蜂蜜ロジック。
七瀬愁



 春の日(短)

「足が痛い」

ずっと思っていたことを口にした。履き慣れないミュールのせいだ。

「帰る?」

さらりとそんなことを言う春日を一睨みして、

「……座りたいだけだし」
「冗談だって。じゃあさ」

さしてそうも思っていない表情で口元を歪めてから、「あそこ入ろうよ」ファーストフード店で休憩しようと言う案に異議があるわけもなく、中へ入った。

店内はわりと混雑していて、喫煙席は満席で禁煙席に座る。と言ったって、あたしは煙草を好まないから我慢するのは春日だけ。

その本人は禁煙とわかっても、涼しい顔をしてあたしについて来たので、どう思ってるのかはわからなかった。

小さく区切られた隣のテーブルには既に三人の女子高生が占拠していて、決して広い空間でもない店内に賑やかな笑い声がよく響いた。

隣に座った私達に一瞬ちらりと視線を投げた時だけ静かになったけれど、それはすぐに再開される。

新商品らしいクッキー入りアイスを手に、春日は「そんな靴、履かなきゃいいのに」とスプーンを口に入れる。やけに眠そうだ。元々眠そうな顔をしているから、本当のところはどうかわからない。けれど、普段デザート類なんて口にしないくせに珍しいものを手にしたところを見ると、眠気覚ましのつもりなのかもしれない。

「んでさぁ、カレシってどーなの」

無遠慮な話し声が間に割って入り、あたしは口を閉ざして珈琲を飲んだ。春日は春日でアイスに専念しているらしく、ゆったりとスプーンを動かしては口に放り込んでいる。

その表情は決して美味しそうに食べているようには見えず、それなら最初から食べなければいいのではないか、と余計なことを思った。

「どーって?」
「もうヤッたんでしょ? かんそー聞かせてよ、アイツの」

辺りを気にしないで、大声で話す内容なのか。思わず女子高生のほうを向いてしまい、一人と目が合った。

「リカ、声でかいって。隣のお姉さんに見られてんじゃんー」

あたしと目が合った女の子が、楽しそうに笑った。店に来る客の年齢と変わらない。押し並べてかしこまって来店する彼女らも、普段はこんな風なのかと今更のように思った。

「あーごめんごめん。でさ、どーなのよ」
「べっつにー?フツウじゃない」

どうやら注意するスタンスを取っただけだったらしく、またすぐに再開される会話。

唖然としたままのあたしの視界に、笑いを噛み殺したような顔であたしを見ている春日がいて。

「何」
「べっつにー?」

わざとらしく語尾を上げて口端を吊り上げてから、またスプーンを動かし始める。何だかくやしくなって、顔を反対に向ける。

店はすぐに出た。話の内容は聞くに堪えない、と言うより耳に入ってくるそれに反応するあたしに、春日がおかしくて堪らない顔をするのがなんだかくやしくて席を立ったというほうが正しい。

何の休息にもならなかったせいで、足が痛さは変わらなくて結局何の為に入ったのかすらわからなかった。

「最初からこうすれば良かった」
「そう? 俺は結構面白かったけど」
「うるさい」

結局、近くの店で見つけたパンプスを購入し、履き替えたところで落ち着いた。

「泉ちゃんてさ、意外に純情だよね」

何が面白いのか笑みを湛えた春日を横目で見て、歩き続ける。目当ての店は、確かあのビルの曲がり角。

まだ何か喋ってる春日をあらかさまに無視して、あたしは足早に歩いた。

2008年06月29日(日)



 Final:マヒロ④(ラスト)



目を開ける。明るい。朝、と認識して起き上がった。正面の窓に目をやる。閉じられたカーテンから、差し込む光。

色々な夢を見た。と思う。何となく思い出したくて、その映像の端っこを掴もうとしたけれど、するりと掌から零れ落ちて、どれも粉々になって消えた。

とても、静か。日めくりのカレンダーをめくる。今日は、日曜日。シュウスケと、初めての。何を着ようか、と迷ってクローゼットの扉に張られた鏡を覗き込む。相変わらずのあたし。でも、どこか楽しそうに見えた。

時計を見れば、午前七時を差している。顔を洗って、朝ごはんを食べて――それから。



「なーにマヒロちゃん、珍しい」

ハルちゃんが驚いた声を上げるほうが、よっぽど珍しい。勝手にホースを引き出していたあたしは、ゆっくりと振り返る。淡い朝日に包まれた景色の中で、白っぽいハルちゃんが真っ黒の服を着て立っていた。

朝日が映えて綺麗。とか言ったら、何て言うかな、と考えたけど言わないことにした。男の人に綺麗という形容詞は、誉め言葉じゃないような気がする。

「お花。水、あげてみようかなって思って」
「それも珍しーよね。どーゆー心境の変化?」
「…そんな大したことじゃないもん」

前に向き直ってシャワーヘッドに手をかける。
シュウスケなら「似合わない」ってきっと呆れるに違いない。

前に見た薄桃色のバラが、幾つか丸くて可愛らしい蕾を付けていた。
マチルダ、だっけ。花の名前なんてすぐ忘れちゃうあたしだけれど、その花の事は覚えていた。

一般的に可憐、と言われるような姿。あたしも、こんな風になれたらいい。この花のように。優しい色になれたらいい。

「ハルちゃん」

振り返らずに呼ぶ。

「んー?」

間延びした返事。さっきより少し声が遠くなったのは、家の周りを掃除しているのかもしれない。

「ありがとね」

言ってから、聞こえなかったかもしれない、と思った。振り返ろうとすれば、頭に大きな掌が降った。


「なーにが?」

真上を見上げる。手が離れ、くしゃりと笑う、ハルちゃんの白い顔が見える。人懐こい笑顔に、釣られて笑う。立って見下ろしているハルちゃんと、しゃがんだまま首だけ上に向けてるあたし。お互い微笑みあって、傍から見ればきっと変な構図だ。

「言ってみたかっただけ」

ありがとう、なんて一杯ありすぎて、どの『ありがとう』かもうわからなかった。

蛇口を捻る。

きらきらして冷えた水が、細かな霧状になってノズルから出てくる。濡れないように腕を花壇に伸ばした。

「嬉しいんでしょ。花に水あげよっかなーって思うくらい」

唐突にハルちゃんが言う。何のこと、なんてハルちゃんの前ではきっと無駄だ。だから花壇を向いたまま、

「うん」

雨に近いような音を立てて、水が花壇の縁を濡らす。

「…そ」

また頭に乗せられる手。シュウスケとは違う、温度。でも安心する。その掌が髪を少しだけ梳く。優しい。

「マヒロちゃんなら、俺、シュウを安心して預けられるかなぁ」

どこか安堵したような、ハルちゃんの声に、何故だか振り向けなかった。

「ハルちゃん、…おとーさんみたいなこと言ってる」

笑おうと思ったけれど、上手く唇が動いてくれなくて途中で諦める。振り返ったら、動いたら、たぶん泣く。優しい優しい掌が、あたしの頭を何度も撫でるせいで。

「あの子、ややこしーけど」

手が離れる。玄関のほうで音がする。誰か出てくる、と思ったところで。

「面倒見てやってね」

ハルちゃんが耳元でそう言った。


かちゃり、と音を立てて、目の前にある玄関の扉が開いた。シュウスケが顔を覗かせた。

「さっきから何やってんの? 来てんなら上がれば」

いつも通りの愛想のない声。ホースを持ったままシュウスケを見上げて止まるあたし。さっきから、ということはあたしが来てたことを知っていたらしい。

「早くしろよ」

不機嫌そうにこっちを見やるシュウスケ。

「なに、シュウ。妬いてるの?」

ハルちゃんがからかうような目で、シュウスケを見る。

「別に」

ふい、と逸らされる目元に、あたしは自然と笑みが浮かぶ。

「行っておいでよ」

ぎゅう、とホースを握り締めたあたしの手を、ハルちゃんがやんわりと外させる。開かれた扉。立ち上がったあたしは手を伸ばす。

不思議そうな顔をしたシュウスケが、あたしの手を取って眉を顰める。それから呆れたように少しだけ笑った。でも繋いだ手は離されない。

「マヒロ」

シュウスケがあたしの名前を呼ぶ。いつか先輩を呼んでいたような、声で。あたしを見る。いつか先輩を見ていたような、目で。

それだけで充分。だと思った。

【END】

**********
終了です。
長々とお付き合いありがとうございました。
若干訂正が入ったのち、サイトへ掲載したいと思います。

2008年06月24日(火)



 Final:マヒロ③

冷たい風が吹き込む。冬の温度。寒い。いつからあたしを待っていたのか、シュウスケの顔はやけに白く見えた。

「雨、止んだの?」
「つい、さっき」

紫がかった藍色の空を見上げ、シュウスケが答えた。向かい合ったのは、久々な気がする。前に開けた時は、偶然に会えた。あの時は嬉しい気持ちはひとつもなくて、悲しいだけで、でも無理して笑った。今は。よくわからない。シュウスケが何を思っているのか、何がしたいのか。あたしを、どういうふうに見ているのか。

どうしたって期待するに決まってる。好きな人にキスされて、抱きしめられたら、誰だって期待するに決まってる。だけどそうしないのは、あの夏のことがあるからだ。

先輩とはもう戻らない。シュウスケはそう言った。でも、それとこれとは別だ。それくらい、あたしだってわかってる。

だから期待して。
だけど期待しないで。
だって離れられない。

幾ら手を伸ばしても届かなかった窓。でも今こうして見ると、少し近いように思えた。前にこうやって話した時は、とても遠く感じたのに。もしかすると、あれはあたしの心の距離だったかもしれない。今は――今なら。お互いの手なら届きそうな気がした。

シュウスケが真っ直ぐに、あたしを見ている。真っ黒の艶のある髪が、風で揺れる。「俺さ」不意にシュウスケが口を開いた。

なに、と聞き返す前に、遮られる。

「俺さ。お前の事、大事なんだと思う」
「…え…?」
「お前のこと、好きなんだと思う」

何でもないことのように、至極当たり前のような顔で、あたしを見据えた。

「なに、言ってるの?」

けれどその内容は、あたしの頭に上手く入らなくて。だからつい、笑ってしまった。その場にはそぐわない笑い声。でもおかしくて。

期待してた。でも。そんなこと、現実味がなさすぎる。

「なんの、じょうだ…」
「冗談じゃねえよ」

眉を寄せる、低い声音。その表情に笑うのを止めた。


「好きとか嫌いとかそんなん以前に、大事だって、わかったんだよ。今更とか都合良いとか思われてもいいし、言われてもいい。でもこれだけは、言いたかった」

「シュウ…」

「さんざん泣かせたし傷つけた俺が、今更お前の事を大事とか言うのはおかしいって、わかってる。恋愛感情とは少し違うかもしれない。お前はずっと傍にいたし、家族みたいに――思ってたし。でも俺は。お前を大事に思ってるって。知って欲しいって…思った」

一気に言い切ると、疲れたように息を吸って吐く。一連の動作を見ながら、どうしても自分のことを言われているような気がしなかった。あたしは首を傾けて、シュウスケを見返す。

「家族と同じ、なんでしょ…?」
「…つ。家族にキスなんかするかよ」

窓から少し身を乗り出せば、身を震わせるような寒風が吹いた。


「…本気で、言ってるの?」

本当は相手の顔を見れば冗談かどうかなんて、すぐにわかった。とても真剣に話してくれている、ということも。でも心がすぐに馴染まない。シュウスケがあたしを『大事』だとか、そんなこと。そんなこと、あるとは思えなくて。

「傍に、いてほしい」

小さく、でもはっきりと耳に届く声。

「嘘だ、」
「嘘じゃない」

頬を撫でる冷えた風。氷のように感じるはずなのに、でも不思議と寒くなかった。髪が頬に張り付く。もう充分に雨は拭いたはずなのに。

「泣くなよ」
「え…?」

言われて頬が熱いことに気付く。拭えば、きらきらした水滴が指に付いた。

あたし、泣いてる。

泣いてることが、わからなかった。どうして泣いてるんだろう。あたし。悲しくないのに。苦しくないのに。むしろ――。

今までもさんざん泣いた。悲しくて苦しくて辛くて、泣き喚いた。息も出来ないくらいたくさん泣いた。
泣くのはいつだって息苦しくて、頭が痛くて、いいことなんてひとつもない。だから、泣くことは嫌いだし苦手だった。

「泣くなって」
「…だって、勝手に出るんだもん」

あたし、変なのかな。幾らでも零れ落ちてゆく。でも胸が苦しくない。

何度も目を擦るあたしを、シュウスケが困ったように見つめる。そうされれば、余計に涙は止まらなかった。

「しゅう、すけ」
「なに」

震える唇。でもそれは悲しさからじゃない。

「あたしの傍に、いてくれるの…?」
「――俺は、そう言った」
「…っ」

ああそうなんだ。

嬉しくても涙って出るんだ。そんなこと、忘れてしまってた。

2008年06月23日(月)



 Final:マヒロ②

本当、シュウスケは勝手だ。あたしの気持ちを、好き勝手に揺らせてくれる。振り子みたいに、ゆらゆら揺れる感情。好き。でも、好き。

「…マヒロ、」

立ち止まって何かを言いたそうにするシュウスケを置いて、あたしは歩みを進める。ぎゅ、と目を瞑って。深呼吸。「したかったから」なんて、なんて身勝手な理由なんだろう。

それなのにあたしの中には、怒りや恨みがましい気持ちはひとつもなくって。馬鹿みたいに好きだという気持ちしかなくって。溜め息つきたくなるくらい、それしかなくって。

「さっさと帰って着替えねぇとな」

気づけばいつのまにか立ち止まっていたあたしの前に、シュウスケが立っていた。その表情は憂いもなければ、逡巡めいた色もなく。なんだか妙に納得したみたいな、そんな目の色をしていた。

あんなこと――しておいて、どうしてこんな。こんなに普通にいられるんだろう。あたしは、こんなにどきどきしてるのに。だってそうだ。好きだって知ってるくせに。どうしてこんなこと。ただの幼馴染なら、キスなんて。

…ただの幼馴染なら。

しっとりと首筋に張り付く髪。ぴちゃぴちゃと水が跳ねる足音。依然として人影はなくて、ざあざあと激しくなった雨音だけ。息苦しいのは、呼吸が浅くなるせいだ。傘の柄を持つ手に、自然と力が篭る。


「…誰も帰ってないみたいだね」

着いた家を見上げれば、相変わらずシュウスケの家に明かりはひとつも灯っていなかった。

「――みたいだな。傘、助かった。明日返すから」
「い、いーよ、そんなのいつでも」

あんなことした後なのに、いつも通り話すシュウスケ。それに釣られて、つい笑みを浮かべた。嫌われたり避けられたりしたくないって思いが、あたしをそうさせてるんだと気付いて、少し自己嫌悪に陥る。

そんなあたしを気にかけることなく、シュウスケは玄関の鍵を開けようとしていた。なんとなく別れの台詞を言い出しにくくて、とりあえず自分の家に帰ろうと隣の玄関に向かう。「あ」その声に、振り返る。

少し濡れた前髪を鬱陶しそうに掻き上げてから、

「着替え終わったらカーテン開けてて」
「カーテンって、どこの…?」
「お前の部屋の」
「どーして?」

首を傾げるあたしに少し笑いかけてから、「いいから開けてろ」と言ってシュウスケは開いた扉の中へ消えた。



服を着替えて、髪を乾かす。本当はシャワーを浴びたかったけれど、シュウスケが言ったことが気になって、ゆっくりお風呂に入る気にはなれなかった。

半ば焦りに似た気持ちで、ドライヤーの熱風を髪にあて整える。鏡の中のあたしは、どこか泣きそうな顔をしている。ドライヤーを止めて、顔を洗いに階下に降りる。洗面所の冷たい水で二度、三度と洗ってから、もう一度鏡を見る。大丈夫。

それから部屋に戻って、言われたとおりにカーテンを開ける。

「…っ、」

開けた窓際に立っていたシュウスケと、目が合って固まってしまった。相手も唐突だったことに驚いたのか少し目を見張ってあたしを見た後、苦笑しながら窓を指差す。開けろということだと察して、鍵を外した。

2008年06月22日(日)



 Final:マヒロ

止むかと思えた雨が、また激しくなった。雫がぽたりぽたり、と落ちていく。髪を伝って、顎を伝って。近すぎてぼやけた視界の中に、目を閉じたシュウスケがいて。寒いのに、寒くない。でも震える。背中に回った腕が、きつく抱き締める。痛いとも苦しいとも思わなかった。現実的じゃない。でも現実な証拠に、降りしきる雨は冷たくて、少しずつでも確実に体から温度を奪っていった。

眩暈がしそう。一人なら、きっと倒れてる。息が苦しいのはキスのせいじゃなくて。心臓が馬鹿になったみたいに、煩いから。

唇が離れ、腕が解かれる。触れていた時間は長いようにも短いようにも思えたけれど、離れてしまえば一瞬のことのように思えた。「シュウ…」顔を上げようとすれば、上から頭を押さえられた。

「…ちょっ」

強制的に俯かされた視界から見えるのは、濡れて光るアスファルトと、自分達の靴だけ。靴の中まで雨が染み込んでしまっている。気持ち悪い。

不意に手を離され、シュウスケが背中を向ける。道路に落とした傘を拾い上げ手渡される。無言。相手がどんな顔をしているのか見てみたかったけれど、また頭を押さえつけられそうな気がしてやめた。

「…う、して?」

指先が震える。濡れた掌と同じように。渡された傘は差すことすらできなくて。シュウスケが息を吸い込んだ。何か言われる前に、あたしは口を開く。

「どーして、キスなんか、」

不意に降り注いでいた雨が止む。違う。シュウスケが傘を、かけてくれている。さっきと同じくらいの距離。

「したいと――思ったから」

思わず見上げる。息が、苦しい。何で?という言葉が、何回も頭の中でリピートする。駄目だ、泣いてしまう。悲しいのか嬉しいのかもわからない涙。
シュウスケがあたしのこと、掻き回すから。振り回すから。

「何で、そんなに…勝手、なの」
「だよな」

無意識に制服の袖を、ぎゅ、と掴む。しっとりと濡れた感触に、どれだけ立ち尽くしていたかを知る。このままじゃお互い風邪を引いてしまいそうだ。そんな現実的な心配が先に立ってしまうなんて。

あたしは目が強く瞑ってから、「帰ろ」とだけ言った。

2008年06月20日(金)



 Final:シュウスケ③

会話の背後で鳴るような雨の音。奏でられない音色。わりと悪くない。

歩道を歩く俺達の横を、車が行き交って過ぎて行く。

「俺が帰ってないってよくわかったな。家に行ったのか?」

「じゃないけど。…ほら、部屋、電気点かなかったから」

広げた傘は俺が普段使うものとは違っていたし、家にあるものとも違うようだった。マヒロの父親の顔が浮かぶ。

それから僅かに苦く笑う。部屋に電気が灯らなかったことを知っているのは、ずっと見ていたと言うことと同じだからだ。笑った俺を見て意味に気付いたらしく、マヒロが慌てる。

「え…と、別に覗いてたとかじゃないんだからね」

「何も言ってねえよ」

隣を見れば顔が赤い。不快に思ったわけじゃなかった。ただ何となく想像が出来た。窓辺に座り込んで、俺の部屋を眺めているマヒロが。想像の中のマヒロは隣を歩くマヒロとは別人のように儚い。いつか、月のようだと思ったように。

だが、こいつは俺が思うよりずっと、強くて。俺なんかよりも。ずっと。守ってやらなきゃって、思っていたはずなのに。

「あ、あのさ、」

間が空いたのを埋めるように、マヒロが立ち止まる。

「なに」

だからそれに合わせて、同じように歩みを止めた。住宅街に入れば、車の姿は途端に消え、静かになった。路上に人の姿はなく、ところどころ明りの灯る家々が並ぶばかりだ。

「日曜って、さ。デート、みたいに思っても…いい、の?」

ふわりとした髪がマヒロの顔を覆う。恐る恐るといった様に見上げる瞳。手を伸ばせば触れ得る距離。あの時伸ばさなかった手を、ゆっくりと伸ばす。
指先に髪が触れる。それを摘まみ上げれば、マヒロの肩が揺れた。

顔を近付ける。眼鏡を取った俺を、マヒロはじっと見ていた。


「俺はそのつもりだけど」


聞こえたかどうかはわからなかった。心臓は煩くない。頭の中も心の中もひどく静まり返っていた。なのに手足の先がやたらと冷たくて、感覚がない。ただ、重ね合わせた唇だけが、やけに熱いと思った。

「……っ」

マヒロが何か言おうとした。でも離さない。

髪が濡れる。

気付けば傘を手放して、腕の中にマヒロ抱いていた。




2008年06月19日(木)



 Final:シュウスケ②

「…そう」

先輩が俺を見る。溜め息。それから少し笑って空いていた距離を縮めるように歩き出した。大した距離ではなかったはずなのに、それは酷く時間がかけたように感じた。

「私、」

風が凪ぐ。無粋なそれは先輩の髪を揺らし、でも乱すことはなかった。俺と同じような、真っ直ぐな黒い髪。手を伸ばせば触れ得る距離。でもそうはしなかった。唇を噛む。

「ちょっと、遅かった、のね」

困ったように、惜しむように。顔を隠そうとする髪を掻き上げ、泣き笑いのような表情は初めて見るもので。「お願い。見ないで」先輩が顔を覆う。俺は変わらず黙ったままで、そのまましゃがみ込む先輩の姿を見つめた。

「俺…、」
「――ごめん、喋らないで」

遮られて良かったと思った。その後に続けるような言葉は、何一つ頭の中にも体の中にも、持ってはいなかった。震える肩を見下ろす。いつかのマヒロの姿と重なる。抱き締めてしまいそうな衝動を抑えた。どれくらいそうしていたのか。ただ居心地が良いとは言えない状況は、やたらと長く感じさせた。

吹き付ける風は止まないまま、夕闇が押し寄せ始める。予報では夜まで晴れ。だが見上げた空は、曇で覆われてしまい本来の色を隠したままだ。

時刻を知らせるべき鐘も、鳴ったのかならなかったのか覚えていない。きつく唇を噛み締めたまま、その場に立ち尽くした。

不意に先輩が立ち上がる。声を掛けようとする前に、

「先、帰るわ。ごめんなさい、変なところを見せて。忘れてちょうだい。全部」

俯いたまま扉へと歩き出す。口の中が血の味がする。僅かな痛み。手の甲で拭えば、薄く朱が付く。扉の向こうへ消えてしまう先輩の背中を見送りながら、唇が切れてしまったことにようやく気付いた。

開けっ放しになったままの出入り口をぼんやりと見つめる。ただひたすらに。

鐘が鳴った。また空を見上げた。薄紫色の雲が、俺を見下ろしている。もうすぐ鍵を閉めに誰かがやって来るだろう。帰ろう。それから。

それから――。




ラッシュが始まった車内に乗り込む。

雨が降り出した、と誰かが話しているのが聞こえ、窓を見る。不均等に付く水滴。胸の内で天気予報のキャスターに毒づく。

所々といったふうに付いていたそれは、駅に着く頃には、激しいものに変わっていた。傘なんて持っているはずもない。濡れるのは遠慮したかったが、そんな事を言ってもいられないだろう。

自宅までの距離を走れば何分で付くかを算段し改札を通り抜けた時、構内の壁に背を預けて外を見ているマヒロが目に入った。

「お帰り。遅かったね」

傘を差し出し、マヒロが笑う。「わざわざ来たのか?」渡された傘に視線を落とし、そう問えばマヒロが小さく頷いた。

「天気予報、大はずれだよね。ちょっと外出たら――雨が降ってたからさ。シュウスケも持ってないだろうって思って、来ちゃった。あ、もしかして買っちゃった?」

「…や、買ってない。助かった、さんきゅ」

「そっか。良かった」


構内を出れば雨は幾分マシにはなっていたが、傘がいらないという程ではなかった。

2008年06月18日(水)



 Final:シュウスケ

部員だけのミーティングの後、各々が楽器を片付けるのをぼうっと見ていた。俺の分はと言えば、早々にケースに締まってあって、することは特にない。ならさっさと帰れば良い、とわかってはいる。本当なら、マヒロと一緒に帰っていたはずだった。

――もっと。あいつに、言いたいことがあったのに。


『話があるの』


練習が始まる前の先輩の言葉がなければ、そうしていたはずだった。

話。先輩とは前に一緒に帰って以来、ほとんど話なんてしていない。俺の態度が変だと思うのか、向こうからも話しかけてくる回数は減っていた。先輩が悪いわけじゃない。全部――俺が。

だから今日の練習前に先輩が俺のところへ来た時は、正直身構えてしまった自分がいた。

あちこちから聞こえる話し声は、耳に入っては来たが、内容は全くわからなかった。理解する気がなかった、というだけかもしれない。少し頭が痛むのは睡眠不足からだろうか。

昨日は――眠れなかった。人の事を笑えやしない。

ぼんやりと見ていた視界の中に、細身の制服姿が映り込む。僅かに視線を下げて、気だるそうに立っていた姿勢を戻した。

「ごめんね」

申し訳なさそうな先輩の声に、顔を上げる。いつもの俺なら言うはずの「いいえ」とか「ちっとも」とかいう言葉は出てこなかった。荷物を置いて廊下に出る。何人かがこちらを見たが、誰も声はかけてこなかった。

「上、行こうか。今日は屋上が開いてるの」

先輩が悪戯めいた瞳で上を指差した。一つ頷いて、後を付いて行く。言われた通り、扉の鍵はかかっていなくて、すんなりと屋上へと出ることが出来た。空が近い。風が強くて、頭上の雲は物凄い速さで進路を決めているようだった。

「風、強いわね」
「…そうですね」

言ってから、随分素っ気無い返事だなと気付いた。

「シュウくん。私――」

給水塔に背を向けるようにして、先輩が振り返った。

「私、あなたが好きなの」

困ったように首を傾け、

「前にも言ったわ」

黙ったまま、目は逸らさなかった。強い光を湛えた瞳が、真っ直ぐにこちらに向けられる。どうして先輩もマヒロも、こんなに強い目の色をしているのだろう。

「知ってます」

俺はどんな風に見えるのだろう。そんなこと、今まで考えた事もなかった。他人の評価を気にしないのと、気にするだけの余裕がないのでは全く違う。

マヒロは俺の全部が好きだと言った。

それはその存在自体が、ということときっと同じだ。俺は先輩の『全部』が好きだろうか。昨夜、それを考えて眠れなくなった。一晩考えた。いつか先輩も一晩中考えた、と言った。

だが出た答えは、先輩とは違っていた。


「だから――」

全てを言い終える前に、首を振る。先輩の声は聞こえなかった。ぴたり、と一瞬だけ。風が止んだ気がした。

震えるような声で、どうして、とだけ耳に届いた。

俺はずっと先輩が好きだった。
そう。好きだった。言葉では陳腐でも。その気持ちに舞い上がって、別れたことが苦しくて、結局俺は気持ちが終わったことが見えていなかった。

あんなに人を好きになったのは、初めてだった。慣れないその感情が消えてしまうのが惜しくて。ただそう、そんなガキみたいな執着心。

秋に告げた好きという気持ちは、夏に別れを告げた気持ちの名残に過ぎないのだと。気付くことすら出来なかった。そうじゃなければ、先輩が何を言ったところで、心が冷えることなんておそらくなかったはずだ。



「俺は、先輩が思っているような人間じゃないですよ。面倒なこと押し付けられりゃムカつくし、我慢出来なきゃキレるし、表面に出ないだけで考えてることはそこら辺の奴らと一緒なんです。そりゃ人よりは冷静に対処できるかもしれないけど、それって先輩の言う『クール』とは違う。そんな俺に興味なんて、ないでしょう?」

すらすらと動く唇を、先輩が見つめているのがわかる。その顔は僅かに強張っていた。きっと俺はいつもみたいに涼しい顔をして、微笑んでいるのだろう。余裕めいて。人形みたいに優等生ぶって、笑うことしか出来やしない。

悲しい時に泣いて。嬉しい時に笑って。そんな簡単な事すら出来やしない。

ああそうか。だから――。

「先輩にあんなこと言って。すげー我が儘で勝手だって。わかってるんですけど、」

先輩の顔が曇る。見ない振りをして続ける。言わなきゃならない。俺は狡い。でもそれでもいいって言ってくれる人がいる。ややこしい俺の全部が好きだって。

そう、あいつは言ったんだ。

「大事なもの。何かわかったんです、俺」

そんな事まで、言うつもりは全くなかったのに。

だが気付けば俺は先輩に、そう言っていた。

2008年06月17日(火)



 無題3-12

『日曜日空けとけよ』

机の上に鞄を置いて、ベッドに身を投げ出した。

息を吸う。吐く。それを三回繰り返してから、今日シュウスケに言われた事を思い出した。

拳をぎゅっと握り締める。乾いた掌に、爪が当った。

『どーして?』

急にそんな事を言い出すなんて、珍しい。何か――手伝う事でもあるのかと首を傾けたあたしに、シュウスケはすごく素っ気無く、

『休みの日に出かけるの悪いのか?』
『……悪く、ないけど』
『じゃあいいだろ。空けとけ、迎えに行くから』

洗いたてのシーツに顔を埋めれば、そんな会話の一つ一つまで鮮明に浮かび上がる。何でもない事のようにそう言って、練習を始めるシュウスケ。

聞きようによっては、捨て台詞にすら聞こえて、今更苦笑してしまう。

出かける。シュウスケはそう言った。

窓を開ける。普段開け閉めされる事がないのか、ひどく軋んだ音を立てて、あたしは眉を顰めた。

風が頬を撫でていく。冷たい。衣替えも終わったとは言え、上着を教室に置いてきたのは失敗だと思った。

『買い物でも行くの? あたし、重たい物とか持てないよー?』

できるだけ自然に。振舞おうと笑う。

シュウスケが望む位置に、あたしはいたい。それが今の、素直な気持ち。やっと笑えるようになって、少しぎこちなさも取れて。だから、今のまま。

『あ、でも買い物ならさ、ハルちゃんも一緒がいいかなぁ』

風に乗ってあたしの髪も舞った。あまり気に入らない、ふわふわとした髪が視界に入る。

『違う。出かけるって言ってんじゃん、お前と俺で。どこだっていい、映画でも、水族館でも――遊園地でも』
『…え?』

不意にシュウスケが、まだ舞う髪の一筋に指を絡めた。それから、するりとそのまま指を抜くと、ほんの少しだけ笑った。

「お前と――」

唇が同じ事を紡ぐ。もう一度意味を確かめるように。滑り落ちた言葉はシーツに飲み込まれてしまったけれど、耳にはちゃんと残っている。

――お前と俺で。


腕を突っ張って起き上がる。きしり、とベッドが揺れた。閉じたカーテンからは、もう陽は差していなかった。夕闇に近い色。それからやっと部屋の電気を付けなくてはいけないことを、思い出した。

2008年06月16日(月)



 無題3-11

心拍数が上がる。

シュウスケはいつものように涼しい顔をしていて、リードとかいう竹の欠片みたいな小さな板をクラリネットに付けていた。

あたしに気付いたらしく、視線だけ上げてこちらを見る。それに手を上げようとした時、シュウスケの視線に気付いたらしいナミコ先輩が、こちらを振り返った。

「こんにちは」

「…こ、んにちは」

ナミコ先輩を見るのは、久しぶりだと思う。その久々に見る先輩は、短かった髪が伸びて、随分と綺麗になっていた。つきん、と胸が痛む。あたしがナミコ先輩みたいになるのは、絶対無理だってわかってる。わかってるから、痛んだ。

クラリネットの音が響く。一度目は短く。二度目は長く。そんなに気負いこんで息を吹き込んでいるようには見えないけれど、シュウスケの吹くクラリネットはすんなりと綺麗な音を出してしまう。


「マヒロ、こっち」

唇を離したシュウスケが、あたしを手招く。呼ぶなんて珍しい。いつもあたしが勝手に押しかけて、勝手にくっついていたから。

同じ事を思ったのか、ナミコ先輩が驚いたような顔をする。それからシュウスケを振り向いたけれど、先輩に軽く会釈すると

「俺、あっちで練習してきます」

そう言ってあたしの手を掴むと、階段を上り始める。

「え、シュウスケ、いいの?」

あたしの手首を掴む掌は、冷たくて。上っていく背中は、無言しか返さない。個別練習がまだ続くとは言っていたけれど、勝手に別行動して後から怒られたりしないのだろうか。

あちこちから聞こえる管楽器の音は、反響して上の階にも充分響いた。

着くと埃っぽい廊下の壁に背を預けて、シュウスケがクラリネットを咥える。

「ね、ねえ、いいの? パートの子達と一緒にいないで。それにナミコ――」

先輩、と言いかけたところで、不意にシュウスケがあたしの口を押さえた。

「いいんだよ。どの階でやろうと旧校舎内は今んとこ使用許可出てるから」

掌がそっと離れていく。

「そ、なの? でも」

あたしが聞きたいのは。それだけじゃなくて。

先輩の笑った顔を思い出す。とてもよく――シュウスケに似合う人。さっき二人を見た時に、本当にそう思った。やっぱりあたしなんか適わない人。想い続ける、なんて決心したくせに。

姿を見れば揺らいでしまう。

「日曜日」

唐突にシュウスケが口を開いた。

「え?」

「日曜日、空けとけよ」

「シュウ――」

聞いた事のない旋律が廊下に響く。さっさと言うだけ言ってしまうと、もうあたしの言う事なんて聞く様子もなくて。ただただ、その音を聴いていた。

2008年06月13日(金)



 無題3-10

「なに?」

ぶっきらぼうな言い方になってしまったのは、まだ動揺しているからだ、とは気付いていないらしくシュウスケは小さく「悪い」と言った。別に怒ってるわけじゃない。悲しいわけでも。ただとても複雑で――そう、上手く頭の中が整理出来なかっただけで。

家帰って頭を冷やさなきゃ。自分の都合の良いように考えないように。ちゃんとあたし自身の立場を思い出せるように。そればかりを考えていたせいだ。謝らないで、と言いたかったけれどそれより先に、シュウスケが口を開いた。

「明日、さ」

少し言いにくそうに、でもちゃんとあたしを見ている目。何でも見透かしてしまいそうな、綺麗な綺麗な黒い瞳。

「明日?」

「あぁ。明日、部室…来るだろ?」

「え、あ…うん」

『来るか』でも『来いよ』でもなく、決定事項のようにそういうシュウスケに、思わず頷き返す。それに満足したのか一つ頷くと、「気をつけてな」少しだけ、ほんの少しだけ目元を柔らかくして笑う。

「隣、だもん」

出来るだけ自然に笑ってそう返し、扉を開ける。背中に視線は感じたけれど、振り返ることなくゆっくりと閉めた。大きくて冷たい扉を背に、溜息。それから空を見上げる。いち、に、星が二つ。きらきらと夜空に輝いていた。



騒々しい廊下も旧校舎を渡ったところで、不意に喧騒が遠くなってしまう。
それとは別に不規則に鳴り響く、楽器の音が強くなって、思わず足を止めた。

長い廊下を渡る度に、あの日の事を思い出してしまう。何回か振りかぶって、歩き出す。引きずってたって、仕方のないことなのだから。

角を曲がれば思い思いの場所で、部員達が楽器を持って立っている。何人かはちらりとこっちを見て、軽く会釈された。あたしも軽く手を振って、その中を通り抜ける。シュウスケの姿を探す。いた。廊下の突き当たり。でも一人じゃない。

ナミコ先輩。

心の中で呟いた。

2008年06月12日(木)



 無題3-9

あまり手加減のないその音に、すぐに誰だか想像がついた。

「あの馬鹿、」

と小さく呟くシュウスケの横顔に、何だかやけにどきどきする。

『戻る事はないと思う』

その最後の言葉が、頭の中をぐるぐると回る。何度も何度も。エンドレスだ。薄い色紙のように、それに色々なものが重なって、気付けば胸に手をあてるあたしがいて。

せっかく、控えめにいようと思ったのに。
そんな決心まで、台無しにしてくれた。

そんな事を聞かされれば、また筋違いの期待をしてしまう。それをわかってて言ってるのだろうか。

単純なあたしはすぐに言葉通り捉えてしまうから。

シュウスケはきっとそんな気、ちっとも持ってないって、わかってなきゃいけないのに。



「たっだいまー…、ってあれ、ハルちゃんは?」

勢いよく開け放たれる扉。
現れたあたしとたいして変わらない背丈の、小柄なこの家の末っ子。

あたしとシュウスケを交互に見て、それからこちらまでやってくると傍まで歩み寄り首を傾ける。
そうしていると幼い頃みたいで、可愛らしい顔をしているとは思う。

不意に出るこういう子供みたいな仕草が、ハルちゃんに親心を増長させていくんだろう。

「出かけた。飯は勝手に食え」

素っ気無くそう言って、シュウスケは払うような仕草をした。

「シュウちゃんは?」

「もう食った」

「ふうん。でも俺さあ、外で食ってきたんだよなあ…」

「お前のどこにそんな金があるわけ?」

ふい、と横を向いたシュウスケにトーヤが、にっと歯を見せて「金払いイイヒトがいるから」と笑った。

その台詞がやけに含みを持っていて、シュウスケもそれに気付いたらしく、

「何それ。女? 男?」

始終見るわけじゃないからはっきりとは言えないけれど、シュウスケがトーヤに話しかけるのは珍しい。

「んー、ガッコのセンパイ。あぁ眠いー」

大きな欠伸一つ落とす姿は、確かに眠そうで。冷蔵庫をがちゃりと開けて、パックのまま牛乳をごくごくと飲み干し、向き直る。相変わらず『毎日牛乳一本』を心がけているみたいだけど、あたしより少し高いだけの背丈はあまり変わったようには思えない。

「遊びすぎなだけだろ」

「いーじゃん、休みなんだしさ」

シンクの中に牛乳パックを投げ込み、手の甲で口を拭うトーヤがまた欠伸をした。無防備なそれは、本当に小さな子供みたいだ。

「あ…たしも、そろそろ帰るね」

時計を見上げてそう告げたあたしに、シュウスケが「ああ」とだけ言って、トーヤが「お前マジで来すぎ」といつもの口調で言い、あたしはそれに舌を出す。いつも通りに振舞うことは疲れる。でも自分が選んだ事だ。

階段を下りて深呼吸する。

「マヒロ」

そのあたしの後ろを追うように、足音がついてきた。

2008年06月11日(水)
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