舌の色はピンク
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高校の文化祭 という祭りに行った。
出し物はほとんど見なくて どちらかといえば どこか懐かしい教室などに入り浸り ノスタルジックな気分を味わっていた。
そのとき目についたのが 黒板消しクリーナーの上に申し訳なさげに 乗せられていた真っ白いトイレットペーパーだった。
クリーナーにトイレットペーパー!
僕のボルテージはいちじるしく高まった。 トイレットペーパーとは 清浄な状態で生産されたのち あとは汚物の処理に用いられる運命しか その身に宿わせていない存在価値が限定されたしなものだ。 こんなものを上に乗せられた クリーナー(crean+er)の心情を察すると 顔面ひきつらずにはいられなかった。 まだ真っ白いのに……。
理髪店なら店長だけど、 美容院なら院長…?になるの…? 美容室なら室長…?
ぜんぜんオシャレじゃない。 無様……。
近所のとあるコンビニには 20時くらいにアイスを買いに行くか 26時くらいにアイスを買いに行くか けっこう訪れる時間が限られていて、 いつ行っても客いねーな のイメージしかなかった。 家族って言葉を耳にしただけで発狂しそうな齢50程度のバイト店員も 客に無言だし接客ばかりか服装からして気だるい感じで、 全力で無気力してるコンビニってイメージ。
ところが昨晩 23時くらいにアイスを買いに行ったら 現場には老い若きも男も女も集っていた。 彼らは皆 当該コンビニに陳列された商いの品を物色し その目を輝やかせていた。 常連である僕が初めて見る大学生と思しき店員は 好景気な笑顔と若さ瑞々しい声を振りまき 店には生命力があふれていた。
かなりショックだった。
はじめは違うコンビニにたどり着いちゃったんじゃないのか、 はたまた異空間に迷い込んでしまったのでは、 といった逃げの希望的観測が生じたほどだった。
僕が半分思いやり精神で通ってやってたコンビニは、 僕の知らないところで楽しくやってたのだ。
なんだか小学校の頃を思い出した。 こんなことって、ある。
2007年09月20日(木) |
元気っちゃ元気なんだけど |
さて引越しの準備が進むさっこん。 できることなら独り暮らし続けたい気持ちが強い。 ショーミな話母親が丈夫な肉体してないので あんまり一人で放っとけないし実家に戻るっていう。 これって親孝行すか。
まー 息子としては母親に絶対んなこと言えないため 曖昧な理由をこじつけて道化を演じてやったりして。 あの女は勝手に「結局我が家が恋しいのよねえ」 「なんだかんだいって寂しいんだから」などいきまいている。 いきまいていればいいんだぜ。
たまー……に 欲しいもの生じたとき 万単位の買い物するくらいで、 普段はとんと金使わない貧乏癖があって
で通帳見るとガッツが湧く。
もうじき引っ越すので 2年世話になったこの街に 最後くらいは金落としてやろうかと思った。 っつっても美味いメシ食うとか 銭湯行くくらいだけど。 いやさ銭湯では風呂あがりに2杯飲もう。 120円のポカリスエットを飲み干したあげく あろうことかそのまま続けて120円のポカリスエットを購入するのだ。 入浴代420円に加え、飲料代を込め計660もの円を店に落とす。 主人も番台でうろたえること請け合いだ。 いや贅沢過ぎるかな……やっぱやめとこうかな……。いくらなんでも……。
中学のとき 臼井という男がいて 彼は何をやっても人並以下の結果を出せる 羨むべきスペックを備えていた。 弱いくせにすぐ武闘に挑んで来、 かつ負けても全くめげない、 不屈の精神が魅力の男だった。 複数人で会話していても まず間違いなくウケをとることはなく 滑りに関しても名プレイヤーだった。
そんな彼がある日、 なんとはなしに 独り言の延長程度の発言で脈絡なく 「やっぱり彼女の足はマッハがいいよね」 とぼやいた。
この日を境に臼井は台頭していった。 当時流行りだしていたK1の影響による ウッティーアーツというニックネームも 功を奏していたと分析できる。 クラス内で己のポジションを確立させたウッティーは その後調子に乗り過ぎたあまりあっけなく凋落した。
いまだに彼の発言の意味はよくわからない。
「縄文人かよ!」 というツッコミをどうしても使いたくなる病が突発的に発症し、 あの手この手でどうにか話相手を時代錯誤の古人に仕立て上げ 1日に8回同じツッコミを発動させる記録を樹立した。 やりすぎた。とことん飽きた。
ふと思った。 文化的(後天的)なインプリンティングを超越して 人間の耳に入るやいなや無差別に 「心地悪さ」を与えるメロディーはあるのだろうか。
音楽とは「心地よさ」を提供する通念が 前提として備わっているため 方向性は常に快感を目指してきたのだと思う。 不快になるのは、歌であれば声や歌詞、 単純な楽曲でも音を奏でる演奏の巧拙、 あるいは音の発生源(装置、人間)の好みによって、 つまり音楽を構成する因子が例に多く挙げられるけれど、 メロディー(リズムも含めるとする)は別物だ。
モーツァルトの音楽は 音符の並びだけで(音源を問わずして) 原始人に聴かせてもきっと心地よいのだろう。 原始人に聴かせても 皆が心地悪くなるメロディーというものがあるのだろうか。 もっとも、検証し得ない事象につき この仮定はあくまで便宜に過ぎない。 そもそもメロディーを形而下に依存しないと定義している この述懐には現実性が欠如している。 しかし音楽(旋律)の偉大さは確認できる。
正の方向性しかない概念なんて この世にほとんどないんじゃ。 音楽ってすごいね。 という話。
2007年09月05日(水) |
原始に帰れ 四つんばいで這え |
数日前のことだった。 衝動は突発的に訪れた。
携帯電話というものの意味がわからなくなったのだ。 冷蔵庫の上に置いてみたり タンスの上に飾ってみたりした。 よくわからんが、この意味不明の物品の本質、正体、は 実は高いところにあるんじゃないか……? そう思った。
最終的に本棚の上へ半開きのそれを設置し したり顔で満足げにアオリの位置関係から眺めていると 半開きのそれがブーブー震えだしておののいた。 半開きのそれは迷惑メールを受信してして、 これはそれのあれだと思った。 あとちょっと恥ずかしかった。
「俺は美術館に行かねばならない」
と、朝起きた瞬間に思った。 天啓めいていた。 さいわい今日は休日だった。
とりあえず白金台が近いので プラチナ通り先にある松岡美術館に赴いて フランス印象派の絵画を見てまわった。
自分の芸術への審美眼が足りてないのか 作品を鑑賞しているうちに不愉快になってきた。 絵を見れば見るほど鼻持ちならないやつが多い。 カミーユピサロとかいう印象派の第一人者らしい男が とくに癇に障った。 美に媚びてて、生命力を過剰に押し出してる情感ですか。 魂胆ミエミエというか、 意図があからさますぎて 浅ましさだけが際立ち全く正視に耐えない。
印象派といえば、 パリ万博にて浮世絵が展示された流れで ジャポニスムに強い影響を受けている、 程度の一般常識はあったけれど、 後で調べてみるにその潮流を継ぐスタイルは どうやらポスト印象派、新印象派と 別に区分けされているらしい。ゴッホとか。 浮世絵好きなだけに期待があったものの 少なくとも元始印象派は好みじゃなかった。 でもモネがなかったな。モネは好ける気がする。なんとなく。 あ、あとエドワードなんとかポインターて人の風俗画がよかった。 繊細な迫力で。
彫刻も見た。 ギリシャ彫刻にせよ中国彫刻にせよ、 身体、すなわち彫刻体の7割を覆っている衣の 立体感と存在感の描写が偏執狂の域に達していて どれも行き詰まってるしウンザリだった。 ただ、絵画と比べて 「現実にある」ていう当たり前のことを 実感してしまったときゾクッ…とした。 照明が落とす影が面白い。
ヘンリームアとかゆう人の作品が僕にはアウトだった。 斬新な立体表現と、滑らかな曲線美、 彫刻ならではの潤いある光沢感が しっかり鑑賞者の目を奪わせるのに、 なにしろ作品に込められた主題がしょーもない。 タイトルから主題が伺えた瞬間に興醒めする。 こう、ちょっと思いついちゃった発想だけで 一生やっていこうと貫いた彼の芸術観? みたいなものを勝手に頭のなかで仮想してしまい 受け付けられなかった。
というわけで僕に美術館鑑賞は向いてないのかもしれない。 が、こうしていろいろ考えるのは楽しいと思った。 鑑賞者が観て得るものあれば立派な芸術ですよな。 また行くかな。
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