My life as a cat
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2019年09月28日(土) 3年目の”海の人々”

明日でここへ来て3年目を迎える。記念とかこつけて、半年に一度くらいは訪れたいと思っているサンレモのシーフード・レストラン"Gente di mare"まで足をのばした。海べりをゆっくり歩いてレストランへ向かう。駅から30分くらい歩くので心地良くおなかが減る。



















到着するとすぐに白ワインを出してくれる。このハウス・ワインはすっきりと爽やかで料理の味の邪魔をしない。とても好きな味だ。乾杯する。

「これからも毎年ここで君と過ごせますように」

とリュカ。しみじみ2年を思う。わたし達の間に全く問題がないわけではない、と思う。ただ、他人から見たら問題かもしれないことも大した問題に感じないほど色んな体験をして色んな思いを味わって、すっかり肝が据わってから結婚したせいなのか、特に悩みはない。ただ他人との暮らし方について考えることは多々ある。共同生活ではいかに自分の要求を貫きながら、相手の要求も呑むか、クリエイティビティが問われる。これができないとお互いに少しずつストレスが鬱積していってしまうのだろう。ともあれ、リュカはとても良い夫だ。こんなに面倒なフランスの暮らしの手続きのあれこれを、几帳面にひとつひとつ紐解いて面倒を見てくれる人は他にいるのだろうか。それに彼といると何かにつけて運が良い。明朗な性格が良いことを沢山呼び寄せているに違いない。わたしは幸せだ。わたしもこれからも毎年リュカとここへ来て、波の音を聴きながら食事をしたい。























(シェフの気まぐれシーフード7皿、デザート、カフェ、食後酒のコース以外のチョイスはないという簡潔明瞭なレストラン)







2019年09月21日(土) Captain Fantastic

"Captain Fantastic(邦題:はじまりへの旅)"を観る。資本主義とアメリカの社会に失望し、森に籠り暮らす家族。父親のベンと6人の子供達。自分で責任を持ってプロセスした食べ物だけを口に入れ、ストイックに頭と体を鍛える。自分の食べる肉は自分で狩って捌く。"病院は死ぬのを助けてくれるところ"。"コーラは毒水"。"ホットドックはホンモノの食べ物ではない"。"interestingという感想は抽象的すぎるのでダメ"。子供に嘘はつくなと教える前に、サンタクロースがいる、食卓に乗ってる肉は決して動物を殺した血なまぐさいものではない、自殺した家族は"天国へ旅へでた"などと大人が子供に嘘をつかない。ベンは子供に血なまぐさい事実も包み隠さず話してしまう。一方普通の住宅街に暮らすベンの姉妹は小さなふたりの息子には血なまぐさい事実は全部ふせている。そのくせ、人をぽんぽん殺すゲームなんかは許容している。このふたりの息子は人に向かって中指を立てたりして、あまりお利口ではない。子供と共に盗みを働く以外はベンの哲学には共感することばかりだった。

前半はベンの哲学に沿った理想の暮らしはうまくまわっているかのように見えたが、後半は逆風に吹かれ敗北していく。母の葬式に出席するために森を出た子供達は現代の"普通"の人々と接触していく。子供達は人々が太っていることに驚く。女の子と出会い、キスされ、そのままプロポーズしてしまい、冗談だと笑われて終わる。森の中で父親と本からしか知識を得ていない子供達は完全に浮世離れしているのだった。義父は孫達のことを思い、強引に子供達をベンから引き離し学校へ入れようとする。子供達はあれこれと世間を知った上で父親と同じ意見を選んだわけではない。子供は多かれ少なかれ、親や学校の先生の意見に影響されて育つ。だからどの家庭だって学校だって多かれ少なかれ宗教的で大人は教祖なわけだが、森の中に隔絶されていれば、子供達はベン以外のアイデアを知ることはない。ここに問題がある。

最後には結局ベンは自分の理想を半分貫きつつも妥協を受け入れる。それでも家族は幸せそうで結局ハッピーエンディングだった。わたしはしょっちゅうマジョリティが普通にこなしていることに疑問を持つ。ではそのマジョリティの中にいる人は何も疑問を持たずにやっているのかといったらきっとそうではない。わたしだって世間はどうでもいいが、身近にいる大事な人々のことを考えると結局理想を貫けず、マジョリティに同化する。資本主義や現代の先進社会のシステムに疑問を持ってもがく人の心の葛藤が描かれていて、共感しながらも考えさせられる映画だった。


2019年09月20日(金) 持続可能な暮らし

朝晩めっきり冷え込むようになって海水浴はもうおしまい。夏のはじまりに起きたちょっと嫌な事件、体調不良に見舞われたのをきっかけに、今年は足繁くこのビーチに通ってよく泳ぎ、心身共にすっかり癒された。しかし気にかかっていたのは、日焼け止めで海が汚染されるのではないかということ。こんな大勢の人が毎年べったり日焼け止めを塗って海に入れば、何かしら影響があるに違いない。そんな心配をしていたところに、新聞のこんな記事が目に留まる。

「髪のリサイクルに取り組む美容院」

髪は脂(油)をよく吸収する。美容院で毎日わんさかとでる髪を海でフィルターとして利用し、油や日焼け止めなどを吸収させ、水を浄化するというもの。髪のリサイクルに取り組んでいる美容院にはステッカーが貼られているそうだ。油を吸収した髪は更に燃料なんかに使うことができるのだろうか?


゛Le monde selon Monsanto(モンサントのふしぜんなたべもの)゛というドキュメンタリー映画で観たメキシコのとある小さな村の話。彼らは、主食のとうもろこし栽培に、古代から継がれ続けている種を使う。毎年収穫したものから強い種を選び、来年またその種を蒔く。この夏わたしの庭では"牛の心臓(Coeur de boeuf)トマト"が豊作だった。昨年知人がピエモンテの実家の庭からもいできてくれたトマトがあまりにも美味しかったので、中の種を取っておいて蒔いたらよくできたのだ。彼がくれたのよりうんと小さいが、甘くて肉厚で美味しい。パプリカなどもこのように継いで問題なく美味しくできた。お金を出して買う種は研究されあれこれと強くできているのだろうが、遺伝子組み換え野菜などの不自然さを思えば、やはり理想はこのメキシコの村のとうもろこし栽培のように継いでいくこと(この村にも遺伝子組み換え野菜の汚染はせまっていて、空中から受粉してある日奇形のとうもろこしができてしまったりするということ。村では奇形のものを見たらすぐに刈り取るようにと指導していた)。クリスティーヌからこんな面白い話を聞く。

「種は継いでいくうちに記憶というものが芽生えるのよ。たとえば知人が野菜を作ってるんだけど、彼は庭に水道がないからって、水を一切あげないの。最初の5年くらいはろくに生らず小さくて貧相だったけど、そのまま種を継いでいるうちに"水はもらえない"という記憶が芽生えて、強くなって根をぐっと張って自立するのよ。そのうちよく生るようになって今では毎年水もあげない野菜が立派にわんさか生るようになったのよ」

すごい。やっぱり自然の生命力は逞しい。持続可能な暮らしは人間がもっとも真剣に取り組まなければならない課題だ。


Michelina |MAIL