舌の色はピンク
DiaryINDEX|past|will
2019年12月31日(火) |
夢見るキリンの足を払う |
あの到底受け入れがたい事件から5ヶ月あまりが経った。 今も全然受け入れられずにいる。 あれっきりアニメは観れていない。 被害者の方々を思えばただただ悲しくなる。 そろそろ個人的な惑乱については整理できるだろうか、おそるおそる試みてみる。
/
ルール違反だ、
と思った。 子供じみた深刻さのない言葉選びだが、事件直後に僕を覆った実感はこの一語に凝縮される。ルール違反だ。 当然言うまでもなく、ルール違反どころではない。 理屈を並べ立てても理屈を抜きにしてもルール違反どころではない。 事実は小説よりも奇なりと言う。 当然だ。小説には、虚構の物語にはそれなりの縛りがある。 物語でやったら当然許されないようなくだらない展開を、現実は軽々しく実現してみせる。 だが一方で非現実には超越性がある。時空の尺度は無用だ。 たとえば、これまで描かれてきた数多の非現実の世界による人物の数を足してしまえば何兆人になるだろう。 「その星には人間が百兆人いた。」 これだけで今その数に百兆が足された勘定になる。 ところで現実にいる我々はその百兆人に手出しができるだろうか。 できなくはないだろう。 「…と思われたが勘違いだった。」 とでも一文足してしまえばいいのだ。 これがルール違反かと問えば、当たり前だと憤慨する層もあるだろうが、 フェアでないだけでルールには則っていると僕は思う。 非現実の世界に文法という手立てで干渉しているに過ぎず、秩序を乱してはいないからだ。 成文している時点で成立している。 しかし現実世界の全人類を皆殺しにでもしてしまえばどうだ、 創作者も観測者もいないのだから、このとき虚構の世界も死滅すると言えるだろう。 これが、ルール違反だ。 僕には思いつかないやり口だったけれど。
折しもあの時期僕は漫画の案を練っていた。 その漫画では、虚構と現実とを転倒させる手品を理論立てて仕掛けねばならず、 だけれどメタフィクションの手法には頼るわけにはいかず、 現象学やら、ウィトゲンシュタインやらの論法をこねくりまわして、 なんとかどうにか正当に越境できないものか、 昼には小難しい本とにらめっこ、夜には中高生向けの思想入門書を洗い直し、 あぁでもないこうでもないと大渦に溺れて、数日間煩悶としていた。 何に追われてもいない趣味の領域だけにいかにも楽しい戯れで、まったく一筋縄ではいかねえやと、お悩みを弾ませ蹴飛ばし転がしていた。 一瞬で木っ端微塵になった。
ああなんて無力なんだろうと思った。 非現実は現実よりも広大で、膨大で、強大であるはずなのに。 世界の摂理を容易くひっくり返せるはずであるのに。 現実世界からルールを違反されてしまえば無力化するのか。 そんなんありか。 悔しさで神経が焼き切れた。 ありなわけないだろう。 でもどうやらありえたらしい。
悔しくて悔しくてたまらない。 大半の趣味人の声に反し僕はいわゆる表現規制に異議をとなえるつもりはなく、 その考えの背景はさておき、極端なところ焚書でもなんでもしてみせろとすら言ってしまえる。 創作物なんて後ろめたいものだ。 であるのに絶えないところに尊厳がある。 砂にだって絵は描けるし、口が利ければ物語れる。 誰だって夢を見る、その夢を他の誰かと共有する術もある、 ありもしない夢を創出だってしてやれる。 どれだけ規制されようが、弾圧されようが、にらまれようが、 こけにされようが、ふみにじられようが、冒涜されようが、 忌まれようが貶められようが吊るしあげられようが、 物語は絶えず生み出されていく。 そう信仰していたから、悔しくて悔しくてたまらない。
整理しようと努めてみたところでなんの結論も導けはしなかった。 決して侵犯されえないはずの夢の世界だって聖域には程遠いのだと知れた。 悔しい。たぶんこれから先もずっと悔しい。
|