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■ 日常風景(犬と殺し屋)
職業、殺し屋。 財産、あたし。 おまけで、犬一匹。
「あつい」
「は?」
耐えきれなくて呟いた声に、真っ黒の髪をした犬が振り返った。訝しげな目付きに余計苛々する。抉りだしてやろうか。
「あーつーいーつってんの!」
「あんた馬鹿か。デカイ声出してんじゃねえよ」
汗で湿気を帯びた細い黒髪が、目の前で揺れる。引きちぎってやりたい衝動をどうにか押さえ付けて、息を吸い込んだ。もう長いことコンテナにいる。蒸し暑い。それから、息苦しい。
「何でこんなミッコウシャみたいなこと、しなきゃなんないわけ?」
「仕方ないだろ。これが一番リスクがない。つーか、よく知ってたな、密航者なんて言葉」
感心したように義正が頷いた。標的の前に、こいつを殺したらさぞかし気分がいいと思うんだけど。 でもこいつがいないとイロイロ不便なんだ。コンビニにカフェオレ買いに行く足を新しく見つけるのは、面倒過ぎる。
「それぐらい知ってる。あーゆーのでしょ」
あたし達に擦り寄るようにして着いて一緒に入ってきたアジア系の男と女を、顎で差した。 随分前に動かなくなったそいつらが臭気を発する前に、さっさとここを出たい。あの臭いは一旦染み込んでしまえば、何度洗っても流しても、どこかにこびり付いて離れないのだ。
眉間に皺が寄る。あたしの可愛い顔が台無しだと途中で気付いたけど、美人はどんな顔しても美人っていうし――と気にしないことにした。
気が狂いそうな蒸し暑さと息苦しさをどうにか押さえようとするあたしを横目に、義正が髪をくしゃくしゃと掻いた。
「ぶつぶつ煩い」
「何、それ」
「本当の事だろ。あんた、独り言多いよ最近」
犬が小さく笑う。傲慢で生意気な笑い方に、心底腹が立った。
「あんた、あれか。欲求不満ってやつか」
明らかにからかいを含む声音に、がん、と床を殴った。
「誰に向かって口きいてるわけ。冗談なら笑えるものにして。なんなの、ここで、あたしに殺されたいの」
コンテナの内壁を背もたれに、確かな殺意を込めて呟いた。 首筋を伝う汗が気持ち悪い。苛々する。全部、壊せたらきっとすっきりするのに。
闇に近い暗さのせいで、細面の顔の輪郭くらいしか見えない犬の目が、細まったような気がした。
「あんたに殺されるなんて、やだね。お断わり。死んでも死にきれない」
珍しく饒舌に犬が鼻先で笑った。
「…うるさい。うるさいうるさいうーるーさーい」
どうしようもなく腹が立って――それもこれも灼熱のように暑いからだ――叫んだあたしの口を熱い掌か覆った。
「酸素の無駄使いするなよ。窒息死なんて馬鹿らしくてごめんだ」
耳元で柔らかな声が放たれる。 抵抗はしなかった。出来なかったと言ったほうが正しい。癇癪は、あたしからかなりの体力を奪ってゆく。
暴れる気はさすがに、無い。それを伝えるために、口を覆う薄い掌を、軽く引っ掻いた。 すぐに離れてゆく指に恨みがましい視線を投げて、息を吐いた。吸い込んだ空気は孕む熱は上がる一方だ。
「…あぁ何だってこんなに暑いの、耐えられない」
「夏だからだろ」
「あーもー、早く帰りたーい」
「仕事終わったらな」
「シャワー浴びたいよシャワー。帰ったら体洗ってよ義正。あたし帰る頃には指一本だって動かしたくない気がする」
「…あんた本当に人の話聞かないね。わかったから黙れ。もうすぐ着く」
首を軽く捻って時計を確認していた義正が、小さく舌打ちした。体中が汗でベタベタする。大きく巻いた髪は、ボリュームを落として胸の辺りで揺れていた。 ここから出たら、人身売買で成り上がったどっかの富豪をさっさと撃ち殺して、それから。
「ねえ」
「あ?」
犬の視線はこちらを向かない。体に伝わる振動が変わる。もうすぐ着く、という犬の言葉は正しい。
「スイートルームの予約、今からでも間に合うかな」 「…あのな」
真剣に訊いた台詞は、犬の大きな溜め息に余韻まで掻き消された。
【END】
2009年08月20日(木)
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