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2019年11月23日(土) |
イスキアの香りをたっぷり瓶詰めにして |
先日全て摘み取った最後のパプリカでとっておきパスタのソースを大量に煮る。イスキア島のとあるレストランの厨房でシェフ達が奪い合って食べてる姿がありありと想像できて、それはいかにも食欲をそそる。毎日のようにでも食べ続けられる大好きな味。トマトの種を嫌がるリュカも、このソースの時だけはちゃんとトマトの裏ごしをするんで、皿の上で探し物をせずに豪快に口に運ぶ。今日はリングイネがないので、マッケローニを打つ。せっかく時間をかけるのだが、このソースに関しては、レシピに書かれているとおりリングイネか太めの乾燥パスタのほうが合うように思う。たんまり仕込んだパスタソースもあるし、栗もたっぷりあるし、あとは味噌を仕込んで、冬はのんびりやろう。
知人宅へ行くと、いつも落ち着きのない子供のラブラドールが汚い足で飛びついてくる。知人は躾けても覚えないこの犬に芸を教えこもうとするのだが、基本の躾も覚えないこの犬はもちろん芸もできない。わたしは大抵の犬が苦手だ。落ち着きがなくて、床を歩くだけで音をたてるような存在のやかましさがイヤ。でも、犬も大変だな。躾や芸を教え込まれて、ちゃんとやらないとおやつがもらえないなんて。ありのままの姿を認めて愛してあげればいいのに。知人が必死に芸をさせようとしてるのを冷えた気持ちで見つめながら、このデカい子犬に同情した。
2019年11月20日(水) |
手の届く範囲で暮らす |
マルシェでこの小さな手のひらサイズの梨を見かけると買わずにいられない。知る中でもっとも簡単でいて、絶品な一皿、梨のワイン煮を作る。この梨はこの料理用なのだろうか、身が固くて、煮ても簡単にはくったりとせず、ほどよい歯ごたえが残る。逆に言えば他の大きな梨のようなクリーミーな食感はなくて生ではいまいち。梨のワイン煮といえば大抵赤ワインみたいだけど、わたしは白ワインのほうが好き。半分に切ったら安い白ワインをどぼどぼっと注いで蓋をして中強火で10分〜15分煮るだけ。沢山作っておいて毎食前菜に添えてる。
フランス、イタリア、スペインでも菜食主義は若者を中心に人々の中に溶け込んできているみたいだ。わたしが肉を食べることをやめた時には、特殊な人にでもなったような扱いを受けることも多々あったが、今では誰も反応しないし、どこへ行っても同じダイエットで暮らす人に会う。20年以上経って変わったのは周囲だけではない。自分の肉食に対する意識だ。以前はもっとヒステリックで、殺されるための命を生み出すなんて間違ってると強い正義感を握りしめていた。今でもその考えは変わらないけど、時と共に意識はもっと自然な形で菜食という選択を受け入れるようになった。庭で野菜を作りながら思う。壮大な畑で遺伝子組み換えで作られたとうもろこしや大豆を更に壮大な土地に放された家畜に与えて、それを壮大な工場で加工して、肉屋に卸され、パックに詰められ、人々の家庭にくる。膨大な水とエネルギー、化学薬品が使われ、多くの人の手に渡る。こんなものを口に入れ続けることは単純に無理なのだ。遊牧民が野生のバッファローを狩って食べるのとは全く違う。いつからかわたしの意識は「肉食しない」というよりも「自分の手でプロセスできる範囲のもので暮らす」というように変わった。庭ではこぼれ種でハーブや野菜が育つ。化学薬品も、農薬も、壮大な土地も大量の水もプロセスする工場も流通に使うトラックも要らない。菜食主義はただの流行には終わらないだろう、と思う。もう人々は無理することが体に悪いと知っている。
シャンテレール(Chanterelle、和名:)杏子茸)というシャンピニョンをもらう。うちの窓の前に聳えたっている山で摘んできたという。この辺りの人はみんな自分のシャンピニョン狩りのテリトリーがあって、その場所は他人には教えたくない。訊ねないのが礼儀とわきまえていたのだが、その熱烈なシャンピニョン・ハンターは、もっと良い場所を自分用に押さえていて、ここはほんの遊びのような場所なのか、気前よくピンポイントで生えてる場所を教えてくれた。日本語のサイトでは野生のきのこは塩水に半日浸けて・・・などと書かれているが、こちらの人はとにかく洗うなという。でも虫が・・・。"虫はプロテインだから大丈夫"。結局間をとってさっと流水で洗って調理にかかる。まずは味を知るためにバター炒め。うーん、あまり香りもなくてしめじと変わらない気がする。次に山でとってきた栗やハーブと共にリゾット。これは美味いが、このシャンピニョンじゃなくてもいい気がする。色んな野生のシャンピニョンを味わう機会に恵まれてるけど、両親が庭で作った椎茸(巨大で、素焼きして醤油を垂らして、家族全員でばくばくと頬張ったのは忘れられない)に勝るものなし。
Arctic(邦題:残された者−北の極地)を観る。飛行機事故で機体を北極地帯に不時着したパイロットの話。最後まで息を呑んで見入ってしまう"Captain Phillips"に通ずる面白さ。こういう心身ともに極現状態というサバイバルストーリーは学ぶことが多くて好き。事故でも自然災害でもこんな災難に見舞われた時、生き残るための条件は、まず精神的に強靭であることはもとより、もうひとつは几帳面であることではないか。釣り上げた魚をきれいに等間隔でボックスの中に並べたり、女性の傷口だってきれいに手当したり、荷物を運ぶのにうまく橇の上にまとめたり、大雑把な人ならすぐに食料が尽き、女性は死に、荷物は運ぶ途中でばらばらに散らばってしまうことだろう。こういう寒い寒い映画を観るとすごくおなかがすく(だから「南極料理人」という映画にはがっつり心を掴まれた)。家にカップヌードルがストックしてあったなら、迷うことなくお湯を注いですすっていただろう。
"経済的な問題"を抱えているという友人の相談を数年聞き続けてきて、ふと思う。お金のことだけでいえば、彼女の暮らしぶりのほうがよほどわたしより上ではないか、と。日常の細々したことは知らないが、年に2,3度海外旅行に出かけているのだから、そう酷い状態とは思えない。が、しかし兎に角、彼女の悩みや、パートナーとの不仲の原因などあらゆる不調がこの"経済的な問題"が根底にあるらしい。彼女より暮らし向きが質素だと思われるわたしのほうから、彼女に"経済的な問題"を口にしたことは一度もない。問題があると思ったことがなかったからだ。
たまに他人の話す"貧困者"の様子が自分のことだったりして、苦笑してしまうことがある。しかしそうすることを余儀なくされているのと、自らの選択でしているのとでは事情が違う。わたしは肉が買えないのではなくて、買わないのであって、映画館に行けないのではなくて、行かないのであって(言語的困難のため)、車を買えないのではなくて、買わないのであって(健康のためになるべく歩きたいし、環境問題も気になるし、メンテナンスが面倒くさいし)、買い物にでかけたとき電卓で計算しながらバスケットにいれなければ支払えないのではなくて、きっちり家計を管理してやりくりできることに快感を感じる性格なのだ。そんなこんなで、他人のいう"貧困者"の暮らしぶりであっても一向に苦に感じたことはない。
人生満足度とは"欲するもの"と"得られるもの"の間のギャップがより少なければ少ないほど高いといえる。どんなに人より沢山得たって、ギャップが大きければ不満が大きい。ギャップのない自分はどれだけ幸運かと思う。結局友人がいう"経済的な問題"は彼女にとってはやはり問題なのであって、助けてあげたいけど、その解決策をアドヴァイスするに至っていない。
2019年11月02日(土) |
The bread and salt between us |
シリア料理の本を購入した。戦地からアメリカに逃れた移民家族の本。タブレ、フムス、ファラフェルなど、ニースへ行けばそこいらにあるレバニーズやモロカンのレストランで食べられる馴染みのものが多々ある。これからじっくり違いを探っていくことにしよう。まずは、たまたま材料が家に全部揃っていた赤レンズ豆のスープを作ってみる。クミンを入れて煮た赤レンズ豆に後から炒めたにんにくオイルを足す。パセリをたっぷり、レモン汁をたっぷり絞って更に煮て出来上がり。なんともシンプルなのだが、なんとも滋味で美味い。リュカも絶賛でおかわり。食べながらシリアのことを想う。貧しい庶民が台所でことこととスープを煮ている。パンを買いに出かけたお父さんが長い列に並んでいたところ、爆撃されてもう帰らない。町中に漂うスパイスや焼きたてのパンの薫りは爆薬と煙の臭いにかき消される。人はパンと塩があれば生きられるのに、なぜそれ以上を望んで破滅するのか。こんな豊かな食のある国の人々が平穏に生きていけない実情を思うとひどく残念で悲しい。
滞在許可5年取得できた。本来わたしの条件では1年しか更新できないのだけど、なんという幸運。これであと4年は県庁に出向かずに済む。きっちりと書類を揃えて準備してくれたリュカには感謝。