へんくつじじいの日記

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水の散歩道
2005年01月02日(日)

           「垂水神社」

 いわばしる 垂水のおかの さわらびの 
      もえいずる はるになりにけるかな。 志貴皇子


教科書にでていた、なつかしい万葉集の中の歌であるが、垂水はまた滝の意味であるので場所を特定することは。むずかしいとおわれますが、吹田にある垂水神社にある滝はかなりこの場面にあてはまるのではないかとおもわれます。
 天智天皇の子である。志貴皇子はその当時天皇が行幸と称して有馬温泉に湯治にでかけけるときに同行したのではないかと、推定していいだろう、この垂水の地は弥生時代から人が住み着いた土地で今でこそ滝と言うにははずかしいほどのすじほどの水しかないが、その当時は豊かな水量であったとおもわれる。このあたりは早くより宅地の開発などで地下水脈が寸断されて古代の面影は神社周辺だけとなっているから当然の結果であろう。
 垂水神社のすぐ下手を東西に細い道がある、40年ぐらいまえは田んぼのなかのありふれた道でしたがこれこそ“有間道”だという。北大阪、北摂に住んでおられる方はこの旧街道をご存知だとおもいますが、難波津から天満、長柄、吹田、片山、垂水、榎坂、服部、岡町、蛍ヶ池、となんか古い地名が続くがこのなかで、のちに能勢街道、妙見街道の一部となったと考えられます。現在の阪急宝塚線や国道176号線に沿うかたちでいまも生活道路として残っています。 長柄は氾濫のたびごとに淀川が流れを変えるので当時の橋の位置は正確にはわからないが、現在の場所よりやや北よりにあったのではないかとおもわれます。
 ともあれ古代淀川の氾濫原あるいは、葦の生い茂った低湿地大きく東に迂回したのだろうか、また上町台地から北にのびた砂洲をたどる道がその当時頻繁に利用せれていたとするのでそうした自然発生した街道があったとみてよいだろう。
さて志貴皇子の一行は有馬行きの途中にこの滝により水の補給をし休息したのだろう
その岡にわらびがうすみどり色の芽をだしていたのだろう、はつらつとした躍動感にみちた 春の賛歌となっている。
いまも垂水のみずは「不老長寿の水」といわれている。また滝に入るには土足は厳禁とされておりまず「手を合わせてからおはいりください」とのことである。
また、滝のそばにはこの「歌碑」がたっていますので往時をしのんでいただきたい。
ちなみに垂水神社あたりの岩体は縄文海進のころの海蝕の痕跡といわれています。

このあたりは土着の豪族「垂水君」一族がすんでいたといいます。
「垂水君」の祖はこの神社の祭神である豊城入彦命の四世孫の賀表乃真雅命といわれています、ことはその賀表乃真雅命のまた六世孫にあたる阿利真公にまつわる逸話があります。
時は孝徳天皇の御代のことです、全国的干ばつが続いたため 河川も井戸も枯渇してしまいます、そこで阿利真公は高樋を作ってこの垂水の岡より豊崎宮に水を導いたと
あります。つまり天皇のために飲料水を供給したといいます。
この功績により「垂水公」の姓を賜り。垂水神社を司られたといわれます。
ここに道路地図があります。この豊崎宮を現在に長柄橋付近を推定して距離は約6.5km大変な距離です、この間海抜の差は約5M位だといわれます。
途中に障害物がないと仮定しても大きな河があります。
竹を利用して樋を作ったのだろうか、要所、要所につるべなどの人力による揚水装置を利用してそれこそ人海戦術で水を送ったのだろうか当時の苦労がしのばれます。
以来垂水神社は雨乞いの神様として,しばしば祈雨,祈晴の記事が平安時代の文献に登場するそうです。

※垂水神社は阪急電鉄北千里線「豊津駅」西に徒歩5分のところです。
また「有馬道」は神戸にも残っていますし同じ兵庫県三木市には三木城攻略の際に羽柴秀吉が有馬に通った「湯ノ山道」があったようです。







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