彼の細く華奢な指にかかる髪を見て思った。

「女の子だって許しちゃうよ。愛って許せるかどうかでしょう?よっぽどその人女の人に恵まれないんだよ」
「そうか、そういう観点か。納得行った」

彼は一人で勝手に感心して得心していた。
私はそんな晴れやかな表情を雨霞の10月の空と交互に見た。

彼は世界を埋めるジグソーパズルをまた一ピース手に入れて、私は何だか一つまた失くしてしまったような、儚いような切ないような変な気持ちになった。

「買い物行くか?」

塞ぎこみそうな私に彼は不思議な魔法で私を抉じ開けた。

明日は鏡に映るかもしれない。何だか私は漠然とそう思った。外に出ると雨はいつの間にか上がっていた。

「淡い海色のコートが欲しい。エーゲブルーみたいな」
「いいよ。探そう」


フタゴロケット

My追加