蜂蜜ロジック。
七瀬愁



 かくれんぼホリデイ②

「あれは、何。人、じゃない。 マネキン?」

「君も入ってみればいいじゃない」

耳朶に触れる程近い唇が放つ言葉は、拘束する細い腕と同じ様に私の体温を下げる。

身動きが出来ないままに、私は池のほとりの際に立つ。

「離せ」

大声を出したつもりだった。が、実際に放たれた声は随分か細いものだった。

「この池はね、イツキが作ったんだ。深さは大してないんだけどね」

「離せよ」

月は真っ直ぐに池を照らす。

白く揺らめくもの。

あれは人間じゃない、きっと違う。

私は勘違いをしている。

なのに、呼吸が早くなった。

「離してあげる。その代わり」

虫が、鳴き出した。

違う。

喚いているんだ。

「かくれんぼをしよう」

悪戯を耳打ちするかのように、イツキが耳元で囁いた。

その冷静さが、逆に私の恐怖心を煽る。

かくれんぼ。

怯えさせようとするような下心もかいま見えず、剥き出しになった純粋な好奇心が、姿が見えない分余計に気味が悪かった。

「君が隠れる。見付からなかったら君の勝ちだし、見付けられたら君はそこで終わり」

終わり。

何が?

唐突な提案に、私は無関心を装い、震え出した指先を握り締める。

怖い訳じゃない。

私よりは背が高いけれど、痩せたその四肢に力強さなど微塵も感じない。

きっと力の限り抗えば、何とかなる。

それなのに、発っせられる容赦のない威圧感は何なのだろう。

冷えた少年の華奢な腕。

その肌は月に照らされて、青白くさえ見える。

氷、みたいに。

「かくれんぼ」

いつのまにか私も同じように言っていた。

勿論そんなものをする気は、全くない。

「朝まで見つけられなかったら、君の、勝ち」

ゆっくりと解かれる腕の拘束。

でも。

「イツキに見つからなければ君の勝ち、だよ」

彼は薄く小さく笑みを零す。

晴れ渡る空の下で見れば優しさを備えて見えるであろうそれも、薄汚れた水の匂いが漂う暗い草むらの中では薄ら寒く見えた。

「いち」

緩やかな風が凪いだ。

私は考えるより先に何か小さな悲鳴のようなものを上げて、身を翻して走り出した。

彼はおかしい。

「……に」

イツキの声は遠ざかり、あっというまに聞こえなくなる。

彼は、きっとおかしいんだ。

開いたままの裏口に飛び込み、長細い蛍光灯から放たれる白く頼りない光がぼんやりと照らす通路を走った。

このままナースステーションに走って行き、おかしな少年がいる事を伝えればいい。

病棟は酷く静かで、そして無機質だった。

とにかく、誰か人を。人を見つけて。

必死に走ってるつもりだった。

声も出ない。

ただ震える膝と心を奮い立たせて、走る事だけしか出来なかった。

「すみません…っ」

明かりの点いたナースステーションに飛ぶ込むようにして、私は驚いた表情の看護師に先程の事を何とか告げた。

彼女は私をじっと見て、首を傾げる。。

「イツキ、なんて男の子、聞いた事ないわね」

そう独り言のように呟いた後、どこかへと内線をかけていた。

その白衣の背中を、私はじっと見つめた。

何事かをぼそぼそと話していた看護師は、私を振り返りもう困ったような顔をした。

「久美ちゃん。病室へ帰ろうね、もう夜中よ」

機械的に話す声を聞いて、この人は私の話を全く信じていないのだ、と悟る。

「本当なんです、さっきそこで…」

「あなた消灯後に外に出たの? …まあその話は明日聞きます。大体、外から中への出入りはなかったそうだし、イツキくんなんて患者さんいないのよ」

その表情は学校で私の言い分を聞いてから見せる、教師達と同じ色合いがあった。

「本当、なのに」

「久美ちゃん」

嘘を吐くな、とでも言いたげな表情。

気が付けば私はまた、走り出していた。

「久美ちゃん? ちょっと待ちなさい…っ」

後ろで名前を呼ぶ声だけが、微かに聞こえたが私は無視して走り続けた。

頼れるのは一人だけだった。

「楠田さん…っ」

もうとっくに寝ているであろう彼女の病室を開け、その名前を呼んだ。

一つだけ閉まっているカーテンには、明かりが点いていた。それに私は酷く安堵した。

「久美ちゃん? どうしたの」

カーテンが開き、驚いた楠田さんの顔が見えた時、途端に現実感に引き戻される。

先程まで非現実的な感覚が、ずっと付きまとっていた。

彼女の姿は、そういった奇妙な感覚を振り払ってくれ、つい先程の事にも関わらず私はやはり夢か幻覚を見ていたのだろうか、とさえ思った。

「ごめん、こんな時間に」

何と言おうか、迷った。

同じような表情をされたら、私はもうどこへ行けばいいのか分からなかったからだ。

「どうしたの、何かあった?」

戸口で立ったままの私に心配そうな彼女が近寄り、手をゆっくりと握ってくれる。

余程私が強ばった表情をしていたのか、大きな黒い瞳は急かす事もなく私が何か言い出すのを辛抱強く待っていた。

「う、ん……」

しばらく迷った挙げ句、私は夢のような出来事を話す。

まるで小説の中の出来事だと笑われはしないか、と内心怯えながら。

「それって…」

話し終えた後、少しの間を置いて口を開いた楠田さんの表情は硬くはあったかれど、疑った様子は微塵もなかった。

「それってもしかして、旧館の人なんじゃないの。そういう噂、聞いた事があるもん」

声を潜めて、彼女は私をじっと見た。

旧館は隔離された病棟。誰に聞いたのか忘れてしまったけれど、まことしやかに囁かれる噂。

そう、かもしれない。あれは本当なのかもしれない。

「信じてくれるの」

半ば震えたような声になった私に、いつもと同じように朗らかな笑みを浮かべ楠田さんは頷く。

「久美ちゃんは嘘なんか吐かないよ、それに、そんな幻覚、ちょっと変」

考えるように言葉を途切れさせ、思い付いたように彼女はベッドを降りた。

「行ってみる、私」

「どこへ…?」

「旧館。久美ちゃんはここにいてて、私が見てくるから」

靴を履きながらそんな事を言う彼女を、押さえつけるように手を握った。

「何言ってるの、そんなの危ないじゃないか」

「だってこのままじゃ久美ちゃん信じてもらえないよ?」

楠田さんは私より背が低い。そしてまるで人形のように華奢で、弱々しい。

私よりずっと危険じゃないか、というのは一目瞭然の事実だった。

「大丈夫だよ」

口元から歯が零れ、邪気のない笑みを浮かべる。

他人に信じてもらえないのは、どうでも良かった。ただ彼女の好意が嬉しくて、私は考えるよりも先に自分も行くと告げた。

楠田さんは驚いたようだったけれど、彼女も言い出したものの心細かったに違いなく、少し迷いを見せた後、一緒に行く事を了承してくれた。

最小限の電灯だけが点る廊下で、手を繋いだ彼女の指先が僅かに震えているのを感じた。しなやかで細い指。

そういえば借りた本の中でホラーに属するようなジャンルだけはなかったな、と思い出した。

ああいうものは苦手だ、と前に聞いた気もする。

そうであればただでさえ人気のあまりない病院で、しかもこんな状況で夜中にうろつくのは彼女にとってはかなりの恐怖であるのかもしれない。

握る手はひんやりと冷たくて、いつきと言う名の少年を思い出させたけれども、それは変に火照る私の熱を冷ませるには丁度良いものだった。

こんな状況下であるのに。いや、こんな状況下であるからこそ、か。

「こっち、だよね」

並ぶようにして恐る恐る歩く私達は、端から見れば探検ごっこでもやっているように見えただろう。

私が飛び込むようにして入って来た裏口の扉は、開け放してきたように思うのに今はきっちりと閉められてある。

看護師が閉めたのだろうか、と言う間もなく、楠田さんは手を掛けてノブを捻った。

かちゃり、とまるでプレハブの簡易扉のようにあっけなくそれは開く。

途端に草木の匂いが、鼻腔を擽る。風は相変わらず無く、虫は死滅したかのように声を殺していた。

月は陰り外灯も灯らない裏庭は、暗闇の底に感じた。

不思議と怖くはなかった。それは隣にいる少女のおかげだと、強く思う。

ちらりと彼女を見てみれば、唇を噛み締めて暗闇の先をじっと見つめている。

怖いのだ。

そう気付いて、握る手に力を込めた。

旧館は更に鬱蒼として見えて、先を歩く彼女の肩が震えるのを私は見逃さなかった。

「先、歩くね」

心強さからか先程の恐怖はかなり薄らぎ、ただ暗いだけの庭を私は先頭に立ち黙々と歩く。

旧館にはやはり灯り一つ点いてはいない。横を通り抜け、あの池へと向かう。

「ここ…?」

楠田さんが震える声で呟いた。

月さえ出ないその場所は、影絵のように草木の形を黒く、ぽっかりと切り抜いたかに見える。

イツキの姿はなく、もう何もなかったかのような静けさだけがそこに存在した。

音はなく、風もない。

水は静かにそこにあり、空は黒く染まっている。ただ、草木を踏み締める私達の靴音だけが全て。

今ならまた見えるだろうか。あの白い、ものが。

好奇心というものは何て偉大なんだろう。

まるで他人事のようにそう感心しながら、私はゆっくりと水辺に近付く。

すぐ後ろに楠田さんがいる事が、ひたすらに心強かった。

「ここに、白いものが」

乾いた唇を舐め、恐る恐る覗き込む。

「白いもの、ね」

背後で楠田さんの声が、震えた。

怖がっている。

そう思って私は後ろを振り向いた。彼女は泣いているかのように、顔を両手で覆い体を小刻みに震わせている。

「ごめん、楠田さん。もう戻ろ……」

そう言い掛けた私の言葉も聞こえなかったかのように、彼女は顔を上げた。

その表情は。

「良かったわね」

まるで深淵の底だと。

思った。

彼女は黒く光のない瞳を向ける。

「丁度お揃いじゃない。あなたも白いパジャマを着てるわ」

楠田さんは可笑しくて仕方がない、と言った顔で笑いながら、私を強く突き飛ばした。

「楠田さ…ッ」

池のほとりでしたたかに顎を打ち、私は呻く。

途端に水が、私の顔を覆った。

後頭部を押さえつける手の感触に、私は目を開いた。

薄汚れた緑色の水は、今はどす黒くさえ見えた。

私の唇から漏れる気泡が、やけに美しく球体を描いている。

楠田さん、と呼んだ声もただ泡と化して消えた。

何故。

ばしゃばしゃとたてる音が、遠くで聞こえた。

苦しい。苦しい。苦しい。

それが自分がたてている音だと、何故か理解出来ずに私は目を見開く。

藻にまみれた濁った水の中で、揺らめく白いもの。

見開いた瞳。

少し開いた唇。

白いのは看護師の制服のせいだ、とこの時初めて私は理解した。

叫んだ、のだと思う。

けれどそれは、がぼがぼ、という汚らしい音だけで悲鳴には程遠い。

同時に飲み込んでしまう、青臭い池の水。

死んでしまう。

苦しさに更に暴れても、押さえつけられた頭は上げる事は出来なかった。

喉を通る濁った水。

吸い込めない酸素。

狂ったように暴れる私を、藻にまみれた汚い水の底から、静かに白い顔が見つめていた。


《epilogue》

「ひ、久美ちゃんどうしたんですか…っ、何があったんですかっ?」

白い病室。

父の側で眺める僕の前で、彼女は髪を振り乱して泣き喚いていた。

「お前は出ていなさい」

父が僕の肩に触れる。

僕は言われた通りに、病室を後にする。

何て純粋な光景。

友人の悲報を嘆くのは、彼女にとても似合っている。

細く白い手で顔を覆い俯いている下の顔は、きっと僕しか知らないのだろう。

その手が何をしたのかも、同じ事だ。

サワダヒサヨシは、運が悪かった。

よりにもよって、彼女に助けを求めるとは。

僕は最初に言った筈だった。

イツキに見つかったら、終わりだと。

彼は最後まで気付かなかったのだろうか。

それとも知っていたのだろうか。

「もっと早くに久美ちゃんを見つけていたら」

「あの子のご両親には…」

病室を出た所で、看護師が婦長と話している。

僕をちらり、とだけ見てまた、ぼそぼそと話し続けている。

「…まだ小学生なのに」

一面に白い廊下に壁。

嗚咽の声が耳に届く。

『クスダイツキ』とネームプレートが入った病室で、彼女は嗤いながら童女のように泣きじゃくって見せているのだろう、と思った。


【END】

2010年06月13日(日)



 かくれんぼホリデイ①

※閲覧注意。暗めの話。


*********

《prologue》

僕が彼女に会ったのは、無機質でやたらと床がぴかぴかした白い病室だった。

父が経営する山奥の施設は、表向きは至極良心的な診療施設ではあったけれど、概ねの建設理由としては、僕を閉じ込めておく為の物だったように思う。

それでも空きベットを遊ばせて置くよりは、とその筋の紹介状が無ければ入院自体は許可しない随分と保守的な病院となっていた。

僕はここで少年期のほとんどを過ごした。

彼女は僕の存在をほとんど知らなかったけれど、僕は自分にあてがわれた部屋から時々散歩する彼女を眺める事はよくあった。

病室に似た無機質な表情をした綺麗なその少女を僕は、くぅと呼んだ。

勿論本人にそう呼ぶようになったのは、随分後の事であったけれどそれは彼女の名前の頭文字を読んだだけ、な今思えば稚拙な呼び名だったと苦笑する。

今なお、くぅと呼んで側に置く理由はよく分からない。

僕は彼女に恋をしているのかもしれないし、よく似た者同士で戯れ合っているのかもしれないし、そのどちらでもないのかもしれない。

それでも暗闇を抱えるような彼女の存在は、僕を安堵させる。

ただ一つ言える事があるなら。僕が彼女と出会ったのは必然であった、と言う事だけだ。


*****

私は少しばかり、精神を病んでいた。

ほんの少しばかり。

それが元で行き始めたばかりの学校を休学し、入院する事になった。

父の旧知の友人が経営しているという総合病院の分院が、私の静養場所になった。

その病院は農村近くの郊外にあり、良く言えば空気の澄んだ緑溢れる場所であったが、悪く言えば電波すら届かない田舎。

緑しか目に付かない風景の中で、真新しく人工的な真っ白い五階建ての病院は端から見ても場違いに異彩を放っていた。

病棟は旧館と新館が二棟に分かれて建っており、その名称そのままに一見しただけで放つ色合いは異なるものだった。

旧館は明治の頃からと言うから、その古さは私の年代からすれば遙か昔だ。

北側に建つその旧館は閉鎖されているものの、人の出入りはあるようだった。

そのせいか隔離病棟だと専らの噂だったが、私自身確認した事はない。

初夏の風が吹き始める、季節。

汚れ一つない白い壁、白いベット。

広い部屋にそれだけ、という簡素さ。

酷く無機質な病室に、私は飽き飽きしていた。

来院する外来患者はこんな田舎であるのに意外に多く、昼間の待合室は割りと賑やかだった。

それでも入院患者病棟はひっそりとしていて、あまり人気がなく気味が悪かった。

広い敷地内を歩く人間はほとんどいなかったが、散歩がてらに私はよくそこら中を散策し暇を潰した。

新館の待合室から硝子窓越しに見える四季の花々に彩られた庭園は、気まぐれに歩くには恰好の場所だ。

心地良い風が吹く午後、私は何となくいつもの場所ではなく、旧館の方へと足を向けた。

隔離病棟の噂が醸し出す古い建物独特の鬱蒼とした雰囲気はあったけれど、眩しい日の光はそんな重苦しさを払拭する。

新館と違い多々雑草が伸びた様相ではあるが、まるきり放置されている訳でもないらしく、歩くのが困難という程に荒れてはいない。

建物の裏側まで足を踏み入れれば。

高い塀と建物の間に、あまり手の入れられていない小さな池を見付けた。

まばらに生えた背の低い剣のような薄緑の雑草、この場所を隠すかのように植えられた数本の幹の太い木々はクスノキらしい。

雑草の中に埋もれるように、静かな水面に濃い緑の藻を浮かべるこじんまりした池に昔作った秘密基地のような、子供染みた高揚感を感じた。

元からあった物なのか作られた物なのかは分からないが、おそらくは前者なのだろう。

わざわざ作らせたにしては稚拙な出来であったし、こんな目立たない場所にあるのも変だ。

それでも水があるなら、生き物くらいはいるかもしれない。

随分、水が汚れて水中は薄らとしか見えなかったけれど、私は池のほとりまで近づいて中を覗き込んだ。

緑一面の水の色、そこに私が映り込む。

体調が良好なようには、とても見えない様相。何て暗い表情。

緑がかった水面をしばらく覗き込んでいると、ふと濁った水の中に白いものが、ゆらゆらと揺らめいているのに気付いた。

何だろう。

前屈みに覗き込みその正体を見ようとしたけれど、透明度の低い藻だらけの水と底の方で揺らぐせいで、それが何か見極める事は出来ない。

こんな小さな池なのに深さは割とあるのか、それはかなり下に見えた。

ぱしゃん、と水が音を立てる。

魚、だ。

揺れた水面に魚影を見付け、私は急に熱心に覗き込んでいる事が馬鹿らしくなって痛くなった背中を伸ばし、池の端に生えた藻を突く小魚をしばらく眺めた。

人気が無く静かだ。

一度伸びをしてから、私はもう一度その場にしゃがみ、ぼんやりと魚を視線で追った。

バシャバシャと名前も分からないような小魚が、藻を熱心に突き、水面で何度も口をパクパクと開閉させる。

それらを眺めてほとりに座り込む私の頭上に、ふと影が差した。

「君、患者さん?」

少し高く掠れたその声に振り返り、しゃがんでいた私はそのまま上を見上げる。

すぐ後方に人が来ていた事に、私はその時になって初めて気が付き、僅かに身じろぎした。

頭上まで上っていた太陽と重なり、眩しくて目を細めてしまう。

――少年。

見た事はない顔。

新しい患者だろうか。そのような服装はしていないけれど。

「ここ、立ち入り禁止だよ」

柔らかく微笑み、彼は草むらを指差した。

その声音の独特さは聞き覚えがある。

変声期だ。

久しく会っていない兄が声変わりした時と、同じような。

指された方角に頭を向ける。

雑草に隠れるようにして、木のプレートで作られた「立入禁止」の看板が放り投げられているのが目に入る。

それは、何の役目も果たしていないように思えた。

「そう、なんだ。知らなかった」

それならお互い様じゃないか、という気持ちが私の中に起こり、自然と素っ気ない態度になる。

「イツキ以外、立ち入り禁止なんだよ。ここは」

心の中を読んだように、彼はにこりと綺麗な笑顔を零して依然と私を見下ろして付け加えた。

「誰って?」

当然の質問だった。

突然名前らしきものを出されても、戸惑うに決まっている。

よく見れば端正な容姿をした少年は、涼やかな表情をして私を見つめ返した。

「イツキだよ」

それだけ言って、少年はまた微笑む。

自然で柔らかく満遍のない――そう、誰からも愛されて育ったような微笑。

イツキ、というのはどうやら彼の名前らしい。

樹、と書くのだろうか。

彼の穏やかで温もりのある笑い方には、森林を意味するその字がすぐに思い浮かんだ。

しかし私は眉を顰る。

まともに会っていれば少しは好感を抱いたかもしれないが、唐突に現れた彼の言動、それにその年齢で自分の事を名前で呼ぶような振る舞いは、私に不快を抱かせる。

だから彼の名が実際にはどのような字体であろうと、どうでも良い事に違いなく、一つの結論に達する。

――だからどうだと言うのか。

目線を外し、伸びきった髪を掻き上げる。

幾分、雑に。

立ち入るな、と言われても聞く気はなかった。

時折庭に吹き抜ける風が揺らす草木以外、何も物音は無い。

時間だけが緩やかに過ぎ、肌に感じる心地良さに身を浸す。

――が、ふと気になって振り返って空を仰いだ。

物音もしないという事は、彼が立ち去っていないのだと思ったからだ。

けれども。

そこには誰もいなかった。

昼食は茄子のトマトパスタに胡瓜とキャベツのサラダ。

フォークを手に取ってパスタを一巻きして口へ運んだ時、レール式の横開き扉が滑るように開いた。

「楠田さん」

私は入って着た水色のパジャマに身を包む、少女の名前を呼んだ。

「食事中御免ね、忘れものしてたの」

彼女は隣の病室に入院している患者だった。

私と違って朗らかに笑い快活に喋る彼女は、病院内でも誰からも好かれているようだった。

どこが悪いのかは忘れたが、見る限りでは体調に問題はないように思える。

「何忘れたの?」

彼女とは午前中に、この病室で話したばかりだ。

性格は正反対ではあっても、年が近い事もあり私と彼女は自然と仲が良くなった。

「外したピンを置き忘れていたみたい」

窓枠歩み寄り、なるほどそこに置きっ放しになっていた花を象った可愛らしいピンを手に取りにこりと微笑む。

その表情を見て、お日様みたいね、と看護師が彼女に言っていたのをふと思い出した。

彼女が太陽なら、差詰め私は月を取り巻く闇だろうか。

「お邪魔しました。また後でね」

と足早に出て行く。

あまりベタベタしない所も、好感を持てる一因だ。

仲が良くなったのには、もう一つ理由がある。

彼女も私も大層な読書家だった。

その点だけが、唯一似通っていると言える。

食事もそこそこに私はサイドテーブルに置いたままだった、小説を手に取りまた読み始める。

四人部屋に一人きり。

煩わしくなくて丁度いい。

あまり人付き合いの得意でない私は、独りでいる事を好む。

病気の症状から、他人は私をよく嘘つき扱いした。

ここではそんな扱いを受けた事はないが、学校に行っていた時はそういった中傷は当たり前の事だった。

小説を読むか散歩をするか、入院生活の方が私には向いているかもしれない。

仲良くなった人間は楠田さんくらいで、患者で言えば誰一人いない。彼女にしても向こうから積極的に話し掛けて来なければ、言葉を交わす事などなかっただろう。

その楠田さんに借りた小説を読む内、朝に会った少年のことも忘れ、その内容に没頭してあっという間に日没を迎えてしまった。

病院の消灯時間は早い。

「じゃあ久美ちゃん、おやすみなさい」

いつものように担当医から簡単な検査を受け、消灯を知らせに来た看護師に電灯を落とされた。

つまらない。

小説の続きを読もう、そう思って頭上のライトに手を伸ばした。

かちり、とスイッチを入れた音がする。

けれどライトは点る事もなく、変わらない漆黒だけが私を包んだ。

故障か。真新しいであろうライトに、軽く舌打ちをする。

この程度でナースコールを押すのも憚られ、大人しく布団の中へと潜り込む事にした。

電灯が消された室内で、身じろぎせずに上布団を肩まで被り、目を閉じた。

静かな夜。どれくらい経ったのだろう。

うとうととし始めた時、扉を開ける僅かな、音がした。

暗い室内に歩く、人影。

性別すら分からない程の暗闇に、私は体を固くする。

見回りだろうか、そう思って影を目で追う。

「今日は満月だね」

不意にベッドを囲むように閉じたカーテンが、揺れる。

変声期独特の掠れた高い声。

「誰?」

影は私の側でぴたりと止まり、忍び笑いが聞こえた。

「今晩は」

瞬時に頭に浮かぶ、昼間会った少年の顔。

私は少しぞっとする。

全くの得体の知れない、不安を引き起こす。

「何で」

闇の中で呟いた私の問いは、あまりにも無意識で自分でも何を問うているのかは分からなかった。

「君は患者なの?」

体を起こす。きしり、とベッドが鳴った。

「ねえ、あれ。どう思った?」

私の質問には答える事無く、少年は声を潜める。

それでも言葉の端々にひどく興奮している事が、手に取るように分かった。

「あれって」

「あれだよ。池の中、見ただろ」

「池の中?」

何の事か分からずに、私は「池の中」と繰り返した。

「覗き込んでたじゃないか。面白くなかったかい」

さっぱり分からない。

この子は少し頭がおかしいのではないか。それともおかしいのは、やはり私の方なのだろうか。

興奮を含んだ声は、静かに続ける。

「ねえ、もう一度見てご覧よ。君なら、見ても構わないからさ」

さらりとした、髪が頬に触れた。

そんな間近に近付いているとは思っていなくて、私は体をびくりと震わせた。

森林のような匂いが、髪から香る。

寄せた吐息は冷えていて、肌の白さに息を飲む。血管が透ける程、病的に――そう病気のような。

「見に行こうよ」

「……」

どうしてベッドから出てしまったのか、自分でも分からなかった。

少年――イツキの声は、命令的でもないのに、何故か抗う事を許さない。

ふらふらと付いていく私は、まるで夢遊病者のようだと思った。

手を引かれ私達はあの池へと向かう、夢を見てるようなおぼつかない足元のせいで私は幾度か躓き、膝に擦り傷を作りその痛みの度に、夢ではないと覚醒する。

都会ではないせいか、夜になれば幾分温度は落ち着いて、肌に当たる夜風は涼しい。

けれどそれは心地良くはなく、ただただ寒々しかった。

私は、何をしているのだろう。

旧館の側に寄れば寄る程に、夏の虫の鳴き声が鼓膜に突き刺さる程に煩く、私は耳を塞ぎたくなった。

昼間の自然の健康的な緑の色合いとは一変し、暗がりの中で見る池端は雑草と樹木で鬱蒼として見えた。

気味が悪い。

かさかさとパジャマの裾に擦れる雑草も、やけに大きな音に感じる。

足首を撫でる柔らかな草さえ、不愉快だ。

こじんまりとした池に違いないのに、月夜に照らされたそこは、大きく確かな威圧感を持って私を迎え入れた。

藻が浮かぶ汚れた水。

満月が映りこむ静かな、とても静かな空間。

不意に虫の鳴き声が、止んだ。

揺らぐ薄緑に染まった水は今は黒くて、きらきらしている。

浮かぶ葉。

映る月。

ただの庭を、夜は幻想的に見せる。

そっと、息を吐いて水を眺める。

揺らめいて見える白いもの。

水面からそう遠くはない、場所にあるもの。

風が止まる。息を止めて私は水面を見つめる。いつも揺らめいている水が、静かになる。

白いもの。

それが何なのか、私には分かっていたのかもしれない。

「あ」

「見えた?」

不意に、吐息と共に耳元で囁かれる声。

喉元までせり上がる叫び声が漏れなかったのは、背後から抱きすくめるほっそりとした腕に怯えたせいだ。

森林の匂いが、する。

「……あれ」

一呼吸後、風がまた凪いだ。

「うん。ねえ、面白いでしょう?」

風さえ、ぴたりと止んで、掌にじわりと汗が滲む。


2010年06月12日(土)



 リバーシブルチェイン③

画面一杯に映る幽霊だか化け物だか分からない女の顔は、正直別の意味で怖い。

「うげ。メイク気持ち悪いコノヒト」

「そんな冷めるような事言わないでよ」

「だってそーじゃん」

密着が濃くなるのは、さらにもたれ掛かってくるからだ。
完全に風邪が治った訳でもないのに、すっかり椅子代わりに背中を預けられ、仕方ねえなと溜め息を吐いた。仕方なくそれに徹する事にしてみる事にする。

顎の下にくる柔らかな短い髪に、ふと指を伸ばした。

「髪もう伸ばさないの?」

「んー…短い方が楽だもん」

長い栗色の髪が似合っていた姉ちゃんが、項が隠れる程度の長さに切ったのはこの春だった。
たかが髪の、長い短いが随分とイメージを変える事に、驚いたのを覚えてる。
それまでの姉ちゃんは美人だけど、冷たい印象の方が強かった。 どこか遠くを見ているような、距離を感じるような。
勿論俺にそんな距離感は感じなかったけれど、知らない相手ならそう思えるだろうと思えた。

背伸びしていた所もあったんだろうけど、そういう印象だった。

でも髪を切って、随分と幼く見えるようになった。甘えたがりの、女の子のような。そしてそのイメージそのままに、性格も昔のように明るくなったような気がする。

「お昼何食べたい?」

「さっき食ったばっかじゃん」

「お腹一杯の時にメニュー考える方がいいって言うもん、無駄遣いを抑えれるんだって」

何だそれ。

「聞いたことないんですけどー」

「ええー?」

眉間に皺を寄せて派手に振り向いてくれるのはいいけれど、知らねえし、と再度呟く。

「リク、何にも知らないからなー」

なんていう失礼な台詞を吐いてくる相手の頭の上に顎を乗せて、はた、と気付いた。

「それ買い物の時の話じゃねえ?」

「そだっけ」

「そだよ」

「うーん? それよりさっきからさあ、重いんだけど」

振り落とすように顔を上に向けるものだから、後ろに沿って離れる。近い近い。この人はこういう事に、本当無頓着だ。
幾ら弟でも家族でも、距離のとり方ってものがあるだろ。
そう考えてから苦笑する。今の体勢で何考えたって言ったって、説得力ゼロ。

「…なに」

「んーん、何考え事してんのかなーって思って」

気付けばまだ上を見上げたままの体勢で、俺を見つめてくる姉ちゃんの目とかち合った。不意に気恥ずかしくなって、唇を尖らせ画面を指差す。

「姉ちゃんが見ようって言ったんじゃなかったっけ、このビデオ」

「見てるってば」

本当かよ、と声は出さずに唇だけ動かして紅茶のカップを取り、一口飲んだ。
しばらくする内に流れ出すエンドロールの長さには、どんな内容のものだってこれだけの人間が関わってるんだなあ、という事だけを妙に関心させてくれる。

姉ちゃんは黙って画面を見つめる。
黒い画面に白文字だけが浮かぶせいで、俺たちの姿が映りこんでいるのが見えてしまう。
表情まではわからないけれど、楽しそうではないように思えた。

「リッちゃん」

「…何」

変わらず前を見たまま、ぽつりと呼ぶ声に、僅かに身じろぎして答える。
安心しきったようにもたれかかってくる、小さな体。

「――大丈夫だからね」

細い肩を見ながら、首を傾げる。何が、と唇を動かした時、短い髪が揺れて姉ちゃんが振り返った。

「お姉ちゃんがついてるからね」

そう言って微笑む姉ちゃんの顔はやっぱり姉ちゃんで。
だから俺は「それどういう意味」という言葉を飲み込んで、ただその顔をぼんやりと見つめてしまった。


*


「もう風呂入ったの?」

髪のしっとりと濡れた姉ちゃんの姿を見て、もう外が暗い事に気付く。

「今日は早めに寝ようと思って」

どことなく照れたように笑う顔に、首を傾げながら「じゃあ俺も」と風呂場へと向かった。
昨晩かいた汗をシャワーで流すだけで、ひどく心地良かった。
元々長風呂が出来ない性質という事もあり、さっさと体を洗い終えると、バスタオルを取って上がる。肌の火照りに触れる冷気が気持ち良かった。
特に何もしていない一日にも関わらず、身体は何処かだるさを訴える。こんな夜は、さっさと寝てしまおう。

ペットボトル一つ取って部屋に向かおうとしたところで、

「リク、待って」

風呂から上がってきた俺を待ち構えていたように、姉ちゃんがおそるおそる、といった様子で近付いて来る。

「何? まだ寝てなかったの」

「うん。ちょっと、寝れなくて。ね、たまには一緒に寝よう?」

俺たちの間では特に珍しくはない。 どちらかの部屋で長居するうちに、同じ屋根の下だというのに自室に帰るのも面倒くさくなって一緒に寝てしまう。
ただわざわざ一緒に寝る約束なんて、今までした事がない。

「あー…風邪、移るから駄目」

意地悪な気持ちになったわけでなかったけれど、治り切ってないのだから、と至極当然の事として言った。なのに、一緒にペタペタと付いてくる軽い足音。

「だってさ、もう治ったって言ったじゃない」

「平気って言っただけじゃん」

「えー…」

バスタオルで髪を拭き自分の部屋へと入ると、姉ちゃんもそのまま付いて入って来た。 まさかあれか、実力行使ってやつか。普段にはない強引さに若干驚きながらも、少しばかり困ったような顔をする姉ちゃんの顔にふと思い当たった。

「まさか昼のあれ、怖かったーとか言う?」

まさかのまさかだから、そんな筈もないだろうけど、と笑って言えば相手はそうでなかったらしく更に困ったような顔をした。

「…リッちゃんは平気なの」

「え、何。マジで怖いの」

「怖いもん」

女の子が見上げてくる様は、随分可愛いものだと今更に思う。 縋りつくような視線は、大抵の奴は庇護欲をそそられるんじゃないだろうか。
それを姉ちゃん相手に感じるのがどうかは別として、だけど。

「ああそ。それじゃ別に一緒で良いんだけどさ、移っても知らないから」

「大丈夫だよ」

何が大丈夫なのかまでは言わないままに、姉ちゃんは嬉しそうに扉を閉め先に布団にさっさと潜り込む。きちんとスペースを残してくれてるのは、優しさからなのか怖いから離れたくないのからなのか。

「電気消していい?」

「ちょっと待って。あ、いいよ」

ん、と返事にならない返事をしてから、電灯を切ってしまえば暗闇が落ちる。同時に静けさが舞い降りる。暗闇と静止は同時なのだろうか、と思える程静かだった。
布団に潜り込んだ俺に擦り寄る小さな温もり。そんなに怖いのか、とは茶化さなかった。
一人で眠れなくなるくらいなら、見なければいいのに、とは思ったけれど口には出さなかった。

「俺眠いから起こさないでね」

「もー寝ちゃうの?」

「俺は眠いの、薬飲んでるし。だいたい姉ちゃんだってさ、早く寝ようって言ってた、じゃん」

目を閉じれば、眠りに落ちる前の、独特の意識の緩慢さが訪れる。

そっか、と小さな呟きが聞こえ、同時に俺の手がとられる。強引に繋がれた手は少々冷えていた。振り払うのも憚られるけど、さすがに手を繋いで寝るなんて小さい時以来だ。

「…もーすぐ懇談あるね」

睡魔が近くなってぼんやりとした頭に、不意に固くなった声が届く。懇談。そういえばそんなものがあったっけ。

「…だっけ」

「うん。たぶん、叔母さんが来てくれると思うの。去年もそうだったから」

親父の弟夫婦の顔が、にわかに脳裏に浮かぶ。二人共喪服姿だ。冷たい顔して、列に並ぶ後姿。明らかな迷惑そうな顔なのは、親父の親戚と言えばその人達だけだったし、母さんは身寄りがなかったからだ。

無声映画みたいに、二人が何か言っている映像だけが瞼の裏で流れていく。あれは葬儀の後だったかもしれない。ああそういえば、月が変われば命日だった。
風邪薬の影響もあってか、大して動いてもないのに眠気は頭の中を侵食して、夢なのか記憶を思い出しているだけなのか、わからなくなっていく。

「眠い? ごめんね」

返事の代わりに繋いだ手を軽く握り返す。
額に触れる手の感触に、母親の掌を思い出す。

「ごめんね」

どこか寂しそうな声を聞いて、俺は眠りに就いた。

2010年06月11日(金)



 リバーシブルチェイン②

夜はやたらと寝苦しかった。

気温は深夜になるにつれ下がるのに、体温は上がっていくばかりで、自分の熱を持て余して何度も目を覚ました。
ぼんやりとした頭の中は、考えたくもないことばかり考えさせる。
上がる息に、熱さに、温くなったタオルの不快さに、苛立ちがのぼる。
指先まで動かないのは、寝ているからか、高熱のせいか。それでも苦しくて、どうにかしたくて、額に乗ったタオルを振り絞った力で退ける。

澱んだような空気が少し動いて。
不意に冷えた何かが、額に触れた。

何かを確かめたくて、目を開けようとした。
なのに重くなった瞼は、開けることを許さない。
どこかで感じたことのある、感触だった。その記憶を働かない頭で考えるうちに、思い当たり、胸が苦しくなった。
――夢だ、こんなの。
だから打ち消す為に唇を動かした。僅かな息が漏れる。それ以外に音は紡げなかった。
額に触れる冷たさは消えない。
夢が、覚めない。
だから、もう一度呟く。今度は、少しでも、思い出さないように。

「…母さん」

今度は、吐息じゃなく。

触れた時と同じように、一瞬でそれは離れる。
ほら、覚めた夢。それを望んだはずなのに。
あぁ、ちくしょう。

夢だとわかっていても。わかっていても。
鼻の先が熱くなる感覚に、眉間に力が入る。
頭の芯を溶かすような熱が、身体の奥底から這い上がってくる気がした。熱さばかり増すのは、熱のせいじゃない。
浅い呼吸を繰り返すうちに、意識が混濁する。
再び額を冷たい掌が触れた気がして、それがまた夢の始まりなのかわからないうちに、意識は深い闇へと落ち込んでいった。




ふと目を開ける。
頭の痛みが随分とましなのは、処方された薬のおかげだろうか。
ふらつくのは最初だけで、起き上がってしまえば、寝不足の朝とそんなに変わらない気がした。

数枚着込んだ部屋着は一晩中の熱のせいで、汗ばんでしまっている。
それらを脱ぎ捨ててから、適当な服に着替え部屋を出た。

姉ちゃんはまだ寝てるのか、家の中は静かだった。
時計を見ればまだ六時、日曜日にそんなに早起きする必要もない。
冷えた炬燵に身体を潜り込ませ、ぼうっと辺りを眺める。
自分の部屋よりも台所が見えるこの場所が、昔から俺の定位置だった。

小学生の時はこの机の上で宿題をしながら、台所に立つ母さんの背中を見るのが俺にとっては当たり前の事で。
他愛のない話をするのも、当たり前の日課で。

学校であった事や友達の事、先生の事、姉ちゃんの事。
その一つ一つに相槌を入れ、時に嬉しそう上げる笑い声。

極平凡な、家庭の一風景。
でも二度と戻らない、光景。

何を話したかなんて、何一つ覚えてない。覚えているのはただ笑いあった、という事。

特別仲の良い親子、という訳じゃない。
どこにでもある、家庭だったと思う。
時に喧嘩もしたし、後数年経てばまともに口も聞かない時期だって、やってきていただろう。
あの時よりもっと距離を置いて、大人ぶって偉そうな口を叩いていたかもしれない。

けれど俺の反抗期も迎えないままに、母さんも親父も目の前から消えてしまった。

もう俺が、反抗期を迎えることは、きっとない。

見慣れた炬燵は、もう随分と古くなってしまっている。
そのまま寝入ってしまったせいで蹴飛ばして緩んだ机の脚だとか、擦れてしまったテーブルの角だとか。
新しくする理由は幾らでもあるのに、それでも、買い換える話は姉ちゃんとの間で、出た事がないのはこれが大事な物だって、お互い思っているからだ。

手持ち無沙汰につけたテレビの画面からは、どこも情報番組しかやっていなかった。
見るともなしに、テレビの上に置いたままの写真が目に入る。
未だ色鮮やかな、最後の家族写真。

俺が中学に入学した時に撮った一枚で、何の煌びやかさも派手さもない、平凡な家族の肖像だろう。
けれどその代わりに、今はもうどこにも無くなって温もりがそこに見出す事が出来る。
苦しくなる。でも、温かくなる。そんな、写真。

悪戯っぽく笑う姉ちゃんと、照れ隠しに不機嫌そうな顔をする俺と。
そんな俺らを挟む様に両側に立ち、嬉しそうに笑う親父と母さん。
かつては確かに存在した、幸せな――幸せだった家族の絵。

それが、その中には今もちゃんと存在していて。その中だけにしか、存在していないような。


「リク? もう起きて平気なの」

後ろから声を掛けられ振り向くと、まだ寝間着姿の姉ちゃんが立っていた。

「なんか…寝飽きた」

「飽きないでよ。寝なきゃ治らないじゃない」

呆れたように笑い近づいてきた姉ちゃんは、俺の額に手をやる。

「あ、でも大分下がったかな」

「平気だってば」

額を覆う白い手は、何かを思い出させるようにひんやりとして心地良かったけど、それからするりと逃れ離れる。


「朝ごはん作るね」

俺の言葉を聞いても、少し心配そうな顔をして見ていた姉ちゃんは、そう言って台所へと向かう。
それから冷蔵庫を物色して、キャベツやら玉葱を取り出して一つ頷く。

「何作んの」

「食べたいものある?」

少し顔を上げて此方を見た姉ちゃんに、少し首を傾げて俺は「何でもいい」とだけ言って炬燵の中に潜り込んでテレビに顔を向けた。
天気予報にニュース。どれも大した話題じゃない。
台所から玉葱を炒める、甘い匂いがしてくる。
少し香ばしいそれに、昨日まで無かった食欲が誘われる。

ピピピ、と不意にアラームのような音が鳴った。
あぁニュース速報だ、と何気なく画面に視線をやると、ニュース速報のテロップが上段に表示されるところだった。

「―――」

目に入る文字に、一瞬息が止まる。

「ニュース何? 何かあったの」

台所からする玉葱を炒める音と、姉ちゃんの声。
弾かれたように、慌てて番組を替えた。
出来るだけ平静を保とうと、一つ深呼吸をする。気付かれないように。

「や、何でもない」

「ふうん」

不審を抱いた様子のない返事に安堵し、目を閉じる。
もうテレビの声は耳には入らなかった。

閉じた目蓋の裏に画面に映った“飛行機墜落”の文字が、鮮やかに蘇る。
墜落だって?
炬燵布団に顔を埋める。感情の波が、通り過ぎるの待った。

「…またかよ」

息が苦しい。
またかよ。小さく呟いた。
きつく握った掌が、僅かに震える。

三年間、一度だって俺は泣かなかった。
俺まで泣いてしまったら、駄目だと自分に何度も言い聞かせた。
泣き叫ぶ姉ちゃんを、これ以上不安にさせないように。
俺がしっかりしなくちゃ駄目なんだって、そう思うことは込み上げるいろんな感情を押し込めさせた。
涙一つが、自分さえも不安にする行為だと、そう思い込んだ。

悲しくても苦しくても、笑えるように。嘘でもいいから。
笑えるように。
本心じゃなくていいから、心は重くてもいいから。
何もなかったように、笑っていなくちゃならなかった。

そんな事をしている内に、俺は本当に泣けなくなった。
――弟なんだからと気にしないでいっそ泣いてしまえば、楽になったのかもしれない。

全て吐き出してしまっていたら、鉛みたいな重みは残らなかったのかもしれない。
でも。
今更そう思っても、無駄だった。
泣くという行為は、とっくにもう俺の中で上手く機能しなくなってしまっていた。



「出来たよ。ほら、起きて」

肩を揺さぶる手に目を開ける。眠っていたわけじゃなかったが、寝ていたように目を擦る。眠たいの、と姉ちゃんが笑う。それでいい。唯一、繋がった相手。

「うん」

緩慢に起き上がって見た机の上には、飴色のオニオンスープに、トーストが置かれていた。

それに甘い香りのする紅茶。

「アップルティー?」

「アップルのシロップも垂らしたよ」

林檎がジンクスみたいな姉ちゃんは、いつのまにか始まっていたトーク番組で笑って答える。

「香りだけじゃね? それって効果あるの」

「さあどうだろ。気持ち的にはあるんじゃないのかなあ」

意味ないじゃん、と苦笑して湯気の立つスープを飲む。
あまり味覚は働かなかったけれど、温かさが心地いい。
丁寧に炒められた玉葱は、スープに溶け込んだような色をしている。
料理なんて全く出来なかったくせに、今では随分器用にこなすようになったと思う。


「まだ九時じゃん。なんかすげえ暇なんだけど」

「しょうがないじゃない、リクが風邪なんか引くんだもん」

「なんだよ俺のせいかよ」

食事の後も二人で何する訳でもなく、他愛のない話をしている間に時間が過ぎていく。
話さなければならない、というのは俺の強迫観念かもしれなかった。
どんな下らない事でもいい。二人でいる時は何かを紡ぐ、そうしなければいけないと思った。

降って降りる沈黙が、怖かった。
静かなことは、人数が減ってしまったことを、否が応にも認識してしまう。

「ビデオでも観ようか」

姉ちゃんが何気なく、思いついたように言った。

「ビデオ?」

「うん、借りたんだぁ」

覗き見た横顔は自然な表情だったけれど、こういう時、俺はいつも思う。
本当はわかってて、姉ちゃんは俺に合わせてくれてるいるんじゃないかって。

「いーけど」

「やった。じゃあちょっと待ってて。取りに行くついでに着替えてくる」

自分だけいつまでも寝間着だった事に気付いたのか、素早く立ち上がると部屋を出て行った。
もう一度注いでもらったアップルティーには、シロップは入れずにストレートで飲む。
先程よりも、ずっと美味いと思った。

「お待たせ。これこれ、面白いんだってー」

戻って来た姉ちゃんは、リモコンを手に取った。

「なんのやつ?」

「あのねえ、ホラーらしいよ」

大げさな口調で振り返る顔は、悪戯っぽく幼く見えて。ふと、テレビの上の写真と重なる。

「げ、」

そのイメージを振り払う。違う、もう、あの時の俺達じゃない。

「見るってゆったじゃん」

唇を尖らせ、パッケージを俺に向けた。
夏前ぐらいからこういう心霊だかホラーだかのツクリモノにハマってるらしく、クラスでも回し合いになってるとは聞いていた。
これで見せられるのは何本目だろう、と換算してみたけど両手じゃ足りない事に気付いてやめた。
不意に体にかかる、重み。

「何してんの」

俺に背を預けるようにして、姉ちゃんは人の足の間に身体を挟みこむようにして座る。

「こうやったら怖くないじゃんか」

「いやいやいや。これじゃ俺、椅子じゃね」

両膝を立てて座る俺の足の間で座る後姿は、父親に甘える小さな女の子みたいだと思った。

「なぁにゆってんの。違うよ、ガードだよガード。何があるかわかんないじゃん。ホントに呪われたりしたらどうすんの」

「作りもんで何言ってんだか。怖いんなら観んなよ」

「だって観たいんだもん。それにさ、一緒に呪われるんなら安心じゃない」

「…何が安心なのかさっぱりわっかんないんだけど…はいはい、いーよいーよ」

後ろから冗談めいて抱き締めてやると、姉ちゃんは安心したように笑ったのがわかった。
本当に小さな女の子みたいだ。
柔らかみのほとんどない身体は、一時期よりは太った。
勿論、それでもまだ足りないくらい程度の、肉付きしかない。

「抱き心地がイマイチ。もっと肉付けたら」

「ふふ、リッちゃんその発言はセクハラだね」

姉ちゃんはたまに俺の事を、小さい時の呼称で呼ぶ。
それは機嫌の良い時に限っていて、姉ちゃんがそう呼ぶ度に安堵する。
温かい。動いてる。話してる。笑ってる。

それが、生きている証拠。


2010年06月09日(水)



 午後九時のInvitation

午後九時。清掃も片付けも終わって照明を落とす。日中は華やかで賑やかな空間が生み出すこの静けさが、感傷的に一日の終わりを告げた。
よし、最後の戸締まり終了。今日もお疲れ様。自分にそう呟いて歩道に繋がる階段を降りれば、

「お疲れさま」

停めた車を背もたれ代わりにした春日が、手を上げてあたしを見ていた。

「…何でいるの」

驚きを隠せなくて声が大きくなってしまって、慌てて口を覆った。それが可笑しかったのか春日が少しだけ笑う。

「何でって、見ての通り待ってたんだけど。でも思ったより早かったね」

少しだけ竦めた肩が寒そうで、思わず立ち止まる。

「いつからいたの?っていうかさ、上がってこれば良かったじゃない」

従業員がいたっておかまいなしに入って来てはベタベタとくっついて来る人間が、こんな所で待っているなんて思う筈がないじゃないか。

「あぁうん、でもほら、最近駐禁がきついじゃない。だからここで待ってた」

珍しく歯切れ悪く春日が言った。

「こんな時間に?」

思わず笑えば、春日も笑った。全く。らしくない。「まったくもう」今度は口にして、傍に駆け寄る。

「寒かったでしょ」
「そうでもないよ」

嘘ばっかり。白い吐息と同じような色合いの頬。掌をあてれば思った以上に冷たかった。

「ほら、すっごく冷たいし。あんた、風邪引きたいわけ?」

眉を寄せて睨んでも、春日は何でもないように口許を綻ばせて。

「別に。泉ちゃんが看病してくれるからいい」

なんて嬉しそうに目を細めた。

「何。その決定事項」
「してくれないの?」

僅かに眉を下げて伺うような表情に、あたしは簡単に落ちる。

「そんなこと言ってないでしょ。それくらいするよ、するけどさ、あたしが言ってるのはそんなんじゃなくて」

と返して、溜め息を吐いた。

「体調管理も出来ないなんて、経営者失格だよね」
「…そうくるかー」

ぴしゃりと言い切ったあたしの言葉に返される苦笑。

「当たり前だよ。あたし、経営に関しては先輩だから――ねえ、ちょっと屈んで」

先月買ったばかりのコートの衿を軽く引く。
不思議そうな顔をしながらも、あっさりと素直に折れた膝に満足して、自分の巻いていたマフラーを外す。
それから、黙って膝を折ったままの春日の首に巻いてやった。うん、今日はいつもはあまり巻かない淡いブルーにして来て良かった。
女物のピンクじゃさすがに巻かせてくれないだろうし、似合わない。

「暖かいね、これ」
「そ」

心底暖かそうな顔をした春日はうっとりするくらい柔らかな笑みを零し、冷たい手であたしの頬に触れる。

「ストップ」
「……なんで?」

寄せられた顔の前に掌を突き出せば、不満そうな春日の声が路上に響いた。

「調子に乗らないの。外でそういうことするの、嫌だって前に言ったでしょ」
「せっかくいい感じだったのに」
「……。それはあんたの頭の中だけ
で、今日は何の用事?」

じろりと見上げれば、春日は苦笑いを浮かべ「んーとねぇ」コートの中に手を突っ込んで、紙切れを取り出した。

「なにこれ」
「チケット?」
「疑問で返さないで。馬鹿みたいだから」
「酷い」

呟く春日を無視して、手にした小さな紙を覗き込む。確かに映画のチケット、だ。それをひらひらとさせて春日は、

「先行公開ってやつ? 今晩がそれなんだって。行かない?」

「今から?」
「今から」

手元を覗き込めば、観たいと思っていた洋画のタイトル。
でも今月の予定を考えれば、講習会の続く定休日ですら行けないと諦めていて。
レンタルされるまで待つしかないか、とひそかに考えてたんだけど。

ちらり、と見上げれば僅かに首を傾けてあたしの返事を待つ春日。
ツナの缶を手にしたあたしを見る時のコウタによく似ている、と言ったら嫌がるだろうか。だろうな。
でもそれよりも、本当こいつは――。

「…わかっててやってるでしょ」

小さく落とした独り言は届かなかったらしく、春日は片眉を上げて伺うような表情をしただけだった。

待たせた――故意でも本意でもないところが更に不本意だ――罪悪感に、観たかったロードショー。
揃いすぎた条件の答えは一つしかなくて。

「…いく」
「そう。良かった」

ほら、その心底嬉しそうな顔。そういう顔されると。
別にいいかと思ってしまう。上手く乗せられたことも、たったこれだけの事で上機嫌になってしまった事も。

腕を引かれて助手席へと導かれ。

「どうぞ」

芝居がかった仕草で、扉が開かれる。
くすぐったいような、気恥ずかしいような気持ち。知られたくなくて、わざと澄ました顔を取り繕う。
だから「ありがと」その四文字さえ素っ気ない。でも春日はきっとわかってる。あたしが今どれだけ、喜んでいるか、なんて。



エンジンの切られた車の中は、しん、と冷えていた。

「寒い? ごめんね」

僅かに身体を震わせたあたしの頬に、冷えた指がつい、と滑って離れていった。
そっちのほうがよっぽど寒いくせに。
でも素直じゃないあたしは、頭を左右に軽く振っただけで、黙ってしまう。

小さな振動が体を包み、エアコンから吐き出される冷気混じりの温風から顔を背けた。
低い視線から窓越しに見る自分の店が、まるで知らない場所のように見えて。
いつもと違うあたしのようにも思えて。


動き出す景色に細く開いたままだった窓を閉め、前を向く。

「はる、」
「んー?」
「嫌いじゃないよ、あたし」

だから、たまには口に出しても悪くない。

「何の話?」
「…あんたが迎えに来てくれたりするの」
「それは良かった」

前を向いたままだったけれど、嬉しそうに笑う春日の横顔に自然とあたしも微笑んで。

赤になった信号。
大通りはまだまだ賑やかで、ハンドルから手を離して肘を付く春日の横顔を飽きずに眺めてから。
――衝動的に唇を掠めた。

「外でこういうことするの嫌いなんじゃなかったっけ」

しばらくして、ぽつりと落とされる声音はとても静かだった。あたしからするキスなんて、初めてかもしれない。だったら少しでも動揺してればいい。

「かろうじて室内だよ」
「…そうくるか」

信号が変わる。手の中にあるチケットに刻印された開始時刻まで、一時間と少し。
決して短くはないけれど、滅多に見られない春日のこんな顔を見ていられるなら。

きっとあっという間。


【END】

2010年06月07日(月)



 リバーシブルチェイン①

いなくなって初めて、それが大事な人だと気付くのだと言う。
心の空虚感が、それを知らせるのだと言う。

それなら最初から大事だった人がいなくなれば、どれだけ空っぽになるのか。その深さを人に伝える事は不可能だ。

泣いても喚いても戻らないのに、わかってるのに、それを繰り返す。
4、引く2は、2。
簡単な引き算だ。
だけどそんな計算を自分の家族でしなくちゃならないなんて、思わなかった。
ある日突然、親父と母さんがいなくなって、俺と姉ちゃんだけが残されて。

俺はあの日から、空いた穴を埋められないままに生きている。


*


「はい。あーんして」

粥を掬ったスプーンを俺の目の前に差し出して、姉ちゃんはそんな事を言った。
炬燵の上に置かれた小さな一人用の土鍋からは、半透明の湯気がもうもうと立ち上り、その熱さを明確に伝えてくる。

「一人で食えるってば」

湯気の量が半端ない。そのまま金属製のスプーンなんか口に入れたら、火傷するのは目に見えている。

「なんでよー。せっかく看病してやろうって思ってんのに。ほら、口開けて口」

炬燵に腕まで潜り込ませ、机に突っ伏した。

「リクー? しんどくなっちゃったの?」

「……そんなんじゃねえけど」

スプーンから逃れる為だって気付けよ。
高校生にもなって幾ら風邪で寝込んでるからって、姉ちゃんに食べさせてもらう義理はない。 ないはずだ。ないよな。

やたらと熱さを主張しているその粥を喰わせようとするあたり、鈍感なのかサディスティックなのか、どちらにしても遠慮したい。

「いーって、マジで。自分で食えるし」

「何言ってんの。学校早退してまで弟の面倒見てやってんだからね」

未だスプーンを片手に持ったまま、姉ちゃんは恩着せがましく唇を尖らせた。 我が姉ながら、可愛らしい、と思ってしまうあたり俺はどうかしてる。


「もー、ほら開けてってば」

「あ…つっ」

痺れを切らせたのか開けてもない唇に、スプーン無理矢理が押しつけられ、思わず退けぞった。
熱い、と言う前に声が出なかった。
とろり、とした粥は尋常じゃないくらい高温で。痛い。

反射的に顔を背けたせいでスプーンが、かしゃん、と派手な音を立てて机に落ちた。

「ちょっと、行儀悪いー」

「や、おい。誰のせいだよ誰の」

「えー? そんな熱かった?」

「洒落になんねえよ」

「うーん? そうかな」

土鍋の状態を覗き込んで、姉ちゃんは不思議そうに言った。

「舌が鉄で出来てんじゃない、姉ちゃんは」

「何でよ。ああもう零れちゃったじゃない。リク、ちょっとここ拭いて」

「何で俺が」

「リクが零したんでしょう」

粥が入った茶碗を炬燵机の上に置き、姉ちゃんは俺を追い立てるように手を振る。

「…姉ちゃんが、看病するって言わなかったっけ」

「言ったよ」

全く悪気が無さそうな顔をして、姉ちゃんはあっさりと頷く。

「じゃあさ。せめて雑巾ぐらい、持って来てくれてもいいんじゃないの」

俺のぼそぼそとした反論に、聞こえよがしな溜息が姉ちゃんの唇から漏れた。

「なぁに言ってんのー。自分の事は自分でしなきゃ、でしょ?」

僅かに首を傾げて、姉ちゃんはにこりと俺に笑顔を向けた。

「…はいよ」

分かってて言っているのか、いないのか。
口癖になっているその台詞は、昔、母さんがよく言っていたのと同じだ。
時に怒って、時に呆れて、時に笑いながら。
あまり口煩い人ではなかったから、怒られた記憶はほとんどないけれど。

優しい人だった。
よく笑う人だった。
綺麗好きな人だった。
いろんなことを、話してくれる人だった。

中学生になった頃には、親父とも母さんともほとんど話した記憶が無い。
思春期特有の気恥ずかしさから、両親を遠ざけるようになっていた。
たくさん話しかけてくれたのに、何一つ覚えちゃいない。

覚えているのは、もっと小さかった時のことくらいで。
そんな記憶は曖昧で朧気で不確かで。

全部が過去形になって、何一つ未来がない。
もっと笑って欲しかった。
もっと優しくしてあげたかった。
もっと話を聞いてあげたかった。

最後に会った時、母さんは何て言ったんだっけ。
何で俺は覚えてないんだろう。
何でその時には何でもなかったはずの一瞬が、こんなに大切なものだったって事を、知らなければならないんだろう。

一つ溜息を付く度に、胸に鉛を呑み込んだ気分になった。
飲み込むのは後悔という、やり場のない苛立ちだった。
それを振り払う為に台所へ向かい、雑巾を手に取る。
昔の事を思い出した時は、動けば少しは楽になった。

「ついでに林檎ジュース取ってよ、冷蔵庫に入ってるから」

「ホント好きだね」

笑って冷蔵庫を開ければ、姉ちゃんも笑った。

『一日一個の林檎は医者要らずなのよ』

どこまで本気なのかわからない言葉を、けれど両親がいなくなってから守るようになるなんて思ってもみなかった。

黙って冷蔵庫からパックジュースを取り出し、雑巾を持って戻る。
そうして無言で机の上を綺麗に拭いて、姉ちゃんの目の前にジュースを置いた。

「ありがと」

「いーえ」

嬉しそうにジュースを見る顔は、俺より幼い気がする。
きっとそんな時は、母さんの事を思い出しているに違いなかった。

「リク、変な顔してる」

炬燵に潜り込めば、姉ちゃんがからかうように言った。

「うっせえな、姉ちゃんがガキみたいに嬉しそうにリンゴジュース眺めてるからおかしくなっただけだよ」

「嘘」

「嘘じゃないって」

「いーもん。リクこそ、そんな変な顔してると戻らなくなって不細工になっちゃうんだから」

「いいよ。別になっても」

「何言ってんの、そうなったらもう家に入れてあげないからね」

当り前のように姉ちゃんはそう言って、琥珀色の液体をストローで吸い上げた。 つん、と澄ました顔はペルシャ猫みたいだと思った。
その顔を見ていたら、少し意地悪な気持ちになった。
だから余計な一言が出てしまったのかもしれない。

「俺だって別にいーけどさ。そんな事したら、姉ちゃん一人になっちゃうんじゃねえの」

返事はない。言ってから後悔する。だけど、ごめん、という言葉は口から出てこなかった。



「お粥、ちゃんと食べなきゃ駄目だよ」

小さい声でそう言って、立ち上がる。俺を見ない。
不意に不安になって、手を伸ばした。

「ユイ、」

掴んだ小さな手は少し震えていて、更に後悔した。

「…ごめん」

掴んだ手を引けば、姉ちゃんは大人しく俺の隣に座り込む。
伏せた視線の先は、繋いだ手を見ているようだった。
伸ばした手と共に、姉ちゃんは俺にもたれ掛る。

痩せた華奢な体。肩にかかる重みは、大して感じない。

二人きりの生活が始まって、三年。
母さんと親父がいなくなってから、まだ三年しか経っていない。

俺達はまだ、それに慣れないでいる。

2010年06月05日(土)



 呉羽理央②

久住ケイ(25)…101号室のサラリーマン
呉羽理央(23)…204号室の美人


目の端に入れるのも、オゾマシイ。
新興都市から少し離れた、あるアパートの住人たちの話。

>>>>


101号室の久住さんは、少し変わっている。

見た目は極普通。寧ろ、上等な部類に入る。
血統は悪くなく、何処かの御曹司だと聞いたことがあるが定かではない。
さらに誰もが一度は耳にする有名な一流企業に就職し、出世街道をひた走る、まさに血統書付きのエリート。

久住さんの風貌にこのアパートは、似合わない。
だけど、久住さんの人間性にはしっくりと合う棲家は、ここ以上にないように思えた。




「新しい趣味ですか」

家賃を集金するために訪れた101号室から出てきた久住さんは、妙な出で立ちをしていた。
金の刺繍の入った常葉色の羽織着物を長身の体躯に纏い、白い布を額に巻き付けている。
病床の殿様のようだ、と思ったが口には出さなかった。

奇抜というよりはコスプレの一環のような時代錯誤な服装に、自然と眉が顰まる。相反して久住さんはご機嫌だった。


「趣味、ではないかなあ。僕ね、サークルを始めるんです」

久住さんが爽やかに、にこりと笑う。
どこかの大学生のようだが、彼はれっきとした社会人だった。
私は久住さんの笑顔が嫌いだった。顔は笑っているけれど、目が笑っていない。
観察するような好奇の色と、嘲る縁取りが交差する。
だからいつも侮蔑の眼差しを向けるのだけど、そうすると彼はさらに嬉々とした顔になる。

「サークルって、何かに入ったんです?」

「いや、僕が始めたんです。ほら、このご時世、殺伐としているというかあまりにも残酷じゃあないですか。利口に生きる人間が人の好い笑みを浮かべて、自分を信じて慕う人間を思うがままに利用する。
そのくせ利用価値がなくなれば、平気で切り捨てて己の欲を優先させるんです。使い捨てのようにね。いつの世も世間は上手く立ち回る人間を養護し、利口になれない人間を淘汰してゆくでしょう。まさにね、人が人に絶望する時代なんです。そうやって淘汰された人間は、社会からも弱者として蔑ろにされて生きていかねばならない。責められるのは常に、騙された側ですよね。けどね、そうじゃないんです、絶望した人間こそが、次の時代を担う人材でありエネルギーなんです。僕はですね、こんな時代だからこそ持てる希望を作り出したいんです。人の為にね、生きたいんです。ほら、普段なかなか出来ないでしょう? ゴミ出しと一緒でね。そうそう、良かったら理央さんも中に入りませんか、今丁度記念すべき第一回目の決起大会を始めるところなんです。これも何かの縁ですから」

開かれた扉の向こう。
とうとうと滑らかに話す久住さんの背後から見える部屋の中には、生気のなさそうな若い男女が数人ちらりと見える。

櫻井さんが病的な変人なら、彼らは生きる屍だろうか。
どちらにしても、こんな場所でこんな詐欺紛いのの世迷言を聞いてるくらいなら日光の一筋でも浴びたほうが有意義に違いない。

「――で、聞いてます?」

話の途中から空の流れる雲を見ていた私は、どうやら言いたい事を言い終わったらしい久住さんに目を移した。
ゆるゆると首を左右に振ってから、とびきりの笑顔を浮かべる。
そうすると、久住さんは少し嫌そうな顔をした。
彼はきっと、私の笑顔が嫌いなのだ。

「今日は集金に来たんです。それ以外のご用件はまた今度にしてくれます?」

私は大家という業務の、代理人をしている。やりたくてやった訳ではないが、引き受けた以上放棄する事も出来ないのだ。
業務を全うする以外に、101号室を訪ねる意味はなかった。

「僕の話、興味ありません?」

「全く」

片手の掌を見せて要求を繰り返す私に、久住さんがやんわりと微笑んだ。
何が楽しいのかは理解できなかった。私はちっとも楽しくないからだ。


「それより久住さん。ここで会合を開くんだったら、静かにしてくださいね。他の住人の迷惑になりますから」

「ああ、そこらへんなら大丈夫です。僕、静かにさせるのは自信があるんです。あぁそうだ、集金でしたね」

片眉を上げると懐から取り出した封筒が、私に差し出される。
見慣れた封筒の表には、いつも通り『家賃』と墨痕鮮やかな筆字で書かれてあった。


101号室の久住さんは、少し変わっている。

そう言ってしまえばこのアパートの住人全てが得体の知れない人間ばかりになってしまうのだけれど、あの人の得体の知れなさは他の住人とは少し違う気がする。

私にとっての久住さんは、虫酸が走るくらい大嫌いな生き物だけれども、観察対象としてはわりとレベルが高い相手だ。
けれど決して半径一メートル以内には寄り付きたくない。

その範囲を私が越えるのは集金の時だけで、それさえも無くす為に、そろそろ引き落としするべきか、と悩んでいる。

【END】

2010年06月04日(金)
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