ソモ算

2008年05月12日(月)

別に元からこういう感じなら、ハナから敬遠するのですが、中学の頃から断続的に話をしていた印象はそうではなかったので今も会ってしまうわけです。大学に進学する前の彼女は後者の意味で、もっと「ふつう」だったように思います。

中1の頃、夜眠りについて、そのまま死んでしまったらきっとわからないだろう、眠りにおちるということは怖いことだ、というような作文を彼女が朗読したのをよく覚えています。

妊娠っていうのは、違う生き物にある日突然身体を乗っ取られるということだし、狐憑きなんかとどこが違うものか、といった話をしたのも楽しかったものです。

自分の身体のままならなさへの恐怖というところが、私には新しく、とても面白く感じました。人の興味が変遷するのは当然だけれども、当時のように人にわかるように話してくれたらと思えてしょうがないのです。馬鹿にされて悔しいのだか、悲しいのだかわからないけど涙が出そうになります。

でも恐怖というのはそんなに簡単になくなるものでもないのではないか、と勝手に思っています。そして、後者の意味で「ふつう」の感覚だからこそ、私は共感もできたのでしょう。そうした歴史を一足飛びにして、見た目の奇抜なものに飛びついて、恐ろしい自分の身体から、「ふつう」の自分から、なんとかして遠ざかろうとしている気配を感じるのです。

彼女の関心を見た目の奇抜さとしか表現できないところ、劣等感の裏返しで哀れんでいるのだろうと言われたら反論できないところ、など自分の理解力の限界のためもあるかもしれません。この世の中には「変」と言うほかない、わかりあえない人もきっと存在するはずです。ただ、もし彼女が「ふつう」の二つの意味を分けずに嫌っているのであれば、少し考え直してはくれないか、と思います。

そしてもう一度、普通に話せる友達になれないものでしょうか。

こんなキレイ言を言いつつ、私も相当棘のある発言を繰り返していたのは否定できないところです。私はもう少し大人にならなければなりません。

ともかく、この一件から見えてきたことは、私がこれから考えなくてはいけないのは、(3)(4)それぞれの「ふつう<変」の布置であるということです。なぜ自分はつまらないと感じさせられるのか、という問題です。

また、このように刺々しい付き合いがある一方で、優しい気持ちで付き合える(ひょっとすれば現在唯一の)存在である恋人の大きさが、改めて身に沁みてもくるのでした。



2008年05月11日(日)

私は議論に弱い人間でもありますので(一度文章にしないと頭が整理できない)、ここら辺から黙りこくるようになり、この日は結局彼女の人間性を攻撃するという愚劣な手段に出たのです。

あなたって前からそんな「ふつう」「変」とかで人を分けて、偉そうにする人だったっけ?

(2)の友人のことを「あのこって本当にふつうだよね、会って何話すの?」と言ったのがなんだかカンにさわりました。「ふつう<変」という価値観を自分が内在させている裏返しでもあり、あの子のことなら私のほうが知っているというようなつまらない競争意識の現われでもあるでしょうが。

「美大行って本当に良かったよ、パン大とはやっぱ違うから」と言ったのがなんだかカンにさわりました。パン大という言葉は初めて聞いたので、多分「ノンケ」と同じような位置の言葉なのだと思います。社会的に例外扱いされる人が、名前のない「ふつう」を命名する言葉。今まで自分がしてきたように、特別取り立てて呼ばれる逆転が不快なのか、Fランと私を一緒にすんじゃねぇよというプライドなのか、よくわかりませんけれども。

言ってみて私は、自分がもはや個性的なおもしろい女も、ふつうのつまらない女も、共に目指すことができなくなったのを悟りました。普遍的な面白さがあるとは元より思っていなかったはずですが、心のどこかで引きずっていた意識を直視することができました。

なるべく潔くつまらない女になると前のどこかで書きましたが、私自身がつまらなくなることはありえないのです。誰かに私がつまらないと思われるだけです。最初から(3)(4)的つまらなさと限定はしたつもりですが、よりはっきりと認識しました。

そして、とことん馬鹿にされてみて初めて「ふつう」であることの尊さを弁護したくなったのです。「ふつう<変」の価値観を内在させた、つまらなさ(という形容が普遍性を帯びてしまうとすれば、ある人にとってそれがたまたま好意がもてないこと)と同義の「ふつう」ではなく、コミュニケーションの担保となる「ふつう」です。

(つづく)



2008年05月10日(土)

前回の予定を少し変え、今回はこの日に会った友人との会話から考えさせられたことを書こうと思います。それは「ふつう」という言葉についてです。

彼女は高校の友人で現在美大生をしています。彼女とは会うたびに険悪な雰囲気になるのですが、今回もやはりそうでした。彼女はSMやドラァグ・クイーンに関心があるそうなのですが、その話題が出るたびに私は不快になっていくのです。

生理的な嫌悪感があるのかもしれません。それは無意識のことだと思うので、ここで肯定することも否定することも無意味でしょう。それを除いて、自分で考え付く理由の一つは、もうたくさんだ、という気がすることです。

父親の政治談議に付き合わされる時にそれは似ています。左翼も右翼もたくさんだと思うように、あまりにありふれている感じがするのです。

それは人との差別化の道具としてありふれているということだと思います。より感覚の鋭い人である、より個性的な人である、ということを示すのに使われるお題目としては聞き飽きたと感じます。

あるいは「お題目」と感じさせてしまう彼女の語り方に辟易するためでしょうか。ある単語だけで、「前衛的!」「個性的!」と思うことは自分のプライドが許さないので、とりあえず聞き流した先で、彼女は面白みを説明しようとしないため、嫌気がさしてくるのです。

彼女は美術系の人なので、ここに一つのノートパソコンや写真集があったなら話は別なのかもしれませんし、言葉で説明しないことを文系の私が怒るのは、ヘレネスがバルバロイを軽蔑したのと同じようなことなのかもしれません(逆もまたしかり)。

ですが、ともかく私は、彼女にある単語を愛好しているだけで自己完結している感じを覚え、寂しかったり、ムカムカしてきたりします。

ある程度似たようなバックグラウンドを持つ人間ならば、熱烈な愛までは植えつけられなくとも、比喩などによって「面白み」くらいは理解させられるのではないかと私は思っています。同じことについて面白がれるよう努力する、というのはコミュニケーションの基本ではないかとも思います。

つまり、間接的に「お前は全く話をするに値しないつまらない人間だ」と言われているような気がしてくるのです。これが多分自分の一番ナイーブなところを逆撫でします。そして人間性の卑しい私は、苛立ちを言葉の端々ににじませながら相槌を打つようになります。彼女はそんな私を哀れんだ様子で(つまり馬鹿にした様子で)話を続けます。こうなるとドロ沼です。

そう、これは多分に同属嫌悪なのです。共に「ふつうでないこと」をアイデンティティとして生きてきた女同士の。

(つづく)



2008年05月09日(金) 雑記2 巣鴨のファブ・フォー

前の日記を消したのには、妙にカウンタを意識してしまったこともあると思います。一度題名を「処女喪失」にしてみたらやたらと回ったので、現金なものだとは思えましたが、やはり何かしらレスポンスが欲しくなるのでした。

今回は自分の考えを整理するためだけに書くことで、続けていきたいと思います。このまま自分語りが下手なまま就活に突入していくと、痛い目を見そうだというのもあります。今までの生き方全てをもって、御社に貢献しなければいけないのですよね。

しうかつ。

こう書くと、どことなくおいしそうなのですが。

題名の画像は下です。完全なシンメトリーに、シャッター音も気にせず写メってしまいました。この時代ならば、ダブル・デートとは言わず、重ね逢引とでも言うのでしょうか。





2008年05月08日(木) 雑記1 謎のトイレ
























先日(2)の友人とフリーマーケットをやったのだが、その会場のトイレの表示が上のようであった。

何が謎かというと、よく見ると上半身は帽子をかぶり男性なのだが、下半身はスカートを履いているのだ。

おそらく会場が新宿だったからなのだろう。この下には「どなたでもご利用できます」と書いてある。つまり、男性でも、女性でも、そのどちらでもなくても、気にすることなく利用できるトイレなのである。

そういえば友人のFtM(?)みたいな人は、どっちのトイレに入っていたっけ。もしかしたら一緒に居るときも、結構気を使わせていたのかもしれない。

フリマは、商品のセンスの良さというよりも、新しさ・きれいさによって、売れ行きが変わるようだと思った。竹下通りの300円均一の福袋の中身が、一個100円で飛ぶように売れた。仲間内では貰い手がつかなかったので、よいリサイクルになった。思わず微笑した。



2008年05月06日(火)

申し分なく彼のことは好きなのだが、ふっと長いものに巻かれていく暗い感触があって、胸の辺りが重たくなる。相手への気持ちと、この感情ともつかない感覚とが無関係であることをまず確認したい。だから、「別れる」なんて結論はどうしたって出てこない。これは、どうせなら潔くつまらない人間になろうとする2週間になると思う。文章にしているうちに、自分の気持ちがどれだけ侵食されないとも限らないけれど。




(3)については、これから、どのレベルまで情報を明かしていくのが適当だろうか。

今の後ろめたさは、恋人がいないこと・リア充でないこと(二つが全くイコールであるとは思わない)をアイデンティティにしている(そんな能動的なものでもないが)共同体に、あたかも自らもそうであるように偽装して居場所を確保していることにあると思う。

何か比喩を入れて、自らにどれだけこの状況がくだらないことか納得させてみよう。なんだろうか、フェミニズム団体で活動している男性が、家では思いっきり亭主関白をやっているような欺瞞だろうか。しかもやっぱり主婦がいた方が家事とか楽だし、性別役割分業に支えられた方がフェミニズム運動もうまくいき始めてしまったような感じ。うん、しょうもない。これはもう相当ダメだ。

この活動家は、もう活動の寄る辺をなくしてしまったように思えるが、果たして私は恋人がいることによって、共同体への参加資格を失うだろうか。他のメンバーにも、そんな惚れた腫れたのあった時はあった。私の知る限り、どれもあまり長続きしていないようだが、散々にからかわれながらも、とりあえず受け入れられてはいた。多分、恋人の存在を明かすことくらい大丈夫のはずだ。「名誉男性」めいた地位は失うにしても。

大丈夫であろうが、なかろうが、これ以上隠しながら付き合っていくのは、大変な失礼になるとも思う。これから何か機会があった時には絶対に隠し立てしないようにしよう。そうしよう。

ただ、相手が誰であるかを明かすのは、どうだろうか。いずれバレるものなら、早めに言ってしまった方が罪も軽いのかもしれないが、なんかイヤなのである。恥ずかしい。ちょっとこれは保留。

次の日記で(4)について考える。きっと女の友情のどろどろした部分を考えざるをえないのだ……。



2008年05月05日(月) 予告編1と2

ここは、恋人ができたはいいが、その状況と自分の今までの生き方がそぐわないようで苦しいことについて考える2週間セミナーです。はたして私は恋路と親愛の情を両立させることができるのか? 引き裂かれる運命。そして静かに忍び寄る就活の足音……! 私は一体どうなってしまうのか。




これから、このテーマで日記を書く上での方針を考える。

恋人がいることは各コミュニティで違う意味を持っているので、まずそれを整理する。狙うポジションに応じて私は情報をコントロールできる。

(1) 学科の人
あまり親しくない人々。なにくわぬ顔で大企業に就職していくだろう人々。私なんかが恋人がいると言ったところで、「どうせ出会い系じゃねぇの?」と思われても仕方がないが、とりあえず精神の安定を保てる。(例:話し相手のいないコンパでは、ケータイと共にウィルコムを見せ付けるようにチェック)可哀相レベルを気持ち引き下げる効果。

(2)バイト先の友人
高校の同級生であり、外見・知力に恵まれ、運動系サークルに所属。親しいながらに、及ばない現実を折々感じさせる人々。私に恋人が出来る前から恋愛は話題にのぼっており、出来た旨を報告すると大変に喜ばれる。そもそも恋人がいることがコミュニティ参加の条件であったことを、「フリーの子って結局話す時気ぃ使うよね」という発言で知る。積極的に、恋人との進展状況を述べることが望ましい。一緒にいて楽しいのは本当。

(3)サークルの人
恋人がいないことがデフォルトであり、アイデンティティにもなっているような文化系サークル。紅一点として、例外として接されるよりは、ある程度(というのが逃げ腰)同類として扱われるため、無縁ということにしてある。それはむしろ真実だった期間の方が長いが、嘘になった頃からの方が上手に振る舞えているというのが皮肉である。紅一点に求められるものが私にとっては元より擬態だからだろうけど、その扱いが心地よいのも本当。恋人がここに属していることもあり、隠してはいるが、恋人がいることは影で人間関係を円滑に進められる余裕をもたらしているようだ。それがまた苦しく、卑近にはバレた場合の対処が思い付かない。

(4)高校の特に親しい友人
クラスも部活も違うが、中高6年間をかけて、じっくり吹き溜まってきたグループ。約5人。女子校ということもあり、(3)とは対照的な意味で居心地がよい。下ネタを気兼ねなく言える。異性交渉は激しいものと全くないものに分かれていたが、成人を迎える前後、FtM気味(?)のものを除いて色気づく。しかし、現在有配偶は私のみになってしまった。現役で第一志望の進路に決まったのも私のみであり、多分に思い上がりだが、少し気を使わなければと思わされる局面もある。就活・恋愛の悩みも、セーブする必要がありそう。こういうことは、メンバーの結婚・出産でも繰り返されるのだろうか。


以上見てきたように、恋人がいることは(4)を除いて、多かれ少なかれプラスに作用している。しかし私が思う「つまらなさ」というのは(3)(4)的なつまらなさなので、ここに葛藤が生じる。

なんだか携帯で打っていたらよくわからなくなってきた。

だから、あれだ。(3)(4)で、恋人を持った上で、よりよいポジショニングがないかと思索してみるというのが明日からの作文の課題になるだろう。また、(3)(4)のどういった特徴に自分が愛着を感じているのかも再検討したい。



2008年05月04日(日)

今度の日記は、恋人がいるつまらなさについてのものになると思う。

初めての恋人が出来てから4ヶ月、私は急速につまらない人間になりつつある気がする。そういう瞬間が1日に3分くらいある。3分を瞬間と呼ぶのは正確ではないだろうがそんな感じだ(まずこの書き出しで結構な人の神経を逆撫でしていることだろう、だから数少ない友達にさえ嫌われ始めているのだろう)。

その3分をここに書けたらよいと思いたって登録をしてみたのだが、この時点で既に3分以上経っているし、書きながら更につまらなさのうわ塗りをしているようでもある。

まず、自分の生活をきれいに二分できると思っているところが陳腐だし、それを自覚しておいて書いているところなどむしろ悪質かもしれない。有閑マダムの火遊びと根は一緒なんじゃないか。

現在の恋人には何の不満もないのだけれど(という書き方に既に不満が表れているだろう、というか自分の少ない語彙によって書かされてしまった時点で不満があるような気分になってしまう)、恋人がいるという状況が今までの自分の人格・清々しさの基準と合致せず、これまで築いてきた人間関係にも有形無形に嘘をつかせていることが気がかりなのだ。

キャッチーに言えば、「ふつうの女ブルー」とか「喪女コンプレックス」とかいうことになるのだろうか。(笑)をつけたくてたまらないのだが、自分のことだからしょうがない。新書のタイトルにいかがでしょうか(と付け加えてしまうのは弱い心だ、狭き門をおくぐりになった出版社の方がこんな日記に振り向く訳はないのに)。

どうせ「ブルー」だし「コンプレックス」だし、わざわざ言葉をひねり出して、どっちつかずの気持ちの白黒を判じていくのは、さっきの「現在の恋人には……」のように、関係各所に失礼な気持ちを自分の中に作っていくことだろう。前回書いてみた日記でもわかったことだ。

それでもなぜ書こうとするか、まずはその整理から次の日記でやってみたい。


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