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■ かくれんぼホリデイ②
「あれは、何。人、じゃない。 マネキン?」
「君も入ってみればいいじゃない」
耳朶に触れる程近い唇が放つ言葉は、拘束する細い腕と同じ様に私の体温を下げる。
身動きが出来ないままに、私は池のほとりの際に立つ。
「離せ」
大声を出したつもりだった。が、実際に放たれた声は随分か細いものだった。
「この池はね、イツキが作ったんだ。深さは大してないんだけどね」
「離せよ」
月は真っ直ぐに池を照らす。
白く揺らめくもの。
あれは人間じゃない、きっと違う。
私は勘違いをしている。
なのに、呼吸が早くなった。
「離してあげる。その代わり」
虫が、鳴き出した。
違う。
喚いているんだ。
「かくれんぼをしよう」
悪戯を耳打ちするかのように、イツキが耳元で囁いた。
その冷静さが、逆に私の恐怖心を煽る。
かくれんぼ。
怯えさせようとするような下心もかいま見えず、剥き出しになった純粋な好奇心が、姿が見えない分余計に気味が悪かった。
「君が隠れる。見付からなかったら君の勝ちだし、見付けられたら君はそこで終わり」
終わり。
何が?
唐突な提案に、私は無関心を装い、震え出した指先を握り締める。
怖い訳じゃない。
私よりは背が高いけれど、痩せたその四肢に力強さなど微塵も感じない。
きっと力の限り抗えば、何とかなる。
それなのに、発っせられる容赦のない威圧感は何なのだろう。
冷えた少年の華奢な腕。
その肌は月に照らされて、青白くさえ見える。
氷、みたいに。
「かくれんぼ」
いつのまにか私も同じように言っていた。
勿論そんなものをする気は、全くない。
「朝まで見つけられなかったら、君の、勝ち」
ゆっくりと解かれる腕の拘束。
でも。
「イツキに見つからなければ君の勝ち、だよ」
彼は薄く小さく笑みを零す。
晴れ渡る空の下で見れば優しさを備えて見えるであろうそれも、薄汚れた水の匂いが漂う暗い草むらの中では薄ら寒く見えた。
「いち」
緩やかな風が凪いだ。
私は考えるより先に何か小さな悲鳴のようなものを上げて、身を翻して走り出した。
彼はおかしい。
「……に」
イツキの声は遠ざかり、あっというまに聞こえなくなる。
彼は、きっとおかしいんだ。
開いたままの裏口に飛び込み、長細い蛍光灯から放たれる白く頼りない光がぼんやりと照らす通路を走った。
このままナースステーションに走って行き、おかしな少年がいる事を伝えればいい。
病棟は酷く静かで、そして無機質だった。
とにかく、誰か人を。人を見つけて。
必死に走ってるつもりだった。
声も出ない。
ただ震える膝と心を奮い立たせて、走る事だけしか出来なかった。
「すみません…っ」
明かりの点いたナースステーションに飛ぶ込むようにして、私は驚いた表情の看護師に先程の事を何とか告げた。
彼女は私をじっと見て、首を傾げる。。
「イツキ、なんて男の子、聞いた事ないわね」
そう独り言のように呟いた後、どこかへと内線をかけていた。
その白衣の背中を、私はじっと見つめた。
何事かをぼそぼそと話していた看護師は、私を振り返りもう困ったような顔をした。
「久美ちゃん。病室へ帰ろうね、もう夜中よ」
機械的に話す声を聞いて、この人は私の話を全く信じていないのだ、と悟る。
「本当なんです、さっきそこで…」
「あなた消灯後に外に出たの? …まあその話は明日聞きます。大体、外から中への出入りはなかったそうだし、イツキくんなんて患者さんいないのよ」
その表情は学校で私の言い分を聞いてから見せる、教師達と同じ色合いがあった。
「本当、なのに」
「久美ちゃん」
嘘を吐くな、とでも言いたげな表情。
気が付けば私はまた、走り出していた。
「久美ちゃん? ちょっと待ちなさい…っ」
後ろで名前を呼ぶ声だけが、微かに聞こえたが私は無視して走り続けた。
頼れるのは一人だけだった。
「楠田さん…っ」
もうとっくに寝ているであろう彼女の病室を開け、その名前を呼んだ。
一つだけ閉まっているカーテンには、明かりが点いていた。それに私は酷く安堵した。
「久美ちゃん? どうしたの」
カーテンが開き、驚いた楠田さんの顔が見えた時、途端に現実感に引き戻される。
先程まで非現実的な感覚が、ずっと付きまとっていた。
彼女の姿は、そういった奇妙な感覚を振り払ってくれ、つい先程の事にも関わらず私はやはり夢か幻覚を見ていたのだろうか、とさえ思った。
「ごめん、こんな時間に」
何と言おうか、迷った。
同じような表情をされたら、私はもうどこへ行けばいいのか分からなかったからだ。
「どうしたの、何かあった?」
戸口で立ったままの私に心配そうな彼女が近寄り、手をゆっくりと握ってくれる。
余程私が強ばった表情をしていたのか、大きな黒い瞳は急かす事もなく私が何か言い出すのを辛抱強く待っていた。
「う、ん……」
しばらく迷った挙げ句、私は夢のような出来事を話す。
まるで小説の中の出来事だと笑われはしないか、と内心怯えながら。
「それって…」
話し終えた後、少しの間を置いて口を開いた楠田さんの表情は硬くはあったかれど、疑った様子は微塵もなかった。
「それってもしかして、旧館の人なんじゃないの。そういう噂、聞いた事があるもん」
声を潜めて、彼女は私をじっと見た。
旧館は隔離された病棟。誰に聞いたのか忘れてしまったけれど、まことしやかに囁かれる噂。
そう、かもしれない。あれは本当なのかもしれない。
「信じてくれるの」
半ば震えたような声になった私に、いつもと同じように朗らかな笑みを浮かべ楠田さんは頷く。
「久美ちゃんは嘘なんか吐かないよ、それに、そんな幻覚、ちょっと変」
考えるように言葉を途切れさせ、思い付いたように彼女はベッドを降りた。
「行ってみる、私」
「どこへ…?」
「旧館。久美ちゃんはここにいてて、私が見てくるから」
靴を履きながらそんな事を言う彼女を、押さえつけるように手を握った。
「何言ってるの、そんなの危ないじゃないか」
「だってこのままじゃ久美ちゃん信じてもらえないよ?」
楠田さんは私より背が低い。そしてまるで人形のように華奢で、弱々しい。
私よりずっと危険じゃないか、というのは一目瞭然の事実だった。
「大丈夫だよ」
口元から歯が零れ、邪気のない笑みを浮かべる。
他人に信じてもらえないのは、どうでも良かった。ただ彼女の好意が嬉しくて、私は考えるよりも先に自分も行くと告げた。
楠田さんは驚いたようだったけれど、彼女も言い出したものの心細かったに違いなく、少し迷いを見せた後、一緒に行く事を了承してくれた。
最小限の電灯だけが点る廊下で、手を繋いだ彼女の指先が僅かに震えているのを感じた。しなやかで細い指。
そういえば借りた本の中でホラーに属するようなジャンルだけはなかったな、と思い出した。
ああいうものは苦手だ、と前に聞いた気もする。
そうであればただでさえ人気のあまりない病院で、しかもこんな状況で夜中にうろつくのは彼女にとってはかなりの恐怖であるのかもしれない。
握る手はひんやりと冷たくて、いつきと言う名の少年を思い出させたけれども、それは変に火照る私の熱を冷ませるには丁度良いものだった。
こんな状況下であるのに。いや、こんな状況下であるからこそ、か。
「こっち、だよね」
並ぶようにして恐る恐る歩く私達は、端から見れば探検ごっこでもやっているように見えただろう。
私が飛び込むようにして入って来た裏口の扉は、開け放してきたように思うのに今はきっちりと閉められてある。
看護師が閉めたのだろうか、と言う間もなく、楠田さんは手を掛けてノブを捻った。
かちゃり、とまるでプレハブの簡易扉のようにあっけなくそれは開く。
途端に草木の匂いが、鼻腔を擽る。風は相変わらず無く、虫は死滅したかのように声を殺していた。
月は陰り外灯も灯らない裏庭は、暗闇の底に感じた。
不思議と怖くはなかった。それは隣にいる少女のおかげだと、強く思う。
ちらりと彼女を見てみれば、唇を噛み締めて暗闇の先をじっと見つめている。
怖いのだ。
そう気付いて、握る手に力を込めた。
旧館は更に鬱蒼として見えて、先を歩く彼女の肩が震えるのを私は見逃さなかった。
「先、歩くね」
心強さからか先程の恐怖はかなり薄らぎ、ただ暗いだけの庭を私は先頭に立ち黙々と歩く。
旧館にはやはり灯り一つ点いてはいない。横を通り抜け、あの池へと向かう。
「ここ…?」
楠田さんが震える声で呟いた。
月さえ出ないその場所は、影絵のように草木の形を黒く、ぽっかりと切り抜いたかに見える。
イツキの姿はなく、もう何もなかったかのような静けさだけがそこに存在した。
音はなく、風もない。
水は静かにそこにあり、空は黒く染まっている。ただ、草木を踏み締める私達の靴音だけが全て。
今ならまた見えるだろうか。あの白い、ものが。
好奇心というものは何て偉大なんだろう。
まるで他人事のようにそう感心しながら、私はゆっくりと水辺に近付く。
すぐ後ろに楠田さんがいる事が、ひたすらに心強かった。
「ここに、白いものが」
乾いた唇を舐め、恐る恐る覗き込む。
「白いもの、ね」
背後で楠田さんの声が、震えた。
怖がっている。
そう思って私は後ろを振り向いた。彼女は泣いているかのように、顔を両手で覆い体を小刻みに震わせている。
「ごめん、楠田さん。もう戻ろ……」
そう言い掛けた私の言葉も聞こえなかったかのように、彼女は顔を上げた。
その表情は。
「良かったわね」
まるで深淵の底だと。
思った。
彼女は黒く光のない瞳を向ける。
「丁度お揃いじゃない。あなたも白いパジャマを着てるわ」
楠田さんは可笑しくて仕方がない、と言った顔で笑いながら、私を強く突き飛ばした。
「楠田さ…ッ」
池のほとりでしたたかに顎を打ち、私は呻く。
途端に水が、私の顔を覆った。
後頭部を押さえつける手の感触に、私は目を開いた。
薄汚れた緑色の水は、今はどす黒くさえ見えた。
私の唇から漏れる気泡が、やけに美しく球体を描いている。
楠田さん、と呼んだ声もただ泡と化して消えた。
何故。
ばしゃばしゃとたてる音が、遠くで聞こえた。
苦しい。苦しい。苦しい。
それが自分がたてている音だと、何故か理解出来ずに私は目を見開く。
藻にまみれた濁った水の中で、揺らめく白いもの。
見開いた瞳。
少し開いた唇。
白いのは看護師の制服のせいだ、とこの時初めて私は理解した。
叫んだ、のだと思う。
けれどそれは、がぼがぼ、という汚らしい音だけで悲鳴には程遠い。
同時に飲み込んでしまう、青臭い池の水。
死んでしまう。
苦しさに更に暴れても、押さえつけられた頭は上げる事は出来なかった。
喉を通る濁った水。
吸い込めない酸素。
狂ったように暴れる私を、藻にまみれた汚い水の底から、静かに白い顔が見つめていた。
《epilogue》
「ひ、久美ちゃんどうしたんですか…っ、何があったんですかっ?」
白い病室。
父の側で眺める僕の前で、彼女は髪を振り乱して泣き喚いていた。
「お前は出ていなさい」
父が僕の肩に触れる。
僕は言われた通りに、病室を後にする。
何て純粋な光景。
友人の悲報を嘆くのは、彼女にとても似合っている。
細く白い手で顔を覆い俯いている下の顔は、きっと僕しか知らないのだろう。
その手が何をしたのかも、同じ事だ。
サワダヒサヨシは、運が悪かった。
よりにもよって、彼女に助けを求めるとは。
僕は最初に言った筈だった。
イツキに見つかったら、終わりだと。
彼は最後まで気付かなかったのだろうか。
それとも知っていたのだろうか。
「もっと早くに久美ちゃんを見つけていたら」
「あの子のご両親には…」
病室を出た所で、看護師が婦長と話している。
僕をちらり、とだけ見てまた、ぼそぼそと話し続けている。
「…まだ小学生なのに」
一面に白い廊下に壁。
嗚咽の声が耳に届く。
『クスダイツキ』とネームプレートが入った病室で、彼女は嗤いながら童女のように泣きじゃくって見せているのだろう、と思った。
【END】
2010年06月13日(日)
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