蜂蜜ロジック。
七瀬愁



 無題2-15

緊張しなければならないはずなのに、俺の中はぼんやりと水の中にいるみたいに輪郭がはっきりしなかった。

「聞いてる?」
「聞いてますよ」

覗き込んでくる愛らしい笑顔に、ぎこちなく笑い返す。

「夏は――私も余裕がなくって、あんなこと言っちゃったけど。でも昨日言われた事、驚いたんだけど嬉しいなあって思ったのよね」

息苦しい。
それが緊張感だと気付くまで、数秒かかった。
押さえきれないこの感情を、受け止めてくれるかもしれないと思えば、自然と鼓動が早くなる。
付き合っていた時は、最後まで言えなかった。
別れようと言われた時も、体裁を気にして引き止めることさえ出来なかった。

「クールだよね、シュウくんて。そういうところ、やっぱり好きだなって」

寒さで平常より白くなった先輩の頬に、僅かに赤みが差す。
それを眺めるようにして聞きながら、まるで他人の事を言われているような気がした。

早まった鼓動が、急速に静まる。

熱に浮かされたようにして口にした告白。
知って欲しい。聞いて欲しい。考えて欲しい。俺のことだけを。勝手で押し付けがましいそんな気持ちさえ知らずに、上っ面だけを認められた気がした。
息苦しさは相変わらずで、それが何に対して起因するものかも分からずに、不意に可笑しくなった。

2008年01月17日(木)



 無題2-14

「一緒に帰ろうかなって思って。方向、一緒だったよね」
「あー…うん、いいですけど」

いいですけど。
言ってから、少し苦笑する。

余裕があるわけでもないくせに、変に片意地張った喋り方をする自分が笑えた。

昨日の告白だって、先輩には唐突過ぎて面食らったに違いない。
随分勝手なことばかりしているなとは、自覚はしていた。

付き合ってたとは言え、たいした期間があった訳でもなく、俺の家に連れて行ったこともなかった。先輩の家には行ったことがあったにしても、日中誰もいないと言った台詞通り、家族に会ったこともない。

その短い恋人期間中でさえも、対等に口を利いたことはない。
強制ではなく憧れが強かった分、自然とそうなった。

憧れ。

俺のこの気持ちは、本当に恋なのだろうか。
僅かに伏せた視界に、枯れ葉が舞い落ちる。

銀杏。
マヒロの好きな、木だ。
小さい時、よく落ち葉拾いに付き合わされた。

秋口の頃。マヒロの家を訪ねようとした時。
不意にその葉を見て懐かしくなって、持って行った記憶が蘇る。

たいした考えもなく手にしたそれは、インターフォン越しのマヒロの声に我に返り馬鹿馬鹿しくなった。
自分らしくない。

高校生もなってそんなもの、喜ぶはずもないのに。
そっと玄関口で捨てたそれは風に舞ったが、マヒロには気付かれずに済んでほっとしたのだった。

陽射しは温かかったが、風は相変わらず冷えて頬を突き刺すようだった。

運動部はまだ練習を終える気配もなく、走りこんでいる。
砂埃をたてて張り上げる大声を遠くに聞きながら、門を出た。

「最近さ、あの子来ないんだね」
「…誰ですか?」

知らない振りをするには、無駄な足掻きだともわかっていた。
隣でくすり、と笑う声がする。

「私ね、考えたの」

隣は見なかった。
更に遠くなったグラウンドの歓声が、風に乗ってここまで届く。
楽器の音なら尚更か、とも今更のように考えた。

「昨日ずっと…ううん、一晩中かな。色々考えてね」

何を、と聞くような無粋さは、さすがにない。
足を止めたらしい先輩の声が、後ろに下がった。
ゆっくりと振り向く。
風が吹く。
いつかの公園で凪いだ風よりずっと、冷たくて痛みを伴う。

どうして冷たさに、痛覚を覚えるのだろう。

「やっぱり私も好きだなあって、思ったんだよね」

2008年01月16日(水)



 無題2-13

用意を整えて家を出る。
門を開けたところで、昨日路地に落とした煙草を思い出した。
見つかると何かとややこしいかもしれないと思い、狭い路地に入る。
――ない。
そこには何もなく、白いコンクリートだけが冷え冷えとしている。
マヒロの母親が掃除でもしたのだろうか。
そう解釈をして踵を返し、駅へと向かった。

グラウンドでは、運動部が柔軟を始めていた。
誰もが息が白くして、動いていた。
校舎の中も同様に、空気が重く冷たい。
古びたコンクリートは外気をそのまま吸い込み、温度を低下させる機能しか持っていない。

クラリネットの入った楽器ケースを片手に、集合場所だった美術室に入った。

集まった面々の中には、先輩の姿もあった。
こちらを少し見て、困ったように笑う顔に会釈する。
不思議と昨日のような緊張感は、体の中に生まれなかった。

練習は全て自主で行われ、最後にパートごとの調整をして昼前には終わった。
どこかで昼食を、という気分にはなれず、帰りにはハル兄の店に顔を出すつもりだった。

「シュウくん」

帰り支度でざわつく美術室の中、気が付けば先輩がすぐ傍にいた。
振り向いた俺に、ほんの少し微妙な笑顔。
気を使わせてる。そう思った。

先輩が少し手を伸ばして、指先が腕に触れた。
咄嗟に腕を引く。
勿論嫌なはずもなかったが、距離を縮めるのはよくない気がした。

それを悟られないようにして、「なんですか?」と努めて冷静に言った。

2008年01月14日(月)



 無題2-12

カーテンを引いて、じっと蹲る。
火を付けないままの煙草と、握り締めたライターと。
足先だけをぼんやり見て、かちかちと正確に刻む時計の針の音を聞いていた。

目を覚ませば、八時を過ぎていた。
二階へ降りる。朝は自分で用意する。家の中は静かで、誰もいない――トーヤあたりは昨夜から遊びに行ったはずだ――のかもしれなかった。

ハル兄は近くで珈琲専門店を開いていて、最近はそちらが忙しいらしく土日は早くに行ってしまう。
ここら辺は住宅街であるわりには、客層は千差万別に集客しているらしい。

『ハルちゃんカオだけで客集めてんじゃないのー?』

これはトーヤの言い分だったが、これについては俺内心頷いていたする。

何も容姿の良さだけで、という訳じゃない。

あの一番上の兄は、世間でいう長男とは少し違って要領というものと外面の良さは兄弟中で一番秀でていたりする。

ナツ兄や俺のような不器用な人間には、羨ましいという他ない。

トースターに放り込んだパンが、焼き色を付けて出来上がりを知らせる。それにバターを塗りつけながら、テーブルに腰を掛ける。土曜日。今日も部活はある。

2008年01月13日(日)



 無題2-11

どちらにしても傷つけてしまう。
泣かせたくはなかった。
あの日の浅はかな行為のせいで、期待させてしまったことへの罪悪感はいつも持っていた。

だが、相手の言動をいちいち気にするのに、正直疲れ始めてもいた。

「じゃ、またな」
「あ…」

正面に見えるマヒロの顔が、少しだけ歪む。

「……シュウ」

呼び止める声に、聞こえなかったふりをした。目を逸らして、扉を閉める。
耳に届かなくても、溜め息が聞こえた気がした。



ずっと、ずっと昔。もっとガキの頃。

クラスの奴と喧嘩したあくる朝、送迎バスが来ても、マヒロは幼稚園に行かないと泣いたことがあった。

マヒロの母親が怒ったり宥めたりしても、あいつは動こうとはしなくて、泣きながら玄関で蹲っているだけで。

その光景をずっと見ていた俺はバスが出る間際、何を思ったか窓から飛び降りてあいつを迎えにいった。

『おれがついてるから』とか何とか言って手を繋いで、一緒にバスに乗った。さんざん保育士やら親やらに怒られた記憶はあるが、後悔なんて一つもしちゃいなかった。

あいつは女で、俺は男だから。守ってやらないといけないと思ってた。

マヒロはもう覚えちゃいないだろうし、俺だって口が裂けても言いたくない記憶だが、色褪せても忘れたことはなかった。

妹みたいに思っていた、と言えば聞こえはいいのかもしれない。
傷つけたいわけじゃないし、泣かせたいはずもない。
けれど、女として好きかと言われれば、頷いてやることはできない。

だから未だに後悔する。

あの日あの雨の日。あんなことさえしなければ、マヒロを傷つけることはなかったのかもしれないと。

俺はずっと、後悔している。

くしゃくしゃになった箱から、もう一本煙草を取り出してくわえる。
壁にもたれ座り込み、かちりと付けたライターの灯りが、やけに眩しかった。


2008年01月10日(木)



 無題2-10

自分からそうしたくせに急に開いた窓に驚き、くわえていた煙草が下に落ちる。三階から見た下の路地は、真っ暗で何も見えなかった。

仕方ない、明日の朝にでも拾って捨てておこう。

「なに、どうしたの。何してたの、シュウスケ」

驚いたマヒロの声が路地に響いた。とは言っても大声を出したわけじゃない。構造上のせいか、小さく話しても響くのだ。

「お前こそ、急になんだよ。…びっくりした」

正直な気持ちを吐く。変われと念じた信号が、ドンピシャで変わった時のような妙な一致感。別にマヒロに会いたいと思っていたわけでもないくせに、開いた窓はぴたりと閉じられていた時よりは良いと思った。

「そーなの?ごめん。空気入れ替えようと思ったんだよね、それで」
「こんな時間に?」
「寝る前だったから」
「そか」

部屋の明かりがマヒロを照らして、元々白い肌を更に白く見せた。

この季節にしては薄着に見える首元が大きく開いた服は、細い鎖骨をあらわにして、やけになまめかしい。

家に行って以来、マヒロは何も変っていない。元々そうであったようにいつでも笑ってるし、元気だ。

――ただ、俺の側に来ることはほとんどなくなった。

狡い、と非難される覚悟はあったが、結局そうされたことはなかった。

最近はさっさと見切りつけてくれればいいのに、と思う。決定権を相手に委ねるのは、きっと最低だ。卑怯で。狡い。それから。

……それから。

黙り込む俺に、マヒロは困ったように笑う。いつも煩いくらい纏わり付いていた頃から、こいつがこんな表情する時は、俺が考えていることをわかっている時だと思う。

委ねた決定権を、ゆっくりと押し返された気がした。

「寒いね」
「そうだな」
「そろそろ、寝ようかな」

笑った顔が月みたいだ、と思った。

「いつまでもそうしてたら、風邪引いちゃうよ」
「わかってる」
「ん。じゃあ、また明日、ね?」
「…ん、」

目の前のマヒロは笑ってるはずなのに、泣いているように見えた。
泣いたらどうしよう、なんて変に動揺している自分もいて、何がしたいのかわからなくなって自嘲気味に笑った。

「どしたの?」
「なんでもない」

いつまでも、こんな関係を続けていて良いことなんて、ないはずだ。早く愛想を、つかせて欲しい。こんな奴を好きだなんて幻だったと、冷たく背を向けてくれたら楽になれる

決別の言葉を吐くには、マヒロはあまりにも近すぎる相手で、言い出せなかった。

2008年01月09日(水)



 無題2-9

通学に使っている鞄に投げ入れ、制服を脱ぐ。

ポケットの中に手を突っ込めば、くしゃくしゃになった煙草の箱が出てきた。こんなものが見つかったら、兄達は何て言うだろう。いつの頃からか気休めに使い始めた。美味いとは思わない。むせたりしなくなったが、本数が増えることもなく家に帰る前に一本か二本。その程度。安定剤としては重宝している。

優等生で通る俺が、制服で吸う姿はまだ誰にも見つかってはいない。規律に喧しい高校だ。そうなれば、停学はおろか退学も有り得るだろう。そんなリスクを背負ってまでするのは、馬鹿さ加減で言えばトーヤと同等だとはわかっていた。

でも俺は≪優等生≫で≪信用されてる≫るから、誰だって馬鹿なことをする筈がないって思われいるわけで。ハル兄だってナツ兄だって、俺は手の掛からない良く出来た弟だと信じてるはずだ。

もし知ったら、どれだけガッカリするだろう、と時々考える。トーヤと変わらない、馬鹿だとわかったら。

トーヤなら≪仕方ない≫と苦笑される甘さは、俺には与えられないもので。
それはたぶん。

俺がこんな、狡い奴だから。さらけ出せる勇気もないからだ。
それでも、知ってほしいとも思う、物凄く恰好悪い俺がいる。

「ウゼ…」

火がついていない煙草をくわえ、カーテンをめくり窓を開けた。既に外は真っ暗で、しん、としている。

ここから見える隣の家の窓に明かりがついているのを見て、手を伸ばした。
マヒロの部屋だ。密集した住宅とは言え、部屋同士の窓に手が届くわけがない。それはわかっていたが、何となくそうした。昔は、よく窓越しにあいつが話しかけてきたりした。とっくになくなってしまった、習慣だ。

――何やってんだ。

苦笑して手を引っ込めた時、唐突に窓がからりと開いた。

2008年01月08日(火)



 無題2-8

「なに、なに見てんのシュウちゃん」

幾分高めのそれが、すぐ近くで騒ぎ出した。
それから俺の手元を見て、

「なにそれ、パチケじゃんっ」

一足遅れで帰って来たトーヤが俺に寄りかかるようにして、聞いてもないのに人の耳元で喚く。

煩い。しかも話し方からして馬鹿過ぎる。何だパチケって。何でも略すな。高校入学時に少しの間だけ黒くなっていた頭は――とは言っても二日で赤くなっていたが――今は金に近い色と茶色で染められている。

「トーヤ、帰ったらただいまぐらい言いなさい」

振り返らずにハル兄がそう言った。

二つという微妙な年の差のせいか、この一番下の弟をハル兄達のように温かい目で見守ってやる余裕が昔から俺にはなかった。

特に仲も良くなかったわりには、後ろから付いて来た記憶はある。しかし、遊んでやったような覚えはない。

馬鹿な子程可愛いと言うが、馬鹿はただの馬鹿でそれ以上でも以下でもない。出来れば一生関わりたくない人種だが、兄弟となればそういうわけにも行かないのが頭痛の種だったりする。

「それさぁシュウちゃん、誰とい――」
「うるせえ」

まだなんだかんだと話し続けようとする馬鹿を無視して、三階の自分の部屋へと上がった。

背後からハル兄の笑い声がして、トーヤの喚き声がする。何を喚いてんだあの馬鹿、と胸の中でなじる。

扉を閉めれば、苛立った気持ちも落ち着いた。落とした視線が少しシワになったチケットを捉える。週末は三連休。さらに混むだろう。そう思うと、余計に行く気はなくなった。

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すみません、更新できてませんでした…。

2008年01月07日(月)
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