蜂蜜ロジック。
七瀬愁



 呉羽理央③

そろそろ禁煙をしよう、そんなことを考えていた矢先の事だった。

「何度言ったら、わかってもらえるんでしょうか」

嘆息と共に落ちた息は、知らずと疲れを孕んでいて、それは私をとても不愉快にさせた。

「怒ってる?」

おーやさん、と何処か舌足らずに感じる声が、私を覗き込む。美丈夫というにはあまりにも幼さが抜けない顔立ちは、美少年という在り来たりな感想がぴったりだった。
愚鈍でない。頭の回転は遅くはない。ただ、彼は生きるのが退屈で仕方ないのだ、とても。
だから退屈凌ぎをいつも探す。それがどれだけ、人の迷惑になるのかも顧みずに。
その一番の被害者は私に違いない。

「怒る怒らないじゃないの、わかります?
あなたはこの部屋に住む権利はあるけれど、この部屋を壊す権利があるわけじゃない」

「しってるー」
「それは、何よりです。では、反省って言葉は知ってます?」
「しってるー」

茫洋に頷いて、櫻井さんは床に座り込む。立っていることに疲れたらしい。床には部屋の仕切りにあった硝子扉が、割れて散乱している。安物の硝子は砕けることなく、尖った破片をばら撒いていた。

反省の欠片もない。言葉の意味を問うてるわけでないくらいわかってるくせに、本当に腹立たしい。何度言ったら分かるのか。頭の中が軋み出す。
苛々して、さっき禁煙を誓ったばかりの煙草を、思わず唇に挟んだ。


当の本人は我関せずとばかりに、かしゃり、と硝子の破片で遊んでいる。

「手、切りますよ」

「んん。でも、平気。切っても綺麗だし」

悪戯が見つかった幼子のような無垢さで、落ちた硝子よりも深みのある輝きが、私を見上げる。それは深い深い緑に見えた。

ちろり、としたある種の感情を引き起こすような色だ。
火を点けることを忘れた咥え煙草のまま、私はしばらく動けなかった。

「火、つけないでね。ここ、禁煙だから」
「、」

ふ、と、久住さんの気持ちがわかるような気がした。

「おーやさん?」

黙ってしまった私を、柔らかな曲線を描く目が見つめる。それは、もたげ始めた好奇心を、促しているような気がした。

手を伸ばしたのは、半ば無意識だった。引き寄せられるのに、抗わなかったからかもしれない。
伸ばせば、すぐに触れられる距離だった。

私の足元で座り込む青年は、白く、それでいて僅かに赤みを差した頬を私に向ける。その、なだらかな輪郭を辿り、まだ跡の残る首筋で視線を止めた。

身じろぎをしたのは、私の欲に気づいたからかもしれない。
隆起した喉仏の形をなぞる。
首元に指を這わせると、櫻井さんの目に光が宿る。歓喜の色だ、と思った。

彼の薄く少し尖った唇が、僅かに動く。音として認識出来なかったけれど、私を呼んだのがわかったので、「いいですか」と笑いかけると彼もまた微笑んだ。

幸福の最中に佇むような、そんな顔だった。




「あたまいたい」
「酸欠でしょう。ゆっくり息をして」
「ん、んー。‥ねぇ、おーやさん」
「なんですか」

まるで餌をやる前の猫のように、櫻井さんは私にへばり付く。
出来れば先にシャワーを浴びてきてほしかったけれど、好きにさせることにした。

「おれね、今までしてもらった中でいちばんよかったかもしれない」

満面の笑顔が、私を覗き込む。露わになった額には、汗が滲んでいた。いつもの怠惰さはどこへやら、天使のように愛らしい微笑を浮かべ、私の傍から離れようとしない。

私もこんな爽快な心持ちは久しぶりだったので、不愉快にはならなかった。

「りおちゃんて呼んでいい?」
「どうぞ、お好きに」
「ふふ」

りおちゃん。私の首筋に顔をうずめるようにして、櫻井さんは私の名を呼んだ。くすぐったい。呼ばれたことでなくて、息がかかるのが。

伸びた髪が、肌にへばり付く。その合間から覗く櫻井さんの白い首筋には、真新しい跡がくっきりと残っていた。

【END】


2014年06月11日(水)



 久住ケイ③

この掌の中に彼女が欲しい。
僕を狂わせるその目で。
どうかいつまでも見ていて。




「え?なになに?どうして?」

扉を開けるなり飛び込んできた光景に、少しばかり呆気に取られたあと、我に返った僕は矢継ぎ早にそう聞いた。

「ケイちゃんなにそんな驚いてるの」

あいもかわらずのんびりした口調の櫻井くんが、僕を見上げる。ただでさえ僕より背の低い彼が、床に座り込んでしまえば、まるで小さな子供のような風情だった。

長い睫毛に縁取られた大きな瞳の虚ろな眼差しを見るに、今日もまたあまりよろしくないものに手を出しているに違いない。
だが、そんなことは僕にとっては些少の事だ。寧ろどうでもいい。

「どうしたの。なんでそんなに理央さんに懐いちゃってるの、きみ」

部屋の壁際に置いた二人掛けのソファには、理央さんが一人で座っている。
端の糸処理もしてない布切れに熱心に刺繍を施している彼女は、僕の来訪を気づかぬ訳がないのに、目線一つあげようともしない。
そんな理央さんの脚に腕を巻きつかせた櫻井くんが、まるで女神を見るような恍惚した表情でうっとりと理央さんを見つめていた。

何がどうした。
櫻井くんがヘテロかどうかは良いとして、あの理央さんがこんな状況を良しとしていることに正直驚きを隠せずにいた。

理央さんは、しなやかなヤマネコのような女性だ。
群れることを知らない、美しい孤高の女丈夫だ。
彼女に群がるものがあっても、切り捨て跳ね除けてしまう。身体も心も全てが冷えた刃で出来ているかのように、凜と冴え渡っている。

その理央さんが誰かに、しかも異性に肉体を触れさせたまま良しとしているなんて、誰が考えるだろうか。

それとも櫻井くんは半分女性みたいなものだから、許されていると言うのだろうか。
だが、いくら華奢で細身と言えど彼の身体はれっきとした男であるし、異性と言う括りには間違いはないのだ。

いくら考えても眼前に広がる光景に、答えなど思いつくわけもなく。
ふと煙草を欲した手が自分の懐をまさぐったところで、櫻井くんを足元に置いた理央さんが顔を上げた。

「気持ちが悪いことを、一人でべらべら喋らないでくれません?」
「あれ?僕、口に出してました?」
「ええ、ずっと」

彼女の大嫌いな節足動物を見るような目が、僕を突き刺す。
一瞬、今まで考えていた疑問など消え失せて、歓喜に身体が震えた。幸せだ。僕は今、理央さんの目を独占しているのだから。

「久住さん、気味が悪いので笑うのもやめてください」
「笑ってました?」
「ええ、ずっと」

そう言って理央さんは、僕から目を離して櫻井くんを見下ろし、ふわふわした彼の小さな頭を何と撫で下ろした。

なんだなんだ、何の博愛精神だ。

「でも気になるじゃあないですか、昨日の朝まで何もなかったのに、今朝になってみるとこんなに仲睦まじいなんて」
「放っておいて下さい」
「置けるわけがない」

返事はなかった。ただ、疲れたように理央さんが息を吐いた。
生き物として当然の呼吸という行為ですら、彼女がするとまるで歪だったものが滑らかになったような安定を覚える。

「一線越えました?」
「、、、そんなこと聞いてどうするんです」
「想像しようと思って」

どちらが下になるのか。どんな声を出すのか。どんな、目をするのか。

「ふふ、ケイちゃんって本当気持ち悪いよね」
「そうかい?当たり前のことだと思うけどな。
そだそだ。前から気になってたんだけど、櫻井くんてさ、男として役に立つの?」
「えー」
「何を聞いてるんですか」
「え?いやあ、どうなのかなと」

ざくざく、と縫う音が立つ気がする程の乱暴さで針が動かされる。
刺繍針の太さはとても僕好みで、それを理央さんが手にしているというだけで心が踊る。

「久住さん」
「なんでしょう」
「鍵がかかっていたでしょう。あなた、どうやって入ったの」
「鍵?ああ、造作もないことです」

そう言って僕は自慢のピッキンググッズを取り出し、理央さんに見せた。
全て手作りです、と取って置きの笑顔で伝えれば、理央さんは僕を見ないまま酷く険しい顔をした。
まるで、百足の大群に身体中を這われたような。
何て美しい。ああ、こちらを見てくれないかな。瞬きの合間でも構わない。

「今何を考えてるか当ててみましょうか」
「必要ありますか」
「えぇ、僕にとっては」

まだ会話が続くことにうんざりした表情で、理央さんは再び目線だけ上げて僕を見る。

「まるで害虫だわ」

あぁなんて麗しい姫。息が止まるような冷たいその目で、どうか僕だけを見ていて。

【END】

2014年06月09日(月)
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