日々の泡

2008年07月24日(木) 梅酒

 夜中の地震で目が覚めて
梅酒をソーダで割って飲んだりして
静かに夜の底にいる。
マンションがグラインドして揺れた。
柔らかくて無防備なヒトという生き物が
今宵 無傷に在るという不思議
何事もなく一日を終えるという奇跡
梅酒と一緒にじんわりと染みる。
今日も一日
喜んで暮らそう。
みなさん ご無事で。



2008年07月22日(火) ブレス

暑いせいなのか
電話で問い合わせしてくる人々の声に
「怒気」が含まれていて
受け取ったとたんにたじろぐ。
焦燥感と
不安が混じり合って
ああ…昨今は穏やかに話し合うシチュエーションがあまりないのだと思う。
 電車の中
学生たちの声はうわずっていて
おばさんたちは我先に話を繰り出し
耳を傾けていると
ちょっと呼吸が苦しくなってくるような…
穏やかに聞くこと
しっかり聞いているということ
こちらがそれを表すと
不思議と先方の声も和らいでくる。
それには、「ゆとり」が必要で
職場で周囲に流されないで、そんな「ゆとり」をキープするのは、ちょっと難しい。
 最近、ひとつのテクニックを発見。
呼吸をコントロールすること。
たとえば、クレームの電話を受け取ると、そのとたん、アドレナリンが噴出してドキドキしてくる。
気がつくと、そんな時は息が止まっている。
こちらが、呼吸のバランスを崩すと、先方もどんどん息が粗くなってくる。
そんな時に、受話口を少し話して、鼻で深く息を吐き、吸う。
このときに、受話器に息がかかるとため息に聞こえちゃうから注意!
鼻で深い呼吸を数回すると
声が深く落ち着いてくる。
すると不思議に会話自体が和やかになり、自分自身も落ち着くのです。
はいて
吸う
吸って
はく
自分以外の
外界との
最初の関わり
おぎゃあとはき出して生まれてきて
さいごには、息を引き取る…
「息」は深い。
呼吸は「鍵」



2008年07月21日(月) サリーガーデン

 今日の夕暮れはどんな色かな?
そう考えているとラジオからサリーガーデンが流れた。
またたくまに
わたしのイメージの夕暮れがわすれな草色になった。
と言うものの
曲紹介があるまで
アニーローリーだったか
サリーガーデンなのか
区別がつかないのだった…
 なぜか夕暮れの風には
もう秋が少しばかり潜んでいる。
鉢植えの植物が
夜を迎えて
ホット一息つくのがわかる。
灼熱の昼間の太陽
熱い風
過酷な環境であるベランダの花々は秋の匂いに気付いているだろうか。
この数年、季節の移ろい方が
少しずつ、でも確実に変わってきている。
ねえ、君たちは感じてる? 鉢植えに聞いてみたい。
 Aは借りている小さな畑にスイカを植えて
ちょっとスイカの育て方の勉強をして
わき芽を摘んでやらねばならないと知り
急いで畑に行ったものの
苗はずんずん伸びて
さて、どれがわき芽なんだかなんなんだか…
 Bは去年、かぼちゃの苗を大事に育て
晩夏には
立派な瓢箪がなった。
かぼちゃの苗と
瓢箪の苗はよく似ているらしい。
 連休が終わります。
どっこらしょっと働きます。
暑いです。ご自愛を…



2008年07月19日(土) MILESTONE

 午前一時を回り
すでに日付は変わり
わたしの時は区切られたのだけど
このチャンスを逃して
昨日を引きずったまま ここにいる。
世の中の仕組みはいい塩梅に出来ていて
その気になれば古い角質を剥ぎ捨てて
新しい顔で生きられるマイルストーンがそこここにあったりする。
「その気になれば」だ。
問題はそこ。
 満月
今宵は満月だと教えてくれた人がいた。
黄昏にはひどい夕立。
果たして 月は見えたのだろうか?
月の朔望だって
その気になれば ひとつの道標
丸い黄色のマイルストーン
新しい四週の始まり…それとも終着?
どちらにしても
その気になれないわたしは
真夜中の空腹に
じゃがりこなぞ抱えて
こんな文をつらつら書いている。
黄色い月
とろりと溶けて
道標は形をなくして…
昨日と今日は曖昧に混じり合ってしまった…



2008年07月18日(金) 偏屈虫

反応すること
はたらきかけに応えること
そこに宇宙が生まれる
それが宇宙のルールだとどっかで読んだ
どっっかというより
あっちこっちだったかもしれない
ひとつのインスピレーション
その時だけ、合点がいったような気がするだけ
今は偏屈虫
わたしにおかまいなく
どうか
そちらはそちらで
つまりは
こんな偏屈虫が悪の元凶
虚無
育てられない関係
感謝知らずな心…
わかってる
わかってる…
この虫を飼い慣らさなければならないこと
問いかけに反応すること
はたらきかけに応えること
ほほえみを返すこと
時々 出来なくなる
まるで防火シャッターをバシャンと目の前に下ろしたように
虚無の闇にひとり膝を抱える
そんな愚か者にも 朝は来るのです
ありがたいことに…
シモーヌ・ヴェイユの愛した詩をここに印しておきます。
訳者のお名前を失念してしまいました。
詩 「愛」
          ジョージ・ハーバーと
「ようこそ おいでくださった」
と、愛は喜んでわたしを向かい入れた。
しかし、わたしの魂はたじろぐのだった。
霧に還るべき罪の身であったから。
だがめざとい愛は
すでに入り口にてためらい臆しているわたしを見逃さず
わたしに近づき、そして尋ねた。
「約束でもおありか?」と。
わたしは応えた。
この家にふさわしい客がおりませんと。
愛はいうのだった。
「その客になるのです」と。
何ですって?情け知らず恩知らずのこのわたしがですって?
とんでもございません。
あなたのお顔を拝することもできないわたしなのです。
愛はわたしの手を取って微笑みながら問うのだった。
「目を作ったのはだれなのか、このわたしではなかったのか」と。
仰せの通りでございます。
でも、わたしはその目を傷つけてしまったのです。
この恥ずべきわたしなどおかまいなさらず放っておいてくださいませ。
それに見合うところへ落ちてゆけばよいのですから。
すると愛は言うのだった。
「あなたは知らないのか、あなたの代わりに責めを負ったその人を」
かたじけのうございます、尊き主よ。
わたしこそ僕となってお給仕いたします。
「まあいい、お座り…
そしてわたしのもてなしを受けなさい。」
そこで、わたしは座って食した。--





2008年07月16日(水) 心配性

楽しい時間
きれいな色のおはじき
奥まった路地にある小さな小さなお菓子屋のショートブレッド
お金がどんどん舞い込んでくるお財布
鉢植えのラベンダー
めっきり白髪の目立つようになった母親
空気のように大事な夫
それは小さなこどもの頃からのこと
いつもいつも不安のかたまりが胸のここにある。
大事なものがなくなった時のことを考えるともやもやと胃のあたりからげんこつのような不安がせり上がってくる。
だから、大切なものが増えるのが怖く
素敵な友だちが出来るのがせつなく
人にやさしくされることがしんどかったりする。
けれど
いざ失ってみると
失う心配から解放されて不思議と安らいだりする。
そんな不安な心持ちを「執着」というのだろう。
 ターシャが亡くなった。
それは、もうひと月も前のこと。
わたしは、亡くなってから大分経ってから知ったのだった。
92歳…
可憐で慎ましやかな花々 コーギーたちにかこまれていた彼女は
空の上の花園にひとり旅立って行った。
わたしの気持ちはと言うと
安らかなのだけれど
それは執着から解放されたものとは違って
自分を生き抜いた素敵な人が旅立っていったという充足感。



2008年07月15日(火) 青唐辛子

わたしは皮膚が薄い
血管が透けるほどの薄い皮膚
少しでもこすると裂けたりミミズ腫れになったり
日焼けさえ うまく焼けることが出来ずに
火膨れになってしまう
齢を重ねるほどに薄さは増して
何にでも敏感で
狭量で
脆弱だ
いつしか考えるようになった
形は内面を表していて
それは全くその通り
皮膚の薄さは
わたしの薄さ

青唐辛子を刻んだ
たくさんの青唐辛子
小口に薄く刻んで
醤油に漬け込んでゆく
青唐辛子の香りは夏の香り
唇の上の小さな汗の玉
プールの水のカルキの匂い
お昼寝のタオルケット…

気がつくと左手が腫れ上がっていた
ほのかに唐辛子の匂いがして
青唐辛子にやられたらしい
ぽっぽぽっぽと脈打っている
職場で りちこさんが言った
わたしの掌を眺めて言った
悲しいことをたくさん乗り越えた皺が出てる…
りちこさんは、最近手相にこってる
だれもみな悲しいことたくさんあるはず
わたしのその皺は
きっと 心が薄いからだ
青唐辛子にもすぐにかぶれる
そんな薄い心



2008年07月14日(月) 白いページ

光が炸裂したような午後
白い昼下がりの窓
ごくごくと水を飲む
白い窓に向かって
ごくごくと水を飲んだ
気が遠くなりそうな感じを呼び起こすように
窓に向かって目を細めた
陽炎の向こうのバス停
おばあちゃんが立っている
巾着の手提げ袋
おばあちゃんはいつもあれだね
あの袋ばかり
その隣の女の子は
きっと あたしだね
ごぼうみたいに細くて
不機嫌に立ってる
気の遠くなりそうな暑さの昼下がり
あのふたりはいったい
いつから 
バスを待ってるんだろう…



2008年07月12日(土) 歯科検診

カラスが好きだとか
草食系の小さなへびなら 結構愛せるだとか
小さな頃からピーマンもにんじんも好きだとか
わりと好き嫌いはないほうだろうか…と考えてみると
女の集団が嫌いだなとか
大きな声は許せないとか
狭量な自分にも思い当たり
けれど 歯医者は好きなのだ。
好きになるコツは
マメに検診にいくこと。
痛くならないうちにね。
それから信頼できるドクターを見つけること。これ、一番かな。
今日、半年に一度の検診。
虫歯なし。
歯茎も健康。
おまけに
茉莉夏さん ぼくのとこ忘れずにいつも来てくれてありがとう。
と有り難き言葉。
先生、いつまでも元気でお仕事続けてくださいね。
もう 17年のお付き合い、こちらこそ ありがとうなのでした。



2008年07月10日(木) 行き過ぎた人


ひとり、杖で歩くわたしに声をかけた人がいた。
こっから階段だ
19段上がったら
しばらくはてえらだ
それからっと…わからねえな…
何段かわからねえけど また階段だ
そうだ…そっからまた段が始まってる--
 その人は少し酒の匂いがしたけれど
最後にわたしの腕を握って
気をつけて行きなよ、お姉さん…
と深い慈愛の声で言った。
深い慈愛の声で言った。
翳るときと
照るとき
同じくだれにもあるのなら
あの人の限られた照るときに
どうか あの人の心に雲がないように
めいっぱい 照る時を享受できますように。
いつか遠い時代に
行き過ぎた人
今日、黄昏にまた縁を結んだ。



2008年07月09日(水) 草の風景

職場の窓は立ち入り禁止の広いベランダに面している。
人の立ち入らないそこには様々な雑草が繁茂して
さながら小さな草原のように風に揺れているらしい。
山が近いせいか、四階であるのに草の種は飛んでくる。
伸びた草に虫が住みつき
鳥が憩っている。
カラスが会合を開き
イソヒヨが獲物を咥えてきてゆったりと食事を摂っている。
冷房の室外機から漏れ出すわずかな水を小鳥が飲みにやって来る。
同僚の話から小さな草原の常連たちが生き生きと脳裏に浮かんでくる。
水と風と太陽
それらが揃うと小さな宇宙が作られて
一所懸命伸びる草と
無心に日々を歌う鳥
仕事をしているわたしの横で
豊かとは言えない小さな草原
それっぽっち…と思っているわたしの横で
これで充分…と鳥が歌っている。
ヒュンヒュンと鶺鴒が鳴いている。
周囲の建物にこだましながら遠離って行く。
遠離っていく音って
どんどん寂しさを纏っていくような気がする…
さびしいのはわたしで
鶺鴒じゃない。



2008年07月08日(火) シャボンのように

わたしの手のひらには直径5センチほどの球がのっていて
それはずっしりと重く
その重さはまるで何かを伝えようとしているよう
たくさんの光の粒子を内包していて
ほのかな薄紫に柔らかく光っていることだろう…
「ことだろう…」なんて、曖昧なことしか言えないのは
わたしがこのアメジストの球を見ることができないから。
それは目隠しされているとか
見ることを禁止されているとか
そういうことではなく
わたしにその光を感じるだけの視力がないから。
そのプリズムも
球の中に溶け込んだ紫のひとすじも
わたしには見えないけれど
その重さが伝えようとしている何かに
心を傾けることはできる。
それは
わたしの心の中に浮かぶ
儚い泡のようなものでしかないかもしれないけれど
シャボンの玉を楽しんだあの頃のように
ひとつひとつ
色を
形を
楽しみながら
心に浮かぶ泡のひとつひとつを
この日記に書き付けることにしよう…

茉莉夏という名前は
恐れ多くも、敬愛するトーベ・マリカ・ヤンソン氏と
森 茉莉氏からいただきました。
どうか、両女史、お許しください。
亡きおふたりの作品が
わたしの泡の彩りを手伝ってくれています。
ありがとう。


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茉莉夏 [MAIL]