蜂蜜ロジック。
七瀬愁



 一秒後は未来(SS)

「あ、雪」

白く小さな花びらが、見上げた空から舞い降りて来るのが見えた。差し出した掌に乗ったそれは、次の瞬間には体温で溶けて失せた。儚い天使、そう言ったのは誰だったっけ。

「美咲は体温高いからね」

掌に残った小さな水滴を名残惜しく見つめていたら、可笑しそうな悠斗の声が頭上に降った。

「じゃあ悠斗なら溶けないの?」
「そりゃ溶けるだろうけど。美咲みたいに早くないと思うよ」
「そんなの狡い」

狡いって言われても。悠斗が目を細めて微笑を作る。予め用意されていたような、模範的な笑い方に思わず、またそういう顔して、と呟いた。

「また?」
「すぐ私を子供扱いするでしょう」

拗ねたように言えば、

「そうかなあ」

すごく意外そうな声が返ってくる。
ほら、その声のトーンだって、理解し尽くした後の柔らかさそのもの。嫌じゃないけれど、悠斗の声も話し方も私を落ち着かせてくれるけれど。たまには対等になりたい。優しい優しい悠斗。あなたに甘えてばかりは嫌なの。

「私の言うことなんて何でも想定内なんでしょう。悠斗は頭が良いから、私の言うことなんて馬鹿みたいなんでしょう」

普段からの些細な不満を一気に吐き出せば、悠斗はほんの少し驚いたような顔をして。

「美咲を?」
「そうよ」

唇を尖らせた私を見下ろす、硝子玉みたいなきらきらした目。悠斗と同じ大学に行きたくて胃が痛くなるくらい勉強漬けになってもどうにか違う学部に入れた私と、最初からA判定をもらっていた悠斗では元が違うわけで。その大学すら私は、馬鹿みたいな思い込みで、中退してしまったのが今夏のこと。

しばらくの沈黙。妙な表情を浮かべる悠斗を見ているうちに、ふと我に返って。

ああ、また私ときたら。

口を開こうとした悠斗を遮るように両手を前に出して、首を左右に振った。

「勘違いしないでね、違うから。悠斗を悪く言いたいわけじゃないから」

ひと言ひと言区切るようにして、言い聞かせるように言った。

「そりゃ悠斗は頭良いし、私みたいなのとは違うし、釣り合わないのもわかってるけど、今言いたいのはそうじゃなくて――」

たまに感じるこの劣等感を、知って欲しかっただけなのだ。
そう続けたくて一度息を吸い込んだ時、悠斗の抑揚のない、美咲、という声が私を遮った。

いつもと違う、優しさを含まない、責めるような響きに悠斗を見る。視線を伏せようと思う前に、もう捕まっていた。

「俺はそんなこと全然思ってないけど。でも、あれだね。美咲はいつもそんなこと思ってたの?」

寄せられる眉は剣呑な表情を作り上げて、私の口を開かさないようにする。悠斗は、きっと怒ったのだ。

「そうなの?」
「……」
「美咲」

答えを問う呼び声に、反射的に頷いてしまって、本格的に泣きそうになった。

こんな実にもならない話をしたかったわけじゃないのに。今日は二人で映画観に行って、美味しい店があるから連れて行ってくれるって約束で。明日はバイトも休みだから、今日も明日も二人でいようねって言ってくれていたのに。

くだらない事で拗ねてそれを口にした私のせいだ。考えているうちに何だか悲しくなって俯けば、悠斗の長い指が私の頬に触れて。唇を滑ったかと思うと、息を飲む間もなく、ついと広げられた掌が私の口を覆った。

息が出来ないとまでは言わないけど、唐突だったのと驚いたので、

「んー…」

抗議の声をあげた。
掌は離されない。悠斗が薄く微笑んで――神様みたいに優しい笑い方だと思った――口を開く。

「泣かないで」

私は泣いてない。泣きそうなのは、本当だけど。どう答えていいかわからなくて、口を覆われたまま目だけで相手を見る。

「美咲のことをそんな風には、全然思ってないし思った事もないよ。でも――ごめんね、俺のせいだよね、泣かないで」

もう一度そう言って。掌が離れた。その瞬間、ぽろ、と涙が零れた。泣かないでって言われた直後に泣いてしまう自分が、恨めしい。

左右に首を振る。悠斗は悪くないのに。勝手なことを言った私を、怒ってくれていいのに。少しだけ口元を緩めた悠斗が、私の手を握り込む。また歩き出したけれど、会話は皆無。私より少し前を歩く悠斗の背中。声が掛けにくい。俯く私の視界にちらちらと舞い降りる粉雪。

「…ね。嫌になった…?」
繋いだ手に降りた羽の無い天使は、瞬時に溶けた。僅かなタイムラグに、ああ本当だ私のほうが溶けるのが早い、と今更納得した。

「何を?」

振り向かずに返されて、少し悲しくなる。私は悠斗に対してどこまでも貪欲で、どこまでも甘えたがる。

悠斗は優しいから、すぐに謝ってくれる。私が落ち込まないように、泣かないように。

「変なこと言っちゃったから、怒ってるんでしょう…?私と一緒にいるの、嫌になっちゃった…?」

私が考えも無しに余計なことを言うから、朝から台なしになったって、本当は怒ってたりしないんだろうか。そうならそうと言ってくれて構わない。だからお願い、嫌いにならないで。

「ごめん――ごめんなさい、もう、もう言わないから。私、悠斗がいなくなったら…」

舞い降りた白が、肩に髪に私達の手に、次から次へと触れては消えて。いい加減、肌に感覚が失せ始めたころ。

「…すごい発想だよねそれ。俺が美咲の事が嫌になったかって?そう訊いたの?」

背中を向けたままの悠斗の声は、気のせいか弾んでいるように聞こえたけれど、私は悲しくなる気持ちが大きくなる一方だった。あんな馬鹿なこと、言わなければ良かった。だから私は馬鹿なのだ。

「ゆう――」
「ねえ、美咲」

悠斗が足を止めて振り返る。その表情は拍子抜けする程に、明るくて楽しそうで。

何がそんなに嬉しいの?尋ねる前に、腕の中に閉じ込められた。
笑ってくれたのと、こちらを向いてくれた嬉しさで、私は本格的に泣いてしまった。

「わ、私、もう言わないから、変な事言ったりしないから」

腕の中で必死になって言う度、私を抱きしめる力が強くなる。同じ事を何度も繰り返す私の耳元で、美咲、と囁く声はとても優しいもので、私を黙らせるには十分の力を持っていた。

「――、」
「お願いだから、いつまでもそのまま美咲でいて。何も変わらないで」

冷えた悠斗の背に腕を伸ばす。私の手が温かいなら、どうかお願い。この背中に温もりを。
雪降る白く冷たい空の下、私達はしばらくの間、そうして立っていた。

【END】

2008年12月05日(金)
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